十二‐朝廷
刻は昼八つ。
遠征兵の早すぎる帰還に、玉座へ集った太政官は左大臣、右大臣のみであった。ふたりの顔色は悪い。この日は朝から主上の虫の居所が悪く、鷹狩りだ、やれ茶の湯だとご機嫌取りに付き合っていたところであったのだ。
はせるや、主上の開口一番はこれだった。
「近衛大将はどうした」
砂崩を犠牲者なく攻め落とした月明を讃えるどころか、大将の不在に明らかな不服を唱えた。
その態度は正しいのかと問われれば、極めて正しい。
何故ならば主上への奏上は本来、軍略府の長である近衛大将の役というもの。
御前で跪居していた月明はやおらに頭を垂れ、礼儀を尽くすことから始めた。
「畏くも主上、近衛大将は先帝雁の院の捕縛に向かわれたまま、その足取りが途絶えております」
「なんと。それではなぜ故にげっつはこの高御座へ上がったというのだ」
主上にとって勝利とは先帝の首あってこそ成り立つもの。それがないのなら、近衛大将がいないのならば、戦を終えたとは言えない。主上の玉顔はより険しいものへと変わる。
おろおろと顔を見合わせる大臣らに対し、月明はあくまでも美顔を崩さなかった。
「奏上ではございません。是非主上にお見せしたいものがありまして」
「朕の側近ともあろうものが時間稼ぎときたか、失望したぞ」
「まあそう仰られず、興は朝所にございますので」
「朝所……?」
主上の頭に久助の顔が過る。久助は主の命であると、朝所の扉前から丸一日動いていない。
「少々危険を伴いますが」
月明の顔に悪童めいた笑みが浮かぶ。それを気に入った主上は、ようやく重い御腰を上げた。
朝所は主上の御座す正殿より丑寅の方角に殿舎を構える。太政官庁の片隅にある小さな部屋は蔀戸がすべて下ろされており、入り口となる扉は簡素な妻戸ひとつ。そこに久助の姿はなく、代わりに近衛中将、藤宮左近がひとり立っていた。主上の玉音を耳に入れるなり、左近はその場に跪く。
朝所は従三位以上の太政官のみ立ち入ることが許される。本来、従四位下に立つ左近はこの回廊の板を踏むことすら慎むべきだ。
主上はあからさまに憮然とした表情で左近に尋ねた。
「そなたは近衛中将ではないか。きゅうちゃんはどうした」
「畏くも主上の仰られる通り、私は近衛。刀を持ってこの部屋を守る身でございます。どうかこの場に立つことをお許しください」
「刀だと? 官庁に刀など――」
「私が久助に暇をとらせたのですよ。どうかご寛恕を」
もっとも久助は暇を出されたのではなく、月明に用付けられ他へ出向いている。月明は柔らかな笑みで場を取りなし、戸に手をかけた。
「では、入りましょうぞ」
朝所の簡素な妻戸には久助により細工が成されており、内からは決して開けることができない。久助の主である月明は扉の前に立つと呪を一口に結び、容易く両手で引き開いた。左近の足元に転がる袋の紐を掴み上げ、ずるずると引きずり先頭を切る。
「おやまあ、閉じ込めておきなさいと命じただけなのに」
三十畳ほどの板間には太政官の座具として左右に畳が敷かれている。そこをあえて避け、中央の冷たい板間に四、五人が互いに背中合わせで座る格好で、縄でぐるぐる巻きにされていた。
二日はその状態であっただろう、ぐったりと衰弱し貫禄ある元の姿は見る影もない。
西陽が射し込む朝所。扉側に顔を向け、眩しそうにするその男を見るなり、主上ははっ、と息を引いた。
「主は、太政大臣」
背後に控えていた左大臣、右大臣もにわかに信じがたいようで、目をしろくろさせている。
「正気の沙汰とは思えん」
「お主、ただでは済まぬぞ」
ふたりの大臣は月明へ向け言っていた。
この朝廷において最高位である太政大臣が囚人のように縛られているのだ、主犯を匂わせる月明を即刻、取り押さえるべき状況である。
しかし主上は月明ではなく、目の前の老いぼれに蔑視を向けざるを得なかった。
「その衣裳はなんぞや」
何故ならば太政大臣は言葉なくとも己が謀反者であることを物語るように、風成朝廷において位袍に当たる深紫色の束帯を身にまとっているからだ。位袍とは主上の許しがなければ着ることのできない衣裳の色、文様を指す。
特に深紫色は皇族のみ与えられる色であり、主上の許しがあろうと皇族ではない太政大臣に着る資格はない。
主上に見下され、大臣の顔は屈辱に歪んだ。
大臣はその血を一滴も交えぬばかりに誰よりも渇望してきた公卿一族の一人――。
無理矢理着せられたのだと言い訳もできたのに、太政大臣は縄の中で老醜を晒すが如く、身体を捩るだけだった。
「これは一体、どういうことだ」
歴史の一文に加わるであろうこの現況を前に、主上は月明へ尋ねるしかない。
「どうもこうも主上がご推測されていた通りでございますが」
説法以外の長い話は苦手だ。
月明は実につまらなそうに主上へ答えた。
「太政大臣殿は今戦で風成軍を大敗させ、主上を玉座から引き摺り下ろすおつもりだったのですよ」
「……まだ五つに満たない春宮を玉座に立たせるためか」
「主上が長生きされてはあの老体、夢の皇親入りを果たせませんからね」
汚物を指すかのように扇子の先を太政大臣へ向ける。
春宮とは主上と皇后の間から生まれた嫡出の長男、つまりは第一皇子である。春宮の母、皇后は太政大臣の実娘、春宮が玉座へ上がれば祖父にあたる太政大臣は正式に皇親となり、堂々と深紫色の束帯を身にまとえるというもの。
「先走りすぎましたな」
月明は至極冷徹な笑みを浮かべた。
「砂崩籠城の知らせが届き、さぞ慌てたことでしょう。仕官の出入りが少ない朝所へこうして虫のようにたかり、謀叛の足跡を隠滅しようと足掻いておったのですよ。戦地にいる内通者を始末させるため家臣を走らせ、稚拙な口裏合わせに努めた。閉じ込められていることを知らずに」
さあ、後は今まで通り素知らぬ顔で過ごせばよい。
いざ解散と妻戸に手をかけたが押しても引いても開かない。他の出口を探せど部屋を閉じる蔀戸は牢格子のように頑丈だ。
次第に暴れ出した謀反者を見ていられず、久助はひとまとめに縛ったのだろう、中を荒らされては後が面倒だ。
戦場へ向かった家臣とやらも、久助の良い働きにより家鳴り付き。月明にしてみれば目立つ目印がついているようなもの、帰り道に易々と捕らえることができた。捕らえた家臣に内通者の名を吐かせ、今や両者監獄の内側だ。
「堪え性のない家臣を持ったものですねえ、すぐにあなたの名を口にしましたよ。これでもう、誰もあなたに味方するものはいない」
月明はそう言いながら手を振り上げると、どしん、と鈍い音が響き渡った。白い手を離れ、太政大臣の膝元に転がったものは麻の縄で編まれた巾着袋、俗に言う首袋である。
左大臣、右大臣がひぃっと敷居の外側まで後ずさる。
「……これは誰の首だ」
主上はそう驚くこともなく、重点をそこへ置いた。
「太政大臣に残された唯一の味方の、成れの果てですよ」
月明が些か張った声で言い放てば、
「ひぃ、ひぃ、ひっ、ひっ、ひ」
その声にかぶせ、しわがれた荒っぽい笑い声が部屋中に響き渡った。今しがたまで生気のなかった太政大臣が激しく首を縦に振りながら、ひぃ、ひぃと渾身の力を込めて笑う。
「何が可笑しい」
耳障りな笑い声に主上はたまらず、大臣を怒鳴った。
「だって、だってこの袋の中に私の味方の首が入っているはずがない。袋の中身をみたそこの侍従長の美しい顔が、どんなに憐れなものになるか、もう楽しみで楽しみで」
「げっつが……? どういう意味だ」
「私が陰陽師を相手に裏をかかないとでも? 月明殿とは何年も碁盤上で戦っている。一筋縄ではいかないことくらい、わかっていることですよ」
「では、この局勢が一変するとでも」
「主上の仰られる通り。月明殿はこれが先帝、雁の院の首であると言いたいのであろうが、それは違う」
この場にいた人間全員の視線が首袋に集中する。
「その首袋の中身は、月明殿の味方の首なのだから」
部屋の空気が下品な香が焚かれたように不穏なものに変わり、その静寂のなかをひとり、太政大臣は話しの節目でひぃひぃと喘ぎながら、喋りたてていった。
「そもそも砂崩への遠征に軍領府などと派手な官僚を作り、先帝の耳に届かないわけがないでしょう。遠征兵が不帰峠を登る頃には、先帝はすでに砂崩を離れていたよ」
近衛大将が先帝へ復讐心を燃やしていたことはこの宮中において有名な話だ。太政大臣は戦の始まる少し前に身代わり役をたて、先帝を砂崩から逃がしていた。
そして太政大臣の策謀はこの先にある。
「私が風成の大敗だけを望んでいたとでも? 望んでいたのは目障りな近衛大将の命とその官位さ」
太政大臣は近衛大将が先帝を狩りに単独行動をとるであろうと睨み、密かに暗殺兵を集め戦地へ送り込んでいた。
「近衛大将は今でも相当の手練れと聞いておりますが、三十名もの刺客に囲まれてはまず、助からんでしょうなぁ」
「なんの恨みがあって……!」
先帝の失脚から今の主上をたてたのは近衛大将と小御門家先代だ、主上は近衛大将を特別に慕っていただけに動揺を隠せず、玉顔をひしめかせた。
「恨みはありませんよ。言ったでしょう、私が欲しいのは近衛大将の命と、その官位」
「官位……、まさか、先帝を」
左大臣、右大臣が揃ってごくり、と喉を鳴らす。
その様子に太政大臣がくつくつと笑う。
「ご存知、あの狂帝の得意とするところよ」
先帝が狂帝と謳われる理由のひとつに過度な人体実験があげられる。その中でも皮膚や臓器の移植をより嗜好し、実験体同士をつぎはぎにしては鑑賞に愉しんでいた。
「先帝には近衛大将に成りすまし、この朝廷へ返り咲いていただく。その首袋を開けても誰だか判別はつきませんでしょうなぁ、顔の皮が剥がされているのだから」
つまりは先帝雁の院が近衛大将にすり替わり、その官位に座するという。
太政大臣の狂った笑みに恨みが骨髄に徹し、主上はついにその腹をつま先でえぐった。
「ぐっ」
「馬鹿馬鹿しい……! 人間の顔そのままを移植し、成りすますことができるわけがないだろう! それも朕や月明の手前、……そんな与太話のために近衛大将は殺されたというのか!」
「できますよ。砂崩にはそれを可能とする薬師がいるのですから」
「薬師、だと?」
ぞくり、と主上の背中に気色の悪い悪寒が走る。
敬愛する近衛大将としてごく自然に接していた人間が、風成の歴史を穢した悪しき狂帝だとしたら――そして自分がそれを見破れず、笑みを振りまいていたとするならば。
主上は腹を混ぜ返されるような吐き気を感じた。
「まあ、完全なるものを作り上げるまでにこの十年で平民の命が五百人ほど無駄になりましたがねえ」
ここで、だんまりであった月明が静かに口を開いた。
「なんと、それは存じませんな。砂崩への力ぞえには腰が引けておりましたが、これからは奮って平民の救済措置に勤しまなければ」
その声色は軽い。
「……終わったかの口ぶりだな」
「終わっているでしょう。こうしてあなたは先帝を裏切り、自白なされたのだから。たとえ近衛大将を暗殺し、先帝がなりすましたところで袋の鼠。我々は捕らえるだけのことですよ。あなたの心に先帝への忠誠がなかったことだけが救いです。あなたは風成の大敗を望んでいなかった。近衛大将の命とその官位も望んではいない。
ただその衣裳を着てみたかった。本当にそれだけだったのですね」
月明はその場に膝をつけ、袋の紐をほどきながら憐憫と微笑んだ。
「太政大臣ともあろうものが、なんと愚かな」
「何とでも言え。それよりさあ、私にも見せてくれ。親愛なる近衛大将の、成れの果てを……!」
主上は耐え切れず玉眼を逸らすが、月明は首を隠していた麻縄を躊躇いもなく、一気に床までときはなった。
 




