十‐産土
鹿の子は飴を炊いていた。
「なんで?」
くつくつと褐色に煮える飴をおたまでかき混ぜながら、鹿の子は首を傾げた。
かまどのなかには炭が踊る音が響くだけ。屋根は軋まず、怖いくらい静かで、穏やかで、暖かい。
けれど、自分は馬に乗っていたはずだ。肌が凍りつきそうな寒さのなか、おろし風に吹きつけられ、爪の先までかたまって。息吹を感じられない岩山を休みなく登り、同じように冷えきった白い毛玉を抱きしめながら。
「そうや、クラマ」
茶碗に炊きたての飴をたっぷりと注ぎ入れ、茶室へと上がる。
そこにクラマはいない。茶室には入ってはいけませんと、いつも口うるさく言っているから、おかしなことでもない。おおかた寝所でよだれを垂らし待っているのだろう。
すたすた茶室を横切っていると、客座に手毬が現れた。
大きな大きな手毬。まるで十二単を一片ずつ縫い合わせたように艶やかな手毬だ。ひっくひっくと左右に揺れる手毬は、これで顔をだせば、立派な姫君様。
「あーぁ、やってられへんわぁ、まさか風成の女、それも年増にラクを奪われるとは」
顔がでた。
手毬は膝を抱えたお姫様やったらしい。包子頭をゆさゆさ揺らし、亭主へ向けて姿勢を正した。
いつの間にか鹿の子は茶釜の前に座っている。手のなかの茶碗を姫君の膝元に置くと、鹿の子は当たり前のように抹茶を点てはじめた。
「炉さんでしたか」
「うむ」
力強く頷くが、その顔は痛々しいほど泣き腫らしている。
炉は目をしぱしぱさせると、やがて匙をとり、茶碗をとった。
「いただきます」
ぎゅ、ぎゅ、と重い飴を匙の背中ですくう。
「こんな重いもん、一日中かき混ぜとんのか」
「あい」
重いし固いし、すくってもすくっても、びよんと伸びてしたたり落ちる。
「難儀な食いもんやなぁ」
「くるくる、匙に巻きつけるんですよ」
「ほぅ、こうか」
「そうそう、お上手です」
間もなく出来上がったのは、匙の先端にまんまるにまとまった琥珀色の飴。
お稲荷さまの大好物、御饌飴だ。
炉は匙をまるまんま口に含むと、ねちねち舌で転がしながら、ううむ唸った。
「確かに美味いが、どこまでも風成の食いもんやな」
「そりゃあ風成の芋だけで、作られていますから」
「妾の口には砂糖のほうが合う」
「そうでしたか」
ほなら、なんで御饌飴炊いてたんやろか。
そう首を傾げて目下をみれば、かまどの前。
釜には透き通った砂糖液がふつふつ沸いている。いつの間にか周りは薄暗くて、辺りにはちょうちんお化けがふよふよ。
「あ、あかん、煮詰まってる」
考える暇もなく砂糖液が炊き上がり、鹿の子はいつの間にやら冷やしてあった銅板に液をぶちまけた。慣れたもので、鹿の子は冷えた縁から器用にまとめ上げ、ふたつに切り分けた。よおく練った飴は真っ白しろ。もうひとつは紅色に色を着けて、ほんのり桜色に。
「ちょうちんお化けさん、寄っておいで」
小さな灯りの下で、器用に結ぶ千代結び。
紅白がめでたいお稲荷さまの恋結びの出来上がり。
菓子皿に出来上がった飴を二つ、乗せたら場所はかまどに移り、炉の前。
「わぁ、かわいい」
炉は嬉しそうにさっそく、紅色を頬張るが。
「妾が知る砂糖ではない」
きちんとたいらげてから、そう言った。
困ったなぁ、御饌飴も恋結びもあかんとなると、どんな飴がええやろか。べっこう飴じゃあ面白みがないし。それなら是非とも和三盆糖を味わって欲しいが、そもそも材料が一欠片も残っていない。
腕を組んでうううん、唸れば、かまど。
「そういや、なんで飴にこだわるんやろか」
「お前のためじゃ。飴は砂糖のかたまり。かさばらんし、日持ちするからやろ」
「なるほど」
なんでか腹に落ち、ふたたび考え込む。
――お前のため。
自分のためやったら、黒砂糖がいいなぁとぼんやり懐かしむ。しかしこちらも全部和三盆作りに使ってしまったから手元に一欠片も残っていない、あるのは壺にたっぷり満たされた黒蜜だけ。
「黒蜜、そうや、黒蜜がある」
黒蜜は御饌に使えない、なつみ燗に卸すにしても少しばかりなら旦那様もきっとお許しになるだろう。
鹿の子は肘をひろげ納戸に駆け込んだ。
黒蜜使って、自分のために飴を作るなら、ひとつしかない。
「お待たせしました!」
鹿の子は寸の間で仕上げると自分の足で茶室へ上がった。
炉はあまりの早さにたまげ、眉をひそめる。
「自分のやからて、手ぇ抜き過ぎやろ」
「抜いてません、自分がいっちゃん食べたい菓子です」
「ほんまかいな」
鹿の子がもってる大きい干菓子皿を覗けば、きな粉まみれ。しかしよく見るときな粉を被った円柱形のそれは、そそられるものがあった。
食うたらわかる、炉は膝元に懐紙を広げ二、三移し、最後に指にとったそれを直接、口んなかに入れた。
「…………これは」
見た目もきな粉だらけなら、中身もきな粉だ。
あふれんばかりのきな粉。芳ばしい大豆感。
それをまとめているのは――。
「くろみつか」
「は!」
鹿の子はまたやってしまったと頭を抱えた。
炉は砂糖、砂糖とあれだけ唱えていたのに、白くもサラサラもしてない黒蜜を使ってしまった。これではまたかまどに逆戻り。次は何を作ろうか、また腕を組みはじめたが。
「ん、まあええやろ」
口の端にきなこつけて、炉は言った。
膝下へ目を落とすと懐紙の上の飴もなくなっている。
「茶を点て」
「はいな」
鹿の子はなんにも言わず、静かに抹茶を点てていった。
鹿の子が作った菓子はきなこ飴。
糖堂に居た頃、夏の暑い日は毎日のように葛餅やわらび餅にきな粉と黒蜜かけて食べた。食べた後の皿をかき集めて、きな粉足して、その場でばあさまが練ってくれたものだ。
きな粉を黒蜜で練って丸めただけの、きな粉飴。
自分で練れる歳になっても甘えて、ばあさまに練ってもらった、大好きな大好きなきな粉飴。
鹿の子が炉の膝前に茶器を置く頃には、干菓子皿上に山盛り乗っていたきな粉飴もきれいになくなっていた。
炉はねちねちと飴を咀嚼しながら、にんまり笑っている。
「冷や水もええけど、こっちのほうが食べ応えおるし、好きや。これからはこれを持ち歩き」
「冷や水……」
鹿の子はふと思い返した。
そういや、なんで冷や水持たされたんやろか。
みんなは高い薬のように扱ってたし、自分も冷や水は飯より大事だと思うていた。
すっきりした頭ん中やと、乗ってた馬もどこで拾たんやろかという考えにいきつき、どんだけ向こう見ずやったんかと、ちょっと自分が怖くなる。
しかし今はもう頭の中すっきりと明るい。
聡い鹿の子はすぐにこう尋ねた。
「わたしは砂糖がないと、生きられへんのですか」
「ああ、そうや。それも糖堂の砂糖でなくてはならん」
「なんで、いつの間にそんな難儀な体に」
鹿の子はそう言うた後に自分で気付いた。
「荒神さまが……憑依されてるから」
手が自然と首のあざにのびる。
炉は一口抹茶を含むと、哀れみを垂れるような顔をして、言った。
「それ、妾のことじゃ」
鹿の子は心をかき乱され、肩が強張った。
ずっ、と抹茶を飲み干した炉は茶器を返し、首を深く垂れた。
「すまんの」
一言だけ詫びて、炉は己を明かしていった。
「妾は確かに荒神と呼ばれておる。悪神ともな。源である魂は変えられん、妾は永遠に荒神なのじゃよ」
風成の陰陽道には和魂、荒魂と呼ばれるふたつの対照的な神様がこの世の均衡を保っているとされている。和魂とはお稲荷さまのように穏和に福徳を保障する神であり、荒魂とは祟りやすく、畏敬を示さなければ人々に疫病や災害などの危害を加える類の神を指す。炉は後者の荒魂をもつ神であった。
鹿の子がおずおずと尋ねる。
「では炉さんが桜狩にいらした、荒神様」
「あのくそババアに言われて己がようやく思い出したほど、昔の話だがな」
「昔、ですか」
「よく聞け。妾はな、今では糖堂の、お前の実家の産土じゃ」
産土神とは土を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神を指す。
主上一族の祖先であるお稲荷さまが神格化した氏神と違い、その土地土地に好んで鎮まる神のことである。それは山口家が祀る山神であったり水神、荒神もそのひとつだ。
炉がほれ、と鹿の子の首を掴み、自分の胸元へと押し込む。鹿の子が吸い込んだ炉の着物の香りは、甘い甘いさとうきびの香り。
炉は鹿の子の小さい頭を抱きながら話しを続けた。
「糖堂のように他国民が往航する海沿いの村はな、疫病をもらいやすい。病のようにしつこい厄を滅するには、妾のような荒神が適している。妾は糖堂がその名を名乗る前から、大旦那に祀られ村を守っとったんじゃ」
「じいさまに……?」
「そうじゃ。大旦那の、村のさとうきびに惚れてな」
ふらついて悪さしとったんが、いつの間にか村の土に根を生やしていた。
そう炉は笑った。
鹿の子は炉の胸のなかで糖堂の神棚を頭に巡らせた。
糖堂家の神棚はその年に作られた白砂糖が眠る、砂糖蔵に祀られている。
「でもお義母さまは、わたしに憑った荒神様が桜疱瘡の原因て」
「確かに妾は荒神やし、お前に憑いておる。だが祀られてさえいれば、悪さはせん」
「でもお義母さまは、わたしが三年に一度、病をまき散らすて……!」
「確かに桜疱瘡は三年に一度、流行る病じゃがな」
病人は桜の咲く頃にまとめて灰になる、その情景を思い出し、炉は目を細めた。
桜疱瘡は万人に伝染る疫病だ。
桜狩では三年に一度、冬に流行り何千人、何万人もの死者を出す。乳幼児がかかれば一日とてその命はもたない、恐ろしい病であった。
民に忘れられた当時の炉は、畑の芋は食べても病を遠ざけることはしなかった。それを今ではほんの少し悔やんでいる。
「今の妾は糖堂の産土、あんな恐ろしい病を広めることなど決してしない。三年前の桜疱瘡は桜狩の客が広めていった病や。そもそも妾は」
鹿の子の首に回した腕の力が強まる。
「妾はあの年、疫病をもたらせるほどの力を持ち合わせてはいなかった」
炉はかつての、桜狩の神。桜疱瘡を流行らすことも、蹴散らすことも思いのまま。だが
この時の炉は本来の力を失っていた。
糖堂の供物が原因ではない。
「妾は浅はかなことに供物の砂糖を突っぱね、自ら現世と充分なかかり合いをもとうとしなかったのだ」
鹿の子は神棚で腐っていく菓子を思い出し、顔を上げた。
「どうして、そんなことを」
「砂糖ばっかり舐めてたら肥える思うてな」
「供物は砂糖だけ違います。お米や芋も、その日採れた一番大きいお魚だって」
「阿呆! 芋に砂糖ふって食ったらそりゃ肥えるやろ! どんだけ妾を肥えさせるつもりじゃ」
「村を見守ってくれる神様を肥えさせて何が悪いんですか」
炉が言葉を詰める。
「そうやな……妾が愚かやった。神ともあろうものが民の想いを蔑ろに、神力を失うとは」
劣弱化した自分の力に気付いた時にはあまりにも遅く、桜疱瘡は村中に蔓延っていた。せめて未来ある者の命だけはと若者を守った結果、大旦那を含む老人達へ病は飛び火のように広まってしまった。
後悔してもしきれん――炉は今をも、激しく唇を噛む。
「お前に憑依したんは、そのあとや。だからお前は悪くない」
鹿の子の顔をずいと引き寄せ、炉は言った。
「お前は何ひとつ悪くはない。罪を犯したのはこの、炉よ。病も、お前の体を奪ったのも、ぜんぶ、ぜんぶ。――人を愛してしまった、妾の罪」
炉の頬に、音もなく一筋の涙が流れる。
「鹿の子。妾は罪を償うため、糖堂に帰らなあかん」
「もしかして、わたしの中に炉さんが居はるから、今の村は神様に守られていないのですか」
鋭い嗅覚に炉の大きな瞳がたゆたう。
「いいか、鹿の子。正月には必ず村へ帰り。話はまたその時や」
「んでも、それまでに桜疱瘡のような疫病が流行ったら……!」
「今の村は小御門の家紋の下。人間に頼るのは情けない話だが、当主の月明はヘマをするような男ではない。それにもう話してる暇はないんや」
炉と鹿の子の狭間に白いもやがかかる。
「妾はラクを諦める。村へ帰しておくれ」
もやはかまどの煙のように肌にじっとりとまとわりつき、あっという間にふたりを引き裂いていった。
*
見上げた天井は低く、明るい。
風から守られた室内のようであり、森の中にいるような、木々からたちこめる緑臭さが鼻につく。
そして真冬だというのに、陽だまりにいるように暖かだった。
指を動かす。やっぱり動かない。夢ん中で炉さんに逢うとなんでこうも疲れるんやろ。鹿の子は起き上がろうと早まる心を落ち着かせ、眼をぎょろぎょろと動かした。どうやら一畳半ほどの狭い部屋のなか、仰向けで真っ直ぐ寝ている。物見から射し込む光と冷気からすると、ちゃんとした建物ではなく、納戸や蔵のような簡素な造りだ。それにしては装飾品が華々しい。
誰か他に人はいるだろうかと、右に寄せた瞳の瞳孔がひらく。
「きゅうすけ、さん……?」
いつまでたっても見慣れない美顔が同じ目線にあった。その公達は鹿の子の方角へ横向きになって寝ており、まなじりは目頭から目尻まで、なだらかな流線を描き閉じている。
しかし今の鹿の子にはこの公達が久助ではないことが直ぐにわかった。
久助のもつ長い髪はどこにもなく、横髪は頬にもかからずピンと跳ねているし、甘い砂糖の匂いがしない。感じるのは香に被る、土埃の匂い。
鹿の子は間違いを飲み込むように、ごくり生唾をのんだ。
こんなに側近くにいることなど信じられないが、久助でないのなら、一人しかいない。
自分にあどけない寝顔を晒しているのは小御門家当主、月明――その人である。
あまりに現実味がなく、鹿の子はふと笑ったが、
「こうしてると、久助さんと一緒に寝てるみたい」
一緒に寝てる。枯れた声で呟き、鹿の子ははっと目を瞠った。
ふたりして横になっているということはつまり、川の字。添い寝。そんな言葉が思い浮かぶと、鹿の子は冷水をあびせられたみたいに頭が冴えた。
身を捩ろうとすれば、肩までのせられた衣が鹿の子の身体に引っ付いてくる。背に小御門の家紋が入った直垂だ、月明とふたりで仲良く一枚を被る、いやほとんど自分のほうへ被せられている。衣のなかの温もりが月明のものだと思うと、ますます離れなければならないように感じられた。
えいや、と月明に背を向ける。
動かない身体を無理やり動かしたものだから、鹿の子はごろんと勢いづいて半回転、まあるいおでこを板間の床にごちん、ぶつけてしまった。
そのおおきな音。
「……なにごとだ」
月明は不機嫌そうに眉をひそめながら、枕にしていた腕を立て、半身を起こした。やがて鹿の子のおおきな寝返りを目端に捉える。
「鹿の子、さん」
「申し訳ございません!」
鹿の子は起き上がろうにも自分の頭が重たく動けないので、床に謝った。ぎゅっ、と目を瞑り身体を固くするが、いともたやすく抱き起こされてしまう。
月明は鹿の子の身体を引き寄せ、強く抱きしめた。
その手は大きく揺れている。
「ああ……! よかった、このまま目を覚まさないのではないかと」
鹿の子は月明に抱きしめられているというこの現実に目をぱちくりさせた。次には頭を持ち上げられ、目が合う。
「貴女がこの世から消えてしまう、そう考えただけでわたしは……」
月明の大きな瞳は氷が溶けたように涙で潤み、
「生きて、いけない」
春のお天道さまのように麗らかだった。




