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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
栗鹿の子
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十八‐厩舎

 考えに耽っていた月明が面を上げると、朱雀山の山の端に白い月がかかっていた。

 刻は丑三つ時。

 このままうたた寝してもよいのだが月明はふと思い立ち、高座を下りた。この刻になると幣殿の板間には霜が降り白い素足を濡らすが、寒さにものともしない月明は境内へ出ると息を深く吸い、凍り付いた空気を腹に馴染ませ、うんとのびをした。


「薬師が次に仕掛けてくるとすれば、この正月」


 最も気を配らねばならないのは大晦日の日没から元旦にかけてのおよそ半日。一年に一度、あらゆる神が眠る夜だ。夜のうちに凶事に見舞われたとして神々をお迎えできないとなると、この小御門家に明日はない。

 かと言って、奉公人たちを家に帰さないわけにもいかないので、ここはどうにか身内で乗り切るしかないのである。そこで浮かんだのが藤森家。


「麒麟を帰さずにいてよかった」


 忙しさにかまけて後手後手に回していたが、麒麟はいい人質ならぬ馬質になってくれそうだ。愛馬のためならば藤森の重い腰も上がることだろう。藤森家に番兵でも任せて、なんとしてでも無事に元旦を乗り切らねば。


「私には鹿の子さんの里帰りがある」


 月明は境内の砂利に草履を深く沈ませ、厩舎を目指した。当然、麒麟はすやすやと眠っていることだろうが、その姿を一目見てから眠りにつきたくなったのだ。飼い馬達を起こさぬようそっと近づいた月明は戸に手をかけたその時、微かな人の気配を感じた。

 ──すすり泣く声。

 女の泣き声が木の戸を1枚隔て、確かに聴こえる。

 月明のよく知る声。愛してやまないその声。今朝には明るく澄んでいた声が。


「なぜゆえに……」


 一度は止めた手に荒々しく力を込め、戸を引いた。



 *



 時は遡り、この日の夕拝どき。


「そんなに慌てて食べんでも」


 とっぷり日が暮れきった暗闇の中、しゃりしゃりと小気味いい音が聴こえる。

 厩舎ではきょろきょろと辺りを見回す鹿の子の陰で、麒麟が桶に鼻を突っ込んで、夢中になって何かを貪っていた。


「うふふ、よかったねえ。久助さんに感謝しい」


 鹿の子は麒麟の食べっぷりに見惚れながら、今朝のことを思い出していた。

 それは月明がかまどへ現れる一刻ほど前の明け方の話だ。お稲荷さまの恋結びを仕込んでいると、いつの間にか戸口に立っていた久助から、声をかけられた。にこにこと挨拶もなしに、何かと思えば「馬が喜びますよ」と言う。

 この時ちょうど、鹿の子は飴細工の後始末にあぐねていた。

 久助が訪れる少し前に、疲れていたのか手に持っていた取り板一枚分の恋結びを土間にひっくり返してしまったのだ。慌てて拾い上げ、土をはらうが飴は欠けたり割れたり。すんまへんと一拝み、御出し台へ置いたのだが妖しらは見向きもしない。

 一度土を被った菓子は食べてくれへんのか、自分で食べるにもこんなにどないしよと、重い自責の念に駆られていた。


「申し訳ございません、貴重な氷砂糖をこんなに無駄にしてしまって」

「あなたは悪くありませんよ。悪さをしたのは小鬼たちです」


 実はね、小鬼たちは久しぶりの飴が嬉しくて、一斉に板にぶら下がったんです。その重みの反動でひっくり返してしまったんですよ。その証拠に小鬼たちは反省して、飴に手を出さないでしょう。

 そう言いながら、久助は飴を乾いた水桶に移し替えた。

 

「まあ放って置いたら他の妖が食べるでしょうが、たまには厩舎へ恵んでください」

「厩舎?」

「砂糖は馬の大好物なんですよ、特に芦毛の馬に――」

「あっ、久助さん、危ない」


 取り板にはさかった飴の破片を手のひらでさらえようとするので、鹿の子はとっさに久助の手首をとった。せまいかまど、久助が取り板をひょいと御出し台へ避ければ、鹿の子はおのずと胸に飛び込む格好になってしまう。慌てて離れようとしたが、


「鹿の子さん」

「はいな」


 顔を上げれば、唇を吸われていた。

 


「会いたかった」



 その後すぐ、回廊では巫女が尻餅ついて御膳をひっくり返し、茶室からは「こん、こん」けたたましい声が鳴る。久助は「今日は旦那様、邸に居られるようですよ」と一言残すと回廊の掃除に回り、鹿の子はクラマのご機嫌とりに走り、そのままてんやわんやで朝が終わった。

 


「えへへぇ」


 その時のことを思い出し、貧相な顔を緩ませる鹿の子。

 久助がかまどでいたずらをするのも無理はない。久助は月明と共に務めに走り、鹿の子の家出から一度も、顔すら合わせる機会がなかったのだから。主の休みに、主をだし抜き一番にかまどへ向かったのは神らしからぬ所為、といったところか。



『ごちそうさま! 美味しかったわぁ、いつもと全っ然違う』

 

 麒麟は飴の美味さに浸り顏。

 鹿の子が思い出し笑いをしてる間に、夢中になって飴をたいらげていた。綺麗さっぱり水で洗ったような桶に鹿の子はびっくりたまげる。

 

「ほんまに好きやねんねぇ」


 もっとも、麒麟の御饌には毎日砂糖が上げられるし、この愛馬も八つ時には与えられている。しかしそれを知らない鹿の子にはまだ隠し玉があった。後手に隠していた小さい桶をおずおずと麒麟にみせる。


「食べへんかった時のために、これ作ってきたんやけど……」

『なぁに? 人参?』

「もういらんかなあ、あっ」


 もちろん食べる。

 桶を引ったくって、カタカタと豪快にかっ込むが麒麟はすぐに後悔した。

 

『な、なぁにこれぇえええええ!』

「し、しぃ――! 他のお馬にみつかれるっ」


 ひひぃん、ひひぃん、麒麟の雄叫びは止まらない。

 桶の中身は、にんじんの甘露煮だ。

 程よく歯ごたえが残ったにんじんにしっとりとまとわる上品な甘み。


『こんな美味しいにんじん食べたら、普通のにんじん食べられなくなるじゃない! 食べるけど!』


 麒麟はなぜもっと味わって食べなかったのかを後悔した。

 舌に残らないすっきりとした甘みは後を引く。

 それもそのはず、飴の屑で煮たにんじんだ。

 おさまらぬ馬の大興奮に満足した鹿の子は麒麟へ得意げに語りかけた。


「いろんな砂糖を知って、わかったことやねんけど、煮炊きひとつ、砂糖を変えるだけで味が変わるんよ。特にこの飴の原料、氷砂糖は根野菜によくしゅんで、美味しいでしょう? 今は材料が回らんから作られへんけど、梅や杏子を氷砂糖で砂糖漬けになんかしたら、とびきり美味しくなると思う」


 家出先でも口数の少なかった鹿の子が、息継ぎもなく、実に楽しそうに話すものだ。麒麟は機嫌よくふんふん聞き入れた。


『あんた、ほんっとに砂糖が好きなのねぇ』

「にんじんがこんなに美味しくなるなんて、ねぇ」

『砂糖……というよりは素材が喜ぶのが、面白いのかね』

「お馬さんのお口に合ってよかった!」

『それを食べた者の喜ぶ顏が、好きなのね』

「氷砂糖だけ違うんよ。和三盆、蜂蜜かて――」


 鹿の子にしちゃ、ただの独り言だがそれでも、几帳の柄や釜に話しかけるよりはずっと寂しさは減る。それに麒麟が返してくるのは鼻息くらいで拍子もぴったり、とても聞き上手に思えた。

 厩舎で暇していた馬と、かまどでひとりぼっちの側室。


 楽しげに繰り返されていた話の紡ぎあいは、長くは続かなかった。



「馬が話し相手とは、そりゃあ同情も買われるわ」



 鹿の子の真後ろにある格子窓から、女の蔑みが聞こえた。拝殿に人が集まるこの刻、厩舎には誰もやって来ないと思っていたのに。鹿の子の小さい肩が縮こまる。

 女は厩舎の壁を隔て、喋り続けた。


「うちらかて悪いとは思うてた。ラクさんは東の院の御用人、それやのに毎日のように北へ来てもらうなんて」


 どうやら北の院に仕える少ない下女のようだ。ラクの名を合図に、鹿の子の顔が上がった。


「んでも巫女が言うにはかまどの嫁は、久助さんと神聖なかまどで、人目も気にせず愛し合うとるらしいやないですか。遠慮してたこっちがなんや、馬鹿らしくなりましたわ。

 ラクさんも、ラクさんや。かまどの嫁に義理立てして、北の方様に見舞いへ来ても、御帳台には絶対入れへん。北の方様はお邸を失ってからというものラクさんが居らな寝られへん、ラクさんだって、北の方様を慕ってるのに」


 鹿の子の胸の鼓動はどんどん激しさを増していった。

 北の方桜華は、北の院が焼かれた今、母家の御寝所に寝泊まりしていると聞く。ラクが付きっ切りだと言うからてっきり、恋仲なのだと思うていた。帳台を共にする、深い仲なのだと、他人ごとのように理解していたつもりだった。

 下女は息継ぎで喉を整え、はっきりと伝えた。


「明日の朝拝にて、北の方様はご実家に帰ることを旦那様にお申し出になります。ラクさんを諦めたんです、大晦日には小御門を出る予定です」


 北の方が実家へ帰る。これすなわち小御門家との離縁を意味する。

 そして鹿の子はその意味の重さを知っていた。

 頭にとうさまやかあさまのしょげた顔が巡る。

 下女も気持ちを昂らせ、涙声。


「北の方様を引き止めるには、ラクさんしかいないんです。いらんのなら、どうか北の方様にラクさんをください」

 

 最後には砂利にでこをつけ、土下座して乞うていった。




 *




 激しく開け放たれた戸口、吹き込む冷気に振り向いた鹿の子は顔を泣き腫らし、髪を乱しながらもなお、涙を流していた。月明の姿をみつけるなり、袂で覆い隠す。

 月明は狐に化かされているような錯覚に襲われた。


「朝には私を明るく迎えてくれたあなたが、どうして」


 ひゅうひゅうと、傷ついた呼吸が微かに聞こえる。喉を潰すまで、息が難しくなるまで泣いていたのか。たまらず抱き寄せたその身体は、水にさらしたように冷たかった。


「お、着物が、汚れま、す」


 月明の腕のなかで身を捩らせる。髪も肌も、触れる何もかもが凍てついていて、月明はそれらを溶かすように、距離を詰める。

 着物をさすろうが、強く抱きしめようが一向に温まらない。さては送り御膳を口にしていないのかと、懐から落雁を取り出した。鹿の子の唇にあてがうが、それを拒み、首を振る。


「鹿の子さん、何か口にせねば、また倒れてしまいます」

「旦那、様、お願い、です、お願いです、から」

「鹿の子さん!」

「なんでも、します、だから」

「ならば今はこの菓子を食べてください」


 強引な力で顎を引き寄せ、わずかに空いた隙間から落雁を滑り込ませた。鹿の子はかしゃり、端を砕くと大人しく味わい、そしてまた、涙をぶわりと、滴らせた。


「ラク……」


 消え入るような声で、その名を呼びながら。

 

「鹿の子さん……あなたは、やはりまだラクさんを」


 月明の胸はすぐに締め付けられたが、これだけでは終わらなかった。鹿の子は月明の言葉をきっかけに、堰を切ったように声を荒げる。


「違う、ちが、います、わたしは、ラクが欲し、いわけやない……!」

「鹿の子さん、落ち着いて」

「ラクじゃない、でも、んでも、ひとりは、いや、ひとりは、もう、いや! たえられへん! 炉さんみたいに、諦められへん!」


 落雁で熱を帯びてきた鹿の子の身体は、今度は寂しさに震えた。

 月明がその憎たらしさに思い出したのは母家の御寝所に出入りを繰り返すラクの情けない顔。

 憤る反面、鹿の子の身分や務めを改め、そして打ちひしがれた。


 見知らぬ土地に嫁いできた娘が、連れてきた御用人を失い、かまどにひとり。


 ラクに対して幼馴染み以上の感情はもてぬとも、鹿の子にとってはこの小御門家でたったひとりの御用人、身内であったのだ。会えぬ日が続こうと、ラクに思いびとができようと、心の支えには違いなかった。

 かまどでひとりきり、朝から晩まで御饌を作り続ける。その寂しさは人の支えなしでは、耐えることなどできない。

 鹿の子がどんなに気張ろうと、中身は十八歳の娘なのだから。


「それに母上には、父上がいた……」


 ――そして自分は夫であるくせに、鹿の子さんの支えに、ちっともなれやしなかった。

 抱き寄せていた腕がだらりと地に落ちる。


「旦那様、お願いで、す」


 今度は自由になった鹿の子が月明の胸ぐらにしがみついた。


「お願いします、一生かまどにいます、旦那様にお仕えしますから」


 唇を戦慄かせ、腫れた目から涙を振りまく。




「久助さんを、わたしにください」




 飛び散った涙は返り血のように、月明の胸へはたはたと、傷跡を付けた。  


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