八‐野営(上)
少々残酷描写あり
砂崩の籠城が決まると、風成軍は白い鬼神を盾にようやく初となる野営を張った。吹きっさらしの尾根に篝火と松明が弧を描く。道幅が狭く火が移る危険があるため、幔幕などの風除けを張ることはできない。強い風あたりに慣れていない風成の民には厳しい夜となったが、それも酒とつまみの菓子があれば温まった。
藁を敷いた簡素な御座に、左近と月明が冬の長夜に酒を酌み交わす。
「なあ、月明よ」
「なんだ左近」
「何故敵に一晩も猶予をやった。こうしている間にも先帝が城を脱け出しているやもしれん。あの場で脅していれば逃亡の余地もなかろうて」
「砂崩は脅しに屈するような国ではない。あのまま攻め込んでいれば瞬く間に火の海。それで先帝が丸焦げになろうと私はこの美しい国を壊したくはないよ」
地獄へ堕ちる命はひとつでいい。月明は灯りひとつなき山間を眺めながら、味気ない酒を干した。
「なんだお前。やることは派手だが、考えはこの酒みたいに生温いな」
「人を殺めたこともない男が、なにを偉そうに」
「お前はあるのかよ」
「数え切れぬほどに」
月明は篝火の炎へ目をやり、細めた。
見殺しにしてきた。疫病や天災に苦しむ人々を何千人と。
時は残酷だ。
どんなに速く馬を走らせようと、その道程には間に合わなかった命が転がる。この時を埋めるためには、陰陽寮の小寮化計画を直ちに進めねばならない。
この戦が終われば砂崩と隣国桃李の関門ふたつ、一度に三地点の設置が叶う。山口には玉貴が駐在しているのだから、あお山は理想に近い、月明はもう既にその先を見据えていた。
「残るはあか山の向こう。糖堂と桜狩か」
「おい、まだ戦は終わっていない。気を緩めるなよ」
「私には終わっているようなものだ」
「お前のそういった根拠のない余裕が気に入らん」
「おやおや、左近には一から説明が必要でしたか」
言い争いながらも、互いの盃はきちんと満たし合う。
「左近は私が五百名もの兵を連れ出した理由がわかりますか」
「五百躰の鬼を操るためであろう」
「その通り」
先帝がどんな手を使い城を脱け出そうとも、五百躰もの鬼が見張っている。鬼は啖い物に目がない、洞穴だろうが隠し通路だろうが、山を越えようとする人間は必ずみつけだす。今の砂崩、水を浸せば沼となる、完全なる牢獄と言える。
「理由は後もうひとつ」
「もうひとつ?」
「朝廷から近衛兵を消すためです」
風成朝廷における近衛府は陰陽寮が牛耳っているため、陰陽師家以外の宮中に仕える近衛兵は実に三百名に満たない。そのほとんどが遠征に借り出され朝廷は今もぬけの殻だ。内通者が動きやすいようにわざと主上の護衛に陰陽師勢を集め、宮中を手薄にしてきた。
内通者は風成軍大敗の知らせを今か今かと待ちわびていただろう。
それがどうだ。
砂崩が逆転劇に遭い窮地に立たされていると知ったら泡を食って逃げ出すか、派手に動くに違いない。
月明はこの時はじめて久助を喚んだ。
「仰せごとでございますか、旦那様」
久助は衣擦れひとつなく月明の前に現れる。左近は慣れっこだが、隔てのない野営はわずかにどよめいた。
「宮中の様子を」
「旦那様の仰っていた通り、面白いほど動きがありました。怪しい太政官は朝所に何名か屯しております」
「朝所だと、なんと浅はかで愚かな者共、錠でも下ろして閉じ込めておきなさい。他には」
「夜半に重門を潜った者がちらほら。追うに等しいか判断できかねましたので、家鳴りをひっつけました」
「家鳴りとはよく考えましたね、こちらの手間が省けたというもの」
「ありがたきお言葉」
久助は形ばかりの礼を尽くすと、口を噤み目を泳がせた。
出立前はあれほど主を気にかけていたというのに、そわそわと素っ気ない。
「どうかしましたか」
「……いえ、丸一日朝廷におりましたので、小御門が心配で」
「いらぬ心配ですよ、小御門家には私が鍛え上げた側室がいるのですから」
そこまで言ったあと、久助の心配は鹿の子であることに気付き、機嫌を損ねた。早々に久助を下がらせ、瓶子ごと酒を煽る。
「聞いたか左近。あとは先帝の首だけだ」
「そういやあお前、先帝のことになったら目の色をかえるな。大将といい月明といい、何故そこまで先帝にこだわる」
「なんだ左近、知らずに此処に立っているのか」
「悪かったな」
左近は苦笑いを浮かべ、話を急かすように盃を干した。
月明が唇を噛む。
「先代の遺言だよ」
先帝の命を狩る。
これは小御門家先代が月明へ遺した唯一の使命であり、最も難しい血讐である。
神を、主上を祀り国を統治する、それが風成という国だ。相手はかつて朝廷の神とされた天子。神を殺せば朝廷に悪鬼がはびこり、国は乱れる。故に天子を風成では殺せない、千年に渡り守られてきたこのしきたりを破るわけにはいかず、先代はわざと先帝を他国へ逃がしていた。
――ねずみの逃げ道を狭め、亡命先が砂崩となるように。
砂崩は元より盗賊の寄せ集めだ。交易路を通る商人や旅人を襲っては身包み強奪し、残った身は鬼の餌にする、このあお山の害虫というべき存在だった。
先帝が砂崩の暮らしに耐えられるはずもない、朝廷に残してきた信者を利用し、風成へ舞い戻ろうとするだろう。その時は先帝の周りにわく虫けら共々、砂崩ごとひねり潰せ。それが先代の遺言であった。
「国ごと潰す、か――それほどの大罪を犯しているのか」
「犯しているよ。そして先帝が生きている限り犠牲者は増え続ける」
先帝、雁の院は玉座にいた五年、暴君の名を欲しいままにしていた。
愛するものへこそ虐待を好み、断末魔を欲する。この五年の代に入内した姫君はみな朝廷の土の中、後宮は処刑台と呼ばれていた。砂崩のような貧困窟をみつけては焼き畑と称し大量虐殺を繰り返し、気に入った人間をみつけては攫い、壊れるまで弄ぶ。特に美しいものは永遠に愛でようと身体の一部を切り離し、収集していた。
「収集……?」
かりんとうをつまんでいた、左近の指が離れる。
「ああ、例えば、天女も聞き惚れる美声をもつ姫君が現れたとする。先帝はその姫君の喉を開き、美声の源を探すのさ。我が物とするためにな」
その犠牲のひとりとなったのが小御門家側室北の院――桜華。
月明は吐いた毒を飲み下すように、酒を煽った。
近衛大将の娘を攫い暴虐の限りを尽くしたのだ、皮肉にもこの事件をきっかけにして、先帝の時代はわずか五年で失脚した。
その悪行さえなければ才幹ある名君と讃えられたのであろう。
現に先帝は亡命からわずか十四年で砂崩を操り、隣国への侵略を企てた。兵力を強め、正面から堂々と風成へ討ち入るつもりだったのだ、玉座へ返り咲くために。
そして先帝が費やした十四年をたった三日でへし折ろうとしているのが、月明という男である。
「ま、先帝の首はこの砂崩にありませんがね」
「は?」
左近が月明の言わんとするところを聞き取ろうと耳をすませたその時。
鬼の足音とは異なる、かりんとうのような軽い足踏みを耳が拾った。そちらへ振り返った左近は腰を抜かすほどたまげたものだ。
「う、うま?」
馬が悠然と立っている。
左近は目をこすり、その存在を疑った。
なんせ、馬や牛なんて乗り物はみんな隣国の桃李へ置いてきた。この不帰峠は馬の足で登れる山ではないのだ。人間が五体満足ではじめてよじ登ることができる険しき山。馬の蹄では苔むした岩肌で足を滑らせるのが落ちだ。それが目の前の馬は怪我ひとつなく、息もあげずに立っているではないか。
馬は狼狽える左近に素知らぬふりをみせ、月明のもとへと足を進めた。
なんだ、月明の式の神かと胸を撫で下ろし、向き直ると。
「う、うま!?」
馬が悠然と立っていた。
「また馬だ! これもお前の式の神か!?」
「はて。私がお呼び立てしたのはお一方ですが」
左近が月明の座する方角へ振り返るが、先ほどの馬はもういない。しかし向き直れば、馬がいる。
「しかしだな、黒毛だった馬が、老いたのか芦毛になっとるぞ」
「そうか。左近も飲み過ぎたな」
月明は取り合わず、手元に残った最後のかりんとうを口に放り込んだ。実にのん気なものである。
しかし左近がいくら目をこすっても目の前の馬はいなくならない。式の神でも幻覚でもないのなら何者であろうか。酔い覚ましにゴツゴツした自分の頬を叩くと、近付いてくる馬をよくよく凝視した。どうも先ほどの馬とは様相が異なる。
「待てよ……、おい」
その背にまたがる人影をとらえた左近は自ら走り寄ると共に、野太い蛮声をあげた。
「月明、大変だ! 鹿の子さんが!」
月明の口につけた瓶子がぴたり、とまったのは言うまでもない。




