七‐お稲荷さま
虫の知らせとはよく言ったものだ。
白狐が参路のど真ん中でぼうっと突っ立っていると、一頭の蝶が横切った。
白狐――クラマは引きこもりを千年続けてきた氏神だ。それは御霊に根付いた質であり、狐の本能が甦らぬ限り、つくばいの水に薄氷が張る春寒の中を歩こうとは思わないのだが、この日はどうも腰がどこにも落ち着かず、境内を彷徨っていた。
まあ、朝早々から好いた娘につれなくされたせいでもあるが。
「コン」
「おはようございます、お稲荷さま」
「コ、コン」
「務めに入りますので、それでは」
「コン〜」
クラマの正体がお稲荷さまであると知ってから、鹿の子は仰々しく接する。着替えるまで帳台に入れてくれないし、同じかい巻きの中でも袖に腕を通さず、背を向けて寝る。
抱っこにちゅぅなんてもっての外。
鹿の子が部屋から消えると、クラマもまた程なくして重い足を引きずり、本殿へ向かったのであった。
普段ならばお迎え御膳の菓子を食らいおさらばか、そのままひと眠りするところ。その日の祝詞の耳触りが良くなかったわけではないが御膳に口をつけず、寒さを諸共せずに、しばらく空を見上げていた。空に浮かぶまあるい雲から薄日が差して、まるで黄身しぐれのようで。
そして目に入ったのだ、蝶が。
「…………コンコン!(てふてふ!)」
狐の本能が噴き出し、クラマは煙のように白い息をあげながら追いかけた。真っ黒な蝶は頼りなく地にすれすれに飛んでいて、捕まえられそうで、届かない。これがかえって狐の心に火をつけた。
クラマが自分を取り戻したのは本殿の外回廊だ。口から出る湯気が身体から出る湯気に変わり、お楽しみも最高潮に達したとき。
蝶を追う前足がきゅ、と回廊の板間に貼り付いた。
本殿の隅っこ。
小さな鳥居をいくつも潜ったその先に、実母であり、お目付役である雪が眠る小社の跡がある。
縁を切るつもりで封印を許したので、小社の跡へは糖堂から帰ってきて一度も足を踏み入れていないし、見て見ぬ振り。
見て見ぬ振り。
果たして見ていただろうか。
改めて見透してみるが、跡地から何ひとつ気配が感じられない。もしも、そこには何もなくて、見過ごしていたとしたら。蝶のように、見失っていたとしたら。
葉一枚動かぬ静閑な世界で、ぶるりと総毛立つ。
春とはいえこの寒さのなか、なにゆえ蝶がさなぎから孵ったのか。
クラマは渇いた喉を唾で潤し、境内の砂利へと飛び降りると、決して引き返さないように全力で鳥居を駆け抜けた。
月明は雪の棲む邸の入り口である社を完膚なきまでに取り壊した。塞いだ封印はこの世の誰にも解けないはずだ。たとえ解ける者がいたとしても陰陽師五家の当主、なかでも麗菜ほどの異能の持ち主でもない限り不可能だ。その麗菜は牢のなかであるし、そもそも小薪の目を潜り、どうやって。
『そんな阿呆な――』
しかし目を何度瞬かせても、ない。
印がどこにもない。
それこそどこに建っていたのかわからないほど、鳥居の先に何もない。
クラマは水平に均された砂利を恐る恐る掘り返した。欠片でいい。社があった証が欲しい。しかし掘り返しても掘り返しても、黒い破片ひとつ出てきやしない。砂利が土になり、真っ白な前足が半分汚れても。
クラマは眼球がこぼれ落ちるほど目を見開いた。
何もない。
黒も白もない。母の白髪一本も、出てこない。
『居らん、のか。ここに。ほんなら、どこに――』
じり、と退いた後ろ足に敷石が刺さる。
生温かい血が外気に晒され、痛みが身体を上っていく。
人の言うところの「夢ではない」と、これは現実だと、胸に突き刺さる。
『急がな』
なにゆえ。
しかし心の臓が野分の如く暴れ、気ばかりが焦る。どちらに足を向けるべきか迷い、足踏みをすればちりちりと足の傷みが思考の邪魔をする。
『くそ……っ、月明』
なにゆえ側にいない。
いつだって扉の向こう、幣殿の高座で、こちらに背中を向けていたのに。丸くなっていくその背中を見届けてやろうと、当然のように思っていたのに。今は鳴き声すら通らぬ山のてっぺん。それからもっと高く、天より先を目指そうとしている。
『わしは、わしはひとりでは、なんもできん』
なにが氏神だ。
なぁにが、お稲荷さまだ。
わかっていた。引きこもっていたのは、この世での自分の無力さを知りたくないから。半妖から神へと、次々と自分の存在が人からかけ離れていくから。
唯一、自分を平等に扱ってくれた、好いた娘ひとりさえ救うことが出来ないから。
「コォオ――――――ン」
クラマは誰かに救いを求めるように、遠くの遠くの空へと吼えた。その声は雲を突き抜け、一処に降り落ちる。届いた先にあるのは――。
「クラマ!」
かまどの煙。
鹿の子はクラマの遠吠えを聞きつけると、「ちょっとお願い」と見えもしない妖しに火の番を任せ、すっ飛んで来た。
クラマは鹿の子が現れ、夢かと思った。夢やったらよかったのに。そう思った。
鹿の子は白玉団子ふたつぶん、頬っぺたを膨らまし問い詰める。
「今日の御饌菓子手をつけてないってほんとう? クラマの大好きな、白玉のおぜんざいやのに」
なんの心配かと思えば、御饌皿。
ほんまに菓子作りに精進してるんやなぁとクラマは力なく苦笑い。
そんな様子を見た鹿の子は頬っぺたを引っ込めると、礼儀も遠慮もなしにクラマに覆い被さった。
「熱かった? 火傷したん? お腹が痛い? それとも、……なんか心苦しいことでもあった?」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられたクラマは気持ちよくて、嬉しくて悲しくて、狐の涙をしとどに降らせた。
これだ。
お稲荷さまであると正体を知っても、敬い遠退くのではなく、変わらず弟のように接してくる。
クラマは千年という月日の果て、人間として、甘えられる人間に巡り合うことができたのだ。
母以外に――。
――いびり倒してから、殺したる。
いつか雪が月明へ言い放った呪が、クラマの頭に何度も、何度も響いた。
月明はいない。
自分が動くしかないのだ。
「あっ、待って」
クラマは薄っぺらくも温かな胸をすり抜け、闇雲に走り出した。
どこや。どこに居る。
鼻をすんすん効かせ、耳を澄ませる。
――あちらですよ。
――ほらお稲荷さま、聴こえるでしょう。
すると、懐かしい香りや声が耳をくすぐる。
憶えのある声。小御門家の当主が燻す華やかな香。それはひとりじゃない。何人も、拝殿に飾られた当主の顔が何人もクラマを囲っている。足にかかる影は何代目だ。その浅沓は先代の龍明か。
ああ、そうだひとりじゃない。
自分には大事な友が居た。
ずっと居たのに。目となり、耳となり足となり、四神獣と共に国を支えてきたのに。
扇子の影が拝殿を指す。
――ほらほら、美しい祝詞が聴こえるでしょう。
『そうや、小薪……!』
鮮やかな袍に見守られ、クラマの足は闇を抜け小薪のもとへと向かった。
小薪は朝拝のあと人を払い、少しでも桜華の力になろうと、拝殿で祝詞を続けていた。その壮麗な舞は神の目に入れるだけで心が躍動し、力を漲らせてくれる。祝詞に限り、この小御門家いちの陰陽師といえよう。
「あれ、お稲荷さま」
祝詞に限り。呑気というか、なんも考えてない顔で近づいてくる小薪に呆れながら、クラマは荒れた息を整えた。
「コン(従え)」
指し示す方角へ鼻先を振れば、袿の裾を咥え引き摺らぬとも小薪はついてくる。小薪は怪訝な顔を隠しもせず、クラマに付き従った。
「なんでわたしが……? あれ、わたししか居れへんか。嫌な予感しかせえへん。嫌な予感しか――」
ぶつぶつとこぼしていた愚痴は鳥居の前で止まった。連れてこられた譯を、先読みではなく直感で理解したのだ。
「まさか……」
神職たちが見惚れる小薪の顔は今、一寸ひいてしまうほど歪んでいた。クラマが鳴く前に自ら目を瞑り、未来を手繰るように袖の中を忙しくする。
クラマは吠えるのをぐっと我慢し、小薪の目が開くのを待った。寸の間のことであったが、クラマにとってしてみれば一刻のように感じられ、隔靴掻痒どころではない。荒む息を小薪に吹き付ければ、友が背中をさすりあやしてくれる。
――はい、はい。もう終わりますから。
はっ、と見上げれば小薪の目が開き、
「居る……、居ます、望の、十四日」
そう呟きながらひと粒の冷や汗を、クラマの鼻筋へ落とした。
「あか山に、鹿の子さんと北の方のお側に、雪様が」
これこそ嫌な予感しかない。
クラマが友へ目配せを送ると、友は月読のような美顔を諾かせた。




