一‐三が日
厳しい雪山を越えるうちに、またぞろ麒麟の背中で気を失った鹿の子が目を覚ましたのは、糖堂家の離れ邸であった。
かい巻きのなかで身をよじり几帳の隙間から外を眺めてみれば、邸の中庭は昨夜の雪が嘘のように、照り照りとお日さんが差している。次に部屋を見渡せど、月明の姿はなく、艶やかな着物や荷物の欠片もない。馴染みのある黄ばんだ畳の色は、嫁ぐ以前からさして時が経っていないように思えた。まるで山と一緒に時を遡って帰ってきたみたいに。
「夢やったりして」
鹿の子は弱々しく呟いてみせた。
小御門に嫁いだ一年弱、ぜんぶぜんぶ長い夢やったのかもしれない。そう思えば気が楽になった。
かまどに放り出された初夜。泣きながら火をおこした夜中。
作っても、作っても直ぐになくなる釜のなか。
煤汚れた着物に、ひび割れた指先。甘い甘い煙を潜って現れる、綺麗な綺麗なお月さま――。
「夢、やったらいいのに」
くっきりと頭の中に浮かび上がる久助の優しい笑み。目頭が熱くなって、ふかふかに打たれた綿花のお布団へ、つるんとしたおでこを埋めるが。
「あねさまが起きた! あねさまが起きた――!!!」
「ぐぇ」
小豆は小豆に潰され、あんこみたいにかい巻きから押し出された。
「外郎やないの」
きらきらした目で部屋へ飛び込んできたのは弟の外郎だ。
外郎は同じ小豆でも大納言、顔がでかいわけじゃない。顔は小さいままで目鼻立ちがくっきり可愛らしい、糖堂家きっての器量良しだ。肩までまっすぐのびた髪は、総髪してなきゃあ女子にみえるほど。おまけに在郷商人の嫡男という身分に驕らず、気立てだけは良い。
愛嬌いっぱいにあねさまへ寄りすがったが、来年には若旦那となる身だ。鹿の子ははじめが肝心と、隔てを置いた。
「あねさまはもう他所の家のもんや。お内儀の部屋に入ったらいけません」
「ええー、あねさままでそんなつれないこと言うんですか? 兄弟でも?」
「兄弟でも」
やはりいつまでも甘えん坊さんだ。一年ぶりに大好きなあねさまが帰ってきたものだから、嬉しくて嬉しくて、女中に困った顔をされても懲りずに何度も顔を見に来ていた。
「ちぇ、つめたいなぁ」
綺麗な顔をふくらまし鹿の子の背中から降りるが、怒られてもまだ鹿の子の腕をひく。
「では起きて、あねさまが部屋を出てくださいよ。もう具合はええんでしょう?」
「え? う、うーん、うん」
そういや、あか山を越えてきたのにちっとも疲れはない。ああよく寝たと体は喜ぶくらいで、この一年間どれだけ休んでも消えなかった疲れが吹き飛んでいる。これが実家の畳の威力かと恐れ入るが、頭はまだぼんやり。冷たく切ない小御門の雪が積もったままだ。
「うん……」
「はよしな、なくなりますよ」
「うん?」
「配り餅。今日が最後の配り餅。三が日最後の日に配るんは――」
配り餅。去年の正月を思い出す。三が日の三日間、糖堂家本邸の庭先でその名の通り餅が配られる。その場でついて丸めた餅を、老若男女問わず奉公人から百姓、鼻を垂らした童子まで村のもんみんなに。
特に三が日最後の日は大行列だ。そろそろ餅ばっかりで飽きてきたことやろうと工夫を凝らし、餅は餅でも中に黒豆が入る。それもただの黒豆じゃない、糖堂家がおせちにたんまり仕込んだ、白砂糖たっぷりの甘い甘い黒豆だ。
「今日配るんは、豆餅ですよ」
袂で涎をすするしぐさを見せつけ、外郎がやおらに膝を立てる。鹿の子はその首に必死になってしがみつき、離れ邸をでた。
「寝巻き一枚で庭にでるなんて、嫁にいった娘がみっともない!」
まあもちろんのこと、かあさまに叱られた。
外郎におぶられ、村の童子たちといっしょになって並んでいたら、配給側にいたかあさまにみつかって、豆餅の代わりにげんこつをもらった。おぶってきた外郎もいっしょに奥座敷へ押し込まれ、そのままお説教である。
かあさまのお説教はそれはそれは長いし、手についた餅粉がとぶ、とぶ。鹿の子と外郎は頭のてっぺん真っ白にして、腹を鳴らせた。
「ちょっとなに、今の音。わたしは寝起きやけど、外郎は昼餉食べたんでしょう」
その頃ちょうど昼半で、よく陽が入る居間は快晴の今日日、背中がぽかぽかと暖かい。
「あねさまといっしょに食べよう思て、まだ食べてません」
外郎はいじらしい笑みを浮かべるが。
「違うやろ。餅つきする約束やったのに、昼まで寝てたんは誰や!」
かあさまに一喝され、ごつん。また頭が白くなった。
「すんまへん!」
「なんや外郎、わたしといっしょやないの」
「鹿の子、あんたはそれ以上に寝過ごしてるやろ!」
「すんまへん!」
しかし鹿の子に降ってきたのは、二度目のげんこつではなく豆餅の乗った皿。
「冬のあか山は男でも越えるのは難儀やと聞く。正月も帰ってけえへんと思ってたのにまったく無理して……これ以上心配させんといて。それと」
頭をおさえる外郎の膝元にも、皿が置かれた。
「あほな外郎は入ったらあかん言われても追い出されても、あんたが目を覚ますんをさっぶい廊下で夜じゅうずっと待ってましたよ」
そう言ってかあさまは二人を残し、また庭へと出ていってしまった。
顔を寄せ合う鹿の子と外郎。鹿の子がありがとうとにっこり笑いかければ、外郎は顔を真っ赤に茹でて豆餅を頬張る。
「かあさまが心配してたから」
「はい、はい」
鹿の子もいっしょになって豆餅をはむ。
ふっくらとした黒豆から滲み出た蜜はこめかみが痛むほど甘く、その蜜に絡むつきたての餅は米が香る極上だ。それもまだ人肌の温もりが残っていて、じんわりと腹に優しい。鹿の子は一年ぶりの実家の味を弟とふたり、心行くまで楽しんだ。
晴れ着に着替えを済ませた鹿の子はひっつき虫の外郎と白砂糖の精製場へと向かった。精製場は正月のあいだ動いていないが、とうさまの居場所を訊けば其処にいるという。この正月三が日に働いているのはこの村でただひとり、鹿の子のとうさまだけだ。
相変わらずやなあと鹿の子が感心していると、隣で外郎が目を座らせた。
「働いてるいうより、あれはもう病気や」
「まあ、とうさまに失礼な。外郎も少しは見習いなさい」
「若旦那と呼ばれるようになったらね」
十五の外郎は何もかも半人前、今はまだ精製場へ足を踏み入れることも許されていない。もっとも精製場へは男衆しか入れないので、鹿の子も中のことはよく知らない。男やったら見て回れるのにと、跡取りの外郎を何度羨んだことか。
ところで入れぬふたりはいつも、用があるときは正面口に置かれた鳴子を叩いてとうさまを呼び出す。普段、鳥おどしに使っている鳴子は一度振れば、屋根で休んでる海鳥達がバサバサと飛び立つので、広い蔵の奥深くからでも気づくというわけだ。
二度振る間もなく、小気味いい下駄の音が近づく。黒蜜の湯気が染み付いた観音開きの木の扉はいつも重そうだ。とうさまはよっこら細い隙間を作ると、甘ったるいさとうきびの匂いを引き連れ、現れた。
鹿の子にとって、とうさまに会うのは初秋の茶室での感動の別れ以来だ。ちょいと肩をすぼめて、遠慮がちにおじぎをした。
「あけましておめでとうございます」
しかしとうさまは真冬やというのに、鼻頭に浮いた汗を手ぬぐいで拭いながら、頭を垂れたままの娘をしげしげとみつめ、あっけらかんとこう言った。
「なんや、わしの目にはひとっつも変わってないけどなあ」
「なんですか、いきなり」
「いんや、なんも。おめでとさん」
毎年と同じ、あっさりとした新年の挨拶を交わし、とうさまの目は天日干しの台へとうつる。
化粧はしていないが着物は一張羅、丁寧につげ櫛で髪をといて整えてきたというのに、変わってないとは失礼な話だ。鹿の子はむすっと小豆顔をふくらませたが。
「なんもって、……ああ! これ!」
覗き込んだとうさまの膝元には、ころっと機嫌を直してしまう光景が広がっていた。
「なんや、鹿の子に言われて気になってな」
とうさまが嬉しそうにしゃらしゃらと音を立て、手のひらに乗せたのは氷砂糖だ。なんでも使っているのは黒砂糖を絞ったあとの、さとうきびの滓の滓。それでもちゃんと研いで圧してを繰り返し、作ったとうさまの氷砂糖は異国のものよりずっと大きく、透き通っている。きらきらとお日さんの光を集め、まるで水晶のように、美しく形の整った結晶。鹿の子は思わずうっとりと吐息を吐いた。
「きれい……」
「まあ、商売にはならんがな。ええ暇つぶしや」
「んでも、風成の甘いもん好きな貴族様なら、喜んで高い値をつけてくれそう」
氷砂糖を自慢げに簪にでも嵌めて、繁華街を闊歩するんじゃなかろうか。それほど美しい、宝石に負けじと劣らぬ結晶だ。それこそ人の手を加えたように、例えば飾り職人が丹精込めて石を研磨したように、見事な四方形を描いている。手前に差し出されたとうさまの手のひらから一粒摘んで光にかざせば、傷ひとつなく柔らかにぼやけた向こう側が見えた。
まるで久助さんみたいな砂糖だ。
鹿の子は腹の底からそう思った。
欠けるものがひとつとてない美しさ。それでいて取り込む景色は柔らかくて、甘い香りがする。
透かした先に映る冬空に青雲柄の着物を思い起こしてしまい、逃げるようにしてとうさまの手のひらへと戻した。
「これ、とうさまが削ったん?」
「アホか、わしが砂糖に傷をつけるか。氷砂糖はな、一粒一粒、丁寧に世話してやると、ここまできれいになるんや。すごいやろ」
砂糖は不純物を取り除き、ぼこぼこ沸かした水に溶かしてやると、水のなかでちいさなちいさな砂糖の結晶が緻密に集まって、列を作る。
「ほなら、砂糖が勝手に? すごい……!」
まるで、生きた宝石だ。
それでいて食べられる。
目に楽しく甘く味わえ、人の活力になるなんて、砂糖はどこまでえらいもんなのだろうか。
「砂糖て、すごいやろ!」
「うん!」
興奮させた小豆顔を突き合わせて、同時にぷっと吹き出す。そのやりとりを後ろ手で見守っていた外郎が、
「病気や……」
海潮がひくみたいに後退った。
「なによ」
戻ってこない潮を鹿の子がじとと見詰める。
一粒一粒じっくり世話しなあかんというなら、とうさまは職人に違いない。今もこうして傷がないか、宝石みたいに取り扱うている。鹿の子はそんなとうさまが誇らしいし、強いて言うならこれから砂糖売りを継ぐ外郎がそんなんで情けなく思う。
「今、砂糖売りの跡取りが何を言うてんねんとか思うたでしょう」
「思うた」 きっぱり。
「いやいや、僕が呆れたんはとうさまだけ違う、あねさまも大概やなと思うたんです。神殿のお供えもんの菓子を作っとるんでしょう? それも毎日」
「そうやけど」
「いやになれへんの?」
「なんで」
菓子作りは楽しいし、砂糖は甘いだけで罪はない。
それに糖堂の砂糖がなければ、お稲荷さまへ上げる御饌菓子を美味しく作られへんのやから、ありがたく思うことはあっても、いやになることはない。
鹿の子がきょとんと目もおちょぼ口も小豆にして尋ね返すものだから、外郎も、ぷっと吹き出した。
「気に入ってるんやったら、いいですけど」
「なにが」
「嫁ぎ先。小御門家のこと」
「小御門……」
そこでとうさまが思い出したように、口を出す。
「小御門といえば月明様が、砂糖蔵におるで」
月明――、ふいに発せられたその名を聞いて、鹿の子は息が止まった。
「どうした」
「え、いや、なんも」
実家でうろちょろしているうちに、いや目覚めたそのときからすっかりその存在を忘れていたのだ。
おどおどと目をあちこちにやる鹿の子に対し、とうさまは嬉しそうに四角いきんつば顔をほころばせる。
夫婦揃って実家へ帰る、これを知らせた後にやってきたとうさまからの返し文は喜びで文字が躍っていたものだ。とうさまの上機嫌の理由は他でもない、月明の存在があった。
「なんや、蔵にある神棚を丁寧にみてくれてる。陰陽師様は頼もしいなあ」
砂糖といっしょにてかてかとお日さんに照らされながら、にこにこと語るとうさまを前に、鹿の子はつられて笑うしかない。砂糖蔵は精製場と隣り合わせ、夫を追わない理由がみつからず、重い足取りで精製場から蔵へと足を運んだ。
金魚の糞の外郎を引き連れて。
糖堂の屋敷神棚は砂糖俵が積まれた海側に祀られており、蔵全体を見渡す方角を向いている。昨年獲れた砂糖きびは精製を終えたばかり、俵は天井高く積まれ、細い通路を残して先が見えないでいた。通路の行き止まりが神棚だ、蔵の行き来は慣れていた鹿の子は白砂糖の澄んだ香りを堪能しながら、乗り気のない足を進ませる。
間もなくからん、ころんと雪駄を鳴らし、神棚と向かい合った。
糖堂の神棚はお社にしめ縄一本飾っただけの粗末な造りだ。そのかわり供物台はさとうきびに砂糖に菓子が置けるようにと三段盛り。三が日の今日には折敷から溢れんばかりに捧げられており、少しでも揺らせば餅が落ちてきそうだ。いつもの鹿の子なら色とりどりの菓子、なかでもばあさまやかあさまが作った菓子を物色するが、今年は折敷に目をやる前に大きな障害がはだかった。
急に立ち止まる鹿の子に外郎が蹴つまずく。
「おっと、と、危ないなぁ」
「すんまへん」
「すんまへん? なんですか、どうしたん――」
外郎が鹿の子のちいさい肩を覗き込む。
すると薄暗い蔵のなかでぼんやりと人影が、鹿の子柄の鼻緒に延びていた。
その影はふたつ。
「わたし、お役に立ちたいんです」
ふたつの影は隙間なく重なり合い、太い線を描いていた。言うまでもない、蔵の中じゃあ砂糖の影か人の影。
人の影でも、男女の影。
ひとりは間違えようがない、月読み様のように眩しい袍を身にまとった月明だ。
そしてその衣裳に埋もれるように、若い娘がしがみついていた。




