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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
栗鹿の子
67/120

十九‐白鹿の子

 夕拝前に日が落ちる季節になると、小御門家の回廊に何百という吊灯篭が吊るされ、闇を照らす。その影を踏んで五十数えたところで、ラクは足を止めた。

 行き着いたのは、母家の御寝所。

 

「北の方、御加減はいかがですか」


 返事はない。

 北の院が焼け落ちてからこの御寝所へ移り、桜華は一歩も外へ出ていないから、居るには居る。しかし簾と几帳の二枚で隔てられた厚い壁越しでは、気配すら感じることができない。人形だけでもいいからその姿を見せてはくれないだろうかと今一度、声をかける。


「昨夜も魘されておりましたので、もしや病に侵されてはいないだろうかと、心配してるんです」


 その実、桜華は眠りにつく度に、回廊で雑魚寝するラクが飛び起きるほどおおきな嗚咽を奏で魘されている。

 理由は月明から云われ、知っていた。

 凄惨な過去も。久方ぶりの外先で仇に行きあってしまったことも。どうやらそれを機に、過去の記憶が甦っていることも。記憶が悪夢となって、桜華の心を蝕んでいることも。


 この様子では小御門家の陰陽師として役を果たせない。


 それでもラクは別邸へ向かう桜華の牛車を追いかけなかった自分を、悔いることができなかった。よくない未来は見えていたというのに。

 そして今も、こうして敷居をまたぐことはできなかった。


「あとひとつ、用済ませたらまた来ますんで」


 返事はない。

 渋々と膝を上げ、また吊灯篭の影を踏み進めた。


 ラクはこの日、務めが終わる夕拝の後に茶室へ呼ばれていた。

 拝殿から母家へ下る奉公人と肩を違わせながら、かまどへ急ぐ。


「すまん待たせた。どうした、なんかあったんか」


 人目につくこの刻だ、忌々しき問題でも起きたのではないやろうかと、何の躊躇いもなくにじり口を潜った。薄暗がりにみえるのは火灯し皿にぽつんと灯る灯りだけ。明るい回廊を渡ってきたラクは侘しさと不安を覚えた。

 それに、炉の前に座る鹿の子はごく静かに、ラクを出迎えた。こちらには背を向けているので彼女の小さな顔はみえない。膨れ上がる不安心。

 

「ようこそお越しくださいました」


 他人行儀な挨拶に、どきりと胸が跳ね上がった。

 そういや茶室に上がるのは初めてのことだ。左端に並んだ几帳に、ラクの視線が移った。裾まできっちり畳の目に整えられた几帳のその向こうには鹿の子の御寝所。軽い鹿の子ならひょいと持ち上げ投げ込めば、いとも簡単に組み敷くことができるだろう。一月前の自分ならもう、心に決めて膝を立てているかもしれない。

 しかし今となってはごくりと喉を鳴らすだけだった。


「本日のお茶菓子でございます」


 ラクは鹿の子の凛とした声にはっと我に返った。

 御寝所の方角から目を離し膝元を見れば、闇に馴染んで菓子皿が置かれている。


「あ、あの、鹿の子。いや、東の方」

「はい」

「今日は、その、自分は茶会に呼ばれたんでしょうか」

「はい。そうですよ?」


 顔をあげれば大好きな幼馴染の、にっこりとした笑い顔。


「あの、……いや。いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」


 その顔は可愛いらしくも何もものを言わせぬ迫力がありラクは渋々と菓子楊枝をとったが、改めて見据えた菓子に、腕をすぐに下ろすこととなった。

 菓子皿にぽつんとひとつ乗った、鬱わしげな菓子。


「これは、鹿の子」

「はい」

「んでも」


 ――白い。

 そこはかとなく白い、鹿の子。

 闇に映える白肌にまあるい菓子は、まるで今日の亭主本人である、鹿の子そのものにみえた。


 ラクの胸に言い知れぬ絶望が蠢く。糖堂の村の習わしのなかで生きてきたラクにとっては、この菓子が何を意味するものか、なんとなく理解できた。まるで山風が吹き荒れる崖の上に立たされたように、ひんやりとしたものが全身を駆け巡る。実に、火を焚いていない茶室は氷室の中に居るような、そんな冷たさだ。夏に鹿の子を連れ去った、あの狭い部屋を思い出す。あの頃のままではいられない、いつまでも幼馴染みではいられないのだと、目の前の菓子がラクを急かした。食べ進めなければ茶会は終わらない、息を整え、一度は下ろした腕を上げる。

 

「いただきます」

 

 しかし菓子楊枝の先が震え、うまく菓子を捉えることができない。

 なんてことない、白小豆で作られた鹿の子なのに。

 亭主の鹿の子はそんなラクを気に止めることなく、平然とお点前を続けていた。その横顔に悟られまいと焦り、より楊枝が小刻みに揺れる。

 そこでラクは楊枝を捨て置き、手づかみで一気に頬張った。白い鹿の子豆一粒残らず、口ん中へ、えいやと。

 

「うぐ」


 ――美味い。

 口ん中が鹿の子でいっぱいで、喋ることはできない。そのぶん心の中で目一杯叫んだ。

 ほろほろと歯で崩れる白い小豆は、噛めば一粒一粒にじっくり砂糖がしゅんでいる。にちにちと歯につく白小豆は味わううちにこっくりとした餡に変わり、まるで練りきりに生まれ変わるようだ。その餡に絡まるのが、中の求肥。極上の白小豆に、極上の餅。こんなにしっかりと作られた上生菓子をいただくのは糖堂の正月以来のことで、ラクは嬉しくて、頬を膨らませながら自然と口元を緩ませた。もったいなくて、一粒一粒丁寧に噛み砕く。その度に絡みつく餅。何度も何度も心の中だけで、美味しい悲鳴があがる。ラクは茶筅をひく音を背景に、夢中になって歯と舌を遊ばせた。


 しかし至福のひと時というものは、長くは続かないものだ。

 咀嚼が終わりに近づくにあたり、鹿の子がラクへ優しい、されど無表情な声をかけた。


「今、ラクが食べている鹿の子は、この日のためだけにこさえました。お稲荷さまも、旦那様も召し上がられておりません。白小豆で作った鹿の子豆も、今食べたので終わり」

「これだけで?」

「はい。これだけ」


 口のなかに残る一粒をごろごろと遊ばせる。

 求肥にひっついていたのはせいぜい十五粒ほどであろう。それだけを、自分のためだけに煮たというのだろうか。これはもっとよく味わって食べればよかったとラクは後悔しながら、最後の一粒を崩した。


「……この白小豆、なんかこう、こってりしてるな。いや、いい意味で」

「そうでしょう。それね、落雁で煮たんよ。白砂糖よりしっかりお味がついてるでしょう」


 最近ね、煮る砂糖を選ぶのに凝っていて、と鹿の子のおちょぼ口が笑う。目線は下。

 また不安に駆られ、ラクがその視線を辿れば、茶器が膝元にことんと置かれた。


「こってりした甘みを、お抹茶で拭って行ってください」


 湯気の向こうでまたおちょぼ口がやわらかに笑う。

 そしてまたラクに背を向けるように、鹿の子は炉の前へと戻った。

 ああ、飲んだらこの茶会は終わりなんか。覚悟を決めて、頷く。

 

「ありがたく御点前を頂戴いたします」


 ラクは茶器をとった。

 きめ細やかな泡はすするとぶわり、苦味がひろがった。甘ったるいと思っていた白小豆の鹿の子はそれほど糖度はなかったのだろうか。飲み終える頃にはすっかり口の中から鹿の子が消え去ってしまった。

 それが強く、強く寂しさを抱かせる。

 菓子を食べて束の間忘れていた絶望感が再び胸を支配していく。


「ごちそうさまです。それで、あの」

「ありがとうございます」


 鹿の子がラクの言葉を遮り、深々と頭を垂れる。


「鹿の子……?」


 鹿の子はそのまま固まり、動かない。


「鹿の子、どうした」

「今まで、ありがとうございました」


 くぐもった声が茶室に響き渡る。ラクは耳を疑った。


「なんや、今までって」

「形だけでもこの一年足らず、東の院の御用人を務めてくれたことです」

「形だけ……って、おい」


 鹿の子はゆっくりと面をあげたが、その顔はにっこりと笑っている。

 ラクの胸にひんやりと冷たい風が流れていった。

 そして次には、



「今日より、御用人のお役目を離れていただきます」



 ラクは全身から精気が抜けていくのを感じた。

 茶室に染み渡る静寂。

 自分でも驚くほど、厚い胸板からは想像もできないちいさい声が、響き渡る。


「クビってことか」

「はい」 


 きっぱりと肯く。鹿の子の笑みが崩れることはない。

 

「……じゃあ、なんや。今日の鹿の子はやっぱり、離縁を差しとったんか」


 力なく笑う。

 糖堂の村では嫁ぐ際に、自分の名前の菓子をもつ。

 そしてまた離縁の時には、同じ菓子を食べ収めに置いて家をでるもんだ。

 もう二度と帰ってきませんという、想いの印に。


「……ははっ、ははははは!」


 今度は茶室が揺れるほど腹の底から笑った。湧き出てくる涙をせき止めるように。


「離縁、ねえ。ははっ、そうやんなあ、俺、ここにきて御用人の務めなんて微塵もやっちゃいない、そりゃあ、クビだ。なあ、鹿の子」

「はい」

「俺を、恨んでるか」


 寸の間、間が空く。



「はい」



 ラクは肩を落とし、膝を崩した。茶番は終わりだ。



「……嘘、つくなよ。そんな強がり、鹿の子には似合わへん」

 


 途端にひっく、ひっくと、赤子のひきつけのような音が鳴った。ずっと我慢に我慢を重ねていた鹿の子がついに堰を切り、両手で口元を覆う。細指の隙間から溢れ出る涙。鹿の子はまごつくラクに、震えた罵声を浴びせた。


「ほんまやもん! わたしの世話はなんもせんと、旦那様の用付けにばっかり走って、北の方に媚び売って、終いには泣かせて! さっさと修行終わらせて村に帰ったらええねん!」

「な、泣かせたわけじゃ」


 いや、現に幼馴染みを泣かせている。

 泣き腫らした目で恨めしげに見詰めてくる鹿の子に、ラクは喉を詰まらせた。

 そこへ鹿の子が追い討ちをかける。


「ねえ、ラク、どうして北の方を引きとめへんの? 好きなんでしょう? 北の方はラクと、この小御門に居りたいのに、なんで引きとめへんの。実家へ戻られたら、もう一生会われへん人なんよ?」

「でも……」

「でも、なによ!」

「んでも、俺は東の……」


 またまごつくラク。東の一文字に鹿の子がいきり立つ。


「だから! クビや言うてるやろ! ラクはなあ、もう東の院の御用人ちゃうねん! この小御門で修業続けたいんやったらさっさと次の勤め先探しい!」


 どこからか木箱を持ち出して、ラクへぱっぱと白い粉を投げつける。

 たまらず立ち上がったラクは弱々しくほぞを噛みながら、にじり口に頭を潜らせていった。

 追ってぴしゃん、と戸が閉じられ、簾という簾がしゃあしゃあ降りる。

 その外で、断念したラクは深く頭を下げた。



「今まで、ありがとうございました」


 

 そう言い残して。

 ラクの大きな影が消えるのを待って、畳にへたり込む鹿の子。足を崩せばじゃりじゃりと音が鳴った。


「あーあ、朝に掃いたばっかりやのに」


 砂糖が畳に浸みこんだら大変だ、蟻がよってくる。なおも零れる涙を畳に落とさぬよう、しっかりと袂で拭った。


「言うたったよ……、炉さん」


 その震えた声は柄杓に残る水滴をぴちゃんと零し、炉に据える茶釜の湯へと、侘びしい波紋を広げた。




 *




 ふくろうも巣穴から出てこぬ寒さの宵に、久助は弊殿へと喚ばれた。

 神々が引っ込んだ本殿の御扉の前で、相も変わらず主が薄氷を張ったような冷たい顔をはりつけ、腰を沈めている。

 月明かりに照らされた月明の顔は神が戦慄くほど美しい。膝元で見惚れていると顎を引かれ、自分もまた月明かりの下へと導かれた。


「お前は美しいな」


 月明が零したこの一言に、ふと頰が緩む。

 自分の顔を眺めしみじみと褒め称えるとは、何か良いことでもあったのだろうか。さてはかまどでつまみぐいでもされたのかとにやつくが、月明は依然、冷たい眼差しのままだ。


「特にその、お前の笑みは母上を見ているかのようだ」

「先代、ですか」

「母上のように人の心を動かす美しさを、お前は持っている。それは私がとうに捨て去ったものだ、久助」


 より明かりの強く当たる方へと、久助の顎を引き寄せる。


「まあるい月が輝くのは、いつも表だけ。お前が輝くのなら、私は影でいい」

「旦那様……?」


 月明は言葉通り、光の当たる久助の影に首を埋めた。

 狐の耳に聞こえぬよう、耳元で囁く。




「今夜、鹿の子さんと帳台を共にしなさい」




 久助は、はっと月明かりから身を退いた。

 改めて見つめ直す、月明の顔色は変わらない。


「恐れ入りながら旦那様、私は鹿の子さんの御寝所へ入ってはならない決まりでは」


 その命令を出すに至った経緯を探り、遠まわしに聞き返す。月明は特に煩わしいといった表情をみせることなく、さらりと訳を話した。


「鹿の子さんが、ラクさんを暇に出されました」

「暇に。それでは、ラクさんは村へ戻るのですか」

「いいえ、明日には北の院の御用人として新たな顔を晒すことになるでしょう。ここまで言えば、わかりますね」


 久助が真っ先に頭に巡らせたのは、燃え落ちた北の院を前に泣き咽ぶ桜華。桜華が大晦日に実家へ帰ることは今朝の朝拝で、小御門中に知れ渡っていることだ。

 鹿の子は総てを失った桜華を思い遣り、ラクを譲ったのだろう。

 この世の不条理に目を瞑れば、茶室でひとりぽつんとすすり泣く、小さい背中が瞼裏に浮かぶ。



「久助。お前は今宵より、東の院の御用人へ命ずる」



 そして主の月明は幼馴染みを失った鹿の子へ、自分という式神を譲った。

 愛する妻を思い遣るばかりに、月明かりから身を引いたのだ。


「御意に」


 影に隠れた主を前に久助はただ、ただ首肯くことしかできなかった。


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