二‐直会
直会――祭祀後、お稲荷さまが召し上がったものを頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、霊力、加護を能えてもらうこと。
お供えした魚や果物を調理し皆で頂くという風習が主であるが、小御門家でいう神饌とはしっかりと調理した御膳と菓子のことであり、迎え御膳、送り御膳共に当主と側近の神職のみが直会を許される。これはお稲荷さまが直々にお決めになられたことだ。
故に現当主の月明はどんなに帰りが遅くなっても、直会は欠かさない。この日も月は白じみ空に溶けかけていたが、巫女の手により御膳が運ばれてくるのを、弊殿にて静かに腰を据え待っていた。
「直会でございます」
「…………はて、どういう風のふきまわしですか。膳に御饌菓子が乗っておる」
「それは、久助さんが」
疲れて帰ってきた当主を前にしているというのに、配膳に上がった巫女はむっつりとそう答えた。
月明の膳に乗せられた菓子は、お稲荷さまのお残しを鹿の子のいる東の院へ運ぶ際、巫女が抜き盗っていた御饌菓子だ。仕事終わりにこっそり食べようとしていたところを久助に「鹿の子さんは食べなくとも、旦那様は食べますよ」とにっこり奪われてしまった。
「私らだって、お恵みが欲しいのに」
悪気もなく我が儘を吐く。
無理もない、巫女というのは直会はできなくとも、お稲荷さまのお残しで霊力をいただく身分。それがこの半年鹿の子に奪われ、人並みの霊力すら底をつきはじめているのだから。役職名は聞こえはいいが御膳の仕出しに神殿の掃除、やっている仕事は下女とそう変わりない。過労働の楽しみがなんといっても御饌菓子だったのに、今は切れ端すら拝めないではないか。かまどを覗けば、今まで尻叩いて追い出していた妖し、家鳴りが美味そうにもぐもぐ口を動かしている。
そもそも御饌かまどとは最上位の巫女だけに与えられる名誉ある仕事なのだ。目指すべき地位まで奪われ、巫女達は我慢の限界に達していた。側室は側室らしく離れに引きこもっていろと、かまどを通る度に思うのである。
霊力を失った巫女は隣に座るお稲荷さまがみえず、苦り切った表情を浮かべながらその場を立ち去った。
月明はもう一度、同じ問いを虚空に投げ掛ける。
「それで、どういう風のふきまわしですか」
念には念を、だ。この半年食せなかった御饌菓子、食べたら呪うとまでいわれた、鹿の子の菓子なのだから。お稲荷さまはそっけなく、月明を急かした。
「とにかく、食うてみ」
律儀な月明は食後にいただくのが習わしですが、まあいいでしょうと赤い羊羮に菓子楊枝を入れた。
「どうや」
「…………」
「美味いやろ」
「…………」
痺れをきらしたのか話したくてたまらないのか、お稲荷さまは淡々と咀嚼を繰り返す月明に次々と言葉を浴びせる。
「何が入ってるかわかるか。梅干しや。梅干しが入っとんのに、美味いんや」
「…………」
「わしが梅干しが嫌いなん知ってるやろ」
「はい」
「それやのに、巫女は毎度しつこく膳にならべる」
「くえん酸は摂取していただかないと」
「くえ……?」
「医者を殺すに刃物はいらぬ。朝昼晩に梅を食え」
「はも……? まあええわ、とにかくやな、見るのも疎ましかった梅干しや。それを鹿の子は菓子に使った。もったいないから言うて、こんなに美味く」
「はぁ」
「今なら梅干しそのまま食える気がする。千年嫌いやった梅干しをやで。克服させられたんや……鹿の子に」
「それはよかったですね」
「鹿の子のような娘、この機会を逃したらもう何千年、いや永遠会われへんのちゃうか思う。これは運命の出逢いや。だからわしは決めたんや」
「何を」
「鹿の子を、嫁にする」
胡座をかいた膝をぱんっと叩き、鋭く月明を見据える。皿に視線を落とす月明のその白い顔は睫毛の影が落ち、神が戦くほど妖艶だ。
月明は皿を置くと同時に、ゆっくりと面をあげ、こう言った。
「では、私も決めました」
月明がその顔をお稲荷さま一点へ移せば睫毛が花弁のように開き、白い月のように輝く。
「鎬を削ろうではありませんか」
「わしとお前がか」
「はい」
きれいな顔にきっぱり、潔く言われ、ぽかんとしていたお稲荷さまであったが、じわじわとその意味をかみ砕き、吊り目を上げた。
「わしに……逆らうつもりか」
「そんな剣呑な。私は現夫として妻を守ろう、そういった心持ちなだけです」
「また、ずいぶんな物言いやな」
「こんなにも素晴らしい御饌菓子を食べてしまった後では、引き留めないわけにもいきません」
「な、なんやてっ」
この男の胃袋だけは掴ませたらあかん、そう思うて頑なに食べさせなかったお稲荷さまは、何故この期に及んで進めたのか自分で自分を悔やんだが、血気はゆるめない。
「ふんっ、顔を忘れられた夫がどこにおんねん」
「…………む」
それはあなた様の一存ゆえではありませんかと、月明は苦虫を噛み潰した。
鹿の子が嫁入りした日、その夜、朝廷を下った月明は帰路に就かず、菓子材料の調達に街を走り回されていた。この時既に運命の出逢いを果たしていたお稲荷さまが一刻もはやく鹿の子が食べたい、鹿の子に会いたいと月明へ仰せ付けていたのだ。そんな事情を知らぬ月明はまたいつもの我が儘かと界隈を彷徨くが、店じまいした後の買い出しは困難を極め、夜中までかかってしまった。
初夜に花嫁を待たせてしまい可哀想なことをしたと、疲れた身体を奮い立たせ御寝所へ向かうも、お稲荷さまが回廊でとおせんぼ。終いには「逢うたら殺す」「いますぐ鹿の子に御饌を作らせろ」と仰る。月明は已むなく従者である神職へ申し付けたものだ。
風のいたずらに鹿の子の顔は拝めたものの、月明は凍りついた。考えるより先に言葉が滑りでた。
――清々しいほど霊力がない。
確かに側室になる娘にはそれなりの霊力が必要だ。目の前の娘は、誰がどうみても側室には不相応だろう。
酷い仕打ちを申し付けられた従者も鹿の子を一目みて、これでは御寝所から追い出されても為方ないなと眉尻を下げた。
しかし月明にとって注視すべき点は最早そこになかった。初夜の祝い着を身にまとう、その内にあるものは今にも消えてしまいそうな命の灯火。こんなにも儚げで弱々しい娘がこの寒い夜に吹きっさらしのかまどへ閉じ込められたら、命はない。
死にいく花嫁を憐れみ、後を追えばまたお稲荷さまがとおせんぼ。顔をみたなと呪をかけられ、三日三晩寝込んだものだ。床を離れる頃には娘はもうこの世にいないだろう。糖堂家になんと詫びればいいか、そんなことばかり、頭に巡った。
しかし、三日ぶりに朝拝へ顔をだせば御饌皿にはしっかりと菓子がのっていた。その翌朝も、そのまた翌朝も。姿は見えずとも菓子は生き生きと皿で踊った。娘の命の灯火のように。
そこで月明は顔だけでも毎日夫に会わせてやろうと、久助をつかわせた。私もこうして貴女の傍に生きている。そう伝えるために。
それは総て無価値で無意義だとは、知らずに。
昨夜、お稲荷さまが急に「わしも、鹿の子も一日休む」などと言うものだから、今しかないのではと死を顧みずかまどへ向かったというのに――、同じ顔をした久助と間違えるだけならまだしも、鹿の子は実の旦那を前に「旦那様のお顔忘れてしもた」と嘆いた。鹿の子は忘れたと、本人を前にはっきりと、そう言ったのだ。半年、顔を合わせなかったのは事実にしても一瞬とはいえ初夜にみつめあっている。平凡ではない、自負して当然のこの美顔でだ。それを忘れたと、きっぱりと言ったのだ。
月明は意地になり久助を喚んで肩を並べたものである。その後久助に鹿の子を院まで送らせ、自身はいじけて御寝所へ籠った。
「く、……あのまま私が送っていたら今ごろ」
「させないよ!?」
「あなた様、冷静に考えてください。神が人の子を嫁にする。それがどのような形で為されるか、ご存知ないわけではないでしょう。神の嫁――すなわち、肉体を滅ぼし、御霊を送る。あなた様は鹿の子さんを人柱にしようと仰っているのですよ」
「それは……分かってる」
「ほぅ、では私に、鹿の子さんの命を絶てと」
「ああ、そうや。でけへん言うんなら……この手で、殺すまで」
膝にのった手のひらをきゅ、と握り、痛ましい顔をした。
実のところ、お稲荷さまが寝込んでいた理由のほとんどがこの人柱、ようは生け贄問題である。現世から鹿の子の軌跡が消える。だからこそ枕の匂いを嗅いでいたのであって、変態ではない多分。
お稲荷さまは覚悟あって、こうして月明と面を合わせているということだ。
つね、甘味でゆるめる顔を勇ましく整え居住まいを正す、お稲荷さまのかつてない様相に月明は微笑ましく思いながらも、突き落とさんばかりに無情な独り言を放った。
「鹿の子さんの菓子、食べられなくなりますけど、いいんですかね」