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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
久助‐後章 / 小御門
85/120

一‐後図

 年が明けた小御門神殿にはお稲荷さまへ新年のご挨拶をと、参拝客がちらほら目立つ。巫女や神職は薮入り、当主も不在。祀る人間が居なければ、祀られる神様も居ないというのに、みんなの財布の紐はゆるゆる、賽銭箱は勝手に潤っていった。

 本殿へ上ったお稲荷さまは溢れんばかりの願い事にげんなり。しかし叶えん譯にはいかない。


「ふん、西郷の女将は旦那の尻叩きか。気がのらんが、小判もらっちゃあ仕方ない」


 対価の分だけ、願いを叶える。

 それが未来永劫続く、自分に課せられた使命なのだから。


 たとえどんなに解せぬ、願いであっても――。


 お稲荷さまは前足で空を掻くと、きゅっきゅっ、とふくよかな肉球を締めた。


「月明――、お前の願い、しかと聞き入れたぞ」



 *



 霧雪がやんで二刻足らず。麒麟は羽根が生えたような軽やかさで山を下り、暮六つには小御門神殿の門を潜った。

 鹿の子が居ぬあいだ風成は天候に恵まれ、日当たりの悪い神殿の雪は溶けきっており、篝火の下でも境内の砂利がからりと渇いているのがわかる。


『鹿の子、あんた大丈夫?』


 意識を飛ばさぬよう、なんとか持ちこたえていた鹿の子であったが、自分では降りられぬほど身体が凍え固まっていた。麒麟は拝殿を前に歩みを止めると、後ろ脚を折って背中から鹿の子を滑り落とした。

 言わずとも足腰はがくがく。加うるに強い力で手綱を握りしめていた鹿の子の手はじんじんと赤く腫れ上がっており、砂利についた瞬間あまりの痛みに飛び上がった。


「いたたたた、あれ?」


 しかし砂は軽く叩くだけでぱらぱらと落ちる。蜜ろうが効いたのか、あかぎれは綺麗に閉じていた。


「……旦那様は、無事に着いたやろか」


 寂寂たる境内にふさり、ちいさな風が吹く。

 その方角に目をやれば柄杓の水がこぼれたみたいに数滴ぶん、砂利が濡れている。誰かさんが大粒の涙を零したみたいに。


「やっぱり、唐かささん――」

『それじゃあ、ね』

「あ、待って麒麟さん、ありがとう!」


 あっさりと厩舎へ駆けていく麒麟に声をかけ、自分もまたまっすぐ御饌かまどへ向かう。恐る恐る戸を開ければきれいさっぱり、かまどの淡雪は消えてなくなっていた。(みんな)の腹の足しになったのかと思うと少しでも救いになる。


「よかった……」


 ――あまりにも美味しくて。

 いつか語られた淡雪の月明の感想がふと、耳にそよぐ。

 過去の言葉なのに、その時は何も感じなかったのに、どういうわけか淡雪の消えた今、ぽかぽかと心をあっためた。平たい胸が喜びに膨らみ、打ち震える。

 まるで心の雪が溶けたみたいに。

 

「そんなに美味しかったかなあ、ふふ」


 誰が磨いたのかつるぴかな御出し台に指を滑らせては、下を覗き込む。土に落ちた淡雪は小鬼が一欠片も残さずもっていってない。

 あちらはどうやったやろうか。

 鹿の子は踊るようにして、納戸の菓子棚に手をかけた。

 膨らんだ胸は一寸でしぼんでしまう。


「……どうして!」


 淡雪だけでは飽きてしまうからと、お稲荷さまには御饌飴ともう一種類、生菓子を作っておいたのに、それがなんと、ひとつも無くなっていない。

 いっぺんに疲れが吹き飛んだ鹿の子は菓子棚の戸を閉めぬまま、かまどへ戻った。

 

「どうしよ、どうしよ、お稲荷さまはあんこがお好きなはず、お身体の調子がすぐれんのやろか、いやでも」


 たすきもかけぬまま、真っ黒な炭を運び行ったり来たり。

 いちからあんこを炊き直すか、それとも搗きたてのお餅にしようか。さっぱりと冷や水にしようかぜんざいにしようかどうしようか。


「そうや、一か八か本殿に聞きにいってみよう」

「鹿の子さんっ」

「わぶっ」


 騎虎の勢いですす汚れていく鹿の子を、小御門家側室西の方、小薪が抱きとめた。


「鹿の子さん」

「小薪ちゃん、ただいま。ごめんやけど、すぐに仕込み始めなあかんの」

「鹿の子さん、鹿の子さん、鹿の子さん」

「小薪ちゃん離して、御饌作らな」

「鹿の子さん……! 旦那様は!」


 小薪が思い詰めた鹿の子の心を取り戻せたのは、これが最初で最後のことだ。空気がこわばる小薪の声に、「旦那様」その一言に、鹿の子はついに耳を傾けた。


「旦那様は、どちらに! ごいっしょではないのですか!」

「え、……、と、旦那様は……」


 鹿の子は返答に詰まった。

 どちらにと訊かれても、旦那様とはあか山で別れたまま、行き先など全く知らない。仮にも占術師である小薪のこの切羽詰まった様子に不安を抱いた。


「山籠りされると仰り、あか山の途中で別れました」

「あか山……? 山籠り……、それは、どのへんで」

「頂上近くやったと思う。その、小薪ちゃん、わからへんの?」


 問い返され、今度は小薪がぐっ、と返答に詰まった。ごくん、と飲み下し涙がぽろり。


「見えへんのです。旦那様の未来。鹿の子さんと神殿を離れられてからずっと、なんも、髪の毛一本も、見えへんのです」


 まるで切った髪に魂を置いていったみたいに。ちらちらと黒い霧に覆われ見えない。この世界のどこにも居ない。

 鹿の子は小薪の温もりの中で、自分の心がすぅー、と凍っていくのを感じた。


「んでも、旦那様はわたしの誕生日には、帰ってくるって、言うておりました」

「果たして、それは本当に旦那様かしら?」


 畳み掛けるように尋ねたのは、首が捩れた人形。人形を抱いているのは小御門家側室、北の方である。北の方は足袋のまま土間へ下りると、誰にも見せたことない剣幕で小薪に食ってかかった。


「旦那様がみえません? よくもまあそんなことをいけしゃあしゃあと、あなたそれでも小御門の占術師なの!」

「だっ、だっ、て、ほんまに、みえへんのです」

「どうして? 本当に見えないの? 見えない理由を、あなたは何故知らないの!? 本当に、本当に見えないのならば、それは――」


 牙をむいていた人形の口はすぼまり、北の方の目から涙が溢れ出た。


「私のせいだわ。私がもっと早くに危惧していれば、小薪に教えてやっていれば」

「北の方……?」

「いいえ、まだ間に合う。小薪、あなたの力を貸して。誰が聞いているかわからないから茶室で話すわ。さあ」


 勝手知ったる他人の家ならぬ御饌かまど。北の方は納戸を通り抜けると、足袋についた土を払い水屋から茶室へ上った。

 人形といっしょに息を合わせ、手招きをしながら。

 

「鹿の子さん、あなたもよ」   



 鹿の子は亭主、北の方は正客、次客が小薪。自然といつもの席につくと、北の方――桜華は炉を開けようとする鹿の子の手を止めた。


「お茶は話を聞いてからにしてちょうだい」

「はい」

「小薪、改めてもう一度訊くわ。あなた本当に旦那様がみえないのね」

「――はい」


 小薪は自分が情けないと言わんばかりに唇を噛みしめ、弱々しく返事をした。

 人形の声は厳しい。


「予知の異能をもって生まれた小薪がみえない。そんな未来がこの世にはふたつある」

「ふたつ……? わたしは、ひとつしか知りません」


 小薪は素直に打ち明けた。

 ひとつは神が船頭を務める未来。神が操る未来は白い靄に包まれたように先がみえない。

 しかし旦那様は神と相対的に、限りなく黒い闇に覆われている。


「あなたこの半年、なにを修行していたの」

「だって旦那様は! ……教えてくださらなかった」


 小薪は悔し涙を滝のように流した。

 桜華は小薪のその様子に「ああ、またやってしまった」と悔やんだ。

 旦那様は意図的に教示されなかったのだから、当然のことなのに。人形ばかり触れていると生身の人間にまで遠慮がなくなるからいけない。もっと相手の立場を顧慮しなければと、慎重に言葉を紡ぐ。

 おのずと人形の声は柔らかくなった。


「いいこと、ふたりとも落ち着いて聞いて。もうひとつは、人間自らが決めた未来。いいえ、未来ではない。あらゆる未来や可能性を捨て、先にある総てを断ち切ろうとしている。だから、なにも見えないの。本人が未来を、消し去っているから。つまりは」


 口にしたくない。

 今日ほど声を失ってよかったと、思える日はないだろう。

 桜華はゆっくりと、人形の口を開かせた。


「旦那様は、自害なさるおつもりなのでしょう」


 刹那――、寂然とした茶室がより、しじまとなった。

 刹那のことだ。本当に一寸のことだった。しかし三人揃って、その一寸は一刻に感じられた。


「ごじが、い?」


 鹿の子の、まさに鹿(しか)の子が鳴くような切なる声に、桜華がはっ、と我に返る。この小さく可愛らしい側室と、胸ばかりでかい側室が思い詰めぬよう、言葉を急がせた。


「まだ間に合うわ。今はその時ではない」

「なぜ、そう言い切れるんですか」

 ぽたぽたと涙を畳に落とす小薪。

「旦那様が自害なさる理由を考えれば、わかることよ。まずはこれを見なさいな」


 桜華は懐から手鏡を取り出し畳に置くと、手を翳しながら短く呪を唱えた。手の蓋を外せば、映る茶室の天井――ではなく、


「旦那様……!」


 姿勢を正し座る月明の姿が映し出されていた。


「この鏡は人形の目に見えるものを映し出す。そしてこの人形は私が歳神さまへ捧げたもの」

「歳神さま? 歳神さまは山へ帰られたのでは」

 鼻をすすりながら小薪が尋ねる。

「その山に今、旦那様がいらっしゃるのよ」

「なぜ歳神さまの居られる山で、このような苦行を」


 鹿の子が鏡を指し示す。鏡の中の月明は板前や畳の上ではなく、鏡面の如く澄み渡る水に膝半分浸っている。なにか経のようなものをずっと口ずさんでいるが、それよりも、その唇の色のないこと。真っ白な吐息は極寒の証し。普通の人間ならば一晩で凍え死んでしまう。

 桜華は鹿の子の目を見据え、はっきりとこう言った。


「身を清められているのでしょう。――神に、その身を捧げるために」

「歳神さまに?」

「いいえ、久助さんに」


 久助――


 式の神であり、東の御用人。雪に食べられ失った、かけがえのない菓子の精霊。鹿の子はその名に息が止まる思いをした。


「旦那様は自らの身体を犠牲にして、久助さんを再び現世へ喚び戻そうとしているのよ。鹿の子さん、あなたのためにね」


 今の鹿の子は白い顔が御饌装束に同化して、まるで白小豆のようだ。


「まだ間に合うといったでしょう」


 北の方は鹿の子を胸元へ引き寄せた。白小豆を温めるためではなく、鹿の子に言い聞かせるために。今から自分が放つ言葉を、鹿の子がひと言も聞き逃さないように。


「鹿の子さん、あなたは菓子をお作りなさい。菓子の精霊である久助さんが思わず飛び込みたくなるような、旦那様以上の依り代を作るのよ」


 桜華の冷やかな唇が鹿の子の耳たぶに触れ、囁く。言葉を発したのは人形だ。けれど、桜華は決して出ない声を振り絞った。


「期限はひと月。わかったわね」


 最後に自面尽くに念押しすれば、鹿の子は顔色を取り戻していた。涙もない。瞳の色も艶めいている。

 桜華は肩の力を抜くと、


「そろそろお抹茶を点てていただこうかしら。甘い菓子でも突きながら、しっかりと計画を練りましょう」


 涎を啜りながら懐から暦の巻物を取り出した。

最後までお読みいただきありがとうございます。

大変お待たせ致しました。

無理のないよう、自分のペースで更新して参ります。

宜しくお願い申し上げます。

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