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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
久助‐前章 / 糖堂
84/120

十‐帰路

「もう行っちゃうの?」


 赤い半纏の紐を腰元で握りしめ、淋しそうに萩は言った。

 刻限は明六つ。

 まだ蔀戸も上がっていないというのに、糖堂の表座敷には家族だけでなく、奉公人まで集まった。

 出立を知らされたのは今朝のことだったので、さすがにみんな寝惚け眼での見送りである。

 萩なんて、どんだけ急いで来たのか寝癖がついたままだ。

 控えめに頷く鹿の子の隣で、月明がにっこりと笑って答えた。


「なに、夏の薮入りにはまた二人(・・)で参りますので。お萩さんはこのままずっと帳場にいらっしゃるのでしょう?」

「え?」

「いや、それとも若旦那の婚儀が先か」

「え、え!?」


 萩の可愛らしい顔にぼっ、と火がつく。

 寝癖を指ですきながら視線はちらちらと、外郎のいる厩を指している。

 こりゃあまんざらでもなさそうだ。

 答えはもう決まっているのだろう、嬉しくて思わず鹿の子が月明の袖を引っ張ると、月明も綺麗な顔をしわくちゃにして笑い返した。

 萩の後ろに立つとうさまとかあさまも手を叩き合って喜んだ。とうさまなんて厳めしい顔を涙で緩めている。


「頼もしいなぁ、頼もしいなぁ、お萩が若女将とは、これほど望ましいことはないぞ」

「わ、若女将やなんて旦那、よしてくださいよ!」

「とうさまと呼んでええぞ」

「とうさま――まだ、呼びません!」

「まだか。いつかは呼んでくれるんか」


 既に家族のような掛け合いであるし、満更どころか嫁に行く気満々だ。


「それに鹿の子も夏に薮入り、それも月明様とふたりで! 月明様が着いて早々、鹿の子を正室にしたいなんていうから何の冗談かと思いましたが、こりゃあ信じてよさそうだ」

「正室?」


 鹿の子が見上げた月明は「なにか不都合でも」といった、すまし顔に戻っている。

 これからあか山を越えるのに疲れる話題は避けたい。聞かなかったことにしよう。それより薮入りだ。家族へ直接伝えたということは、月明のなかで既に決めごとになっている。

 

「夏にまた、帰ってこれる……!」


 どんなに忙しくても、雪に虐められても涙を流さず乗り切れる。そんな気がした。


「いやそれより、お萩をいただくのが先か」

「鹿の子ちゃんまで、やめてよ!」

「お萩かぁ、食べたいなぁ」


 隣でも月明がごくりと喉を鳴らせる。


「婚儀にはおはぎが?」

「ええ、お萩ちゃんが作ったおはぎ、祝い菓子は、新郎側の家族にも振る舞われますから」

「それはそれは」


 羨ましい。

 心底食べたそうにして、海の方角を見やる。空が薄明るい。


「さあ、急ぎましょう。日が沈む前に馬の足を小御門へ着かせたい」

「はい」


 雪駄を履いて外へ出ると、開かれた門の前には麒麟を牽く外郎と、その足元に白い毛玉。

 鹿の子がクラマを抱き抱えると、クラマは鹿の子の袖のなかですまなそうに耳を垂れた。

 月明がきっ、と冷ややかな視線を送る。


「あなた様、私は慣れていますが、久助へはもう少しお慈悲をですね」

「こん……(すまん、つい)」

『出来心ですって』

「できごころですか……」


 魘される身にもなって欲しいところである。

 月明は溜め息をひとつ溢すと、外郎へこの三日、語り損ねた話をもちかけた。


「外郎さん、春には若旦那として座敷へ上がられると聞きました。改めてこちらから祝辞をお送りいたします。またそれに合わせ、ラクさんを小寮頭として糖堂に遣わせますので、忙しいお義父さまに代わり、その場を取り仕切っていただきたいのですが、お願いできますでしょうか」

「取り仕切る、とは」

「神祠を建て、産土神さまを祀るのです。供物も増えますし、何かと入り用になるかと。お萩さんのこともありますしね」

「お萩さん?」

「産土神さまがお萩さんを大層気に入られていて、嫁にいくなら村を祟るという。これからは巫女として神に一生を捧げなければなりません。などと、文につづったものでして」


 嘘はひとつもございません。

 にたり、外郎へ笑いかける。

 まあ前者は炉に言わせた言葉ではあるが萩を気に入ってはいるし、外郎と添えば生涯、砂糖をお供えすることになるのだから、間違いではない。

 陰陽師が直々に文を寄越したのだ、余程の祟りだろう。巻き添えにはなりたくないと、萩を目かけた貴族は今頃顔を真っ青にしている。

 外郎は緩めていた背骨をぴっ、と締めた。


「かしこまりました」


 どんっ! と胸を叩くが強すぎて、自分でげほげほ噎せている。萩も萩だがこちらもまた随分と余裕がない。

 こんなんで若旦那が務まるのかしら。

 杞憂する姉の視線が降り注ぎ、外郎は半べそをかいた。


「なに、私も当主になるまで頼りないものでしたよ」

「義兄様が?」

「はい。父任せ母任せの坊ちゃんが大丈夫かと周りから心配されましたが、なんとかやれております。外郎さんならば、すぐに立派な若旦那になれますよ」

「すぐに? ちぇ、それでもやっぱり若旦那か!」


 調子がいいものだ。

 これだもの、呆れた鹿の子と月明が笑い合う。


「肝は太いほうがいい。得手に帆を揚げるとは言いますが、よい風に当たりますように」


 そう言うと、出立の合図に振り分け荷物を肩に提げた。


「期待しておりますよ」

「ありがとうございます。糖堂を支えられるよう、がんばります!」


 麒麟の手綱が外郎から月明へと渡される。

 ちょうどお天道さまが水平線から半分顔をだす頃、一行は影を踏みながらあか山を目指した。



 *



 むしゃむしゃと歯が擦れる音が霧雪に消えていく。雲ひとつない村の天気が嘘のよう、あか山は氷雪に包まれていた。頂上を少し過ぎた頃、旅人が残していった雪壁を風除けに、しばしの休憩。

 麒麟は袋についていた蜜まできれいに舐めとると、名残惜しそうに鹿の子へ喧々と尋ねた。


『この人参、美味しすぎるんだけど、どういうことなの! 黒砂糖やらは、あんたの村にしかないの!? もう食べられないの!?』


 そんなのいや!

 黒砂糖で煮た人参がよほどお気に召したらしい、涙ぐんでいる。そりゃあそうだ、黒砂糖は蒸し菓子だけでなく、根菜と相性が良い。黒砂糖がしみしみに沁みた人参は甘味のなかにコクがあるし、色合いは悪いがしっとりとした歯触りは癖になる。

 おろおろと見上げる鹿の子の背後で月明がにたり。いつの間に積んでいたのか重そうな袋を掲げた。袋の中身の正体は、なんと黒砂糖。


「さすがにこれ以上、麒麟を小御門家へとどめておくのは難しいですし、毎日の務めで忙しい鹿の子さんに人参を煮てもらうことなど許されません。そこでこの黒砂糖、藤宮家へ引き渡しましょう。煮るのは藤宮家の巫女です。鹿の子さんは簡単でいいので、人参の煮方を紙に記していただけますか」

「はい。それくらいなら、いくらでも」

『え! これから毎日食べられるの!?』

「その代わり、鹿の子さんの薮入りには必ず付き添うこと」

『いく! いくいく、いっちゃ――う!』


 あか山を越えるのはちょっとばかりきついが、糖堂の厩はなかなか居心地がよかったし、毎日黒砂糖で煮た人参が食べられるのなら儲けもんである。

 麒麟はあっさり約束事をとりつけた。

 鹿の子はありがとう、と感謝しながら、おくちをもごもご。きなこ飴で糖分の補給だ。


「旦那様もおひとついかがですか」


 差し出したが、ごくり生唾をのむだけで手が出てこない。


「いりませんか」

「い、いやその、きなこ飴もいいんですがね、ほら」


 もじもじと当主らしからぬ恥じらいを見せている。


「風成の小豆で作った、鹿の子豆が食べたいなぁ、なんて――」

「今、ここで?」

「ここで」

「いけません」

「えっ」


 鹿の子にすぱんと峻拒され、月明はかちんと固まった。


「ど、どうして」

「すんまへん、まだ漬かってないんです」

「いや少しくらい漬かりが浅くても」

「いけません。生半可なものを旦那様に食べさせる訳にはいけません」

「どうしても」

「いけません」 

「だめ?」

「だめです」


 月明は膝を折ると、そのまま雪に倒れこみ、埋もれてしまった。


「旦那様!? やはりまだお身体の調子が――」

「そう……ですよね」

「はい?」

「そうですよね。久助が食すべきものであって、私がいただくべきではない……」


 この世の終わりのような震え声である。


「そんな落ち込まないでください。明日か明後日には食べられますから」

「明日……そうですよね、明日……」


 見事な落胆ぶりは治らない。そんなに食べたいのかと豆を漬けた甕へちらり目を向けるがいやいや、やっぱりいけない。鹿の子豆は炊いてから四、五日は蜜に漬けなければ。特に風成の小豆は大ぶり、三日そこらじゃあ蜜が沁きっていないだろう。

 こんなことなら小豆をいただいた日に漬けておけばよかったと、後悔するがもう遅い。

 鹿の子はよしよし、雪を被った月明の髪を撫でた。


「帰ったら、かならず旦那様の御膳にお出ししますから」

「……はい」


 のそのそと起き上がったが、いかにも作った笑みで顔を引きつらせている。

 納得はちっともしていないようだ。

 小豆のことになると、本気で拗ねたり笑ったりする。

 鹿の子はそんな月明を愛しく思い、子どもをあやすように、背中に手を回しぽんぽん叩いた。すると月明は待ってましたとばかりにぎゅ、としがみついてきたではないか。帯の下に回された手は熱く、強く、鹿の子の足が浮く。

 こん、こん、けたたましい鳴き声が山にこだました。


「旦那様?」

「……少しだけ」

「……はい」


 雪山のなかだというのに、鹿の子の身体は汗ばむくらいにあったまっていった。

 どくんどくんと、胸まで熱い。

 月明があったかいのか、自分が発しているのかわからない。調べる間もなく、この抱擁は幕を閉じた。

 前触れもなくぱっ、と離れたので、こんどは鹿の子が雪に沈みそうになった。唐かさが支えたのでなんとか持ち堪えたが、顔を上げれば月明がいない。


「……旦那様?」


 霧雪のなかを見渡せば、三十歩ほど先のところで背を向けていた。


「あっ、休憩終わりですね」

「はい」

「えっ、と。麒麟さん、乗っていいですか?」


 鹿の子が麒麟の背にまたがる間にも、月明はどんどんと離れていく。


「旦那様、お待ちください」

「鹿の子さん」

「はい」


 腰を据えたが、麒麟は動かない。


「麒麟さん? 旦那様が、いっちゃう」

「鹿の子さん」

「旦那様、とまってください」

「鹿の子さん。これから私は行き先が違います」

「え……?」

「これから、山にこもります。だから、あなたは先に帰って」

「え、だって、明日――」


 鹿の子豆を振る舞うって、約束したのに。

 戸惑う間にも、月明は道を外れ、山奥に続く新雪をきゅ、きゅと踏みしめていく。


「旦那様? 旦那様! 麒麟さん、はやく走って」

『この霧が止んでからでないと、視界が悪くて危ないのよ。晴れるまで動かないこと。月明様のご命令なの』

「麒麟さん、なんで動かへんの? 旦那様! 待ってください、そんな、急に!」

「あなたのお誕生日には、かならず戻りますから」

「誕生日て……!」


 ひと月も先の話だ。

 鹿の子の胸に嫌な予感がひろがっていく。

 しかし麒麟は微動だにしないし、月明の姿は既に遠く、白い袍は雪に馴染み、短い黒髪がちらちらと見えるだけだ。


「旦那様……!」


 麒麟、鹿の子さんをよろしく頼みますよ。

 月明の最後の言葉は天から降り注ぐ氷の粒にかき消された。

 

お読みいただきありがとうございます。

これにて糖堂の章を閉幕とさせていただきます。

また少し書き溜めの期間をいただきます。

どうぞよろしくお願い致します!

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