四‐小薪
同じ頃、小薪は西の院の御寝所で古びた六壬式の式盤を前にしていた。一見、碁盤の上に方位図を貼り付けたようなこの台は式占に要する器具であり、西へ下る際に月明より与えられたものだ。
小薪は漠然とした未来を読む程度ならば、勝手に頭に浮かぶ異能もちであるが、その情景に加え、経緯や時の流れを図面に表せるものが、この式盤であった。
たとえばなんとなく今晩に雨が降ると予感したものに式盤を当てはめると、小御門家の上空に雨雲がやってくる刻とその時のみんなの慌てっぷりまで見えてくる。
つまり、今の小薪にはより詳しく知り得たい未来があるということだ。
小薪は一通り読み終えると、回廊に控えていた御用人クマに言い付けた。
「念には念を。あれを整えといて」
「すでにこちらにありますよ」
「えっ」
クマがとん、と竹水筒を置くと、たぷんと満ちに満ちた水音が辺りに響き渡った。
ここは広い広い西の院。母家のように奉公人があちこちで息をひそめておらず、小さな使い奴や舎人が隅の局ですやすやと寝息を立てる程度にしかいない。
水音が止み、やがて訪れた静寂。小薪の頭からぱっ、と占術が離れ、急に慌て始めた。
今夜もクマとふたりきり。
生まれ育った薪屋はいつもがやがやと五月蠅かったし、十二で出逢ってからずっとクマを従えてきたけれど、ふたりきりになることは早々なかった。こうして改めて広い部屋、それも寝所でふたりきりにされると、なにかが始まりそうで、崩れそうで、怖い。
小薪は顔を真っ赤に腫らせながら、気の利く御用人へ礼を述べた。
「ようわかったね。あ、ありがとう」
「そりゃあ用あるとこ走る御用人ですから、それよりお嬢。――いや、西の方」
「いいよ、お嬢で! あ、でも、えと」
ほんまは名前で呼んで欲しいねんけど。帳台のなかやったらええやろかと、そこまで考えて顔にぼっ、と火を点けた。
「ではお嬢」
「あ、あれやで、寝んのは丑時を過ぎてからや、それやないと安心できひん」
「わかってますよ」
クマは竹水筒を置いてからちっとも動いてないのに、小薪はびくびくと肩を揺らしながら後ずさる。昨夜はそのまま御饌かまどへと逃げていった。故にクマは小薪に逃げられぬよう、立て膝ついた格好で話を続けなければならない。
主の余りある警戒心に、クマは気まずそうに口元をゆるめた。
「こないだは、意地悪すぎましたかね」
「いじわる?」
クマの言うこないだとは一昨日の夜、月明の髪を売ったその後の話をしている。
――鹿の子さんとこに逃げないでくださいよ。
小薪はその時のことを思い出し、より顔を赤く腫らせた。
クマがぽりぽりと頭をかく。小薪がちっとも整えてやらないから散切り頭のまんまだ。
「今さらなんですけど、そういう意味で言うたんちゃいますから」
「じ、じゃあどういう意味」
「お嬢は旦那様に西の院を任された身分、今までのように母家をうろちょろしたらあかん、こういう意味です」
実に御用人らしい注意に、小薪は息を詰めた。
恥ずかしい早とちりに火をふくほど逆上せたが、その熱が急激に冷めていくのを感じる。
「……これからもわたしとクマは、側室と御用人の間柄。……そういうこと?」
小薪の行き過ぎた考えに、クマはまたぽりぽりと頭をかいた。
「言うたでしょう、こないだは意地悪でした。御用人としての注意のなかに、初夜をほのめかしたんです。お嬢はそういったことにきちんと心の準備はできているのか、知りたくて」
まあ思ってた通り、まったく準備してなかったみたいですけど。
クマは簾がかかっていてもわかるくらい、にんまり笑った。
「自分は急いでません、何年先でも待てますから」
「な、何年先って」
小薪は一旦落ち着いた顔を今度は青くした。
心の準備がなかったことは認めるが、それはそれでちょいと寂しいではないか。小薪は眉をひそめ、不満そうに居住いを正した。
クマは今年で三十になる、当主より五つも歳とった壮年もんだ。
小薪の知る限り、クマは十八で小薪の御用人になってから色気沙汰はひとつもない。夜の見張りが主な仕事だったため、恋人どころか花街で春を買いにいったなんて噂も聞いたことがない。そりゃあ、隠れて一度や二度あったかもしれないが、他の奉公人に比べたらずっと我慢してきたと思う。今まで溜まったその分を自分が一手に引き受けると考えるとまたおっかないが、これ以上待たせるのは罪というものだ。
それにやっと心が通じたというのに、このまま待たせていては元の主従関係に戻りかねない。いや、考えれば思いを伝えただけで、表向きはなんも変わっていない。
先ほどよぎった不安がぶわりとふくらむ。
「わたしは、何年も待ちたくない」
焦りに小薪の口が勝手に開いていた。
「……では、御寝所の敷居を跨ぐことを許していただけますか」
クマもクマで遠慮がない。待ってましたとばかりに立てていた膝を伸ばし、腰を上げようとする。
小薪は慌てて手を振ってそれを制した。
「い、今は待って! まだ見張っとかんと」
「今も後も対して変わりません」
「ま、まだあかんっ、入ったらあか」
クマが許しもなく敷居をまたぐ。クマのおおきな足は畳に二、三滑らせただけで小薪へ行き着いてしまった。後ろに倒れそうなほど仰け反る小薪の細腕をひっつかみ、ぐいと引き寄せる。
引き寄せ、口付けた。
唇同士が触れるだけの、ぎこちない接吻。
「え……、と」
目を瞑る間もなく終わり、小薪はかちんと固まった。
終わってしまったあとに少しばかり心に余裕が生まれる。もう一度、確かなものを求めて次に構えるも、
「これ以上は、何もしません」
クマはちゃんと式盤をまたいだ距離をとり、小薪の腕を離した。
「お嬢には鹿の子さんという先輩がおります。先に鹿の子さんの幸せを叶えませんか。うちらはそれからでも遅くはないと思うんです」
「鹿の子、さん?」
「はい。今のままじゃあ、あまりにも不憫で」
クマは東の院の御用人の役を放り投げた、ラクに憤っていた。久助に鹿の子さんの心を奪われたからといって、仕事をさぼるのはお門違いであるし、他の院へ移り気なところをみせるのも到底許せやしない。それも噂が広まるほど、鹿の子の耳に入るほどに通い詰めている。
まあラクには二発三発お見舞いすることにして、気がかりは鹿の子だ。
神道に心得のないクマにとっちゃ、鹿の子は式の神に月明を重ねているように思えてならなかった。月明に見放された心の傷をそばにいる式の神で埋めようとしているのではないかと。
それに関しちゃ小薪はいなすことができなかった。だって鹿の子は髪を切った月明を久助と見紛うほど、前がみえちゃいない。月明を敬い拝むばかりにその存在を目に映しきれていないのだ。鹿の子の久助への一途な想いは信じ認めはするものの、本来の月明の顔を知ったらどのような心の変化が生まれるのだろうと思う。
小薪の頭に浮かぶのは、心底愛おしそうにかまどの煙を見上げる当主の情けない顔つき。
それは小薪だけが知る月明の隠れた素顔だった。それでもまだ真意はわからない。ラクが北へ移ろい、鹿の子を憐れんでいるだけなのかもしれない。でも万が一、その表情そのままの感情が月明にあるのならば。
小薪はこれほど、ややこしいかくなわはないと思う、またそれを解くのは自分しかいないのではと、そうも思う。なによりもほどけたかくなわの先に大好きな鹿の子の笑い顔が待っている。
そこまで考えてようやく小薪はクマの提案を、こくんと頷きで返した。
「わたしも鹿の子さんに、幸せになってもらいたい」
「では決まりですね」
「んでも……」
それが何年も先やったらどうしよう。
小薪は自分でも気付かずに、男の尾を引く妖艶な瞳で瞬いた。これにはさすがのクマもどうにか、笑い飛ばすしかない。
「俺はこうしてたまにお嬢をからかうだけで、充分幸せですから」
「なんやて!」
「この近さで充分幸せですから。まだ慣れへんくらい、好きですから」
小薪のふくらんだ胸がどくんと跳ね上がる。
クマがまた濃い顔をでろんとゆるめて言うものだから、小薪の目にじわりと嬉し涙が滲んだ。
「わたしも、大好き」
今はもう、小薪にとって間に挟んだ式盤は邪魔ものだ。片してお茶でも淹れようと、盤の上にのった匙に触れた時だった。
みえたのは小御門の東門に揺らぐ人影。その足元には白い毛玉――。
「あ……、あかん!」
理由は違えど、小薪は昨日と同じように裸足のまんま、邸を飛び出していった。
*
――鹿の子の家出。
小薪が読んだ未来は自分がそれをとめるものだった。
式盤に映った未来はこうだ。
刻は夜半に、場所は東門。
かまどから飛び出してきた鹿の子の影がろうそくの火のようにゆらゆらと揺らぐ。鹿の子は東門を通せんぼしていたぬりかべにおでこをぶつけていた。その拍子に頭に被った手ぬぐい頭巾がはらりほどける。いっしょに落ちてきたのは一枚の紙切れ。その紙には「小御門を思うならばかまどで旦那様の帰りを待ちなさい」と小薪の字で書かれており、その美しさと言葉に鹿の子は我に返り、引き下がるというものだ。
小薪はこの未来を読んだあと念には念を、何枚も紙を無駄にして、一刻かけて、この一文を書いた。
加うるに、小薪は鹿の子が東門へ辿り着くまでに様々な罠を仕掛けた。
かまどの戸口は唐かさをついたてにして塞ぐ。鹿の子は重い釜を担げる馬鹿力だ、開けることができたときのために、戸口が開いた途端、ちょうちんお化けが落ちてくるようにも仕掛けた。怖がって逃げる鹿の子をちょうちんお化けが数を増やして追い詰める。そこで境内の篝火を火消し婆がここぞとばかりに消していく。ちょいとかわいそうなくらいに真っ暗になるまで。もちろん鹿の子が逃げ帰れるように、母家の灯りだけを残しておくことを忘れない。
光のない闇のなか、ようやく東門へ辿り着いてもその行く先を塞ぐのはぬりかべ。足元からすり抜けようものなら最後、鹿の子の大嫌いな七歩蛇がにょろにょろと待ち受けている。
万全に思えた家出対策。
小薪が最後にみたのは、その防壁がぼろぼろと崩れ去っていく情景だった。
*
かまど石から離れた鹿の子はちゃっちゃか旅支度を済ませると、つくばいの水をぐびりと一杯ひっかけ、かまどへ向かおうとするが。
「うーん、縁起悪いなぁ」
鹿の子が選んだ旅用の結わいつけの草鞋はおろしたての新品だ。かまどに回って戸口から出るとなると、一度水屋へ上がって納戸へ下りなければならない。旅立ち前に家を跨ぐのは気が引けたし、足首に結ったばかりの草鞋をほどけば先行きが悪いように思えた。
お行儀良いとはいえないが、渡殿の下を潜れば茶室の壺庭から境内へ抜けられる。幸い、鹿の子なら屈めば通れる高さであった。すんなりと広い境内へ出る。
「ひゃあ、さぶい」
風はなくとも、歩き始めればむき出しの頬に冷気が突き刺さる。手拭い被ろうと鹿の子が広げた時だ。
「きゃあ」
突然、境内に突風が吹き荒れた。
手のなかの手拭いが地と水平にはためき、入念に貼り付けられていた小薪の一筆箋はいとも簡単に剥がれ、闇夜に消えていく。
「唐かささん? では、ないか」
流石にこんな大きな風は起こせないだろう。鹿の子は追い風に乗って東門へとしたした歩き進める。
この追い風、「うひゃあ、いったらあかん」という唐かさの火事場の馬鹿力であったのだが、鹿の子の足を速めるばかりであった。
さむ、さむと文の消えた手拭いを被る。
そこへ現れたのは追手のちょうちんお化けだ。
唐かさの慌てっぷりに自分らも出遅れたことに気付き、わらわらぽっぽと焔をあげて鹿の子と並ぶ。
「お見送りしてくれるの? ありがとう」
丑三つ時を回ったのだろうか、境内の篝火は消されている。提灯を組み立てようかと思うた矢先のちょうちんお化けの参上だ。そりゃあ、いきなり現れたら鹿の子もおったまげるが、今は灯りになって助かるばかり。
火消し婆の苦労など、もっとも無駄に終わり、
「ふふふ、こっちにおいでー」
鹿の子はふよふよ泳ぐちょうちんお化けと戯れながら、あっさりと東門へ行き着いた。
待ち構えていたのはご存知、ぬりかべ。
鹿の子はもちろん、ねずみ色のその壁がみえずに勢いよくずりっ、とおでこをこすりつけてしまった。
鹿の子は鼻よりおでこがでてる。
「いたたたっ、うん?」
じんじんするおでこをおさえながら前に向き直るが、目の前にあるのは見渡しのいい門の外。おでこをこすった辺りを恐る恐る手で触ると、そこにあるのはひんやりとした壁。
「ははぁん」
鹿の子はひとり闇のなか、ふんふん頷いた。
いままで外に出ることなかったから気づかなかったが、この小御門神殿には見張り役を務める番兵がいない。それではあまりにも物騒だ。火消し婆が火の番なら、見張り役の妖しもきっといる。
ぬりかべの通せんぼやと納得いった鹿の子はぺたぺたみえない壁を手で辿り、すき間を探した。くすぐったくてぷるぷる震えるぬりかべ。しかし横幅は蝿も通れぬほど門の幅とぴったり。鹿の子の背丈じゃあ、上から乗り越えるのは難しい。ならば、後はひとつしかない。
鹿の子は渡殿をくぐるように、ぬりかべの股を通り抜けようと屈んだ。そこには闇夜に映える真っ白な――毛玉。
「けだま?」
白い毛玉が半身を門の外へ隠し、もぞもぞと後ろ足を蹴っている。わふわふ揺れる豊かな尻尾。
「クラマ?」
名前を呼んだ途端、尻尾がびくう縦に立った。
「ははぁん、いつもこうして境内を抜け出してるんやね」
クラマが通り抜けられるなら自分もいけるやろ、鹿の子はためらいもなく帯をほどくと、背負っていた風呂敷と一緒にをかべの向こうに放り投げた。
そんでクラマのつっかかっている尻尾を押し込んでやる。
かべの向こう側では、クラマが慌ててくわえていた七歩蛇をぽいと木陰に投げ捨てていた。そのあとすぐに、鹿の子がぴょこり、顔をだす。
「夜遊びやなんて、悪い子」
鹿の子はするするとぬりかべの股をすり抜けると、クラマをぎゅうと抱きしめた。
「お願いクラマ。ついてきて、くれる?」
クラマがこくん、黒豆の鼻を下ろす。
鹿の子は白い綿毛に顔をうずめると、すぅと一息吸って、クラマを離した。
「……お暇いたします」
鹿の子は小さい声でぬりかべの背中に囁くと、帯と風呂敷を拾って、繁華街とは正反対の方角へ歩き出した。
ひとたび蹴った足はどんどん速くなり、その勢いは止まらない。
小薪が西の院を飛び出し、東門へ辿り着く頃には鹿の子の姿はどこにもあらず。ただ妖し達が虚しくわらわらとたむろしているだけだった。
小薪の頭には鹿の子の足元に浮かぶ、白い毛玉ばかりが散らつく。
――人の運命はそう、突発的に変わることがある。
「……それは必ず、神の手によるもの」
震える言葉を瞼と共に閉じ、小薪は神通力を開いた。その背後に迫るクマへすぐに言付ける。
「鹿の子さんを追いかけて……! はやく!」
「しかし、お嬢は」
小薪の足は動かない。
「わたしはこの小御門を、風成を守らなあかん」
手に余る運命に独り立ち向かおうと、小薪は踵を返した。




