二‐かまど
人目につかない蔵の奥、可愛らしい田舎娘と美しい公達が互いの身をくっつけ合う。そんな逢引を描いた浮世絵のような情景が鹿の子の目の前にひろがっていた。娘の赤い半纏を包んでいるのは、触れるだけで手が腫れそうな立涌紋様の袍。重なる衣裳が明らかな身分差を表している。
王都で流行りそうな構図だ。
鹿の子はぼんやりとそう思った。
「お願いします、月明様」
なにか思い詰めたように震えた娘の声が蔵のなかによく響く。
その正体は鹿の子のよく知る人物――糖堂に身を置く番頭の一人娘、鹿の子の幼馴染みである萩であった。萩は今、見親しんだ顔を真っ赤に、目を潤ませ月明だけをみつめている。
萩は鹿の子に負けじと小柄だが、村でも一、二を争う美人さん、こうして寄り添うふたりは身分差を差し引いても、なかなか似合いにみえた。
「本当に、……よろしいんですね」
よしよしと、萩の頭を撫でる月明の手もなかなか気持ちがこもっている。今にも顎を引き寄せ、口付けでもしそうなほどに。
鹿の子は情けないことに、蔵の柱にでもなって、突っ立っていることしかできなかった。
月明の胸から顔をはがした萩が人の気配に気づき、鹿の子の存在をしっかりと確認したものの、
「鹿の子ちゃん……」
慌てることもなく、申し訳なさそうにうつむくだけ。月明から距離は取ったが離れがたそうに、そばで足を据えた。月明も別段変わりなく、きれいな唇は貝のごとく閉じたままだ。
鹿の子はそんなふたりを気にする素振りも見せず、明るく頭を下げた。
「あけましておめでとう」
だってなにを臆することがあるだろうか、元々鹿の子が「旦那様がお萩ちゃんを気に入ってくれたらいいのに」と望んでいた光景だ。
「おめでとう」
一方で、萩は後ろめたそうに弱々しく笑う。
一年近く会っていないのに、ちっとも嬉しくなさそうだ。鹿の子はそっちのほうがよっぽど悲しかった。
月明とふたりきりでいたことに気を病んでいるのなら「どうぞご自由に」とでも口が衝きそうになったが、それではまるで自分が月明の妻であることを誇示しているようで、寸でのところでやめた。
「ご挨拶をと思い、こちらへ寄っただけですので。それでは」
野暮な詮索はやめて邪魔はせぬようと再び頭を下げる。
親友の萩が正室として小御門家に嫁ぐのも夢ではないかもしれないのだから、ここは密かに祝いの盃をあげなければなどと、下げた頭にはそんな、乾いた案が駆け巡った。
軽やかに雪駄のかかとを上げる。
ここで月明が突飛なことを尋ねてきた。
「鹿の子さんは、ご実家ではいつもそのような格好で?」
冷淡な顔に高揚の色をのせ、おずおずと鹿の子へ歩み寄る。
精緻に築かれた表情を崩されるほど、自分の姿がみっともないとでも言いたいのだろうか。鹿の子は寸の間苛立ったが、すぐにまた思い直した。
鹿の子が身にまとっている着物はかあさまがわざわざ今日のためにあつらえた晴れ着だ。少し考えれば他所に嫁に言った娘が着る着物ではない。素直に袖を通した自分が恥ずかしくなって、華やかな小梅模様の袂をたくしあげた。自分はやっぱり色気の欠片もない白装束にたすきがお似合いだ。
「ご心配なさらずとも、今日限りですので」
思えば昔から三が日は憂鬱だった。器量良しの萩や外郎より着飾り、浮いてなきゃあいけないのだから。豆餅でも食べなきゃやってられない、そう言っては前掛けで衣裳を隠して、かまどに立った。そうだ、かまど。かまどへ逃げ込もう。一刻も早く人目のつかない処へ、気を急ぎ引き返すが。
「ああ、三が日は今日で終わりでしたね。ではもっとよく見せて」
月明に袖をつかまれ、あっという間に引き戻された。
「え?」
「とても似合っていますよ。身丈が短い場合はこのように小花を散りばめた柄を選べばいいのか、ふむ。なるほど」
ずいと近寄ってきたかと思えば、まじまじと着物の模様を鑑賞し始めた。
ああなるほど、鹿の子も合点がいく。
萩と鹿の子は似たような背丈だ、気が早い話、萩を小御門家へ迎える際に備え、調度品の参考にでもしているのだろう。
――自分が東の院へ嫁ぐときは顔を合わせる前に、適当にぽんぽん揃えたくせに。
鹿の子は卑屈になっていく自分にうんざりしながらも、ずるずると泥沼へはまっていった。
まったく大晦日の夜はどんな気まぐれであったのだろうか。
──久助さんを犠牲にしたのに。
こみ上げてくる涙を必死にせき止め、濡れ羽色の垂れ髪で顔を覆い隠した。そんな人の気も知らず、月明はあろうことかその髪をかきあげようとするから、いけない。
「――といてください」
鹿の子は珍しく、もくもくと頭から湯気を立たせた。
「今、なんと?」
「触らんといてください!」
「ああ、ごめんなさい。私としたことが。しかし、この髪だけはどうにかなりませんか」
「……は?」
「いつもみたいに、こう、結べませんか。その髪はあまり公の場で披露すべきではない」
そう言いながら、月明は自分の短い髪を束ねる真似をする。
「今夜は大勢の方々がお屋敷へ集うと聞いています」
鹿の子の髪に触れるか触れないかのところで手を泳がせつつも、まじまじと眺めながら、ときにはらはらと不安げに。
「結べば、いいんですか」
「はい。できればいつもみたいに」
「引っ詰めればいいんでしょう!」
鹿の子の頭は噴火して、湯気どころか怒りが吹きこぼれそうだ。勢いよく踵を返すものだから、外郎とデコとデコでぶつかり合い、ごちん、火花が散る。
「いったぁあ!」
「のいて!」
「待ってあねさま、これ落とし――ひゃぁあ!」
外郎を両手でど突いて、蔵を飛び出していった。
*
鹿の子はまっすぐ糖堂のお台所へ下りると、奥の隅っこに構えられた菓子用のかまどにはりついた。花嫁修業に十二歳の頃からずっと使っていたかまどだ。客寄せの菓子や供物はみんなそこで作られている。
懐かしみ、焚き口をくんくん嗅いでいると、女中が「御内儀がよしてくださいな」と止めに入ったが、台所は宴の準備でてんやわんや。
鹿の子は止めに入った女中を逆手にとって「炭足して」「卵採ってきて」と手際よく動した。
今晩の仕込みは頭に入っている。
自分は調味料棚で甕やら樽をきんこん鳴らし物色していると。
「まあ、これは」
馴染みのある酒造の紋が貼られた徳利をみつけ、満面朱をそそいでいた鹿の子の顔がぱっ、と晴れた。
「これはこれは、この日のために買うたのかしら」
嬉しそうに肩を弾ませ、真っ先に徳利を持ち出す。鹿の子は自分の半身がすっぽり入るほどの大きいすり鉢をどん、と調理台に乗せると、なんの迷いもなく、惜しみなく徳利の中身をすり鉢へぶちまけた。それから棚にあった調味料をいくつか、丁寧に丁寧におたまで計って入れていく。
ひとつひとつ、混ぜては練って、混ぜては練って。
「お嬢さん、採ってきました」
「あい、ありがとう」
女中が運んできた採れたて卵はそれこそひとつずつ、ひとつずつ。割り入れては練って、割り入れては練って。折れそうなほど細い腕に筋を立たせ、辛抱強く混ぜていく。
こうなりゃ誰も止められない。女中は止めるのを諦めて轟々燃えるかまどを指差し言った。
「鹿の子さん、炭足しました」
「あい、ありがとう。もち米は洗ってある?」
「昨晩から水に浸けてあります」
「ほんなら――」
そろそろもち米蒸そうか。
もち米――。
「あ……」
このとき、突然肺に煙が入ったように胸が痛くなり、鹿の子は口をつぐんだ。
すりこぎから力を抜いた拍子にふと、小御門の御饌かまどを思い出してしまったのだ。
御饌かまどの火は湯を沸かそう、餅を蒸そうと思い立つとバチバチと燃え盛る。もち米は誰が仕込んでくれたのか、笊に計って入れておけば、翌朝には真っ白きんぴかに研がれたもち米が水に泳いでいる。
かまどに火の神様でも居るんやろかと久助に語りかければ、苦笑い。
――ただ飯食いはご法度ですから。
かまどの手伝いしな、かまどの菓子に手を出したらあかん。小御門総会で決まったことは前々から久助に聞かされていたし、おせちの仕込みの際には芋洗いから裏漉しまで、よう手伝ってもらった。
ただ、ふと。
思い出してしまったのだ。
流しから聞こえる鮮やかな米研ぎの音。
ふぅ、ふぅと遠慮がちな火起こし。
ときたま吹く風。
急かす手拍子。
久助の笑顔の指揮のもとで、みえないなにかが、かまどを賑やかにしてくれた一幕を。
「久助さん、ほんまに……戻ってくるん?」
「鹿の子さん?」
小豆の瞳から、こらえきれなかった一粒の涙が蒸篭の上にこぼれ落ちた。その一粒は女中にみつかる前にじゅわり、消えていく。
火吹き棒をもって、焚き口に頭をつっこめば涙はからり。
「こうしてみんなでいっしょに作るの、久しぶりやなぁと思うて」
鹿の子は煤汚れた指で鼻をこすりながら、にっこりと笑った。
波立つ怒りも悲しみも、沈めるのはいつだってかまどの火。
かまどなら砂糖蔵でみた情景も、胸にくすぶったモヤモヤも、炭といっしょに燃やせる。餅をこねれば悲しいことも、寂しさもぜんぶ忘れて、美味しくなりますように、みんなが喜びますように、その一心だけで居れる。たとえ悲しい思い出がこのかまどにあろうとも。
菓子作りにひたむきな鹿の子に、周りの女中は感心するばかりであったが。
ひとり、いや一本だけ、その様子を棚の影からじっと見守り、そして鹿の子の想いを見抜くものがいた。
「うひゃあ」
ひとつ目に涙を溜めた唐かさだ。
その一粒は土間の三和土におおきなおおきな水溜まりを作って、女中の草鞋を汚した。
さて、鹿の子がかまどにはりつけば、あっという間にお日さんが沈み、夕餉の刻だ。
「ここに居ったんですか」
為はて、ほくほくと上気した顔で鹿の子が土間から上がると外郎が呆れ顔で、腕を組んで見下ろしていた。
「他所の家に嫁いだ人間が、台所の土踏んでええんですか」
「手伝う言うて聞けへんのですよ。結局、祝い菓子ほとんど仕込んでもろて」
自分らが怒られると思い、周りの女中がおろおろと逃げ口上をこぼす。外郎が作業台へ目をやると、均等に形作られた菓子が宴会客分、あとは焼かれるのを待つばかりに、ずらりと並んでいた。これには開いた口がふさがらない。
「重症やな……」
「なによ、なまくら坊主」
「落とし物を届けに、あねさまを探し回っていた弟になんてことを」
あれ、でも坊っちゃんはお友達の家へお出かけでしたよね、なんて女中に口を挟まれたので外郎は咳払いひとつ、鹿の子の胸元へ腕を突き出した。
「蔵でぶつかったときに、落としていきましたよ」
それは鹿の子がいつも懐に持っている巾着だ。元は子供の頃にばあさまに縫ってもらったお守り袋で、嫁入りには黒砂糖を、薮入りにはきなこ飴をと、今では菓子入れにしている。この巾着、可愛らしい真朱色の生地に紅梅が刺繍されているので、かあさまが晴れ着に合うからと、着付けの際に腰に付けてくれていた。紐が緩んでいたのだろう、鹿の子は巾着を受け取ると脇目も振らず、なかを覗いた。なかには菓子だけじゃなく、月明にもらった御髪も入っている。
「よかった、あった。……あれ?」
巾着をまさぐる鹿の子の手が止まった。月明の御髪が入った懐紙の隣に、見慣れない菓子が裸で入れられている。それもひとつじゃない、いくつも。懐紙に菓子の蜜が染みてしまう、鹿の子は御髪を抜き取り懐へしまうと、菓子のひとつを手に取った。見慣れた、それでいて懐かしい菓子だ。
「きんつば……」
「あ――! あねさまったら、いつの間に! お供えもんに手を出したらあかんて、口うるさく言うてたくせに」
「ち、ちがう、これはお供えもんじゃありません」
「だったら、なんなんですか」
外郎が噛み付くのも無理はない。
きんつばは神棚だけに祀られる貴重な菓子だ。
小豆がぎっしりと詰まった、四角いきんつばは糖堂家の主人であるとうさまの名前、糖堂家ではいつからか、主人の名前の菓子を神棚へ供えるしきたりがある。季節を問わず、一年中。供物に手を出すのはもちろん、台から下ろしても家族、それもかあさま以外に食すことが許されていない。
外郎はなにか悟ったようににんまり頷いた。
「まあ同罪なんで、許しましょう」
「外郎、あんたまさか」
高価な小豆に、たっぷりの白砂糖。思い出してはよだれをごくり。外郎はこの歳になっても盗み食いをやめていない。
「だってこの一年、神さまは供物を食べてくださらない。かあさまだけじゃ食べきれんでしょう」
「だからって、盗み食いは罰当たりです!」
「神さまがおらな、罰も当たりません」
「そんな、きっぱりと」 呆れ返る鹿の子。
「ほんまのことです。あねさまが嫁入りしてからぱったり、下りてくださらないんで、供物台の菓子や果物は腐らせるばかり。なんや……神さまはあねさまの嫁入りを許してないみたいや」
「そんなことは」
ないけれど、ほんまのことは言えず言葉を詰まらせる。まさかその神さまが自分に憑いて離れないなんて、とてもとても。
「あんなすけこましな貴族に、嫁ぐべきじゃなかったんですよ」
外郎は心底憎たらしそうに、歯噛みした。
とうさまの前とはえらい違いだ。
それからじろじろと鹿の子を舐めるように見つめ回す。
「前掛けしてるから着物は無事やろうけど、その髪はないな」
「えっ」
鹿の子はいつもの通り、月明に言われた通り、頭のてっぺんに髪をひっつめていただけだ。
「う、うっとおしいからちょっと束ねてただけです」
「にしても今夜は新春の集い。あねさま、それはないです。ちょっと来てください」
「えっ、でもこれから焼かなあかんのに」
「それは元々かあさまの仕事でしょう。あねさまが席を空けるほうが目立ちます」
「んでも――」
「見返してやりましょう」
外郎に腕を掴まれ、鹿の子はぐいぐい奥座敷へと押し込まれていく。
その様子を柱の陰からにんまりと見守っていたのは、かあさま。
「うふふ、これで安心して鹿の子の菓子が食べられる」
いい歳した女将がぶんぶん袖を振り、「あとは任せとき」と軽やかに土間へ下りる。目の前にひろがる美味そうな光景に、女中たちといっしょになって、よだれを啜り合った。
いつもお読みいただきありがとうございます。
更新が遅くなり申し訳ございません。
次話は来週の月曜日に投稿します。
(言っておかないと再来週に延びそうなので敢えて告知)
引き続き、よろしくお願い致します。




