二十‐桜華
凍える夜。
白く灰になった火桶の火をならす。最後の灯りとなった火灯し皿の小さい火を吹き消すと、吊灯篭ものおかげか外の回廊の方が薄々と明るくなった。まるでこちらの世界が終局を迎えたようで、今日におあつらえ向きだと、桜華は笑った。
「早かったのですね」
几帳に映る影に人形を語りかける。その影はくっきりと体の線を表し、ラクではないことを物語っていた。頼りないなで肩に小さなおつむ。桜華の実家から召使いに上がった使い奴だ。桜華はそれを知っていて、何の躊躇も迷いもなく、几帳の裾を上げた。
大晦日に実家へ帰ることは家中に知られていることだ。明日の朝を待っては、境内までが騒がしくなる。思慮深い桜華は夜のうちに使いを寄越すよう、実家へ言付けていた。
桜華の手を取る遠慮がちな幼い手のひらに微笑みを落とし、几帳を潜る。
「では、参りましょう──」
回廊側から手首を強く握られたのは、桜華が顔を上げた瞬間とほぼ同時であった。
桜華と使い奴の狭間には息で激しく上下する逞しい腕。辿れば、白い狩衣、に似合わぬ厚い胸板。
「ラクさ、ん?」
勇敢な使い奴は「何やつ」とラクへ食ってかかったが、片手でひょいと放り投げられ、
「行かせません」
その言葉を最後に男と女はもつれ合い、御寝所の中へと消えていった。
*
「今夜は月が綺麗やねえ」
東の院別邸の御寝所もまた同じ、几帳の外側が明るく、月がまんまるとお日様のように照っていた。
しかしこちらは中も灯籠でぼんやりと明るく、火桶の炭も赤く燃えている。鹿の子はこの目で直に月を見ようと几帳を端へずらし、少しだけ簾を上げた。
「それに、お祭りみたい」
師走も終わるというのに、境内がやたらと騒がしい。
「明日には奉公人たちが実家へ帰りますから、代わりに見張りを任された男衆が、戸締まりの確認でもしているのでしょう」
そう言って久助は夜衣の襟元をゆるませ、帳台の敷妙に体を馴染ませた。
確認というよりは、愚痴の寄せ合いだ。
藤森家一同は暮れの愉しみを小御門家の見張り番役に奪われ、恨み骨髄に徹しているが、この役目を果たさにゃ愛馬を返してもらえない。
月明はというとこの夜、月の下などに居れず、なつみ燗の奥座敷で酒を浴びている。
「ああ、本当に綺麗な月だ」
久助が頬杖をつけば、主の代役と言わんばかりに、真っ黄色な月が双眸を照らす。
「あの月のように小御門を灯しなさいと、旦那様に言われて参りました。私はあなたを灯せているでしょうか」
鹿の子には帳台に寝そべる久助の総身総てが、月よりずっと眩しいと思う。
いちんち日に焼いたみたいに顔を赤く腫らしては、こくんと小さく頷いた。その顔を濡らした涙はとうに枯れている。
鹿の子は揃えていた膝を崩すと遠慮がちに、久助のまとう同じかい巻きへと足を滑り込ませた。こんなところをお稲荷さまに覗かれたら、いつもなら茶室ごと雷で焼かれるが、今はあいにくその雷の抱き枕になっている。
袖の裾を噛み、怒り狂う狐はただ一匹。
それもまた今夜に限り小さい小社に閉じ込められており、ふたりを邪魔できるものはいない。
鹿の子はじんわりと温もっていくかい巻きの中で、幸福感を噛み締めた。この短い腕に抱ききれぬ幸せを、みんなにもお裾分けしたいとも、ずうずうしくも思った。
いちばんめはやっぱり、久助さんをこのかい巻きに入れてくれた、旦那様。
「来年こそは旦那様に御正室を」
「またそんなことを言って。あなたは菓子を作り続けるだけで、かまどから動かないでしょう」
今年の反省点をずばり言い当てられ、喉がつっかえる。
「ぐう、そ、そんなことないです、ほら二日には実家へ帰りますし……、そうやっ、旦那様も一緒やねんから、その時にでも好みの方を聞き出します! それに村には仲良しのお友達が居るんですけどね、もしかしたら意外と気が合うかもしれません」
「ほう、村には鹿の子さんのお友達がいらっしゃるのですか」
「はい、糖堂を切り盛りする番頭の娘なんですけどね、一緒に花嫁修業した仲なんです」
「菓子作りが上手で鹿の子さんに似ていたら、あり得ないこともないですがね」
久助がいたずらな笑みを浮かべる。
「ほんまですか! そしたら、一緒に小御門で暮らせる!」
鹿の子はそこまで言うと、
「――なんて考え、ずうずうしいですね、わたし」
小豆顔をしぼませていった。
自分は清々しいほどの霊力なしだ、同じ土地の血が流れる村の人間も同じことかもしれない。それだけで友達が月明に冷眼を注がれると思うと、心が億劫になってしまった。
その様子をみて、久助は悲しくなる。
「あなたはまだ、そんなことを……」
無理もない。夫に見離された傷は深く、誤解が解けてもそのかさぶたはなかなか剥がれてはくれない。
ならば、自分がはがしてみせよう。
久助はかい巻きの中で、主がどれだけ素晴らしい人間かを語り尽くした。
旦那様は決して人を霊力で差別するような人間ではない。人を愛するが故に裏切られるのが怖くて意地を張っているだけ。張った心は碓氷のようなもので、軽く叩けば割れるものなのだと。
「それに弟子ならまだしも、御饌巫女のあなたに霊力の有無を問うことはしませんよ。旦那様はあなたを蔑んだのではなく、心から心配なさったのです」
それから初夜のことも事細かに話した。
鹿の子をかまどへ連れていくよう命じたのはお稲荷さまであるし、助けようにも旦那様はお稲荷さまに祟られ三日三晩寝込んでいたことも。かまどの方角へ足を向けることすら許されなかったことも。
「まあ、お稲荷さまったら、ひどい!」
「お稲荷さまはお稲荷さまで、旦那様にあなたを奪われたくなかったのですよ。今では、私だって」
月明かりの下、おなじように照った鹿の子のおでこをそっと撫でる。
「あなたの心すべてを旦那様に奪われたくはない。でもあなたには私を愛するように、旦那様を愛して欲しい。そう願う私はわがままでしょうか」
玉貴も全く同じことを言っていた。
旦那様はみんなに愛されてる。鹿の子は嬉しそうに、にっこり笑った。
側室に、式の神に愛し愛される当主の背中。
鹿の子はそのひとりも欠けてはならないと思う。
「では、私からもお願いがあるんです」
「はい」
久助の御髪をかきわけ、現れた精緻な耳にごにょごにょと耳打ちをする。
久助はくすぐったそうに、あどけない笑みで鹿の子を見詰め、
「まったく、あなたって人は」
強く、強く抱きしめた。
*
風成の冬はそれなりに厳しいものだ。
お天道さまと縁遠い北に建つ小御門の邸は風成で五本の指に入るほど日の陰りが早く、回廊の多い寝殿造りの構造も手伝って、日の入り前の早朝が一番に寒い。
その中でも母家の御寝所は火桶の火を早くに消してしまった為か、肌に張り付く氷のような空気に、桜華は起こされることとなった。
「…………っ」
手元に人形がなく、声はだせない。それでもはっきりと、息をひいた。
じっとりと重いかい巻きのなか、身じろぐ大きな背中。夏には浅黒くみえたその肌はひと皮剥けでもしたのか、つるりと白い。
「おはようございます」
背中は振り向かず、そのまま語った。
「よう眠れましたか」
頷くかわりにその背中をそっと、指の腹で撫でる。
「よかった」
ラクの声色は明るい。几帳裏に姿を現したお天道さまのように。
背中が美しく見えるわけだ、桜華はずいぶんと寝過ごしてしまったことを身に染みて感じた。ラクも同じ思いのようだ、神職見習いが朝拝に遅れては当主の月明に顔向けができない。明るい声色は、次には焦りをまじえ早口になった。
「すんまへん。昨日、あんまりお話しできんかったのに、今朝は寝坊ではよせなあきません」
──わかってる。
そう胸で唱えながらもう一度、指で背中をなぞる。
桜華が機転をきかせ背中合わせになるように寝返りをうつと、合点のいったラクは颯とかい巻きから抜け出した。中から吹き出た咽ぶような熱気に、桜華の顔が逆上せる。恥ずかしさに目を瞑れば、また明るい声に言葉をかけられた。
「朝拝終わったらまた来ますから、居ってくださいよ」
それだけ言い残すとラクは帳台を下り、桜華がもう一度寝返りをうつ頃には影形もなく消えていた。しかし桜華は最後のその言葉ひとつで、安心感に包まれた。また来る。その一言で充分。朝拝、それまでには身支度を整えなくてはと、自分も帳台から抜け出し、乱れた人形の髪を手繰り寄せた。延ばした腕は重く、そして強く握られた感触がまだ残っている。一度ではない、何度も、何度も。
「夢ではないのね」
人形に語らせ、抱き寄せる。
独りになり、改めてこの世界を見詰めなおす。一度は終わりを迎えたはずなのに、冬の匂いは新たな始まりのように澄み切っている。
「でも、行かなくちゃ」
桜華は時を巻戻すように昨日と同じ衣裳を手繰り寄せた。
昨夜はラクの優しさに甘えてしまったが、自分には帰るべき家がある。ラクはいずれ糖堂の村を支える陰陽師となる身分。離れなければならないのなら早い方がいい。
桜華はもうこれ以上、心に傷を負いたくなかった。
急がねば。桜華は一度集めた衣裳を跳ねのけると、着替えよりも先に筆を取った。
もう一度、実家の舎人を呼び寄せるために。
けれどその筆は几帳に映る影に折られることとなった。
ちいさい使い奴でもない、大きなラクでもない、美しい天女のような影。
「おはようございます、北の方。お目覚めにいかがかと、かまどからお抹茶をお運びいたしました」
影の主は、久助だ。
久助は桜華の返事を待たず、几帳の裾から菓子盆をぐいと押し込んだ。
「かまど──、では、鹿の子さんから?」
「はい。桜華様に是非と」
「またどうして……」
「それでは、私は朝拝がありますので」
「ま、待って」
筆を置き、回廊側へつま先を向ければあまりの寒さから、畳に湯気がたなびいている。
桜華はそれだけで口の中に唾を溢れさせた。かまどと聞いてはお抹茶ひとつ、どんな強がりも断れないものだ。行儀がいいとは言えないが、この部屋には誰も立ち入らない。桜華は帳台からかい巻きを引きずり出し肩に羽織ると、ずるずると菓子盆の前へと進み出た。
腕に抱かれた人形の目がきらきらと輝く。
「これは……」
菓子盆の上には茶器だけでなく、ひとつの菓子とひとつの文が添えられていた。文には赤い水引が結びきりで結われている。
菓子は干菓子、五芒星を型どった小御門神殿の御紋菓子。
「落雁」
その美味しさは舌が覚えている。
桜華は和三盆の香りと空腹に勝てず文を切る前に一かじり、口に広げた。雑味のない、されど温もりのある味わい。
目覚めにいただく落雁はぞくぞくと身震いを起こすほど体に染み渡っていく。
自然と甘味が舌から消えるのをうっとりと待つと、ほうと一息、落ち着きをはらい文を取った。
水引を解き裏っ返せば、稚子のようなまるっこい字で「東の院 鹿の子」と書かれている。
荒波のように押し寄せる罪悪感のなか、桜華は文を開いた。
──北の院 桜華様へ
まずは何の知らせもなく、文を届け驚かせてしまったことを深くお詫び申し上げます。
押し付けるようで申し訳ないのですが、落雁も添えさせていただきました。
東の口には合わず、すっかり忘れていた菓子でございます。
ほうっておいたらまずくなるばかりの落雁ですので、よろしければ北で使ってやってはいただけないでしょうか。
御用人の身分がなければ、小御門家の屋根の下に入れてもらえない田舎者でございます。
勝手ではございますがどうか、落雁にお慈悲を──
「ひどいわ、鹿の子さん。落雁が口に合わないなんて。いらないから、私に押し付けるなんて」
書かれてそう間が経っていないのだろう、文にぽたぽたと落ちる水滴は瞬く間に墨に滲み、波紋を広げていく。
「押し返そうにも、かじってしまったじゃない」
やおらに文を閉じる。
人形が「お節介」と可愛らしく呟く。
やがてかくりと首を折り、前のめりになると、かじりかけの落雁をつかみ取り桜華の口へと運んだ。
桜華は開き直ったように落雁をひとくちにふくみ、がしがし噛み砕く。
「これは……」
感じたことのない香りが口から溢れ出し、内頬に残った砂糖をかきわけた。
砂糖が溶けて舌に現れたのは。
「桜の、花びら!」
その正体は鹿の子が春に漬けた桜の塩漬けだ。納戸の天井近くの棚に眠らせていたものを朝早うに久助に出してもらい、鹿の子自ら底にはりつけた。ほのかな遊び心を含ませた、即席の祝い菓子であった。
口のなかで和三盆の甘みと桜の香りが混じり合う。
まるで昨夜のような甘美な味わいに、思わず笑みがこぼれる。
「こんなに美味しい落雁、後で後悔したって、返してやらないんだから」
涙ごと抹茶を啜り、また一息。
「いけない、急いでお父様に文を届けなくては」
桜華は書きかけていた紙を破り火桶の灰に突っ込むと、新たな紙に新たな心持ちで墨を垂らしていった。
考えになかったことを書きしたためねばならないから、昨夜よりずっと時間がかかりそうだ。それでも筆はさらさらと進む。
「お父様、ごめんなさい」
その声音は人形のものなのに、どこか弾んで聴こえた。




