十三‐茶会(藤宮家)
「まぁっ、こんなにたくさん!」
この日の朝、つくばいが半分埋まるほど冬桜の枝が茶室の壺庭を満たした。薄明かりのなか、ぼんやりと浮かぶ白い花びらは砂糖をまいたようだ。あえかに溶け消える粉雪とでも歌えば良いのに、情緒に欠ける自分の頭に鹿の子はぷっと吹き出した。
今日の茶会、冬桜で飾り立てたい。
月明のこの言付けは唐かさの耳にも届いていたらしい。鹿の子はしばし花の香りを楽しんだ後、襷を結び直し枝を選り分けていった。
今日は藤宮夫妻を招いての茶会。
藤宮夫妻の事情は文にしたためられ先日、鹿の子の手に渡っている。近衛中将藤宮左近とその正室、葵。参拝の余情に見合った菓子を振る舞って欲しいという、月明の直筆は完美であり誠実さが墨に滲んでいるようだった。
その想いに応えようと、鹿の子は昨日丸一日その菓子に費やし、仕込みを終えている。藤宮夫妻が参られる八つ時まで、鹿の子は花生けに勤しんだ。
約束の刻になると、左近を先頭に葵を挟み、続いて末座を月明が彩り客座はおさまった。葵はにじり口をくぐると礼もなしに、息をとめたものだ。茶室はこの日だけ壺庭側の簾が全て上げられていた。冬桜は川に沈む砂利を剣山に生けられ、朝靄のように花が一面にたなびいている。浮いてみえるのは、花を平衡に集め高さを出したためだ。それだけではない、鹿の子は八つ時に入る強い西陽を計算し、石庭に映る枝の影絵を見事に飾り立てた。まるで冬桜の花が雲、枝の影絵は夜の街。天界と下界の縮図を壺庭に映したような、幻想的な世界が広がっていた。
「なんて素晴らしいの。これは、どなたが」
「わたくしでございます」
初々しくも凛と鳴る鈴の声に、どんなやんごとなき姫君が亭主を務めるのかと、葵は烏羽色の髪を畳につけ、総礼した。顔を上げてみればあれまあ、なんと貧相な娘。髪はほつれたお団子頭、この寒い冬に単衣一枚。下女にしても、もっとどうにかならなかったものかと、葵は月明へ蔑視を向けた。月明は顔色を変えず、冷淡に言う。
「葵さん、私は貴女のそういうところが苦手だ。今日だけは気位の位を捨て置いて、代わりに楽を入れなさい」
「楽? 雅楽や花を愛でたりすること?」
「気位の位を、楽に。気楽に」
「ぶっ、なにそれ!」
あまりに平然というものだから、葵は扇子のなかで吹き出してしまった。月明はたまに説法口調で真面目にこういうことを言う。しょっぱなから笑いをこらえていた左近は葵の笑みをみて結んでいた唇を緩め、月明が言わんとしていることを先んじて、挨拶へ変えた。
「はじめまして、東の院側室、鹿の子様。わたくし藤宮左近と申します、左肩は正室の葵。是非、お見知り置きを」
「あ、あぅ、はい、はじめまして」
鹿の子さまだなんて実家の糖堂では呼ばせていなかったので、初めてのことだ。鹿の子は顔を真っ赤にしてなんとか礼を返した。
「側室?」 葵が怪訝な顔をして月明へ尋ねる。
「そうですよ。鹿の子さんは私の側室であり、茶室の亭主。そして御饌巫女でもあります。この衣裳は御饌巫女としての務めの最中にいる証し。人をなりで判別する貴女はもう二度とみたくありません。どうか気楽にお見知り置きを」
「まぁっ」
月明の忠言をろくに聞かず、葵は「とんだご無礼をっ」と鹿の子へへりくだるので、月明と左近が「気楽に」と声を合わせた。
葵は貴婦人としての人徳があるだけで、決して人が悪いわけではない。むしろ鹿の子は葵の気楽になれない実直な様に好感をもてた。
やんわりと微笑み、肘を落とす。
「それでは、お茶会をはじめさせていただきます」
鹿の子の意識がお点前へと移ろうと、客座の話題は壺庭へと戻った。確かに美しいが、庭一面を花で彩る豪快さに、何か意味がありそうだと左近は思う。
「何故このようにたくさん、それも冬桜を選んだ」
先ほどの葵の態度がよほど気に入らなかったのか、尋ねたのは左近であるのに、月明は葵を見据え、冷然と言い放った。
「ご存知ありませんか? 冬桜の花言葉は冷静。たまには落ち着いた葵さんとお話ししたいと思いましてねぇ」
「なんですってぇ!」
「おや、これでも足りませんでしたか」
扇子のなかでひた笑う月明。飛びかかろうとする葵の腕を抑え込みながら、なんとも色気のない理由だなと、左近は呆れた。
そこへ乱れた座を取り繕うように、茶菓子が運ばれる。菓子皿には生菓子の餅ひとつ。みたことのない菓子の輝きに、葵は自然と口を大人しくした。
「亥の子餅、という名の菓子でございます。亥の日はとうに過ぎてしまいましたが、是非お二人に召し上がっていただきたく、本日お出し致しました」
「亥の子、餅?」
初めて聞く名に、葵が眉間にしわを寄せる。
なるほど亥の子というだけあり、まあるい背中にぷつぷつと胡麻が浮き出て、うり坊そっくりの模様だ。胡麻もみえれば、粟らしき粒もみえる。近い過去に見に覚えがあり、葵の心が澱んだ。
鹿の子が静かに申し立てる。
「葵さんが亥の日のお供えにくださった、五穀入りの餅でございますよ」
風成では毎年亥の日になると、若い夫婦は猪の多産にあやかり、子孫繁栄を願いに神殿へ足を運ぶ。その年採れたての五穀をお供えして、祈るものだ。
葵は左近にも、家人にも内密に一人でお参りしている。心の内を明かされたようで、葵はかッと顔から火をふいた。恨みの矛先が鹿の子へ向かわぬよう、左近が葵へすみやかに語りかける。
「すべて月明から聞いているよ、ありがとう」
左近も言い方が良くない。
そう言ってしまえば、恨みは月明が背負うことになる。葵はきっ、と月明を睨みつけながら、喧々と応えた。
「どういたしまして。藤宮家の正室として当然のことをしたまで。新しく輿入れされる花嫁のためにね」
もう聞く耳もちません、と憤然として葵は亥の子餅をばくり、口いっぱいに頬張った。葵を皮切りに、月明と左近も袖を揃え、餅をくわえる。
くわえた餅が鼻先でずんずんのびるので、慣れた月明はぷちんと菓子楊枝で切った。
「……また、これは」
月明はくぐもった声で賛美を表した。
餅のこしが上顎を押す。
一噛みもしていないのに、口の中には香ばしい穀物特有の香りが広がった。それをひきたてる甘みはもう、違いようがない繊細な白砂糖。惜しみながらも餅を噛みちぎれば、なかには控えめなこし餡と、こっくりと蜜がしゅんだ栗――。
菓子に叡智なる月明は亥の子餅がどこの名物で、どんな意味があるのか、知っている。亥の子餅は青龍山の麓、佐伯の郷土菓子だ。玉貴の実家である山口が牧畜ならば、佐伯はマメ科の農作に長けている。すずし梅が常用菓子となってから小御門は今、小豆や大豆など、豆という豆を佐伯から仕入れている。
亥の子餅は特産の豆をふんだんに使い、その他にも胡麻や栗、柿を入れた贅沢な餅だ。山口に比べ里の人口が少ない佐伯では、亥の日祝いがお火焚き祭りより大事にされている。お供えが終わった供物は餅にして、子の恵まれない夫婦へ配られる。次の年には子ができるように。
切れない餅を盛大に口へ含み、扇子のなかで頬を膨らませる葵へ、月明ははっきりと言った。
「側室に任せずとも貴女はまだ若いのですから、これを食べればすぐ子宝に恵まれますよ」
亥の神は直会を共にした夫婦の元へ、子を宿す。小さな里の、密やかな風習。
何故それを朱雀山を越えてはるか遠く糖堂出身の鹿の子が知っているのか――わずかに訝しんだ月明であったが、それほど菓子に精通しているのだと、感心を深めた。
月明は鹿の子の膝下に敷かれた手帖を知らない。
みな菓子に酔い、和やかなひと時が流れているかのようにみえたのだが、しかし。葵は菓子皿を置き、口のなかの餅まで懐紙に出してしまった。
「私に……食べる資格は、ないわ」
その言葉に左近が悲しみに暮れたような顔をした。
月明はうんざりだ。鹿の子が一晩かけて仕込んだ菓子を吐き出されたのだから。
この強情な女には無理強いさせるくらいがちょうどいい、月明は最後の一口を飲み込み苦言しようとするが、その言葉は鹿の子の明るい声に遮られた。
「それでは抹茶でお口直しの後、こちらの干菓子をお召し上がりください」
思わぬところで我儘が通ったので、葵は快く鹿の子の勧めに従った。ほろ苦い抹茶が餡の甘みと一緒に意地を洗い流していく。
程なくして鹿の子がもって現れたのは、おおきな干菓子皿。
一息吐き、その皿へ手を伸ばした葵は、生成り色の地肌にうっすらと浮き出る星をみて、はっと手を引いた。小御門家の御紋が刻まれた、落雁――。
「これ、は……幣殿にあった」
「はい。本日の法要にお出し致しました、我が小御門神殿の御紋菓子でございます」
「どうして、わざわざ茶会に」
葵は不快感を露わにした。
今日は葵の子が流れて、ちょうど三回忌になる。そのため夫婦で法要を営みに訪れた。茶会は当主として当然の心遣いだと、月明に言われるがまま、にじり口を潜ったのだ、そこで子へ捧げた菓子を自分が食すことになるとは思いもしなかった。私の子はこんな質素な菓子しか食べられないのかと哀れんでいたのに。
しかし小御門家の側室が手をかけて作った菓子を二度も断ることはできない。葵は鹿の子を恨めしく思いながらも渋々、落雁を口へ運んだ。
――ほく。
「……は?」
調子はずれなひと声のあと、葵は唇を半開きのまま、すべての動作をとめた。
落雁とは、噛み砕くのが億劫になる固いだけの菓子ではないのか。しかしこの御紋菓子は口の中でじわじわと崩れていく。
芋のように砕けたかと思えば、舌に吸いつく粉はザラ味がなく、雪解けのようにしっとりと溶けていく。口中に広がっていた筈の甘みは、それこそ水のように、淡く儚く消えた。
食べ終わりは、じん、と温かい。
葵は目を潤ませ、鹿の子に尋ねた。
「どうして……?」
「焙炉から出したてですので。法要にお出しした御紋菓子も今日一日は温かく召し上がれます」
「では、あの子も、これを……!」
葵は思った。
温かく、甘い。たとえば、お乳を知らないあの子にも、感じられるのではないだろうか。唇で崩れる柔らかさ。しっとりとほどける甘み。この落雁に吸い付けば、きっとあの子も喜んでくれる。
必ず笑ってくれる。
こんなに、こんなに美味しいのだから――。
「鹿の子さん……っ、ありがとう」
葵は溜めていた涙を一息に流しながら、落雁のように柔らかな笑みを浮かべた。
この日はじめて御紋菓子を食べた月明もまた、葵の隣で涙を汲んだ。
色、形――まさに先代の落雁。出来上がったとは久助から聞かされていたが、いざ目の当たりにすると、夢を見せられているようだ。
母の菓子が鹿の子の手により甦った。
いや、それ以上の食感、繊細な甘み。
乾燥しきらず、わずかに熱を入れたまま振る舞うことで、葵の想いに見事に応えている。
御紋菓子を再現するだけでなく、客人を思い遣るその心。それを菓子で応えるという、御饌巫女としての務め上げ。
月明はこの時初めて、御饌巫女のしきたりというものを落雁と共に飲み込めた気がした。
また、こぼれ萩に並ぶ菓子はそうでてこないと思っていたが、これ以上のものこそ想像できないと、心をあわてふためかせ、そんな自分を笑った。
笑うふたりの前で、落ち着かないのは左近だ。特に泣き笑う妻をどう扱えばよいか、てんでわからなかった。言葉に詰まり、仕方なく自分も落雁をかじる。
「……なぁ、葵」
あぁ、こりゃ確かに笑ってしまうほど美味い。顔も見ずに死に別れてしまった子のことを思うと、左近の目頭も熱くなった。
「こんな美味い菓子が食べられたんだ、後は兄弟でも作ってやったら、あの子は幸せなんじゃないかな」
ずっと言いたくて、言えなかった言葉をようやく吐けた。庭に生けられた冬桜は葵ではなく自分のためだったのではないだろうか、左近はそう思い、また笑った。
葵をみつめ、真摯に。そして頭を下げた。
「すまない。お前が整えた側室は俺が断りを入れた。その……もう少し、ふたりで頑張ってみないか? あの子のためにも」
左近は武士だが、人前で妻に謝罪することに、背徳は微塵も感じなかった。むしろこの茶室では誇らしく思えた。
夫に頭を下げられ戸惑う葵であったが、側室問題は別の話だ。何故なら側室の輿入れは明日を予定しているのだから。葵が選んだ側室はそれなりに名ある貴族家の姫君。直前の破断とあっては藤宮の歴史に傷がつく。
複雑な表情をみせる葵へ、月明が可笑しく切言した。
「ひと月前でしたかねぇ、新しく入る側室が不妊でないか調べるため、一度その姫君にお会いしたのですが、いらぬ世話だったようで……、申し訳ございません、その折に私が惚れられまして」
「はぁあ?」 これには葵の涙が乾いた。
「諦めてはいただいたのですがね。この世に私のような美しい公達がいるのなら、馬面とはいっしょになりたくないと。ようするに、左近がふられたわけです」
藤宮家にもお目付役がいるが、この理由には首を肯くしかなかった。箱入り娘が月か馬かと尋ねられれば、月を選ぶに決まっている。今件、謝罪されたのは藤宮家であり、傷がついたのは左近の馬面程度である。
「その、すまない。この顔の私に飽きずにそばにいてくれるのは、葵。どうやら君だけなのだよ」
以前、葵が左近の浮気を吹聴したが、これも妻の欲目。左近と寝たがる女など下女のなかにもいない。実のところ、左近が泥酔して帰って来る日を見計らい、葵自ら左近好みの召人を整えたのだが、召人にとっちゃ左近が好みではなかった。酔っていようが、はいごちそうさまと頂いてしまう左近ではないし、召人も気後れする馬面だ。互いに同意の上で一晩明かし、浮気をしたふりをした。左近は左近で召人を整えた葵の顔を立てたという、実に間抜けな話である。
「あ、貴方って、そんなにもてないの?」
葵が夫の馬面をしげしげと眺め、心底不思議そうな顔をするものだから、左近は顎をひしゃげ苦笑いを決め込んだ。
そしていつもの意地っ張り。
「浮気できないほど、もてないわけじゃあない。私が浮気しないのは、葵の傷ついた顔を、もう二度と拝みたくないからだ」
過去に一度だけ、興味半分で女を買ったことはある。しかしその時の葵のふさぎ込みように、左近は一生他の女を抱かないと心に誓った。
「そうだな」
この時やおら頷く月明をみて、突然、鹿の子が嬉しそうに微笑みかけた。
ぼっ、と月明の顔が真っ赤に腫れ上がったので、藤宮夫婦は目をまんまるにして、顔を見合わせた。
「まぁっ、なんてこと」
「月明が? こりゃあ、めでた――」
「五月蝿いっ」
からかいにでた左近の口を月明が慌てて塞ぐ。葵は声を抑えきれず笑いながら、鹿の子へ尋ねた。
「鹿の子さん、亥の子餅のおかわり、まだある?」
「はい! たんまり、ありますよ」
にっこり笑い言う小豆に、葵は心から感謝し、また尊んだ。
「では、全部いただくわ。あの子のためにも……!」
この後の茶会は西陽が暮れきっても、賑やかな声が長く穏やかに続いた。




