二十一‐栗鹿の子
大晦日の暮れ六つ。
夜道に日は暮れないとは言うが、おせち作りがぎりぎり間に合った巫女らは力が抜けたようで、夕拝の支度を最後に実家へ帰られるというのに、のらりくらりと取り組んでいた。
見送りはあるんでしょうねえと、久助が呆れ混じりのため息をこぼしながら回廊を渡る。行き着いた先は御饌かまど。こちらも依然と散らかったままで火が落ちる気配ひとつみせない。さて何を仕込んでいるのかと探りながら、久助は夕拝に上げる御饌菓子を催促した。
鹿の子が御饌皿といっしょに運んできたのは、白くしわくちゃな紙。
「なんでしょう、これ」
そう尋ねたのは鹿の子であった。
鹿の子の肩幅ほどある大きな和紙に墨だろうか、黒々とした肉球の跡が点々と。
久助は御出し台を挟んだ向こう側から徐ろにその紙を差し出され、ぷっ、と噴き出した。
「昼に茶室へ戻ったら、これが枕元に置かれてたんです」
「文、で間違いないかと」
「ふみ? お手紙?」 鹿の子が頓狂な声をあげる。
「今日は大晦日ですよ、狐も山に帰るのではないでしょうか。おそらく主である鹿の子さん宛に残した、里帰りの知らせでしょう」
「クラマが? わたしにまあ、わざわざ?」
「はい」
鹿の子は納得したのか、まるで我が子にもらったように、平らな胸に和紙をぽふんと空気ごと優しく抱き込んだ。
久助は苦笑いを抑えることができない。
今夜、一年に一度の眠りに入るお稲荷さまにとって鹿の子と添い寝できる夜は昨夜が最後であったのに、それをこの式神が横取りしてしまったのだから。一夜明けた今、お稲荷さまもどんな顔して会えば良いのかわからず、文にしたため本殿へ上がられたのだろう。
その内容は久助にも読めはしないが、気持ちは痛いほどに汲んで、鹿の子に願い出た。
「帰った際には、とびきりの菓子を用意してあげてください」
「はいな」
もう決めてあるんやけどねっ、りんりんと声を弾ませかまどに向き直る。
「今から御出しする菓子より美味しいの作って、山盛りでお出ししますから」
こんなこと言ったらお稲荷さまのバチ当たるやろうか。鹿の子は喧嘩を売るように、意地悪な笑みを浮かべた。
「やはり鹿の子さん、言わずとも整えていましたか」
やれやれと夕拝の御饌皿を見詰め、そのもったりとした表っ面の奥でちりちりと毛羽立つお焦げにごくりと喉を鳴らす。
今年最後の御饌菓子は、久助の大好きなみたらし団子。これ以上に美味しい菓子が年明けに山盛りでだされるのだろうか。
「私も帰ったら、その菓子いただけますかね」
「はい?」
「ああ、いえ。今日はこのまま戻りませんので」
「あらまあ、そうでしたか」
いつものように颯爽と立ち去ろうとしない久助の背中に、鹿の子は急に侘びしさを抱いた。引きとめるその代わりに、年明けにはとびきりの菓子をお出ししようと心に決める。
「よいお年を。おやすみなさい」
その言葉にやっぱり今夜はひとりかと、心の中で愚痴をこぼす。欲張りな自分にびっくりして、
「こら、こら」
頭をこつんと、こぶしで叩いた。
*
大晦日のなつみ燗はいちんちただ酒が呑める。日が昏れても蕎麦屋に睨まれるほど客が多く、小御門橋の向こう端までいっぱいに、芋の串をもった酔っ払いで溢れ返っていた。
こんな日くらい平民に譲ったらいいのに、この小御門の領主である月明はいつもの特等席に腰を引っ付かせ、おちょこをしがんでいる。これが脂ぎったおっさんならええ加減にしてくれと賽銭箱に御器潰し(ごきぶり)を投げ込むところだが、間違って金銀入れて拝んでしまうほど美しい。店ん中の客はみんな、月明の美顔を肴の代わりにうっとりと眺めながら、今年最後の酒を愉しんだ。
客の顔が変わらず、肴が売れな稼がれへん。女将の夏海はすこぶる機嫌が悪かったが、今日は月明の頭に盆は落とせない。なんせ月明の差し向かいには馬面ではなく、天下の近衛大将が座っている。それも厳つい顔に青筋立たせて、鬼のような形相で。
「なあ月明よ」
「はい、なんでしょう」
「落雁とは、どんな男だ。私の娘に釣り合う男か。私より強いか、器量良しか」
「何度訊いたら気が済むのですか。まあ、器量は良いですが」
「許せん」
「どうしろと」
月明が鬱々としたため息をこぼせば、周りの客はその色香に「ほうぅ」と嘆声をあげる。
夏海はがりがりと盆の裏を引っ掻いて、見守るばかりであった。
小御門家側室の邸のひとつである北の院が落雷で焼け落ちたことは、堀下から見上げる煙の筋で一目瞭然、そしてその邸主である桜華の行く末は小御門下の人間なら誰しもが気にかけていた。建て替えを待たずに実家へ帰られるのだろうかと憐れんでいたところ、なんと今日になって東の院へと住まいを移したというではないか。
東の院は幸い、空の納戸の屋根に穴があいただけで、側室が住まうに全く支障はない。どうせ元より主のいない、妖しだらけのお化け邸だ。北の院が新しく建つまでの間、東の院に仮住まいすることになったのだというが──、よくよく話を聞いてみりゃ、御用人つき。どうも桜華様は邸だけでなく、鹿の子の幼馴染みを泥棒猫したようじゃあないか。鹿の子といえば、世話焼きのお節介。にっこり笑ってどうぞと譲った顔が目に浮かぶ。
「こうなったら、月明。あんたと鹿の子さんには、はようにくっついてもらわな」
「それはないでしょう」
「はあ? なんでよ、うちの目はごまかされへんで。月明がちょいと押せば鹿の子さんだってその気になってくれるで。元々嫁さんやねんし──」
「そろそろお暇します」
そうきっぱりと言うと、月明は朝まで動きそうもなかった腰をひょいと上げた。
「左近を呼んでおきますから」
「え、おい、お前まで私を裏切る気か」
涙目で荒ぶる大将。
「ちょっと、待ちいや」
「今日はこれで」
「これでっ、て……へええ!? ねえ!」
今までのつけ代を合わせても、お釣りが返せんほど出る。月明はきんきら小判一枚を夏海に押し付け、ひとり帰っていった。
夏海から逃げても捕まる日は捕まるものだ。
月明は手前から長く延びてきた影につま先をとられ、うんざりと立ち止まった。
「かのような夜更けに外で彷徨かれては、困ります」
「大晦日くらい、好きにさせ」
姑の雪が灯りに照らされ、しわを深く刻む。
大晦日の小御門下は、神界に還られる神々の足元を気遣おうと篝火が何百と焚かれる。雪はその明るい夜道で月明を待ち伏せ、いや正確には通せんぼに現れた。
「お稲荷さまも、久助も行ったで。見送りもなしか」
「毎年のことでしょう。お許しはいただいております」
「呑気なもんやで。これから丸一日、神の目がないというのに」
雪の語尾がきんきんと甲高く跳ね上がる。
「神がこのうつし世に居らんというのに」
ぞくりといやな妖気が月明の肌を撫でた。大晦日の日没から元旦までこの世に神の加護はない。いや、正しくは歳神の下にある。歳神はこの一日だけ土地や社殿関係なくすべての人々を護る。故に民は歳神を家に招くために門松を目印に、鏡餅やお神酒などの供物を整えお迎えするものだ。歳神が働くのはこの一日だけ、一日限りといえど世界のすべてを加護するのだから、おせちは歳神の労をねぎらうためにあるといっていい。
そう、たった今。
この世界に神は歳神だけ。
小さな精霊も小五月蝿い神獣も、──お稲荷さまの束縛も、久助の忠誠も。
なにも、ない。
「かまどはもう、炉を閉じたかの」
月明の足を急かすような、とどめの一言を浴びせると、雪は少ない今宵の闇へと消えていった。
*
今年最後の挨拶に茶室へ赴くのは、当主の礼儀ってものだ。
夜中に不純な言い訳を胸で唱えながら、月明は母家の回廊から茶室の灯りを覗いた。壺庭には簾の影が霧のようにたなびき、亭主の在室を知らせている。
「突然すみません」
月明は自分でもびっくりするくらい、性急ににじり口の戸を叩いていた。我が身を振り直し袖をかげば朝いぶした香は剥がれ、なつみ燗で染み付いた酒と煙管の匂いが鼻をつく。これではにじり口をくぐれない。無意味に短くなった髪を手でひとくし、「おやすみなさい」と戸に声をかけようと口を開いた、その時。戸ではなく、右肩にある簾がざっと上がった。
「旦那様! お待ちしてたんですよ」
手に櫛をもった鹿の子がぴょこんと顔を出す。まるで一日待っていたかのような口ぶりだ。
月明は嬉しくて顔がほころんだが、やはり当主として年の最後に茶室に顔を出すのは嗜みであったと思い知る。家元に茶室があったなら大晦日の夜、除夜釜といって家族だけでその年の最後のお茶をいただくものだ。
挨拶回りに追われていたとはいえ、久助と仲睦まじく過ごす妻の姿をみるのが億劫で、足が遠のいていたことは確かであった。
「ごめんなさい」
月明は酒が手伝っているのか、まるで子供みたいに決まりが悪そうに笑った。
それからにじり口を潜る前に湯殿へ寄る許しをもらい、一度その場を離れることを告げた。衣裳の匂いは今更どうにもならないが、己から漂う酒臭さくらいは落として入りたい。鹿の子も準備があるので助かりますとたおやかな配慮をみせ、水屋へと消えていった。後を引く真っ黒な御髪に引き寄せられながらも、月明は湯殿を目指し踵を返す。
壺庭の砂利を踏む音が軽快に刻まれた。まるで法師が琵琶でも奏でるように。
そうして半刻が過ぎた夜半、当主と側室のふたり静やかに、暮れの茶会が始まった。
「旦那様とふたり、除夜釜を過ごすことを楽しみにしておりました」
しょっぱな、鹿の子の総礼にどきりとさせられる。
畳を這う垂れ髪。
形ばかりの挨拶とわかってはいても、嬉しいものだ。
月明は自分も頭を垂れるが、その時にゆるんだ顔がなかなか戻らないので、しばらくそのまま畳とにらめっこをした。
ぽたり、水滴が膝に置いた手の甲に落ちる。拭いきれなかった御髪の水は氷のように冷たい。湯には浸かったが、肌から湯気が立つほど冷えた回廊を渡ってきたために、御髪だけでなく体の芯まですっかり冷えきっていた。母家の湯殿には帰りの遅い当主のために綿衣が整えられていたが不格好に思え、羽織らずに夜衣に袿一枚で茶室に上がっている。
胸が熱く激っていなければ、この膝の上の手は傍目からわかるほど震えていただろう。
そんな月明を気遣ってか鹿の子は事前に簾を帳で塞ぎ、火桶に炭を足していたので、茶を待つ今は爪先がじんじんと痛むほど茶室は温かかった。
「まずは眠気覚しにお抹茶を」
茶器を運んできた鹿の子をとろんとした目で見上げれば、にっこりと笑っている。
どうやらこの温もりに身を預けそうになるところまで見抜かれていたらしい。さては水屋に小薪が潜んでいるのではあるまいなと変に勘繰り、こほんと咳払いをひとつ。
「いただきます」
あつあつに点てられたお抹茶を一口啜ればなるほど、嫌味のない鋭い苦味に目は冴えざえ、体は内からしゃきんと温まる。ついでに喉につっかえていた酒気が洗い流されていった。
さあ改めて鹿の子を見据え、うまい話のひとつでも語ろうかと身構えれば、今度は茶菓子。
「今年最後に仕込んだ菓子、どうぞお召し上がりくださいまし」
茶菓子──。
小さな菓子皿にちょこんと乗せられたその菓子に、見入ってしまった。
闇に煌々と輝く月。
月明の目にはそう映った。
「これは……」
「栗鹿の子です」
月明ははっと息をのんだ。待ちに待った栗鹿の子。それはまさに小御門月明のためにあるような色形をしている。
黒い漆塗りの皿に、燃ゆる山吹色の、まあるい生菓子。
鹿の子がゆっくりと首を垂れる。
「今日この日のために、ご用意させていただきました」
――この日のために。
いつになったら食せるのか、秋に催促した栗鹿の子。待ち焦がれ、冬には半ば諦めかけていた栗鹿の子は、この除夜釜のために寝かせられていたとは。
月明の双眼に揺れる涙に月が浮かぶ。
「ありがたくいただきます」
これ以上にないほど丁寧に深々とお辞儀をして、皿を取った。口の中は先ほどのお抹茶ですっきりと整っている。月明はゆっくりと栗の隙間に楊枝を入れていった。
栗鹿の子を食すのはこれが初めてではない。
餡玉に鹿の子豆を貼り付け、寒天で照りを出した生菓子、鹿の子は貴族に人気の菓子であるし、豆を栗に代えた栗鹿の子も季節のお茶菓子に人気の一品だ。朝廷では何度かいただいたことがあった。
栗のなか、手応えのある餡玉を切り開けばほら、真っ白な餅。
耐えられることもなく頰が緩む。
また、それを悟られまいと口へ運ぶ。
「くっ」
そしてまた、緩む。
月明はこの時に冷静さを保つ努力を捨てた。
口のなかを楽しむことにおいて自分を抑え込むのは、実に馬鹿馬鹿しいことだ。
強張らせていた肩の力を抜き背筋を落とし、まずは一息ついた。
鼻から抜ける芳醇な栗の香り。
このままでしばらくは楽しめたが、栗鹿の子は三位一体を味わうもの。
月明は頃合いを見計らい、一気に歯で砕いた。
「これは……」
鼻から抜けた栗の香りが、より一層濃く、弾ける。
その中で味わう餡玉の贅沢さは、なんたるや。
栗から吸ったのだろう、ややゆるめのこし餡に栗蜜がたっぷりと溶け込んでいる。小豆本来の旨味を消さずに、栗きんとん独特の甘みが絶妙に絡んでくる。
「この栗……落雁の」
鹿の子がにっこりと振り返る。
「流石です、旦那様。この栗鹿の子の栗は和三盆で煮ております」
「しかし、和三盆はずいぶんと前に使いきったのでは」
「最初に少しだけ避けといたんです。この日のために」
――この日のために。
漬けたんは霜月なんで、よう蜜がしゅんでるでしょう。鹿の子が誇らしげに笑みを強める。
自然と咀嚼を繰り返せば、歯がもっちりと求肥で餅をつき、心にねばねばと貼りつく。
必死に振り解こうと抗えば、ひと月前に漬けたという、栗がさあ味わえと、もたれかかってきた。
その歯触りはまるで練り羊羹のごとく精密で、どこまでも素直な、栗。
「ああ、美味しい」
そして羨ましい。
月のように美しく、内なる輝きもそのままに、鹿の子に仕込まれたこの菓子が。
似ているのは外っつらばかり。自分はずっと、この菓子のように素直になれないでいた。彼女の側にいれば例えば何年も彼女に漬かれば、栗のように素直になれるだろうか。じぃと鹿の子へねちこい視線を投げかければ、にっこり。
「よかった……!」
鹿の子はちいさい目を弧にして、爛漫と花笑みを咲かせた。
その笑みは初夜に釘付けとなった、艶やかな表情と変わりない。茶器を運びに向かい合わせになったその顔は、まるであの日のように月明かりに照らされた美しさだ。
自分という月明かりがもたらす美しさであると錯覚するほどに。
鹿の子は当主の「美味しい」をもらった喜びに胸が打ち震え、肩にかかる御髪を落したた。
ずいぶん前に湯浴みを終えていた鹿の子は今、頭にひっつめていたお団子をほどき、畳へ垂れ流している。乾いた髪は灯篭の灯に艶めき、この小御門家の誰よりも美しかった。
髪が揺らぐ度、月明の獣の血がぞくり、ぞくりと湧き立つ。
「貴重な砂糖を分けてまでどうして、私に。私のために」
能面が剥がれぬよう低く、刺々しく言葉を吐く。
「だってこの栗鹿の子は、旦那様が召し上がる菓子ですよ?」
鹿の子は稚児の澄んだ瞳で、月明を見詰めた。
「旦那様への恩義は返しきれません。村を護ってくださり、わたしの天職といえる務めをいただいたこと。ラクを育ててくれていますし、その……、久助さんのことかて」
赤らんだその小豆顔をみた瞬間、月明の沸き立っていた血は妬みに更に熱く、燃えたぎった。鹿の子にとって久助は人生をかまどに捧げるほど愛しい愛しい御用人。比べて自分は旦那様、それ以上、それ以下でもない。そしてもう二度と、決して久助にはなり得ないのだ。
ならば見間違えられていた方が、幾分ましだったと、自身に絶望する。
「この幸せは、菓子ひとつでは返しきれません」
罪なことに、鹿の子はどこまでも幸せそうに笑う。
その笑顔を見た月明は、自分の能面がからからと音をたてて崩れていくのを感じた。
久助の影に居られないのならば、どこまでも「旦那様」で居ようじゃないかと。
「幸せですか」
「はい」
「では、その幸せを少し、分けてはもらえませんか」
卑怯だと、あさましいと、わかっている。
しかし美しい妻を前に味わうこの絶望的な栗鹿の子は、月明を狂わせるに充分だった。
「この日、この夜、一夜だけ。夢を魅させていただきたい」
神のいない、この月夜だけは――。
「夜伽を、命じます」
お読みいただきありがとうございます。
この栗鹿の子をもって、本年最後の更新とさせていただきます。
忙しい年の暮れ、皆様が素敵な年末を過ごされますように。
また新しい夜明けと共に皆様とお会いできたらと思います。
それでは、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。




