三‐喧嘩
「なにしてんねん」
烈しい声をかけられたのは、久助と仲良く菓子を切り分けている時だ。久助はクラマのえらい形相をみるなりその日の御饌を手に颯爽と消えた。
クラマは戸口に突っ立ったまま動こうとせず、御出し台を一点に見据えている。
「……なんや、これ」
御出し台のまな板には鮮やかに赤く色づいた水菓子が乗っている。固さも艶も、うまいこと仕上がった夏菓子だ。菓子を前に眉を潜められたのははじめてのことで、鹿の子は気落ちしながらも訊ねるしかなかった。
「好きと違う?」
小首を傾げ、はっとする。狐は潔癖と聞いたことがある。具の仕入れ元が久助から伝わっていたら、眉も潜めるだろう。
「安心してください。誰も箸つけてませんから」
「小豆は、どこいってん。一日楽しみに待ってたわしを愚弄しとんのか」
「ちゃんと入ってる。とにかく、食べてみてください」
「食べれるか。そんな格好で男としのび逢う女の作った菓子など、…………食べれるか!」
支柱に響く怒号。御出し台に屯していた妖し等がぱっ、と散った。
クラマの言うそんな格好とは鹿の子が着る御饌装束、白いだけの単衣である。宗家の側室となれば小袖袴に華やかな袿でも羽織るものだが、かまどの嫁にはこれがお似合いやとお姑の雪が調えた。鹿の子は御寝所から追い出された日からずっと、この白い単衣一枚。
夏のかまどは着替えても着替えても汗をかく。そう思うて雪は何枚もあつらえてくれたのだろう。一日に何度も着替える。そうして夏を越えてきた。寒い日には小袖も履いたが、今は短く薄い下衣だけ。
……えっ、透けてるやろか。
鹿の子の顔に、ぼっと火が点いた。
思わず、ない袂を手繰る。
ようみたら襷のなかで衣がからまってぐちゃぐちゃ、帯がゆるみ襟元が裾がはだけている。
「いまさら、遅いわっ」
同じように真っ赤な顔して怒られた。
恥ずかしいは恥ずかしいけれど、不思議な感情がふつふつと沸き起こる。
男としのび逢うとか、はしたないとか、それで怒るクラマはまるで、鹿の子のとうさまだ。客に愛想よくするだけのかあさまを、よく理不尽に叱ってた。
「久助さんに、妬いとるんですか」
「なっ……、あ、あんなん、に妬くわけないやろ。いや、あかんで、久助もあかんし、久助だけちゃうしやな」
「あっ、さてはラクと会うてんの、覗いてたん」
「覗いてたんちゃう、みえてしまうんやっ」
「会うたいうても、一寸やし」
「その寸の間に、抱きつこうとしとったやないか」
「やっぱり覗いてたん」
「みえてしまうんやっ」
「安心しぃ。ラクは兄弟みたいなもんやから、どうにもなりません」
そもそも旦那様の側室やねんけど、それは遠くに置いといて。
恋人の誤解を解くような文句に歯が浮くが、クラマは真摯に受け止め、きっ、と狐目を吊り上げた。
「人間はそういうて、すぐどうにかなる。だから信じん。誰にも会わせるか。もう一生かまどからだせへん! 着物くらい、ちゃんと着い!」
ぐいっ、と帯を締められ、思わず前に屈む。危うく朝の魚が喉から顔をだすところである。
久助の手を借りてまで手をかけ作った菓子を口に入れる前にはねのけられ、締め上げられ、鹿の子もまた堪忍袋の緒が切れた。
「わたしをそんなに縛って……」
自分に文句いうだけならまだしも、里を捨ててついてきてくれたラクや、手伝ってくれる久助さんに会われへんのはイヤや。ちょっとの外歩きで細々言われたら、ほんまに一生、かまどで煤汚れやないか。
頭ひとつ分高いクラマの顔を、眉毛と瞼がくっつくくらい、鋭く見上げた。
「嫁にでもしてくれな割りに合わへんっ」
かまどには鹿の子ひとり。
そのはずが、今の台詞がいい放たれた途端に「へぇえ?」「うひゃあ?」といった疑問符があちこちで轟いた。屋根が、柱がわなわな震え、なんや地震かと鹿の子はきょろきょろ首をふる。
クラマへ視線を戻せば、大口をぱかーん開けていた。
「おっおっおっおっおっおっ」
そのまま「お」の字の発声練習。
それが妖し狐の鳴き声か。仲間呼んで数で勝負かと、鹿の子は鼻で笑う。
「おっ、おまっ、嫁て、嫁て、嫁っ」
「できひんのやったら、小言はよし!」
口空いてるのを良いことに、クラマの舌へ菓子を乗っける。乗っけられるともぐもぐしてしまうのが、甘いもん好きの性。寒天が舌の熱にほどけ、クラマはようやく口を結んだ。
「……なんや、これ」
二度目となるその文句は、同じにして声色がやわっこい。つり目も徐々にうっとりと緩んでいく。
「つるんとした舌触り。さっぱりと爽やかな酸味が熱で溶けると、残るんは小豆の甘み。甘いのに、小豆やのに、いくらでも食べられそうや」
「そうでしょう? 暑い日には、水羊羹が一番や」
古い小豆は濾して餡にしても、砂糖の甘みに負けてしまう。そんな時は思いきって水で薄めて寒天で固めると、不思議と小豆と水が馴染んで、小豆の甘みが引きだされる。
「せやけど、この酸っぱいんはなんや? 小豆と絡んで、なんともいえん味わいや」
「う、……梅干し」
「梅干しやと!」
梅干しの酸味は小豆の甘みを邪魔をせず、爽やかな夏の香りを含む。疲れもとれるから、日照りのなかの労働にはうってつけだ。うだる暑さに苛々しても、つるんと一口食べれば皆にっこりする。風成と違い、鹿の子の実家はじっとりと蒸し暑い南の海。ばあさまが漬けた梅干しを使って、かあさまが夏に水羊羹を作る。南にすむ先人の知恵と習慣であった。
ただしこの梅干しはばあさまの自家製ではなく、……お稲荷さまのお残し。
神饌の残り物は鹿の子の栄養。
大食らいの鹿の子がお腹いっぱいになるほど、お稲荷さまはおかずを残される。梅干しなんて、毎度のこと。
ひとつくらい自分が残したんは自分で食べてもらおう思うて、菓子に使わせてもらったのだ。
「飯の残りもんとは、嫁に尻叩かれとる気分や」
クラマはそんな独り言を最後に、よちよちと戸口へ退いていった。
「え、どうして……?」
まな板にはまだ半分以上の水羊羮が残っている。茶碗の底まで舐めるクラマが二口も食べずに行ってしまった。後を追いかけようにも外は暗く何も見えず、敷居を前に足をとめる。
美味しくなかったのだろうかと不安で、きゅう、と胸がつぶれた。鹿の子にとって、クラマの「美味しくない」ほど怖いものはない。
では、他のみんなはどうやったろうかと桶を覗けば、六棹作った羊羹はみんなかじり痕ひとつなく氷水のなかで泳いでいる。
「ああ、どないしよ」
神様や妖しは梅干しが嫌いなのだ。毎日お残しするほどなのだから、当然お稲荷さまだってお嫌いや。毎日楽しみにされてる御饌菓子に梅干しが入っていたら、きっとお怒りになる。
小鬼や家鳴りは先ほどのクラマの怒号で昏倒し、名ある妖しも隅で怯えているだけなのだが、鹿の子を落ち込ませるには充分だった。
赤い羊羮が乗ったまま、かまどへ帰ってくる御饌皿が頭ん中にぐるぐる回る。じき夕拝が終わる頃。謝る覚悟をしながら納戸で襷を結び直していると、御出し台から声がした。
「鹿の子さん」
「はいな」
この声は久助さん。皿を下げにきはったと恐る恐る御出し台へ向かうが、あまりにも眩しいその姿に鹿の子は目を細めた。式の神様が夜にお出掛けやろか。銀糸で縫われた唐模様の束帯に着替え、月読み様みたいに艶やかだ。さらりと地に真っ直ぐのびる黒髪は右肩できちんと総髪されている。
当の本人は惚けた鹿の子の顔をみて、余程疲れておるなと気にかけた。
「明日、休みになりましたよ」
「えっ……、ほんまですか」
「かまどの火は――おちていますね。院まで私が送りましょう」
お稲荷さまに、暇を出されてしまった。
鹿の子は膝が震えるのを感じた。
茫然とする鹿の子の顔面に「大丈夫ですかー」と皺のないきれいな手が行き来する。
「鹿の子さん?」
「久助さん……わたし」
いやや。かまどから離れたくない。もう一度ちゃんと作り直しますから。夕拝は終わったばかり、旦那様はまだ弊殿にいらっしゃるはずだ。今すぐお目通り願おう。そう強く思い、襷をほどきながらあの夜にみた旦那様のお顔を思い浮かべた。
…………あれれ。
そういえば、旦那様てどんな御方やったやろかと首を傾げる。
お月様みたいな、綺麗なお顔やったんは確か。
しかし綺麗な御方と思うと、目の前の久助ばかり浮かんでしまう。鹿の子には格子窓から覗くお月様も、あの夜にみた旦那様のお顔も、全部久助にみえてしまう。
これでは弊殿に入れても誰が旦那様かわからないではないか。母家ですれ違っても、きっとわからない。気を張ってなければ何時か旦那様に「誰ですか」なんて言い兼ねない。旦那様の顔がわからないなんて、側室以前に大問題だ。
鹿の子は腰がぬけそうになり、尚も顔前で振られる白い手を逃がさんとばかりに、しかと掴んだ。
「久助さん、久助さん、どうしよう。わたし、旦那様のお顔忘れてしもた。どんなお顔で、どんな着物か教えてくれませんか」
次の瞬間、火が消えたかまどみたいに沈、と空気が静まった。
掴んだ手の先にある、きれいなお顔が犇々と皺を刻んで歪んでく。
「こんな顔で、こんな着物ですが」
歪んだままのお顔で、口の端をあげて笑うその公達は、とうさまの般若顔を彷彿とさせた。