一‐御髪
「どんなに美味しい小豆を供えても、熱心に拝んでも、お稲荷さまはあなたの願いを叶えませんよ」
篝火の炭があちらこちらに黒々と跡を残す境内。
かまどから煙も昇らぬ夜八つ、澄んだ美声が辺りを震わせた。
拝殿には男の影がふたつ。
参拝客と、その様子を見に訪れた久助だ。
久助は横柄にも向拝柱に肩をよりかけ、参拝客へ苦言を呈していた。
「……わかってますよ。こんな小豆じゃあ、対価にならんことくらい」
表情のない声でそう返したのは、小御門家側室東の院御用人、ラクだ。
「それでも、叶えにゃならんのです」
切実に聴こえるその言葉も、久助には腹立たしいばかり。ラクが捧げた供物の小豆をぶちまけてやりたいが、お稲荷さまと小豆洗いの嘆き顔が頭にちらつき邪魔をする。
代わりに神らしからぬ毒を吐いた。
「もう二度とかまどへ近づかないでいただきたい」
「……はい」
返ってきたのはおぼろげな、それでいてわかったような返事。
神職の常衣である狩衣がすっかり身体に馴染んだラクは、月明の身のこなしを我がものに、颯と袂を翻し拝殿を後にした。
*
三日続いたお火焚き祭りを終えた翌朝、熱気冷めやらぬ境内を荷車がいくつも埋め尽くしていた。そのなかに一台、冬空に艶やかな牛車が花咲かせている。
主は小御門家側室西の方、玉貴。
臨月を迎えた彼女が実家の山口家へ下る、今日がめでたい出立となる。送り出しには小御門家の人間、側室以外の全員が表に出ていた。
鹿の子は別れの挨拶を早々に済ませ、今日もかまどのひっつき虫。他の側室もそれぞれ忙しくしていたのだが、奉公人達はそれをひがみと受け取った。
そう連想するのは、当主の様相をみれば仕方のないことだった。
この日月明は誰よりも玉貴の身を案じていた。
あお山を越えるのだからと当主直々の祈祷はいつになく身が入っており、傍目からみている分には玉貴への変わらぬ寵愛が窺える。
また月明はゆっくりと動き始める牛車を足で追った。
「共に行けぬことが悔やまれますが、どうかご無事で」
「ありがたきお言葉。あちらに着き次第、すぐにご連絡致します」
「はい、そうしてください」
牛車が遠くへ消え、車輪の跡に目を落としたままの月明は、泣いているようにも見えた。
後ろで見届ける下女のひとり、ふたりが呟く。
「寂しくて髪を切られたのかしら」
「きっと半身を捧げるおつもりで、西の方へ髪を授けたんですよ」
前触れもなく振り返る月明。
天界の美しさに、朝夕見慣れているはずの下女がぱたぱたと倒れていく。
出廷のため、月明自らも用意された牛車へ向かうが、その道すがらには女が何体も転がった。
同じ日、小薪の身が母家から西の院へ移された。これも月明が玉貴を想ってのこと、「あなたが帰るときには継室として母家に迎えましょう」奉公人はみんなこう捉えられた。
うまいこと考えるものだが、現実は噂よりずっと奇怪である。
月明は境内にくゆる煙たい煙を牛車の物見から吸い込むと、愛おしそうに唇を噛み締め、神殿を後にした。
今日の月明は戦の僉議の出席に伴い、珍しく武官束帯を身にまとっている。すおう色をしたその束帯は、まるで今月明に流るる血を表すように映え映えしかりし、またどす黒く輝いていた。
僉議が執り行われる朝所へ向かうさなか、月明は後ろで足音もなく付き従う侍従へ尋ねた。
「ラクさん、あなたが北へ通っているという噂はまことの話ですか」
前触れもなく、また憤りの隠せていない声色にラクは返答に詰まった。
人通りの多い宮廷の回廊だ。その大抵が宮廷女人であり、月明とすれ違う度にぱたぱた倒れていくので、ないようなものなのだが。
「私は戦へ発つ前に、はっきりさせておきたいのですよ」
急かす月明。
場をわきまえぬ当主とその美しさを疎ましく思いながら、ラクは言った。
「違いありません」
月明の拳が音なく軋む。
「そうですか」
今日の月明は左腰に朱鞘を帯刀している。
ラクは一瞬斬られるかと思ったが、見上げた月明の顔は不気味な笑みを浮かべるだけだった。
足を止めたまま黙り込むふたりに、近衛大将が追いつく。月明はラクを下がらせ、近衛大将と肩を重ねた。
「いよいよ明後日ですね」
「ああ、腕が鳴るよ」
砂崩への入冦に備え、朝廷では軍略府が臨時設置され、下級宮人だけでなく五位以上の武官含む五百名もの遠征隊が編成された。五百名とはちっぽけな数に聞こえるが、風成においてこれほどの大規模な出陣は千年の歴史のなかでも数えられるほどにしかない。風成という国が龍穴という鳥籠のなかで運と神任せに、いかに左団扇で過ごしてきたのかが窺える。
そして戦すらも、安楽にやり過ごそうとする男がここにいた。
「落とした後の砂崩はどうしましょう」
盤上の駒を楽しむような月明の言い草に、近衛大将は苦々しい顔をした。
「あまり先ずるなよ。足をすくわれるぞ」
「しかしあれほど野蛮な部族を傘下に収めるとなると、様々な分野の教育者を派遣せねば」
「月明、やめなさい。それはあそこが決めることだ」
近衛大将が朝所の屋根を指す。
「陰陽師宗家の当主といえど、出過ぎれば角が立つぞ」
しかし月明は若く、活き活きとした肝が据わっている。朝所に御座す太政官など酒に浸しておけば、立った角もまるくみえるだろうと思う。
「甘いことは言っていられないのですよ。甘いものを得るには」
「はぁ?」
よくわからないが、よくない気がする。こうして近衛大将はいつも月明に冷や冷やさせられる。先代の若かりし頃を彷彿とさせる言い回しに、どうかあいつのような無茶だけはよしてくれと願うばかりであった。
二の足を踏む近衛大将に、月明は傾国ものの美顔をさらした。
「ご安心ください、無謀はいたしません。それより近衛大将こそ、桜華をいかがなさるおつもりですか。左近から聞きましたよ、密かに別邸を建てているとか」
後ろでぱたぱた倒れる宮女の音を背景に、近衛大将はやさぐれた。
無謀はせずとも謀はあるということだ。それよりも、家の内情まで事細かに知れていることに呆然とする。まあ口の軽い左近へ喋ってしまった自分に負はあるとしても、戦のあとに置いておいた話だ。
近衛大将は足を進めようとしない月明に対して茶を濁した。
「久しぶりの戦だ。勝利をあげた暁に年末くらいは家族で過ごしたいという、親心を汲んでくれまいか」
「ほう、桜華を小御門の門から出すと」
そう、門から出ていない。月明の言う通り、桜華は小御門家の門から一歩も出ていないのだ。近衛大将はそんな娘が不憫でならなかった。
「桜華ももう二十五になる。許したまえよ」
「そのまま帰さぬおつもりですね」
濁した茶が淹れ直され、近衛大将はついに観念した。
小御門の側室といえど、桜華は御用人ひとり仕付けず、恋ひとつせずに邸に二十五年こもりきり。二十五年だ。このまま人形を話し相手に老いてしまうよりは、見合いのひとつやふたつでもして、家族をもったほうが女の幸せを得られるだろう。
その場を整えてやるのは敵をうった後の、父親なりのけじめだった。
「……桜華が望めば、な」
この言葉に納得したのか月明がようやく歩を進める。
いつもならばその背中に流れる美しい御髪がないことに気付き、何故か近衛大将の腹の底で言い知れぬ不安心が蠢いた。
*
日が沈み夜の帳が下りても、この日の小御門神殿は熱気が冷めやらない。祭りの熱気ではなく女の熱気だ。小御門のお堀を一周するその行列をたどれば札所が出発点であった。
その様子をほくほくと眺めるは西の方、小薪。
階段を駆け上ってきたクマが息を切らし小薪へ述べた。
「ちょうど五千本、あと半刻もすれば売り切れます」
「ふ、ふふふふふ、ありがとう、クマ」
算盤叩いて、また笑う。
一本百弦が五千本、小判にしたら五枚の儲けだ。
当主の髪を切っただけで五枚。小薪の目ん玉なかには今、きんきら小判が泳いでいた。
「いいんですか、旦那様の髪を札所で売ったりして」
「好きにしてええて、旦那様が仰ったんやもん。それに神殿は夢を売るのも立派な仕事や」
天女より美しいと謳われた月明の御髪。月明の象徴というべきその髪を切ったのは他でもない小薪だ。その対価に髪をもらいうけ、何をするかと思えば筆にはせずに、お守り袋へ詰め込み札所へ並べた。
なんにも噂を広めてないのに、この行列。朝廷で卒倒した宮女が「切られた髪が残っていたら」と神殿へ駆けつけたのがはじまりだ。小薪が選んだ選りすぐりの五千本は一晩で完売御礼となった。こうなりゃまわりに散らばった毛もかき集めて売りゃあよかったと小薪は悔しがる。
「嬉しいもんですかね、男の髪をお守りにもって」
「そりゃあ、陰陽師家の当主やからね。憧れだけちゃう、ありがたいもんになる。それに明後日から遠征に出られるでしょう。無事を祈りたいのも乙女心ってもんよ。わたしだって――」
クマの髪の毛やったら懐にしのばせたい。
自分の目線よりずっと上にある、クマを見上げてにへら笑う。
「人を練習台にして、笑わんといてください」
「だ、だって、く、くふふふふ、く、クマも後でちゃんと整えたるから」
「ほんまですよ」
見事な散切り頭のクマが、わしゃわしゃと短い前髪を乱して、はっきりとこう言うた。
「今夜は鹿の子さんとこに、逃げないでくださいね」
小薪の手がつるんと滑る。
境内には若い娘の雑踏に紛れ、算盤が砂利に落っこちた音がばちばち、太鼓のように鳴り響いた。
同じ頃、母家の御寝所では久助が忙しくしていた。
当主が何日も家を空けるのだ、戦支度だけではなく留守の間の段取りもある。当主の一日の予定を何度も復唱しては月明へ確認をあおいだ。
「久助、もういいでしょう。耳にタコができそうですよ」
両耳をおさえる月明。
ようやく小薪が母家から西へ移ったのだ、月明は外の人間に声がもれぬ程度の薄い結界を御寝所へ張ると、部屋のど真ん中で胡座をかき、うとうとと微睡みながら酒を片手にくつろいでいた。
久助はそんな気の抜けた当主により不安心を募らせる。
「しかし心配で心配で。本当に私がついていかなくても大丈夫でしょうか」
「お前がいない小御門の方が余程心配だよ。それに用があればこちらから喚ぶ」
「そうですが、しかし」
「しかし、しかしも聞き飽きた」
む、と不貞腐れる久助。
月明の言うとおり、当主が留守の小御門では仕事が山ほどある。なにも礼拝ばかりではない、武官が消えた朝廷の動きも見張らなければならない。
しかし式の神としては主の姿が目に見えぬことほど、不安なことはない。それも山を越えた遠くのお国。
月明はそわそわと部屋のなかを歩き回る久助を甲斐甲斐しく思い、茶釜をもつ手を引き横へ座らせてやった。
「お前がいなくては、誰が鹿の子さんを守るのですか」
「旦那様……?」
「私に隠し通せるとでも。お稲荷さまのいたずらで鹿の子さんの身に危険があったことくらい、調べはついています」
これにはぎくり、遠くのかまどで狐の尻尾が立った。
「二度とそのようなことがないよう、見張っていてください。いたずらな狐はお稲荷さまに限ったことではないですしね」
これにもぎくり、遠くの小社で狐の尻尾がわさわさ立った。
月明は屈託なく笑い言う。
「鹿の子さんにはもう、お前しかいないのですから」
他人任せなそっけないこの言葉に、久助は眉をひそめた。明後日から戦へ出るというのに今日の月明は終始晴れ晴れしい笑みを浮かべている。髪といっしょに灰汁が抜けたのだろうか。月明の髪は今、耳にかかる程度に切られていた。
火桶から巻き上がるわずかな灰にあおられ、厚めに整えられた前髪がさらりと靡く。クマを練習台にしただけあって、小薪が整えた月明の髪は神も戦慄くほど美しい。
こざっぱりとした首筋をみつめ、久助はひとり置いてけぼりをくったような寂しさを感じた。主にはもう、自分にある髪がない。先代の御饌巫女に褒められ長年伸ばし続けていた御髪――それを、何故いま切られたのか。剣を交えるに邪魔であるから。違う。その程度で髪を切る陰陽師ではない。
久助には月明が灰汁といっしょに何か大切なものを捨てさったように思え、言い知れぬ不快感を抱いた。
「諦めるおつもりですか」
月明は久助の遠慮のない歪んだ視線がまるで心地よいとでもいうように、意地悪く笑った。
「はっ、まさか」
捨てたのは矜恃だ。
陰陽師宗家の当主。主上の侍従長。式の神の主――すべての矜恃を捨て去った。
式の神と肩を並べるために。
「久助は思っていたよりずっと長生きしそうですからね。遠慮はしていられません」
先代から伝えられていた久助の寿命。それまでは生かしてやろうと鹿の子の手を借りてみれば、まるであと百年、二百年生き延びそうなまでに蘇ったではないか。
張り合いがあるってものだ。
月明の余裕っぷりに、久助は茶釜を持つ手をぎりりと強めた。茶釜が「なにするっ」と湯を沸かす。茶釜はごぞんじ分福茶釜だ。
久助は分福の湯気を被りながら、ひくひくと口の端を引きつらせた。
「ほう、隠れてばかりいた旦那様が私と競い合うおつもりですか」
「お前が主のような口ぶりだな」
月明はすっかりふてぶてしくなった式の神に苦笑いをこぼすも、その甘い香りに侘しさを覚える。
どんなに生き永らえようと久助は菓子だ。この現実は変えようがなく、菓子と人では心が結ばれても、体は結ばれない。真の温もりを伝え合えない。
――小夜と自分のように。
月明は両親を失ってからずっとこの侘しさを抱えて生きてきた。
鹿の子には心寄り添える人間を与えたかったのに、あろうことか本来その立場にいるべき御用人のラクがその役を投げた。近くにいてやれる人間はもう、自分しかいない。
いや、自分でありたいのだ。
たとえ小薪が何を先読みしようと、自分の身くらい自分で守ってみせる。愛する人を守りぬくために。
この身に流れる異能の力は、そのために植え付けられたのだと月明は思う。
そして言った。
「お前の影でいるのは、もうやめた」
胡座をかいたままぱたりと仰向けに倒れたかと思えば、うんと伸びをする。終いには縁に足を突き出し、ばたつかせた。
生まれて初めて見る主の醜態、久助にしちゃあ心底憎たらしい。
憎さあまりに手のなかの分福茶釜を落としてしまい、あらわになった月明の額へ、茶釜の尻が撃墜した。
「い――っ!!」
「申し訳ございません。手が滑りました」
久助は白々しく笑い、分福茶釜はぴいい、慌てて主の額を退いた。
分福にとっちゃあ、この失態で使ってもらえなくなったら、あえなくお蔵入りだ。ぴいぴい注ぎ口から泣き声を漏らし、主に媚びる。
「すんまへんっ、すんまへんっ」
「分福、あなたは悪くありません」
月明が額を押さえながらみつめているのは、久助だ。ぎろりと鋭い眼差しはしかし、笑っていた。
「悪意を感じたぞ」
「ふん。髪を切ったくらいで張り合えるなどと、よく言えたものですね」
「髪はとっかかりにすぎない。少しずつ歩み寄るつもりだ」
「ほう、楽しみですねぇ、髪を切っても鹿の子さんに相手にされず、半べそをかく旦那様の姿が」
「それが主に仕える式の神の言うことか!」
「おや失礼。旦那様は泣き虫でいらっしゃいますから」
主従の言い争いに分福はほう、と安堵の湯気を漏らした。
どうやら蔵には入らなくて済みそうだ。
「なんと無礼な。お前の前で泣いたことは、い、一度しかないぞ」
「私の前では、でしょう」
「ぐぅ」
分福の茶湯が冷めても主従は襟元を掴み合いじゃれ合っている。
そんなふたりを眺めていると微笑ましくて、分福の目に映る今日の月は一際、明るくみえた。




