十七‐薬師
あれから月明は寝る暇もなく朝廷の後始末に、おせちの材料集めに走らされ、星を仰げば大晦日まであと三日を残すところ。
ようやく雑事から解放された月明はその日の朝拝を終えると、明るい顔をして拝殿を出た。母家へ抜ける回廊へ踵を向け、選んだ行き先は煙がもうもうと立ち込めるかまど。かまどは季節が戻ったように暖かく、厳しい修行でかじかんだ身体を温めに巫女が屯ろしていた。
月明は彼女たちをこほんと咳ばらいひとつ蹴散らすと、こほんとふたつで鹿の子を呼び出した。
「おはようございます、旦那様」
「おはようございます」
透き通った鈴の声で放たれた「旦那様」にさっそく疲れが吹き飛ぶ。
しかし振り返った鹿の子の顔はいつにも増して煤汚れ、真っ黒くろだ。その疲れ眼を見た月明は邪魔をしてしまったと、声をかけたことに少し悔いたが、鹿の子は芋香る湯気に蓋をするとにっこり一歩駆け寄った。小さい手のひらには茶碗。
「はい、どうぞ」
躊躇いながらも受け取った茶碗は、ほんのりあたたかい。
「これでは催促に来たみたいだ」
「あら、違うんですか?」
「失礼な、違いますよ。私はただ、きんとんが大晦日に間に合うか見に――」
芋を洗う小豆洗いと米研ぎ婆の手がとまり、家鳴りが屋根柱からぴょこぴょこと顔をだす。
「じ、実のところはあなたに会いに」
「まあまあ、そう仰らずに食べてみてください」
鹿の子がかまどへ向き直り、そこらじゅうで「うひゃあ」「あーあ」と口惜しい声がざわめき立つ。
なんとも言えぬ後ろめたさから、月明は手のなかの茶碗に逃げた。
「いただきます」
いじけた様子で匙をすくった月明は、はっと目を瞠った。
御饌の味見かと思えば、匙の中身はごろつかず、とろりとなめらかに重い。
「粥、ではないですか」
「はい、腹ごしらえにどうぞ」
言われてはじめて空腹を覚える。そういや昼に近い。
普段、昼飯をとらない月明は懐の菓子が腹の足しであった。かまどでまともな飯を与えられ、改めて腹が鳴る。
月明は鹿の子に誘われずとも上がり框に膝を容れ、進んで匙を口に含んだ。粥はぬるめに冷まされており、口当たりが良い。
機嫌を直しよく味わってみれば、粥に隠れる具を舌に感じ、また目を瞠った。
「黒豆!」
噛み砕けば、ねっとりと甘い。
程よく潰れた米粒がうまく絡み、まるでぼたもちのようだ。
粥であるからにして当然、一瞬で口の中から消えてなくなり、すぐに茶碗へ匙を潜らす。
黒豆を狙ってすくいあげた匙には、黄金色の――。
「いも!」
月明は目を輝かせた。
おせちに入れるきんとんには何千本と芋がいる。この七日ほど躍起になって風成中を探しまわった芋だ。本来なら見るのも嫌な芋だが、当主として神が食す供物は是非味見しておきたいというもの。前歯ふたつぶんのそれを、よおく味わうように口んなかに転がす。ごろごろと角張った芋は、歯で崩す前にほろほろとひとりでに溶けた。
口どけはいいのに、しっかりとした芋の香り、そして甘み。
うんうん唸り、鹿の子の背中に尋ねる。
「この粥、砂糖は入ってますか」
「いいえ。ほんの少しだけ、お塩なら入れました」
月明は熱心に耳を傾けた。
ならばその塩が芋の甘味を引き立てているのだろうか。どちらにしても、自分が選んだ芋は正解だったに違いない。
「実に、美味しい」
絞り出した答えに、鹿の子が振り返った。
「そうでしょう、そうでしょう」
嬉しそうににんまり。
「旦那様の芋を見る目は、わたしが太鼓判を押します」
奉公人が聞いていたら「当主を馬鹿にしとんのか」と突っかかってきそうな一言だ。
しかし月明の顔はほころぶばかり。
自分が選んだ芋が美味くて、鹿の子の手でさらに美味くなれば、これほど嬉しいことはない。月明は鹿の子の花笑みを肴に、粥を勢いよくかっ込んだ。ゆっくり味わいたいところだが、雑事が片付こうが、朝廷が正月休みに入ろうが、神殿の当主であり侍従長でもある月明に暇はない。
「あれ、……この粥」
そう考えると、鹿の子は忙しい自分のために粥を冷ましておいてくれたのかもしれない。また今日び、朝拝が終わったらかまどへ現れるのを見透かされていたようで、気恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
たかが茶碗一杯の粥でも芋と豆がふくれて、お腹もいっぱい。
「ごちそうさま」
そう一言こぼし、つっけんどんに茶碗を返す。
急に居心地が悪くなり、みっつめの咳ばらいで腰を上げたが、また米研ぎ婆が流しで「あーあ」と大きなため息をこぼした。
その険しい顔にぎょっとして、足を踏み止めれば、
「冷えますので、少しでも飲んでいってください」
鹿の子は湯気の立つ湯呑みを渡してくる。
納戸に立てかけられた唐かさの一つ目が、「飲んでいくよね」とぎょろりぎらつく。
「いただきます」
断れず、手を伸ばす。
人を追い込むような、責めるような、なんとも言いがたい視線が月明へ集まる。
観念した月明は咳払いよっつ、こほんと言葉を選んだ。
「その、伺う度にこんなに尽くされては、足がこちらにばかり向いてしまいます」
もう一声! 屋根がミシミシ軋む。
「忙しいあなたに、甘えてしまう」
月明なりに思いつくだけの言葉を並び立てる。
受け取る際に触れた鹿の子の指は、かまどの火をまとったように温かかった。
「甘えてください。わたしは旦那様の、側室ですよ」
目ん玉がみえなくなるくらい、小豆顔いっぱいに笑う鹿の子。
湯呑みをすすれば、さっぱりと番茶。
月明は温まるどころか、総身に火が燃え移る熱さを感じることとなった。
*
ぽかぽかにあったまった月明は足取り軽く弊殿へと向かった。段取りは念入りにと気持ちを入れ替え、どんどんと不躾に本殿の御扉を叩き、ふたりの神様を呼び出す。
「なんの用じゃっ、一年に一度の甘いひと時を邪魔しおって」
どかどかと出てきたのは白い狐を小脇に抱えた血色のいい雷神と、
「こん……(ひとりになりたい……)」
手拭いみたいにぐったりと腕に垂れ下がるクラマ。
あれまあ赤いちゃんちゃんこに包まれ、耳には可愛らしい蝶々結びの紐つけて、なんとも可愛らしく飾られたものだ。
しかし残念なことに月明に救い出す暇はない。話がある相手は雷神さまである。雷神が腰を落ち着かせるのを、月明は静かに待った。
「よーしよし、羊羹食うか? 飴にするか?」
高座に上がった雷神は膝に膝掛け――ではなく、クラマを乗せて菓子皿を手前にひく。ただでさえ御饌かまどはお節の仕込みで忙しいのにこの雷神、クラマのためにと節操なしに菓子をねだる。
しかしただいま絶賛、家出反省中のクラマはちゃんと断れる。
「こんん(送り御膳まではいらん)」
「なら、甘酒飲むか?」
「こ、こん(うん)」
甘酒は黒蜜の代わりにと、なつみ燗から捧げられた供物だ。平たい皿に浸された甘酒をぴちゃんぴちゃん舐める様はどうみてもお稲荷さまならぬ狛犬さま。
月明はそんなクラマを温かく見守りながら、話の本題へ入った。
「おせちのお味見はいかがでしたか」
年始に備え先日、三重、二十七種類のおせち料理を雷神へ上げている。
「上出来じゃ。ここんとこ毎年同じおせちで飽きてたから、みんなきっと気に入る」
雷神は「特にあのきんとん」と目ん玉を天井向けて涎を垂らした。歳神さまもきっと喜ぶに違いない。
歳神とは神道の神であり、あらゆる神々の父でもある。いつもはどっかの高い山にこもっているが、正月だけ下界に降りてくるので、神々も民も揃って彼を迎える。盛大に祀られ、その分の仕事をして、盛大に送られまた山にこもるという、正月にしか会えない、最も有り難く、最も希有な神様だ。
正月は歳神なくしては語れない。
民が彼を祀るならば、神々は彼と言霊を交わすことで、新しい一年を始められる。
来年はどこにどれだけの雷を落とそうか、わくわくと羽衣を弾ませる雷神に、月明は引きつった笑みをこぼした。
いつもは持ち寄りのおせちを来年は小御門が一手に引き受けるのだから、どうか徳はあっても悪徳は遠ざけてくださいよと、心で唱える。
それに神々が集まるとなると、危惧しなければならないことが、いくつかある。
「ご存知かと思いますが風神さまには、この風成の地にお立ち寄りいただくことができません。同じおせちを食べられないとなると、気分を害されるのではないでしょうか」
「風神はこの龍穴に立ち入られぬのを、よくわかってる。それにおせちなら風呂敷に包んで渡しゃあいい話じゃ。心配なら私が直に渡そう」
「それは心強い、お願いいたします」
「こないだは少しばかりやりすぎたからなぁ、任された」
雷神は決まりが悪そうに、膝を正した。
この世界の雷神は感情の起伏が激しい分、自分の行いを顧みる珍しい神様だ。それ故に、稀に付け込まれることがある。
月明はもうひとつの危惧を胸のなかで噛み砕いた。
万が一、神々へのもてなしが失敗し、荒神達を怒らせるようなことがあればこの小御門、いや国ひとつが滅ぶなど一寸のことだろう。その方角へと導く者が、いないとは限らない。
砂崩への遠征。氏神と当主の不在を狙ったように小御門家へ現れた雷神、神殿に神々が集う異例なる正月。
月明にとってこの連鎖は同じ素材の鎖で繋がれているように思えてならなかった。誰か一人の手により故意に繋がれたものだとしたら。
「……ときに雷神さま、今年はずいぶんと早くおいでになられましたが、理由がおありで」
「理由? ……そうじゃ!」
言われて思い出したのか、雷神は膝掛けを引っつかむとぶらんぶらん揺すって問いただした。
「こら稲荷! この私を、この私を差し置いて、好きな女ができたとは、誠のことか!」
「ぶ――――!!」
クラマが甘酒をぶちまける。
顔面いっぱいに甘い汁を浴びた雷神は顔色を赤黒く染め、ピリピリと電流を走らせた。
この真冬に月明の小袖が冷や汗でびっしょりになったことは内緒だ。
「まことなのか……!」
「こんん」
「こん、じゃわからぬ、はっきりしぃい!」
「こんんん」
ぶんぶん振り回される白いぼろきれ。月明には戦場でみた死に際の姿が横切った。精一杯の愛想笑いを浮かべ、クラマを庇う。
「お待ちください雷神さま。神殿に引きこもりっぱなしのお稲荷さまが、恋する相手などみつかるはずもありますまい」
「私もそう思った。しかし現に外へ出ていたではないか! それもこの有り様! 狐に成り下がるとは、恋にうつつを抜かした何よりの証拠! 恋で、狐に……恋に」
雷神が目をぐるぐる回したクラマをじっと見据える。
「稲荷。お前、まさか」
何か納得したのか、ぐったりしたクラマを膝へ戻すと、背中を優しく撫で、涙声で呟いた。
「そうか、そうか……。辛かったな。大丈夫じゃ、私がいる。私が来たからには、もう大丈夫じゃ」
よくわからないが雷は落とされずに済んだらしい。
月明は胸を撫で下ろし、雷神に訊き直した。
「一体誰にそんな話を吹き込まれたのですか」
月明の頭には憎たらしい女狐が浮かんだが、返ってきたのは聞くに新しい答えであった。
「薬師じゃ」
「くすし?」
「ああ、何でも世界中を渡り歩いている行商人でな、あれは昨年の春だったか。不帰峠で出逢った男でな。困っているのを助けてやって、それからも旅先でちょくちょく行き会うようになった」
不帰峠と聞いた月明は総毛立った。それも昨年の春とはちょうど、天災に見舞われた時季ではないか。
「失礼を承知で伺いますが、昨年の不帰峠の崩落は雷神さまが下されたのですか」
「まあな、なんでも遠い南の国に薬を届けにゃならんのに、鬼が怖くて通れんと言う。そりゃそうだ、クラマも顔負けの、美味そうな美男だ」
雷神はぴちぴちとした美少年に目がない。
膝掛けの白い毛がひぃい、と逆立つ。
「男一人を通すために、雷神さまは峠を崩落させたと言うのですか」
「人助けのためじゃ。峠には鬼ばかり、壊して害はない」
「しかし……!」
峠の崩落で麓の村がいくつ潰れたことか。山から降りた鬼に食われた民も、民を救おうとその毒牙にかかった陰陽師もいた。果てには砂崩に侵略の道を開けてしまった。阻むことができたからよいものの――。
「実に、桜疱瘡の薬はこの冬を前に民へ行き渡った。これで今年の被害は軽く済むじゃろう」
「桜、疱瘡ですと」
月明の頭の中ではまたひとつ、鎖が繋がる音が聞こえた。鎖は長く、南へ伸びていく。
「そうそう、こないだ逢うたのも桜狩へ赴く旅路であった。崩れた不帰峠の、尾根でな。お主の妖術じゃろう、鬼神が集う異様な光景を私と同じように見物していた。稲荷の話はその時に聞いたんじゃ」
再び、ぞわりと背中が総毛立った。
あのいくさ場に薬師が足並みをそろえていたというのか。
「まさか……、その薬師とは」
――できますよ。砂崩にはそれを可能とする薬師がいるのですから。
今は亡き謀反者、太政大臣の言葉が頭を巡る。
人の皮膚を剥ぎ、他人に繋ぎ合わせる高等な医術に長けた薬師。そんな馬鹿げた人間がいるとは考えにくい、大臣の過言であろうと歯牙にもかけなかった。
しかし真実となればその薬師、先帝の片棒を担いだ重罪人――。仮に、不帰峠を崩落させた薬師と同一人物としたならば。
薬を運ぶためではなく、砂崩の侵略を促すために、神の力を利用したのではないか。
「いや、待て……」
神を手のひらに転がす術師ならば、風成の勝利などたやすく読める。しかし薬師は戦に加担することなく、南へ渡った。「お稲荷さまが恋をしている」などと、雷神の怒りに触れて。
「不帰峠の崩落は私を砂崩へ引き寄せるため……、私を引き寄せたのは、私を小御門家から引き離すため」
「さっきから何をぶつぶつと言うとるのじゃ」
「薬師ですよ。私欲に二度も、あなた様を利用した不届き者ではないですか」
「利用などされとらんし、私欲などと言うてやるな。あの男は人々のためにと、理想の交易路を夢見るだけの、行商人じゃ」
「理想の、交易路」
頭の中で鎖を手繰る。
そうだ、結果的には風成の勝利により北の交易路が正式に繋がれた。盗賊や鬼に怯え、命懸けで峠を渡っていた行商人は涙して喜んでいることだろう。薬師の本来の目的が雷神の言う通り、北から南まで、理想の交易路を創り上げることだとしたら。
「私ならば、次にこの風成を狙う」
不帰峠より先にあるやっかいな難所は山々に囲まれたこの盆地。南へ渡るには関所のある街を通らなければならない。関門を潜れば朝廷人の目にかかり、荷物を奪われる。行商人とは封鎖的な風成王都にとって、珍しい宝箱のようなものなのだ。特に桜疱瘡の薬なんて貴重な物は、着物の中にでも隠さない限り南への関門を潜れない。
もっとも高い銭で売れるのだから、大抵の商人は懐を膨らませて北へ戻るが、南へ品を運びたい行商人にとっては最も痛手を負う通過点といえるだろう。
そのアリ地獄を創り出し、集めた宝を手にして愉しんでいるのは風成の王朝国家だ。
「私ならば……、この豊かな土地や民をそのままに、朝廷を狙う」
たとえば、朝廷を守護する近衞府。それを牛耳る陰陽寮を叩く。いやそれよりも、陰陽師家の頂点であり王都を守る五つの神殿を潰せば近衞府の統制はあっさりと乱れるだろう。中でも陰陽師宗家であるこの小御門神殿を破壊すれば、国がお稲荷さまの恩恵を失い、同時にお稲荷さまの血縁である天子を祀る必要がなくなる。そうなれば、形ばかりの王朝国家など、時と共に崩れ落ちてしまう。
「薬師が狙うは、風成でもなく朝廷でもなく、この小御門家――」
かちゃり。
鎖がひとつなぎになる音が、頭の中に鳴り響く。
それは神を動かし、世界を変える力。
月明はこの日生まれて初めて、みえぬ影に恐れを抱いた。




