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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
久助
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一‐元旦

あけましておめでとうございます、今年も鹿の子をよろしくお願いします。



 夜明けには年の朝にふさわしく、霞ひとつない空に日の出が上がった。

 境内に残されているのは若水汲みに命じられた年男の神職だけ、それも鶏が鳴く頃にはあか山の湧泉まで足を運んでいない。初日が照らす小御門神殿はうつし世とは思えぬほど清らかな気に大地を潤されていた。


「何よ、何もないじゃないの」


 そんな壮麗な空気を愉しむわけでもなく、拝殿へ繋がる渡り殿でひとりの男が鬱々たるひとり言を吐いた。

 神獣麒麟を祀る藤森神殿の当主、藤森草雲(ふじもりそううん)である。飼い主に似るとは言うが、藤森は女らしい喋り口調と佇まいが特徴的だ。加えて中性的な顔立ちをしており、歳は三十路を過ぎているが豪奢な袿を羽織れば女と見紛う艶かしい容姿を持ち合わせている。


「月明様ったら、心配症なんだから」


 藤森はくすりと色香をまとった笑い声をあげながら、冷え固まった体を震わせた。月明から「年越しに陰陽師家を脅かす怪異が訪れる」と聞かされていた藤森はそれなりに身構え、つくばいの水に氷が張る寒さのなかを一晩中見張っていたのだ。しかし境内には怪しい影はひとつも現れず、日が昇ってもこうして平和なものである。

 藤森の家臣たちはそりゃあ不平不満を申し立てたが、麒麟を取り返す口実に小御門家で年越しを過ごせた藤森本人はご機嫌。月明と膝を交え温かいぜんざいを啜る情景を思い浮かべながら、母家へ引き上げようとしていたが。

 物音ひとつなかった境内に砂利を踏む音が聞こえ、歩みを止めた。


「珍しいわねぇ、この元旦にお客様?」


 大晦日の夜から元日まで、お稲荷さまはこの風成にいらっしゃらない。

 風成の民ならば子供から年寄りまで知っていることだ。故にみんなお詣りの代わりに自分の家に餅を飾り歳神さまを迎える。また初詣は三が日より後と決まっており、元日は一歩も外へ出ないものだ。

 よほど差し迫った悩み事でもあるのだろうかと藤森は興味本位で見守った。


 神殿の砂利をはじめて踏んだ人間の正体は他でもない北の方、桜華である。その袿の裾と並んで歩くラクが今年いちばんの客であった。


「歳神さま、歳神さま、お願いがあります」


 美しいふたりが仲睦まじく影を踏み、人気のない、神のいない拝殿で何を願うのか。短い静寂の後すぐにじゃりじゃりと侘しい音を奏でその陰は去ったが、その背後で渡り殿の床がミシミシと揺れた。

 藤森は馬より聞き耳が得意だ。


「鹿の子って、誰! 何者なのよ!」

 

 地団駄を踏みながら、きりきりと袂を噛む。

 今すぐ月明を叩き起こして問いただそうと、藤森ははしたない足音を奏でながら母家の奥へと消えていった。

 またその後すぐ。


「ぎゃあああああ!」


 二刻かけてあか山から戻ってきた年男が若水を捧げにぜいはあ拝殿へ上がった途端、五段の階段をお尻で滑り落ちた。神職の根性で若水は一滴もこぼしていないのはこれ幸い。じんじんと痛む尻を抑え、おずおずと再び階段をのし上がる。


「これは、一体……」


 供物台には元旦にふさわしい、あでやかな稚児衣裳に身を包んだ髪の長い少女の人形が座っていた。

 その顔はふっくらとゆるやかな曲線を描き、筋の通った小鼻に紅色のおちょぼ口は笑みを堪えるように口角をあげている。瞳は初日を取り込み琥珀色に輝き、気色が悪いほど美しいものだった。



 *



 ところ移りて東の院別邸、かまどの御寝所。もともと人の手が行き届かない雑木林であったこの方角にはまだお日さんが入らず、夜の風情を残していた。

 しかし鹿の子にとっちゃいつも仕込みに起きる刻だ、はっきりと目を覚まし敷妙に身を捩らせる。鹿の子の細い腰を包みこんでいるのは月明の白腕。すり抜けようと試みるが。


「もう少しだけ……」


 今度は胸の中へと引き込まれ、身じろぎすら叶わなくなった。観念して力を抜き、月明の呼吸にすべてを任せる。

 月明は鹿の子の顔を隠していた御髪をうっとりと指でとき、現れた小さな耳を寸の間唇に食んだ。そして囁く。


「ありがとう」


 夜じゅう、そう何度も何度も言われては心苦しく、鹿の子はこう返すしかない。


「感謝されるようなことは、なんも」


 何もしていない。強い力に流されるまま、そして優しさに溺れ、ただ見詰めていただけだ。鹿の子柄の天井を。真っ直ぐな眼差しを。

 このぺらぺらな一旦木綿を抱いて眠ることに、何の価値があるのか、鹿の子にはてんで分からず、胸は申し訳なさで溢れるばかり。

 そんな気持ちを汲み取ったのか、月明は強張ったままの鹿の子の肩に顎を預け、心を明かした。


「ずっと、こうしたかった。毎夜あなたを抱きしめ、眠りたかった。願いが叶った今、尚も」


 鹿の子の濡れ羽色の髪を優しく指ですきながら、腰を引き寄せる。


「あなたとようやく、夫婦になれたね」


 戸惑うばかりだった鹿の子の肌がぴんと張り詰める。夫婦。その短い言葉に鹿の子は静かに、涙をこぼした。

 小御門家の嫁になる。

 糖堂の門前でとうさまに砂糖をかけられながら覚悟を決めたものだ。鹿の子は遠い昔のように思いを馳せた。

 いよいよ糖堂家の長女が嫁に出る。それも山向こうの王都だ。村から貴族がでる。みんなの期待を背負った鹿の子は色んなものを捨て去って、駕籠に乗り込んだ。これからは旦那様を一途に愛し抜き、尽くすのだと胸をときめかせながら。そうして後ろ髪を断ち切り、自分の平べったい胸へ新しい志しを吹き入れたのだ。

 鹿の子は若かった自分を懐かしみ、人知れず笑みを浮かべた。


 ――夫婦。

 初夜にすがすがしいほど霊力がないと冷たく言い放たれ、かまどへ放り出され、一瞬でその役目を失った悲しみは途方もないものだった。

 夫なる人に見離された痛み。自分への情けなさ。家族や村への申し訳なさ。これからの、一生。押し寄せる不安の波に抗うように、必死にしがみついたかまど。あくせく働くことで、煤に汚れきることで、小御門家の人間なのだと、嫁なのだと自分に言い聞かせて。

 だから、幣殿で小御門家のしきたりを聞かされた日には、ぽっかりと心に穴が空いたようだった。

 半年経って初めて旦那様と顔を合わせたときも、なつみ燗でふたり同じ飯を食べた時も、この人と自分は夫婦なんだと、心のどこかにあったのに。旦那様は見離してなどいないと仰ったけれど、それは側室として、小御門家を守る務め人として。けれど夫婦ではありませんよ。そうきっぱりと言われたみたいだった。


 自分にとって、あの野分のあとこそが、月明に見離された瞬間だった。


 蔵馬や久助の支えがなければとてもじゃないが、再び御饌かまどに立つことなどできなかったと思う。

 ふいに久助の眩い顔が頭に巡り、鹿の子はぎゅ、と目を瞑った。滴る鹿の子の涙を腕に感じた月明は、よしよしと頭を撫でて語り続ける。


「思えば初夜からあなたに心を奪われていた。今まで素直になれずにいた私を、どうか一生、許さないで」


 初夜と聞いた鹿の子は今度はぎょっと目を瞠り、振り返ってしまった。だって今まさに、辛い過去として思い起こしていた初夜のことだ。同じ初夜に対して全く異なる思いを抱く月明に驚きを隠せない。

 鹿の子のたまげた顔に月明は目を細め、申し訳なさそうに笑った。


「ああ、んでも」


 鹿の子はすぐに思い返した。最近になって久助から聞いた話だ。お稲荷さまは鹿の子さんの顔をみた旦那様に嫉妬され、旦那様を三日三晩床に沈めたと。

 しかし月明はそんな言い訳をおくびにも出さず、ただ過去の罪を連ねた。


「謝っても謝りきれません。許してもらおうなどとは、思いません。あなたと向き合わずにいた業突く張りな私を」


 鹿の子は許すも何も、業突く張りの理由が分からずにまた向き直る。月明の胸のなかで縮こまり、言葉の意味を探った。


「私はあなたをかまどへ閉じ込めたお稲荷さまを恨むことはしなくとも、ずっと妬んでいた。あなたを救おうともせずに、ただ側にいられるお稲荷さまを妬み、抗わぬあなたを嫉んだ」

「あれは、お稲荷さまのわがままでしょう。それに、わたしはいい修行になりましたし――」

「その後も、あなたの愛を一心に受ける久助を妬み、久助しか目に映さない、あなたを嫉んだ」

「そんな、それはわたしが旦那様と向き合おうとしなかったから」

「私があなたを虐げ、傷付けたからだ」

「でも、旦那様はわたしを虐げてなどいなかった」

「そう見える素振りを見せていた」

「でもほんまは違う。旦那様は、その、わたしを――」


 促すように吃ってしまい、より縮こまる。

 月明は鹿の子の望みにあっさりと応えた。


「そうですよ。私はずっと、あなたを愛していた」


 ずっと蓋していた答えを、吐き出すように。


「妻として。いえ、子供のように恋焦がれていた」


 溢れ出す想いを、いま言霊にして――。



「愛しています」



 鹿の子は再び、はたはたと妙に涙を落とした。

 

「業突く張りやなんて……違うやないですか」

「業突く張りですよ。一年に一度、神の居ぬ間にこうしてあなたに会いにきたのだから。お稲荷さまばかりか、式神を裏切ってね」


 式神。久助のことを言っている。鹿の子はずきりと胸を痛ませた。


「あなたの心は久助のものだ。私はそれを十二分に理解しているし、その想いを捨てて欲しいとも思わない。久助は私の魂の一部だ、私の最も自負する魂が、あなたの愛に包まれ誇らしく思う。ただ、久助のいない、この一夜だけは、私を見て欲しいと思う。どうですか――」


 より強く引き寄せ、滑らかな肩に唇を落とす。


「強欲でしょう。意地汚いでしょう。この一夜だけを望む私は、ずるいでしょう」 

「ずるいやなんて、決してそんなことは」

「ならば、約束してくれる? 来年も、また再来年もこうして私と過ごしてくれることを」


 それはちょっと、業突く張りかもしれない。

 寸の間空けて力なく答えた「はい」に、月明は笑って「戯言ですよ」と返した。



 それから一刻ほど月明の胸のなかにいた鹿の子であったが、日が昇り肌の色がわかる明るさになると、顔を添えていた胸を遠慮がちに揺すった。

 元旦とはいえ、当主が行事に遅れては事だ。朝拝の刻が過ぎる前にと、声もかける。


「旦那様、旦那様、朝拝の始まる刻です。起きてください」

 

 鹿の子に起こされた月明は美顔に至福の笑みを浮かべたが、


「朝拝?」


 その単語に飛び起き、上に乗っかっていた鹿の子をころんころん、帳台の外へと追い出してしまった。慌てて拾い上げながらも、強い日射しにぱたぱたと長い睫毛を瞬かせる。


「驚いた、朝拝は無いにせよ、そんなに寝過ごしていたとは」


 名残り惜しそうに腕の中の鹿の子をしげしげと見詰めるが、鹿の子は転がった隙にちゃっかり、骨ばった身体を御饌装束へと隠し収めていた。

 月明が無邪気にぷうと膨れる。


「明るいところで見たかったのに」

「それだけは、あきません」

「ああ、しかし、これほど深く眠ったのは、何年ぶりだろうか」


 しぶしぶ鹿の子を解放し、着物を手繰り寄せる。


「もう少し早よに起こせばよろしかったでしょうか」

「いや、神々が集うのは昼四つ。おせちは既に大晦日に本殿へ運び入れておりますし、神議りが終わるまでは神殿へ近づかぬようにも言われておりますから。しかし――」

「しかし?」


 月明に着させようと重い袿を持った鹿の子が、ぴょこんと顔を出す。月明は心底愛おしそうに、またいたずらな顔へと豊かに変えながら、こう言った。


「初釜に、客人を招いております」

「お客様?」

「なに、あちらが気まぐれに言い出したこと。釜の底に残った御饌飴でも舐めさせてやってください」


 袿の袖に腕を通すと、月明はその中へと鹿の子を引き込んだ。


「旦那様、あの、早よせんと」

「この手触り、この甘い香りを……忘れないように、もう一度だけ」


 そう言って、長く枝垂れた鹿の子の御髪をすく。

 立てば膝まである鹿の子の髪は日射しを浴びて、まさに朝露をまとったカラスの羽根のように輝いていた。


「糖堂で見かけた時は、腰までしかなかったのに」

「切る暇がなくて。みっともなくて、申し訳ございません」

「みっともない? この美しいすだれ髪が?」


 うっとりと頬ずりをすれば、月明の短い髪が交える。


「旦那様の髪のほうがずっと、綺麗でした」

「そう? 気にしたことなかった。でももう存在しないもの。――そうだ」


 月明はおもむろに懐をまさぐると、四角く折られた懐紙を一枚取り出した。境内で売られ、北の院新築費用にあてられた月明の御髪だ。


「髪を切ったあと、小薪さんにひとつ包んでもらいましてね。そんなにかさばらないものだから、よければ、あなたに持っていてもらえませんか」

「わたしがええんでしょうか」

「髪の一本だけでも、あなたのそばにいさせてください」


 憂いを含んだ笑みで鹿の子をじっと見詰める。


「そしてあなたさえよければ、髪を一本くださいませんか」

「わたしのですか」

「あなたの髪の毛一本だけでも、胸におさめていたい。どうか、最後のわがままに」


 鹿の子は月明の胸の中で、ためらうこともなくぷつんと引っこ抜いた。月明が差し出した懐紙の上にはらりと乗せる。


「ありがとう」


 鹿の子は遠慮なく顎を目一杯に上げて、月明を見上げた。冬の朝の日射しよりもずっとずっと温かな春の笑み。月明は鹿の子の髪を壊れやすい細工菓子を扱うように、大事に大事に懐へとしまうと、満足したのかようやく鹿の子を袿の外へと解放した。


「さあ鹿の子さん、これからは久助以外の誰にも、この髪を見せてはなりませんよ。今こうして眺めているだけでも、理性の箍が外れそうだから」

「はいな!」


 さっそくひっつめようと鹿の子は必死で頭をかき回す。


「……よろしい」


 月明は可愛げのある苦笑いをこぼすと、間もなく帳台の几帳に手をかけ、夢の外へと退いていった。



 *



 今日のお支度は初釜のみということだから、かまどに炭を入れる必要もない。鹿の子はひとり茶室にこもると、半ば夢心地でまったりと準備を整えていった。

 床に添える花は青竹を花器に結柳、とびきりの椿を一輪。揃いの茶器。

 決まり事の多い初釜は前々から整えておく分、新年を迎えた今に眺めると、実感が湧くものだ。小御門で年を明かしたのだと、鹿の子は炉の前でひとり、感慨を抱いていた。


(いろり)さん。あと少ししたら、糖堂へ帰りますからね」


 それから遠い実家を想う。

 もうすぐ実家に帰れる。それは鹿の子にとって昨夜よりもずっと夢のような話だ。


 ――どうか何事もなく無事に帰れますように。


 炉に丁寧なお辞儀を一度、釜の蓋を開ける。

 茶室にかかる簾に嫉妬の影がゆらり揺らいだのを、鹿の子は知らない。


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