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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
久助
74/120

五‐出立

 気を失った鹿の子が目を覚ましたのは牛車の中だった。

 しかしその(くびき)を牽くのは牛ではなく馬だ。


「きりん、さん?」

『あぁんたやっと起きたの? さっさと降りなさいよ。これから山登るんだから、寝てらんないわよ』


 麒麟は器用に長い尻尾をくねらせ、前簾を開け放った。雪崩れ込む冷気に身を縮めれば、クラマが鹿の子の頬をぺろぺろと舐める。前方に望むは朝日眩しや真っ白な朱雀山。


「あか山を登るの? いくらなんでもそれは」


 鹿の子はクラマを懐炉代わりに抱き寄せると、目をぱちくりさせた。

 あか山は駕籠を捨て、雪駄を壊し、ラクにおぶってもらってやっと越えた山だ。とても馬の蹄に敵う山ではない。


「それに……わたしは」


 後ろ手に何かあるわけではない。方角も違う。けれど小御門の家に戻りたくて牛車の奥へ視線を落とした。

 実家へ帰れば砂糖舐めにゃ倒れるこの難儀な体が治るかもしれない。それより久しぶりの実家で、どう旦那様をもてなそうか。そんなことばかり考えながらおせち作りも年始の仕込みも乗り切ったというのに。

 心に沸き立っていた楽しみはとうに涙で溶け消えてしまった。

 久助をなくしたばかりの今の鹿の子はかまどから離れたくなかった。


 ――そうだ。旦那様。


 久助と同じ顔を思い浮かべ、鹿の子は頭から振り消した。

 初釜を終えて幣殿へ向かわれてからその姿を見ていない。久助が雪に食べられたことは、主である月明ならばとうに知るところ。自分が悲しみに暮れていることも。

 それが憐れみの一言もなく、気を失っているうちに牛車のなかへと自分ひとり詰め込み、実家へ帰すとは余りに薄情ではなかろうか。それとも会わす顔がないとでも。

 鹿の子の頭の中は霧雪に降られたように淀み霞んでいく。


 ――月明へ教えてやった代わりに貰うたんや。対価を。久助をな。


 雪の言葉を思い出すたびに、不信感を募らせてしまう。


「……せめて帰る前に、旦那様に挨拶だけでも」


 旦那様が久助さんを手放した理由だけでも、訊きたい。なんせ自分が御用人にと願い出た矢先のことなのだから。

 反抗心も加わり、やっぱり一度戻ろうと鹿の子は麒麟の手綱を取りに、雪へ素足を乗せようとしたその時だった。


「しもやけになりますよ」


 寒風にさらされた、白いつま先に現れたのは艶やかな朱色の履き物。鼻緒は桃色の鹿の子絞り。

 鹿の子にはこの履き物に見覚えがあった。

 当然だ、自分が小御門繁華街で一目惚れしたのだから。そのとき月明に頑なに断られたこともしっかりと覚えている。鹿の子は空を仰ぐように、ぐいと顔を上向かせた。

 月明はお天道さまを背中に背負い、まつげを落としている。


「この、草履……」

「雪道でも多少は歩けるよう雪駄にして新しくあつらえたものです。足には合うかと」

「雪駄に、じゃなくて」

「さあ、馬に乗って。雪雲に覆われる前に山を越えたい」


 月明は雪駄に落としていた視線を上げると、笑った。

 官女ならば一目見て倒れる美しさで。にっこりとあどけなく。


 まるで久助の死はなかったかのように。

 はじめから存在しなかったかのように。


 やはり旦那様にとって久助さんは従者のひとりであり、菓子のひとつでしかないのだ。笑みを崩すほどの価値はなかった。


「いやです。帰りたくありません」


 鹿の子は足を引っ込めた。


 馬や牛車を出して雪駄まであつらえてもらったことは感謝するが、久助と同じ顔をした月明と同じ馬に乗ることなんてできない。

 

「あなたの体のためなんですよ。お願いですから、乗ってください」


 月明は無理強いすることはなく、じっと鹿の子のつま先が再び出てくるのを待ったが、鹿の子はもとより利かん気のある娘だ。


「わたしの体なんて、もうどうでもいいんです」


 首をぷんと横に振りきっぱりと言い放つと、一度開け放たれた簾をぴしゃんと閉めて、牛車の奥へと引っ込んだ。

 ひひん、と鼻息を荒くしたのは麒麟だ。陰陽師宗家の当主が頭を下げて頼んでるのに。前足をいきり立たせると鹿の子を追って、ぎりぎりと歯ぎりしてまで牛車に首を突っ込もうとする。

 月明はそんな麒麟の背中を撫でなだめた。


「よしよし、おやめなさい」

『だって、どうでもいいやなんて。月明様がここまでしてるのに』

「人間というのは大切な人を失うと――、自身の身も環境も、どうでもよくなるものなのですよ」


 静かに瞼を伏せ、瞳を曇らせる。


「周りが支えてやらねば。どうか麒麟様も手を、いや足を、貸してやってください」


 その目つきのまま笑った月明の顔は妖艶でいて、子供のようにあどけなかった。


『だったらなおさら無理やり引きずり出しましょう!』

「まぁ、待ちなさい」 


 麒麟のいきり立った鼻を退け、月明が前簾をくぐる。

 牛車のなかでは鹿の子が隅っこで縮こまり「あなたの支えはいらない」とでも言いたげな顔で月明が上がってくるのを見ていた。

 月明は苦々しい笑みで応える。


「鹿の子さん、そんなに悲観せずとも、久助の死は覚悟していたことでしょう」


 唐突に、あまりに無慈悲な言葉を浴びせられ、鹿の子はうすい唇をわななかせた。しかし月明は笑ったまま、淡々と語る。


「元々久助の寿命が短かった。あなたに先延ばしにしてもらっていたが、それももう限界に近かった」

「わかっていました。わかっていましたけど、それでも、あんまりやないですか……! それも、それも……」


 お義母さまに食べさせるやなんて。

 悔しくて涙もでない。

 こんなときに限って、雪が姑であることを思い知らされる。鹿の子は自分に巣食っていた浅ましい感情に受け流され、涙を落とした。


「どうして……」

「鹿の子さん、これを」


 月明が鹿の子に差し出した懐紙にはこれまた無情にも久助の欠片――。雪が吐き出し、茶室の畳に転がった、ちいさいちいさい欠片。鹿の子は牛車を壊す勢いで壁にはりついて、顔を伏せて嫌がった。

 ぴょん、とクラマが飛び退き、おろおろと双方に豆粒みたいな鼻を向ける。情けないことに、今のクラマには見守ることしかできなかった。


「鹿の子さん、みてください」

「いや……! いやです!」

「よくみて。久助の最期の姿を。菓子の精霊である久助がこんなにも」


 懐紙にころころ転がる久助の欠片は軽く、言っている間にもパサパサと崩れていく。


「不味そうだ」


 鹿の子の縮こまっていた肩が広がる。

 息を荒くしながらも、恐る恐る振り返り月明の手のなかを覗き込む。

 申し訳程度にはり付いた雲平は不恰好な着物。中身を守りきれなかったたまごの殻だ。元は濃い鳶色であったであろう羊羹は色が抜け、脆い化石のように、命の灯火が感じられない。


「鹿の子さん、久助がこの依り代のなかで生かされ続けたところで、幸せだったと思いますか。私は思いません。だから、私は――」


 だから、見捨てたというのか。これからなにかをするというのか。

 言いさす月明を、さいなむように見上げる。

 どんな冷たい顔をして言っているのかと思えば、そこには鹿の子の知らない燃えたぎった瞳があった。


「最も強く美しい、そしてあなたにふさわしい依り代を造り上げ――必ずやあなたの元へと、久助をお返ししましょう」

「きゅうすけ、さん……を?」 耳を疑う鹿の子。

「はい。ちょっとやそっとでは壊れない久助を。必ずや」  


 そしてその瞳が三日月になるほど月明はにっこり笑い、


「その前に、あなたの体が先だ」


 久助の残骸とも言える欠片を大事に包み直し懐へしまうと、鹿の子の胸元にそっと手を差し出した。


「あなたの体から荒神さまに出ていってもらう。まずは、それから」

「んでも、わたしより久助さんのほうが!」

「丈夫な体になって、久助を迎え入れたいとは思いませんか」

「そりゃ、そうですけど……」


 鹿の子は言い淀んだ。

 久助が戻ってくる。

 またそばで笑ってくれる。

 旦那様が仰ることだ、嘘はないのだろうけれど。


 あまりに突飛な話で手を重ねる勇気がでない。

 そのうち麒麟の辛抱が切れて、ついに簾を食いちぎり、押し入り、鹿の子の懐を鼻先で突いた。


『ちょっとかわいそうなくらいないわね!』

「なにすんの」


 鹿の子は自分の乏しい胸を馬に馬鹿にされたのはわかった。


『ほら鹿の子。早く乗りなさい』

「こん!?」


 クラマは危うく三白眼をぽろりとこぼしそうになった。

 だって麒麟が女の名を呼ぶなど、ましてや女を乗せるために難儀に足を崩して座るなどあり得ない。月明もこれには驚き、麒麟の首筋を撫でながらこう言った。


「こうして人を背に乗せるため座り込むなど、通常ありえません。足を痛めてしまいますから」

「麒麟さんが、自ら座ってくれたと?」


 そういや馬が座るところなんて見たことがない。鹿の子はわかりやすくうろたえた。


「はい。麒麟もあなたの体を心配しているんですよ。さあ」

「麒麟さん……。本当に……、久助さんは帰ってくるんですよね?」

「はい、必ずや。――この命に誓って」


 月明の眼差しは強く熱く、燃えたぎったままだ。

 ようやく決心いった鹿の子は雪駄に足を乗せると、月明の手をすり抜け麒麟へ駆け寄った。雪駄は鼻緒からかかとまでぴったりだ。

 麒麟はおずおずと自分の背にまたがる鹿の子を横目で見届けると、よっこら立ち上がり、嬉しそうに悪態づいた。


『まったく、新年早々こき使うて。あとで美味い人参出しなさいよ!』

「おうち着いたら、黒砂糖で人参煮たるね。きっと美味しいよ」

『こっちが覚えさせられたわ! 絶対に忘れない!』


 こりゃあ、麒麟は鹿の子の飼い馬になるんじゃないかとクラマが苦笑いひとつ、月明へ目をやる。月明は麒麟を支え立たせてやると脇腹に足を据えた。どうやら乗る気はないらしい。

 狐の目から涙がほろり、静かに流れたが、白い毛に隠れ誰も気づかない。

 麒麟は雪帽子を被ったあか山を威勢良く望むと、鼻息ふかして力強く、山道を踏みしめていった。




 *



 間もなく雪が降り始め、あか山はひどい吹雪に見舞われた。お日さんは雪雲の真上を通る頃、七合目に入っていた一行は山を越えるしかない。意地を張って言葉を交わすことなく雪景色を眺めていた鹿の子も激しく吹雪く雪に前が見えなくなると、鞍を支え続ける月明の手を気遣った。


「少し、休みませんか」

「この歩みでは足を止められません。お顔が冷えますか」


 そう言っては自分の着物を被せようとするので、ぶんぶん首を振った。鹿の子はもう十分に着ぐるみ、麒麟の背中でまんまると雪だるまになっている。それになぜか向かってくる吹雪は一粒も鹿の子に当たらない。月明の肩は真っ白に染まっているというのに。

 麒麟は焦れったそうに首を月明のほうへもたげた。


『月明様が乗ってくだされば、一気に登れるのに』

「ここから先は足場のない岩山が続きます、あなたでも難しいでしょう。鹿の子さんを危険に晒せません」

『私はいいけど。また鹿の子がお稲荷さまといっしょに倒れたらいやよ』

「なるほど。細かい補給は必要ですね」


 そう言うと月明は歩みを止めずに、肩にかけていた振り分け荷物を器用に紐解いた。月明という男はいつもどこでも菓子は絶やさぬものだ、竹篭を開ければ半分を塞ぐふくさに鹿の子特製の淡雪がたんまりと塊になって入っているではないか。甘い香りにクラマが鹿の子の胸から顔を出し、目をきらきらと輝かせた。元日にありつけず諦めていた菓子にじゅるりとよだれがこぼれ、ぴきんと口の端で固まる。対して見覚えのある菓子に鹿の子の顔が強ばる。

 月明は固まりをざっくりとふたつに分けると鹿の子の手元へと差し出し、こう言った。


「すみません、あまりにも美味しくて、あなたの許しもなくかまどから頂戴して参りました」


 淡雪はクラマと久助のために作った菓子だ。月明に食べられ、持ち出され、妙な恨めしさがもやもやと鹿の子の心をくすぶったが、よだれを凍らせても尚、はっはっ、と物欲しげに息を荒らげるクラマのために、渋々と受け取った。それでも残りの半分は突き返す。


「わたしは自分で用意しておりますので。その残りは麒麟さんにでもあげてください」


 淡雪はもう食べてくれるなと言わんばかりに。


「そうでしたか。では、お言葉に甘えて」


 麒麟はもうおおきな口を開けて待っている。月明は残り半分の淡雪を麒麟の口へ放り込むと、今度はじっと鹿の子の手元を見守った。鹿の子の用意した菓子というのは、いつもいつまでも視線をそらせぬものだ。鹿の子はうまうまと淡雪を頬張るクラマの頭上で気まずそうにしながら、自分の懐からちいさな懐紙包みを取り出した。

 中身はこの日のために整えていたきなこ飴だ。

 吹き付ける吹雪のなかで、きなこの香りを嗅ぎ分けた一人と二獣、ごくりと喉を鳴らせた。


「……い、いりますか」

「はい」

「こん」

「ヒヒン」


 爪の先ほどの飴を配り終えると、雪で重かった空気が心なしか軽くなる。麒麟のひづめの音は明るく韻を踏み、月明はふんふんと鼻歌を奏で、その歌に合わせてクラマはこんこんと調子を合わせた。

 雪もうろたえる合奏ぶりだ。

 鹿の子は同じきなこ飴を味わいながら、くすりとこの日、はじめての笑みを浮かべた。

 ただ残念ながら、頭上に響く「じゅるぅり」と涎をすする音だけは、鹿の子の耳には聞こえなかった。

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