三‐南の院
風成は内宴が長い。年が明けて初めて月がまるくなる日、やっとこさ参賀が許され朝廷の重い門が開く。
明るいお日さんが高く昇る頃になると、朝廷の眼下に見る街は細々とたちのぼる熱気でゆるやかに賑わった。正路にはぽつぽつと屋台が並び、大河のごとく人が流れ流れ、廷内は嵐のあとの湖のように平民で溢れかえっている。その眺めを肴にして、貴族たちが高座で酒をたしなむ正殿で、更に一段高くに建てられた高御座では、烏帽子を被らぬ一団が雪積もる朱雀山を背景に華を咲かせていた。
陰陽師家が陣取る御帳台だ。
高御座の鮮やかな深紫を囲うあけび色の衣裳は春を匂わせた。
しかしその装飾は賀茂乃家の若い衆に任せ、月明を除く当主四人は末席で良くない酒を酌み交わしている。
「まことの話か、それは」
老いた柳眉を逆立たせ、声を荒げたのは賀茂乃家当主、賀茂乃麗菜であった。
「正月に侍従長が休みと訝しんておれば、神獣を乗り物にして風成を出ただと」
「それだけではありません。どうやらお稲荷さまも神殿にいらっしゃらないようなのです」
藤森家当主、藤森草雲がぐだぐだと愚痴を溢し舌を鳴らせる。目の前の年寄りたちの皺を刻んだ怒りの形相は、たまった鬱憤を晴らすに都合のよい心地よさだった。
「なんと、それではこの風成に氏神の加護がないということか。では何のための参賀だ」
年寄りの一人が唸る。
氏神の血を引く主上の玉顔を拝めるこの日は、民が神と関わりを持ち加護を強めるという、おざなりとはいえどんな祭り事より重きを置く日だ。
「しかし主上がのたまうには月明殿に寵愛中の側室がいて、その者の実家で過ごすだけであると」
もう一人の年寄りは気楽に酒を煽ったが、
「その側室というのが御饌巫女でしてね」
「なんと、御饌巫女だと」
一度話の藁に火がつくと、乾いた年寄りの胸によく燃え、瞬く間に広がっていった。
「先代の二の足を踏むか」
その輪のなかで誰よりも麗菜が強く、歯噛みをする。
麗菜は小御門家先代の側室から賀茂乃家の当主にのし上がった女陰陽師だ。小御門家の内情をよく知り、また憎む者だった。
「先代は御饌巫女に溺れ、陰陽師家の血を蔑ろに世継ぎ作りを放棄しおった。挙げ句の果てには己の命まで捨てる始末。やはりあの機会に忌まわしき御饌巫女の座は廃除すべきだった」
「しかし、先代に関してはお目付役が認めていたではないか。お目付役は何と言っている」
そう言っては酒を注ぎ、火を鎮めようとする年寄り。しかし藤森はこの言葉を待っていた。
「お目付役は、元日に社へ封印されました」
どよめく御帳台。
陰陽師家には家系存続のためお目付役が一家に一人おかれている。この習わしは千年続く慣習であり、たとえ当主であろうとお目付役の自由を封じることは禁じられている。
麗菜は乾いた頬を引きつらせた。
「おのれ小わっぱが、血迷ったか」
「篤実なあの月明殿がとても信じられん。お目付役がよほどの大罪を犯したのでは」 年寄りが藤森に尋ねる。
「大罪? たかが式の神を食べただけですよ。猫がねずみを食らうようなもの」
「式の神。まさか久助か」
「そうそう、その久助とやらは御饌巫女が格別に贔屓していた式の神だそうで。お目付役を廃除するよう、御饌巫女が月明様をそそのかしたのかもしれませんわ」
年寄りの反応の良さが小気味よく、藤森はぺらぺらと喋り立てた。
「やはり御饌巫女か」
麗菜が吐き捨てる。
「女に溺れ禁忌を侵し、神を、国を蔑ろにするとは即刻、宗家当主の座から引きずり下ろすべきだ」
「待て。小御門の世継ぎは一人、年末に産まれたばかりの赤子ではないか」
「ではこうしましょう」
先程まで青筋を立たせていた麗菜はからからと笑いながらこう言った。
「この正月の間に、この賀茂乃が小御門神殿の高座を奪ってみせよう」
従者を呼ぶ合図に派手な扇子を肩より上へ掲げる。衣擦れと共にやってきたのは賀茂乃家の末娘、若菜だ。
「仰せごとでございますか、お母様」
「小御門家にいる姉へ、今すぐ文をお出し」
「お姉様へ、ですか」
「小御門そのものが手に入ると知れば、あの娘も喜んで手を貸すに違いないわ」
そう言って若菜の美顔を引き寄せると、自分の扇子のなかへと入れ、ひそひそと語った。
「仰せつかりました」
若菜が転げ落ちるように高座を滑り降りていく。
「小御門め。捻り潰してくれるわ」
麗菜は既に小御門家の高座を乗っ取ったかのように、手のなかの盃を干した。
「お家交代か、面白い」
「我が藤森も手伝いましょう」
その後も火は陰陽師家の囲いで燃え盛り、物騒な談合へと発端していった。
*
春とは名前ばかりで、身も凍るような寒さの夜。
境内から近い南の院では浄らかなはずの結界の中で、使い奴が顔に紅葉を散らす、女の声が響いていた。庇の間では下女がかい巻きのなかで耳を塞ぐ。
しばらくすると、まだ十五にも満たない舎人が邸主の御寝所から出てきた。すれ違い様に御用人がそのおぼつかない腰を気遣う。
「ずいぶんと搾り取られたようだな」
「は、はい」
慣れた御用人は遠慮がない。
「ごほ、ごほ。失礼します」
舎人を下がらせ自らが御寝所へ上がると、咳き込みながらひと言断りを入れ帳台の几帳の裾から文を滑らせた。
「……なぁに、これ」
「賀茂乃神殿から急ぎの御文でございます。お眠りになられる前に」
「わかったわ」
南の方はくぐもった声でそう返した。はやく下がれと言わんばかりの沈黙に、御用人は負けじと明るく申し出る。
「寝付けないようでしたら、私がお相手致しましょうか」
去り際になると残す、決まり文句のようなものだ。それから南の方は決まってこう返す。
「誰があんたなんかと。くされ縁で選ばれただけの御用人が馬鹿を言わないで」
「食べごろですよ」
「趣味じゃないわ。……私が、あんたのね」
「会ってみなければわかりませんよ」
御用人は南の方の輿入れから十年、仕えたその日から一度も顔を合わせていない。几帳の裾から手鏡を滑らせたが、はね返されてしまった。
「下がりなさい」
「御意に」
溜め息混じりに膝を立てる。
南の方は几帳に映る影が消えるのを待ち、文を開いた。
毎日のように若い舎人を帳台へ上げているというのに、何故懲りもせず絡んでくるのか。からかう相手を間違えている。
「まったく、……なになに。お母様から?」
読み終えた文を火桶の炭にくべると、南の方は不敵な笑みを浮かべた。
「内乱か。退屈しのぎにはなりそうね」
眠れぬ夜に思わぬ朗報。夜衣に単を重ねると提灯に火を灯し、境内へと向かった。
「お稲荷さま、お稲荷さま、――は、いないか」
南の方は拝殿へ着くなり名を呼んだが文の内容を思い出し、掛け声を独り言へ変えた。それから道中、乱暴に折ってきた椿の枝を供物に捧げると、目を瞑り願い事を唱えた。
南の方――、真名を妃菜という。
母、麗菜の異能を引き継いだ妃菜は早くから結界師の修行を積んだ。賀茂乃神殿の家督としてではなく、小御門家へ輿入れするためである。正室となるよう妃菜と名付けられ、麗菜の筋書き通り十二で側室に上がった。
しかし筋書きとは必ずどこかで狂うものだ。
妃菜は小御門家へ輿入れする半年前に疱瘡の病を得た。高熱と共に酷い膿みが全身に及び、特に顔面は目を背けたくなるほど爛れた。病が明けても顔の痘痕は治療の施しようがなく、人目を偲んでの輿入れとなった。
妃菜が母家の御寝所へ上がったのは初夜の一度きり。それも夜が明ける前に帰ってきたので、御用人は苦笑い。
――一晩共にいることさえ、我慢できませんでしたか。
以来、妃菜はその姿を人に見せることなく、南の院に腰を据えている。帳台に上がった舎人が拝めるのは首より下。この十年、妃菜の顔を見たものは小鬼一匹いない。
。
月明は妃菜が南の院に入った後すぐに、陰陽師の素質を持たない小夜を正室に囲っている。
妃菜で遣り損じた麗菜は早々に末娘の京菜へ的を変え、美しさに磨きをかけさせた。
「ごめんなさいね京菜、悪いけどあんたは賀茂乃の当主にでもなってなさい」
長い願い事が終わり、目を開けた妃菜は箱の中で笑うと、
「私はこの小御門で、永遠に華を咲かせるわ……!」
作法は何ひとつ取りこぼすことなく神拝を終え、闇夜へ消えていった。




