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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
久助‐後章 / 小御門
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十‐コン

 着物の帯や袂をひっかけながら潜った水汲み穴は御饌かまどそっくり、一畳ほどしかないかまどに繋がっていた。藁が敷かれているが土埃が酷く、雪解け水を含んだ着物は寸の間に泥んこ。真っ白なクラマは野犬のようにまだらに染まった。

 しかし汚れなど気にしちゃいられない、雪はすぐ後ろ。鹿の子は鼻頭に泥をつけて登りきると、水汲み穴の戸を閉めた。戸に尻をつけてぜいはあ、肩で息していると、ちいさい風が小刻みに吹く。どこから隙間風が入るんやろかと辺りを見渡せば側にいい塩梅の漬物石が置かれている。雪の枯れ枝のような腕ではきっと持ち上がらないだろう、鹿の子は尻を上げて「よいしょっ」。戸が壊れる勢いで漬物石を積んだ。

 

「これでひと安心。入れたんはいいけど……」


 肝心の桜華が居ない。桜華はラクに護られていると信じてはいるが、こうも見事に引き裂かれると心細さで涙が落ちそうになる。

 清々しいほど霊力がない自分になにができようか。

 それでもどうにかせねばと、鹿の子は月明の姿を求め、着物の裾で汚しながら上がり框を上った。昼日中だというのに部屋のなかは宵の暗さ、灯りひとつ点いていない。ぼんやりとクラマの夜目が紅く光る。


 クラマの目には広間がひとつ。大きな囲炉裏いろりの中に沈む人型が映った。


「コン!」


 月明を呼ぶように威勢良くひと鳴きするが、返事はない。異常が伝わった鹿の子は四つん這いになって手探りで奥を目指した。

 

「旦那様……! 旦那様! ――ひゃっ」


 探っていた手が痺れるような冷たさに触れる。

 水だ。

 水に浸る月明の姿を思い出し、鹿の子はじゃぶじゃぶ、総身に冷水を浴びせながら先へ急いだ。


「旦那様! ――ぶ」


 今度は小豆顔にべちゃり、豊かな尻尾が絡みついた。いつの間にか先頭にいた毛玉が顔面に纏わりついてくる。


「クラマ? どうした……ん」


 毛を払いのければ、荒む水面に泳ぐ白い毛の側で、よりいっそう白い細腕が浮いていた。


「旦那様……、旦那様!」


 声をかけても月明なる身体は一寸も意志のある動きがない。水を含んだ袍の裾が虚しく揺れるだけ。月明は座禅を組んだまま横倒しになり、美しい顔を半面水に浸けていた。浅くても水を吸えば溺れてしまう、 鹿の子は慌てて月明の頭を持ち上げ、膝に乗せた。

 宝石を削ったような顔。唇に色はない。


 「旦那様……?」


 息もない。

 鹿の子の胸はどくん、と跳ね上がった。

 自分の身体は汗ばむほど熱くなっていくのに、手を添えている月明の頬は氷のように冷たく、硬い。


「そ、んな……。いや、いやぁ……!」


 ぽたぽたと落ちる鹿の子の涙は泥まみれ。濁った塩水が月明の美しい顔を汚す。クラマは次に起こる事の衝撃で、目を釘付けにしたまま一寸も動けずにいた。


『鹿の子……』


 鹿の子は自分の懐をまさぐると、おもむろに砂糖を、それも大きな黒砂糖のかたまりを取り出し威勢良く噛み砕いた。

 次には月明の口を手でこじ開け、


「ふーっ」


 息を吹き込みながら、砂糖の口移し。

 むちゃくちゃだ。

 クラマは重い毛を逆立て、爪を立て見守った。

 拷問か、地獄か。口を塞いだまま、砕いた黒砂糖を丁寧に舌で押し込む作業は淫靡な音を奏でる。

 幸か不幸か。間もなく月明はカッ、と開眼し、色のない唇に紅をさした。


「ごほっ、げほっ」

「ああ……! 旦那様! よかった!」


 口の中いっぱいに黒砂糖を入れられた月明は鹿の子の膝の上で、状況を把握しながら飲み下していく。その都度顔が紅くなっていくので、鹿の子は安堵の涙を。クラマは悔し涙を落とした。

 

「よかった……!」


 鹿の子は自分の涙で汚れた月明の顔を指で拭うと、胸の鼓動を確かめるように抱きついた。水に浸かる胸は肌が痛むほど冷たい。月明は固まっていた身体をぎしぎしと起こした。

 その先でクラマと目が合い、鹿の子の腰に添えようとした手を引っ込める。


「鹿の子さん、離れて」

「いやです」

「……では、失礼」


 引っ込めた手が鹿の子を抱き寄せるように再び延びる。しかしその手は着物に触れることなく、風呂敷ごと荷物を奪っていった。


「あ……っ、それは!」


 鹿の子が顔を上げれば、いつの間に月明は囲炉裏の外。その手の中には――、


「これは……」


 月明の顔が光に照らされるほどの輝きを放つ、


「これが、新しい」


 まんげつのような、




「久助――」




 まあるい菓子。


 鹿の子はかじかんだ足を奮い立たせ、月明に向かっていった。


「なにするんですか、やめてください!」

「なにって、克服させるのですよ。あなた方の姿が見え、先手を取ろうと久助を喚んだのですが、私の命に従うばかりか抵抗しましてね。私を跳ね除け、この菓子に依り憑いた。……わかりませんか」


 月明は手のひらに収まる菓子をまじまじと見つめながら、心底憎たらしそうに言った。

 霊力のない鹿の子には菓子に久助が宿っているかなど、さっぱりわからない。ただひとつわかったことは、久助が鹿の子の菓子を選んでくれたこと。

 鹿の子が嬉しそうに笑うものだから、月明は狐のように目を吊り上げた。

 

「“私は菓子の精霊。人間に憑くなどまっぴら御免”などと言う。まさか久助に敗けるとは。しかしあなたが来てくれて助かった」


 そして不気味に笑う。


「どうも甘いもん切れだったようで、今は驚くほど頭が冴え渡っています。今や久助は私の手中。さぁ、従わせてみせよう――」


 片手で菓子を捻りつぶしながら、和紙のようなものを指で挟む。

 鹿の子ははっ、とした。

 菓子にのり憑ったんはええけど、旦那様はそこからまた自分の式神にして、自分を依り代にしろと命じるおつもりなのでは。

 そんなつもりで助けたのではない。

 

「もうー! 怒った!」


 鹿の子は言葉通り頬っぺたを膨らませると、足に力を入れ、ちいさい身体を目一杯跳ね上げた。鹿の子の身丈で月明に届くはずがない。それでも諦めずにぴょんぴょん飛び上がる鹿の子を、月明は温かな目で見守りながら、なにか口ずさむ。

 

「だめ! ぜったい、あかん……!」


 ちいさい手は無情にも届かない。しかしその詠唱が末尾を結ぶ、一歩手前。

 突如、小屋のなかで突風が吹き荒れた。


 ――豪。


 囲炉裏の水が天井に舞い上がる竜巻。

 ばたばたと袂の荒れ狂う、目も開けられぬ強風がふたりを襲う。ちいさい鹿の子は吹き飛ばされそうになって、足元のクラマにしがみついた。

 月明は足を踏ん張り、耐えるが。


「この風を、唐かさが――? はっ、待て……!」 


 手の中の紙を風が掻っ攫っていく。

 薄っぺらい紙は不思議としわひとつつかず、鹿の子のほっぺたに貼りついた。


「へ? なに?」

「コン!(式札や!)」


 クラマが叫ぶ。


「コン! コン!(後は結ぶだけや! 鹿の子が叫べ!)」

「コン?」

「コン!(はやく!)」


 竜巻のなかで「コン」という、クラマの鳴き声だけがこだまする。竜巻を止めさせようとしているのだろうか。

 いや、違う。

 鹿の子は頭の中で首を振った。

 さっき旦那様はこの風を「唐かさ」と呼んだ。唐かささんは風を起こして旦那様の動きを止めている。久助さんを縛るしゅを。そしてその呪にはこの紙が要るに違いない。

 クラマがこっちに向かって叫ぶということは、クラマには喚べないが、自分には喚べるのだ。

 寂しくクラマと戯れていた秋の夜長を思い出す。狐の鳴き真似ならば得意中の得意。

 鹿の子はほっぺたから式札をはがすと、


 ――おねがい、久助さん。


 腹の底から叫んだ。




コン!」




 風が、止んだ。

 天井まで浮き上がった藁や砂利、水滴がざあざあ、雨のように降り落ちる。囲炉裏の水は部屋中を浸し、土間に滝つぼを作った。

 同時に鹿の子の身体中の力が途方もなく抜けていく。鹿の子はクラマを下敷きにして倒れ、派手に水しぶきを上げた。


「鹿の子さん……!」


 月明が急ぎ寄るが。


「困った主だ。より砂糖なしでは生きられない身体になってしまわれた」


 同じ、いや僅かに高く、娘のように澄んだ声が砂埃を突き抜ける。

 鹿の子は細腕に首を受け止められ、顔を水に浸けずに済んだ。鹿の子の頬の泥を拭うと、その細腕は鹿の子の懐を遠慮なしにまさぐる。

 クラマは鹿の子のお尻を乗せたまま、首を捩っておとなしくその様子を見ていた。いや、おったまげて固まっていた。


『きゅう、すけ……?』


 細腕は菓子袋を取り出して、にっこり。

 クラマへあどけなく笑いかけると、鹿の子のちいさい口へ黒砂糖を放り込んだ。


「さあ、目を開けて。私の新しい主よ」


 鹿の子の小豆の皮みたいな瞼が開くと、そこには紛れもなく、


「きゅう、すけ……さん?」


 烏羽色の御髪を垂れた、


「これからは久助とお呼びください」


 こじんまりとした月明が頭を垂れていた。 

 

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