五‐旅路
小御門家の東門を出ると、右手には正門へと続く下り坂、左手にはあお山へ繋がる街道がある。この街道はあお山を越えた先も様々な街や集落へと続いており、旅人が行き交うちょっとした大街道だ。
刻は丑三つ時。
こんな夜中に出歩く旅人はいない。鹿の子は街道の奥に続く果てしない闇を前に風呂敷を広げると、中から火打ち石と蝋燭を取り出し、手際良く提灯に火を灯した。
「さあ、お日さん顔出す前に登ろう」
クラマのおでこをひと撫で、鹿の子はあお山の深淵へと足を踏み込んでいった。嶮しいあか山と違い、なだらかなあお山はお国同士が決めた交易路、山道へ入っても平らな石畳が続き、草鞋を傷めない。
ずんずん先へ進む鹿の子の足元で、クラマはきょろきょろと辺りに夜目を光らせた。道がなだらかだろうがあお山を越えるには鹿の子の足では半日、いや一日かかる。鹿の子の霊力は目的地へ着く前に力尽きてしまうだろう。
辛抱切らせたクラマは野生の狼のごとく長い遠吠えを、息の続く限り発した。
「こぉおおーーーーん」
「どしたん?」
鹿の子はもう家が恋しなったんかと草鞋に並ぶ白い毛玉を見詰める。途端に周りから、ぱからぱからと石畳に蹄を打つ音が響いた。
「ぶるんっ」
「ひっ!?」
そこへ現れたのは、一頭の芦毛の馬。まだら模様だが毛並みはよく、真っ白なたてがみは美しく手入れされている。
しかしこの真夜中だ。鹿の子はおったまげ提灯を放り投げて、クラマにしがみ付いた。
すると目先の高さにあるクラマの顎がなにやらもにょもにょと動いているではないか。おずおずと更に上を見上げれば馬ももにょもにょ。まるで鹿の子に聞こえない声で語り合っているかのようだ。
実際、異種間であるはずの狐と馬はおしゃべりしていた。
『おそい。鹿の子とわしをどんだけ歩かせんねん』
『だってぇー、追いかけたはいいけど、お稲荷さまの気がちっとも感じられなくて。お稲荷さま、お稲荷さま、の』
馬はひひん、と鼻息を溢しながら主の成りを改めて刮目する。
『お稲荷さま、なんて可愛、お、お痛ましいお姿に』
『五月蝿いっ、噛み付くぞ』
『あん、その小さな犬歯で? ご存分にっ』
馬がすすんで首を下ろすと、そこには白毛に白けた顔した狐。狐に並ぶは貧相な小豆顔。
『なあに、この小娘』
『だから、鹿の子や。あお山の向こうまで運んでやってほしい』
『わたしが、この娘を? いやよ。女を、それも色気の欠片もない小娘を背中にのせるだなんて』
『麒麟、これは命令や』
『なによっ、たまに喚び出したと思ったらこれだもの。だから男なんて信用できないっ』
ぶるるんっと白い鼻息を撒き散らす。
クラマの言うとおり、この馬の名を麒麟という。
陰陽師家五家のひとつ、藤森家が祀る神獣だ。
男なんて信用できないと言うが、立派な逸物がついたれっきとした雄である。
小豆娘が気に入らなくとも、主の命は絶対だ。麒麟は鹿の子から首をそっぽ向け、はやく乗りなさいよと尻を振った。
腹帯の上で揺れるあぶみに、鹿の子が乗馬用の馬だと気付く。
「乗って、ええの?」
麒麟は嫌だと言わんばかりに黒目をぎらつかせたが、クラマはもちろんだと鹿の子の腕のなかで何度もうなずいた。クラマは見本を見せるように尻尾ふりふり馬の背に飛び上がると、居心地よさそうに麒麟のたてがみにしがみついた。
鹿の子はよっしゃと放り投げた提灯を風呂敷に片付けると、代わりに袴を取り出し、着物の下に履いた。裾をまくり上げ、さあいざ行かんと馬体に手をかけるが如何せんどんくさい。飛び跳ねても、あぶみに足引っ掛けても、その体は上がらない。上っても向こうへ落ちたり、麒麟に落とされたりして、結局乗るだけのために四半刻かかってしまった。
最後はクラマに袂を引っ張り上げられ、ようやくの騎乗。
しかし四半刻程度ならば、麒麟にとって取り返すに充分な時間だ。
「え? もったらあかんの?」
ようやく一息吐いたところで鹿の子が手綱を握ろうとすると、クラマがぶんぶん首を振った。そんなクラマはがっしり馬のたてがみにしがみつき、爪まで立てている。鹿の子の平べったい胸に不安心がぐんと膨らみ、迷わずクラマに覆いかぶさった。爪を立てるにも鹿の子は深爪だ、代わりに手にたてがみを巻きつけた。麒麟はひどく不愉快そうだが、仕方ない。
『よっしゃ、ええで』
『いっくわよー』
「ところでこのお馬さん、どこの――」
鹿の子の言葉は風で切れた。
ラクと一度馬に乗ってなけりゃあ仰向けになってぶんぶん振られていたことだろう。手にたてがみを巻きつけていなければ、それこそ落馬だ。
うるしを塗りつぶしたような闇にぴりぴりと火花散る、電光石火の大爆走。
あお山の中程へはわずか半刻で届いた。
「手、手が、腰がじんじんする」
『ぁあん!? 藤森家一の名馬にケチつけるなんて、憎たらしい娘!』
たった半刻でへばった鹿の子へ麒麟はいきり立った。クラマが小首をかしげる。
『藤森家いちばん?』
『そうよっ』
麒麟はクラマに命じられるがまま、己を祀る藤森家の馬に憑依し従っている。山を越えるのだ、適当な馬でよかったのにと、クラマは爪を立てていた馬をよくよく眺めた。
『ほなら、これ当主の愛馬か。やっぱり尻と太ももの肉付きが他の馬と違うな、よく腱がのびる』
『で、しょう?』
そんなことを言い合いながら足を止め、麒麟は鼻先にある崖の下を望み、クラマはすんすんと鼻をきかせた。
休みに足を止めたのではない。
あお山の中程にさしかかった交通路は深い峡谷に沿って続いている。陽の昇らぬこの時間、峡谷は墨が流るる川のごとく毒々しい様相を呈していた。道は闇に飲み込まれ、崖との境目があやふやだ。足を踏み間違えればあっという間に谷底へ落ちてしまうだろう。
『お稲荷さまが手伝ってくださるなら、いけなくはないけど』
『いや、無駄な力は使いたくない。それもこの刻、無闇に立ち入るのはよした方がええ。他の道は』
『あるには、あるわ。遠回りになるけど』
麒麟はお稲荷さまの言葉にホッと安堵し、軽快に前足を上げた。谷底を浸す闇から逃れるように道なき山道へと踏み込んでいく。麒麟の足が土に馴染むと、また速度を上げて森のなかを滑らかに走り込んでいった。
それから一刻が経っただろうか。
馬蹄の音が次第になだらかになり、肌に突き刺さる冷風が穏やかなものに変わった。すり減らした体力と神経を奮い立たせ、鹿の子が顔をあげると――。
「わあ……、きれい」
朝焼けに照らされた大草原が目の前に広がっていた。
ここはあお山の麓、豪族山口家の領地。その北端に位置する山口家別邸の敷地内。
迎えに出てきた男に手綱を引かれ、麒麟は厩舎へ。鹿の子とクラマは邸のなかへと導かれていった。
山口家別邸とはその名の通り本家の別邸であり、主人の側室が詰めあって暮らしている。その一角には小御門家元西の方、玉貴の母の局があった。
鹿の子はクラマを抱き上げたまま男に従い、邸の奥へと通された。
こちらに都合良く、とんとんとうまいこと事が運び怖くなってきた鹿の子であったが、その局の簾があくなり、小豆顔がぱっと華やいだ。
手前で迎えてくれたのは他でもない、玉貴だ。
「いらっしゃい、鹿の子さん」
「お久しぶりです、玉貴さん。どうして、わたしが来るのわかったんですか」
「あら、甘くみられたものね。これでも私は陰陽師よ」
まあ、風の便りがあったのだけれど。
柔らかく微笑み、玉貴は鹿の子を客座へと勧めた。
「疲れたでしょう。足を崩して、これをお飲みなさい。冷えきった身体を温めて。話はそれから」
鹿の子は言われるがままに客座へ収まると、間もなく膝元に茶器が置かれた。茶器を置いたのは、この局まで案内してくれた男。
玉貴はその男のしぐさを目で追い、愛しげに言った。
「私の御用人。いえ、最愛なる夫よ」
かくっと肘が折れたその男、改めてよく見ると御用人時代にラクがそうしていたように、着物の裾を尻っぱしょりにして下に股引きを履いている。顔を拝めば真っ赤っか、人懐こく可愛いらしい顔立ちだ。歳は玉貴と同年か、その下か。
鹿の子はこの方が玉貴さんの選んだ人かぁなんて感慨深く茶器をとった。鹿の子の訪れを細かく先読みしていたのだろう、手に伝わる茶器は程よく温かく、湯気がたっている。特に深く考えず、冷えきった身体を温めるために口へもっていく。
甘く濃ゆい香りに吸い込まれ、誘われるままにごくり、渇いた喉を潤わせた。
「わぁ」
鹿の子は一度に頬を上気させ、ふんわりと笑みをこぼした。
舌にじん、と響く温もり。
口内へ広がっていく乳臭さ。唾液を誘導させるほのかな甘み。
上唇にのるまったりとした膜。その正体をあばこうと茶器のなかを覗けば一点の曇りのない真っ白な液体。
鹿の子の頭のなかには先ほど通ってきた草原と、放牧された牛の群れが浮かび上がった。
「これは牛の乳、ですか」
「うふふ、正解よ」
鹿の子はうっとりと小さい目を緩めた。
異国で飲んだやぎの乳に似ている。
いや、似ているようで非なる、新しい飲み物だ。
とにかく濃く、熱といっしょに腹の中まで膜を張るような密度。自分が赤子に戻ったかのようにそそられる乳の匂い。そして、液体の密度に反しすっきりとした爽やかな甘み。
「なにか、……砂糖のようなもの、混ぜてませんか?」
「さすが鹿の子さん。すごいわね、少ししか入れてないのに」
そういって玉貴が後ろ手から差し出したのは蓋つきのかめ。
「蜂蜜っていうの。意味はそのまま、蜂が集めた花の蜜を採ったものよ。高級な砂糖は別邸にまで回らないから、ここでは蜂蜜が唯一の甘味なの。幸いここは北向きだから蜂を育てる環境に適しているのよ」
鹿の子さんなら気に入ってもらえると思った。玉貴はそう嬉しそうに笑いながら説明を続ける。
へぇ、とぼんやりかめを一点に集中して眺める鹿の子。
話を飲み込むように、こくこくと牛乳を喉へ流しこむ。夢中になって舐めとった最後の一滴は、蜜に乳を閉じ込めたような、そんな味だった。
ほぅ、と満足げな一息を吐き、茶器を返す。
体があったまると旅の疲れがぬるりと内からやってくる。瞼が重くなり、眠りの入り口はすぐそこだ。
玉貴さんは何も言わず自分を受け入れてくれた。温かく迎えてくれた。感謝の意を伝えなければと、虚ろに見上げた玉貴は――先ほどの笑みから一変、鬼のような厳つい形相で右手を宙に上げていた。
「飲み終わったのなら歯を、食いしばりなさい」
「へ……?」
――ばちん。
弦を弾くような、気持ちがいいほどの音が局一帯に鳴り響いた。世にも激しい平手打ちだ。玉貴の手は鹿の子の片頬を覆い尽くし、総身ごとふっ飛ばした。
鹿の子は訳も分からず、じんじん腫れ上がってくるほっぺた押さえ、玉貴を見上げ直す。ちなみに、眠気も体といっしょに吹っ飛んでいる。
玉貴は月明そのものの冷眼を、鹿の子に注いだ。
「務めはどうした」
「……え?」
その口調も酷く刺々しい。
「務めはどうしたと言っているの。御饌巫女が作る御饌菓子はお稲荷さまの力の源。御饌菓子がなくてはお稲荷さまを祀ることができないのよ。鹿の子さん、あなた自分がどんなに重い罪を犯したのか、わかっているの」
何が起こったのかわからず、ぽかんとしていた鹿の子であったが、務めと聞くなり瞳に色を取り戻した。
「わかって、ます」
いいやわかっていない、そんな顔で玉貴は鹿の子を見下す。
「どんな理由であれ、側室は当主の許しなくして小御門家を離れてはならない、そうでしょう?」
「んでも旦那様は遠征で家におりません。わたしには三日も待てませんでした」
鹿の子はきっぱりと言い切った。
鹿の子が夜が明ける前に家出したのは、家出先に玉貴の元を選んだのは、ちゃんと訳があったから。
このまま小御門に居っては、いつ自分の体から桜疱瘡が流れ出るかわからない。爆弾を抱えて菓子を作っているようなものだ。風成は様々な街から人が寄り集る王都。糖堂のような村単位では収まらず、それこそ何百何千という老人が身罷られるだろう。
桜疱瘡が発症する時季だけでも身を隠さねば。
糖堂に帰るか。いや、あかん。また村で疱瘡が流行ってしまう。それにとうさまやかあさま、みんなに合わせる顔がない。
そこで浮かび上がったのが玉貴が宮司となる神社であった。
山奥の鬼門を守護するためのお社だ、ひと気はなく、居るのは若い夫婦と赤子、伝染る老人はいない。ひとつ部屋を間借りして、春が過ぎるまで住まわせてもらおう、そう思ったのだ。思い立ったら、動かないわけにはいかなかった。足が勝手に、あお山へ向かっていたのだ。
しかし鹿の子は言い訳をくどくど言い連ねる性分ではない。口を閉じた鹿の子に、玉貴はことごとくお説教を浴びせた。
「側室たるもの、当主に仕えし人間。何があってもその身、当主に捧げなくてはならない。全てを曝け出さなければならない。主の留守をいいことに家出など言語道断」
「んでも、旦那様に言うなんて」
言うたら、どれほど冷たい眼でみられるだろうか。糖堂に帰されるか、牢屋にでも押し込められるか。軽蔑に満ち溢れた月明の瞳に自分の姿が映る。
鹿の子の気持ちを汲み取った玉貴は、やりきれない表情で鹿の子の前に立った。
「鹿の子さんは、旦那様を信じていないのね」
返答に詰まる鹿の子に、玉貴は憎しみそのものを言霊にしてぶつけた。
「旦那様が自分を見捨てると思ってる。御饌巫女として自分を育ててくれた恩を忘れて、厄介ごとから逃げだした。どうして? 旦那様が、一度だってあなたを見捨てた? 蔑ろにした?」
「でも、嫌われてるのは、確かです」
「旦那様が一度でもそういった? 好きか嫌いか尋ねたことある? ちゃんと目をみて話したことある? そうよ、ねぇ。あなた一度だって旦那様と目を合わせて話したことないじゃない!」
せり出た腹を折って鹿の子の両肩を掴む。その手はおおきく震え、玉貴の顔は涙でゆがんでいた。
「側室なら! 当主を、夫を信じて、頼りなさいよ!」
この時、鹿の子の心んなかで何か、頑丈な枷が外れる音がした。
「ふ、う、うわああああああんっ!」
鹿の子は玉貴の腹の上に顔を埋めると、赤子みたいに喉が枯れ切るまで延々と泣き続けた。




