九‐野営(下)
鹿の子は馬の背に、ぐったりと顔をうつ伏せまたがっていた。全身から力の抜けた人間を背に乗せ山を登るとは、どれほど難しかったことだろうか。馬は月明の顔をみるなり心底ほっとした顔をみせ、僅かに残した気力を振り絞り、歩み寄った。
『お久しぶりでございます、月明さまぁん』
「麒麟ですか。では、この馬は藤森の……あの男に嫌な貸しを作ってしまいましたね。いや、今はそんなことより」
陰陽師家系の人間は神獣の声を聴き取ることができる。月明は「はぁあん」と擦り寄ってくる馬の鼻頭を颯とよけ、背に乗る鹿の子を抱き下ろした。
「だん、な……さま」
鹿の子は白小豆のように真っ白な顔で朦朧としているが、かろうじて意識はあった。
月明とて、かのような戦場に鹿の子が姿を現すなど先読みできるはずもない。うろたえるままに言及した。
「どうして、あなたがここに」
月明の責めるような口ぶりに、鹿の子はぎゅ、と目を瞑った。瞑ったまま意識をとばしてしまい、月明はひどく慌てたがひひん、と麒麟が横口を入れる。
『一刻の猶予も許されないのはその娘ではなく、お稲荷さまよ』
「お稲荷さま、ですと。お稲荷さまがこちらに?」
クラマは月明が気づかぬほどに霊力を衰退させていた。
麒麟が鞍に乗せた白いぼろきれを左近の手のなかへ振り落とす。左近はうすものの衣より軽いなと思いながら折りたたもうとして、驚いた。しなびた袖の下には目鼻口、裾には四肢に尻尾までついている。
「お稲荷さま? このぼろきれがお稲荷さま?」
「狐です」
それだけ訂正すると、月明は鹿の子を抱きかかえたままクラマの喉元へ指をもっていった。目は糸のように垂れ下がり、虫の息。脈はあるが細く、今にもこと切れそうだ。
風成の氏神であるクラマが神獣を引き連れてまで、何ゆえ戦場へやってきたのか。何故鹿の子以上にクラマが瀕死の域に達しているのか。
聞きたいことは山ほどあるが、誠に猶予がない。
月明は神獣である麒麟へきっぱりと厳命した。
「お前の思い至るところを手短に話せ」
月明の心境を飲み込んだ麒麟はこの地を目指しながら考え抜いたことを全て吐き出した。
『娘が家を出たんは昨日の丑三つ(午前二時)。明け方から山口家に世話になって、暮六つ(午後七時)に立つ頃にはお稲荷さまは虫の息。小御門へ戻るよりはこちらの方がずっと近いので、月明様の元へ馳せ参じました』
「近いと言うが、しかし」
暮六つに出てきたとなると、麒麟はこの山を一刻足らずで登ったことになる。
月明はその馬力に驚かされながら見守っていると、麒麟は鹿の子の胸元へ鼻先を向け、抱えられた竹水筒を一本咥えた。
『夕刻までは、この竹水筒一本でふたりとも元気でした。んでもお稲荷さまが倒られてからは、娘が何度飲ませても効果がなくて。この馬鹿娘、効けへんてわかってんのに自分は一滴も飲まんと全部お稲荷さまに飲ませて、しまいには自分まで弱って』
麒麟はもう半べそだ。大きな鼻水垂らすので、月明も左近もちょっと後ずさる。
月明は空の竹水筒を振って、一滴舌に落とした。
「微かに甘い。これは、砂糖水」
『娘はその水で半日もちました。でもお稲荷さまには気休めにしか、ならんかったんちゃうかと思います』
「鹿の子さんに効いて、お稲荷さまに効かないと」
小賢しいとんち話のようだ。
しかし考え込む暇もなく、左近の腕から狐の足が、だらんと落ちた。
麒麟がひひんと嘆く。
『ああ、あきまへん……! この狐の命、もう持ちません! お稲荷さま、どうなってしまうんやろか。月明様……!』
間も無く、左近の腕のなかの狐はとうとう息を止めてしまった。見守っていた一同がはっと息をひく。
「落ち着け。救いは必ず根幹にある」
月明はそう自分に言い聞かせると、ぶつぶつと呟いた。
「お稲荷さまは半妖。狐と人の間に……いや、血筋が問題ではない。その魂は氏神、民に祀られ、その魂を現世に移し、潤いをもたらす。その土地の民に祀られ、風成の民に……」
ふと、竹水筒に目をやる。
砂糖水は何でできている。
そりゃあ、砂糖と水だ。
砂糖と水だけ――。
月明はぱっと閃き、目を見開いた。
「……そうか。そうだ、砂糖の生まれは糖堂のさとうきび、水はあか山の湧き水。どれも風成の生まれではない」
その言葉に、麒麟が落としていた鼻面を上げる。
『風成で育んだ、産物がいると?』
「そうだ。そうだ麒麟。お稲荷さまの御膳は、氏神の御饌は、風成の民に育まれ、民に捧げられた供物が源……!」
そこまで言うと月明は懐に手を突っ込みふくさを取り出した。
「左近、その狐の口を開け」
「いや、しかしもう」
「いいから!」
左近が「許せよ」と一言、狐の口をばっくりこじ開ける。
月明はふくさを広げると、なにやら黒く四角いものを掴み、腕ごと喉の奥まで突き入れた。
「何してんの、お前!?」
「これを食せば、必ず目を覚まされる」
「覚ますって、この狐っこはもう死んで――へ!?」
左近は思わず狐を落としそうになった。先ほどまで冷たかったぼろきれが、月明が口に何かを突っ込んだ途端、熱を帯び始めたのだ。
よく見てみれば、狐の喉がびくびくと震えている。もごもご顎が動いたと思ったら、舌をべろり。
せっかく月明が押し込んだものを、前歯まで戻して味わっているようだった。
最後は惜しむように「ごくり」喉を鳴らし、
「すずし梅、うっま!」
煌めく三白眼を開眼させた。
「い、生き返ったぁああああ!」
どっしり重たくなったクラマに気圧され、尻餅をつく左近。
地に飛び降りたクラマはふるふると身震いを一度、空気を入れるようにふっくら毛を逆立てた。
前足ぷらぷら、後ろ足ぷらぷら、異常なし。
『ん? なんや、もう夜か。よう寝たな』
『お稲荷さまぁああああああ!』
『げっ』
麒麟は歓喜のあまり、クラマ目掛け前脚二本を宙へ上げた。踏みつけられたら一貫の終わりだ、クラマは左近の膝をすり抜け逃げていった。それを追う一頭の馬。一頭と一匹は闇に消え、あっという間に見えなくなった。
呆気にとられる左近。
「おい、嘘だろ……」
「すずし梅に含まれる梅干しは風成で実を結んだものを、巫女が丁寧に漬けていますからね。お稲荷さまは良しとして」
月明はすぐに頭を切り替え、自分の膝で眠る愛しい妻を改めて見据えた。
「鹿の子さんは砂糖水で半日もった。ならば当然、鹿の子さんに必要な養分は糖堂の砂糖ということになる」
今度は冷静に懐をまさぐる。
広げたふくさから出てきたのは小御門神殿の御紋菓子、和三盆の落雁だ。それをしがんで砕き、一欠片を鹿の子のおちょぼ口に含ませた。
この男の懐には菓子しか入っとらんのか。左近はそこに呆れた。それに左近には、狐と同じ荒療治に見えた。
「嫁さんなんだから、口移しで飲ませてやったらいいのに。喉に詰まったらどうすんだ」
「く、口移し!? 鹿の子さんの許可なく、そんな、ことは、考えにも及ばず、その」
「ああ、そうか、月明すまん、物わかりの悪い私にも合点がいった。そう赤くなるなみっともない」
月明はより美玉の顔を赤くした。
不器用か、とつっこむ左近から逃げるようにすたすた鹿の子を御座まで運ぶ。そっと抱き下ろせばもう、鹿の子の顔色は明るい。おずおずとその頬に触れればほんのりと温かく、月明は深く息を吐き、唇を緩ませた。
お稲荷さまのお残し、つまりお稲荷さまの霊力が鹿の子の命を繋げると思っていたのが、本来の糧は糖堂の砂糖であったとは。
神饌に含まれる微量の砂糖と御饌菓子の味見。
これが鹿の子の霊力の源であったのだ。
砂糖売りの娘に生まれ、砂糖なしでは生きられない身体――。
「私は貴女を糖堂の土地から奪ってしまったのだね」
今までの無知を詫び、月明は鹿の子の小さい手に自分の手を重ねた。
「あなたの命は必ずや、私が守る」
菓子があれば鹿の子の命は繋げることがわかったわけだが。安堵は寸の間、月明は顎をなで苦悩した。
「明朝すぐに出立したとしても……風成まで一日かかる」
かりんとうは酒のつまみに食い尽くしている。
着物をまさぐるが、流石にもう菓子はでてこない。
「とてももたない」
厳しい表情に焦りを滲ませる。
月明は法螺吹き用に鬼を呼び寄せると、山間に荒立たった地声を響かせた。
「砂崩のみなさん! やはり、降伏の期限は一刻ということで! いや半刻、半刻で討ち入りまーす!」
砂崩の大天守は一瞬、その屋根を「えええっ」と縦にどよめかせた。
「半刻で討ち入りだと!」
「野営をとけ!」
風成軍もすったもんだの大慌て。死者の送り火のように一斉に消された篝火から煙がたち昇る。
あちゃあと頭を抱える左近を尻目に、谷間にいた五百躰の白い鬼神たちはずんずん、谷を下っていった。




