十一‐桜華
久助が寂寂と鹿の子を茶室へ運び入れる頃、母家の御寝所では厳かな火桶の音が男と女を取り囲んでいた。虫も消え入る冬の夜、蔀戸をひとつも下ろさず開け放ったまま。
男はこの小御門神殿の当主月明、一度開いた扇子をぴたりと閉じ、その切っ先を中庭へ向けた。
「あの草に隠れるものを言いあててみよ」
月明が差した先は御寝所の中央からみて右奥にあたる楓の木の下生えだ。そこにはもぞもぞとした気配はあるが、縁の先は一寸先も見えぬ闇の世界。草といっても、その影形も見えやしない。
女は中庭に一瞥もくれず、手元の懐紙に筆を走らせながらこう言った。
「たぬき。それも生まれて半年経たぬ子だぬきでございます」
「ほう、餌を探しに山をおりてきたか。どれ」
女がずばり言いあてることくらい、月明にはわかりきっていたが、いたずらに膝にいたちょうちんお化けを中庭へ差し向けた。女はそれを止める。
「おやめください。驚いた子だぬきが中庭から逃げ出せば、母と死に別れてしまいます」
「死、ですか」 女は生き別れではなく、死を選んだ。
「ほう、では小薪さん。あなたは母が子を迎えにくると」
依然、筆の先に目を落とすばかりの女は小御門家側室、小薪である。懐紙に滲む文字は「恋結び」。
以前、みみずを書いた同一人物とは思えぬ美しい行書が、そこにはあった。
小薪は文机に置かれた皿をまめがつぶれた細指で掴むと、月明の膝下へと滑らせた。
「はい。ちょうどこの火灯し皿の火が消える頃に参ります。この先読み、あたれば旦那様にお願いが」
言い終える間もなく火は消えた。
それから少し経った今。
「よし、おいきなさい」
小薪の膝の上、ふっくら毛が太ったたぬきがぴこぴこ足を振ると、月明へちいさいお辞儀をして庭へ飛び降りた。
ちょうちんお化けが中庭を照らせば楓の木の下、母子が並んでこちらを見ている。やがて顔を見合わせ、去っていった。
縁の内側では月明が溜め息まじりの呆れ文句を吐いた。
「母だぬきの怪我を私に治させるために、あの子だぬきを呼び寄せたのですね」
「まさかそんな恐れ多いことを。餌はまきましたけど!」
ほほほほほ、と高笑いしながら書き上げた懐紙をまとめる。この時すでに小薪は印を踏まずとも先読みできるまでに道を極めていた。
恐れたのは月明である。
先読みとは人の運命を手繰り、その背景を読み取るものだ。故にその人物の衣裳、食事や住まいなど占う前に知るべきことがある。
しかし小薪は誰を知ることもなく、たぬきの先読みをした。
月明が小薪へ「言い当てよ」と命じたのは、月明の背景にいる生物の存在を読ませるためであった。小薪はその命令すら先読みし、子だぬきを事前に呼び寄せたというではないか。この程度の先読み、小薪にとっては当主をあざむくための利用価値しかないのだ。
子だぬきが逃げ隠れ、母だぬきがこの中庭に辿り着けねば、月明が足の傷を治してやれなかった。この身も凍りそうな寒空の下、怪我をした母が子を探し歩き迷えば確かに小薪の言った通り、死に別れていただろう。
月明は恋結びの懐紙を一枚拾い、その文字に納得したように頷いた。
「私があなたに教えてやれることは、もうなさそうだ」
小薪はその言葉に苦虫を噛み潰した。
「……そうですか」
小薪が今立つ足元を当主が境地と認めるのなら、これより先はない。小薪は自分の力のなさ、不甲斐なさを心底恨めしく思った。
小薪にはいまだ見えぬ未来があり、それが酷く辛いのだ。今日も読み遅れた自分を責めたばかりであった。
人の運命はそう、突発的に変わることがある。それは必ず神の手によるものだ。
今朝、クラマが鹿の子の紅紐を奪ったその瞬間、鹿の子の運命が様変わりした。小薪が鹿の子の窮地を悟ったのは時遅く夕拝の頃であった。ひや水を用意したのは他でもない、小薪だ。浸透力の高い水分に活動源となる砂糖を混ぜたひや水は鹿の子の霊力を補うに最適だった。月明に事を知られぬよう、お稲荷さまへ本殿への移動と久助の介抱を勧めたのも、小薪の所為。小薪はどんな理由であれ、月明を鹿の子に近付けたくはなかった。
「旦那様、私にはどうしても先が読めぬ未来があります」
「ほう。それは、どのような」
それは墨が滲んだ、見にくい醜い世界。
何度読んでも、墨が邪魔をする。視点を変えても墨は月のようについてくる。掻きわければ墨は拡がる。
何度読んでも、読んでも、見えやしない。
ただ聞こえるのは鹿の子の、鈴が割れたような泣き声。
「鹿の子さんの――?」
「はい。そしてこの未来は鹿の子さんを占った結果ではありません」
「では、誰の」
世界が墨で滲む前に、必ず見える背景。それは――。
「旦那様の未来です」
小薪の美声に、ちょうちんお化けの灯りがぐらり、揺らめいた。
*
それから七日、なんとも長閑な日常が流れていった。鹿の子の身体は元気そのもの。さぁ今日も頑張りますかとかまどに立つと御出し台の上に大きな樽が、樽にかぶさった鏡蓋の上には白い文がのっかっていた。
――原料糖がきた。
鹿の子は樽に飛びつくと、紙を破る勢いで文の扉を開いた。
中の和紙にはとうさまの字で、こう書かれている。
――話はかあさまから聞いた。採れたての搾りたて、炊きたて一番を送る。
ほんで鹿の子。鹿の子が菓子に活かすというなら、私も糖堂の主人として、原料糖について伝えておきます。
原料糖とは、さとうきびから搾りとった糖蜜を煮詰め、灰汁を取り除いたものをいう。
こっちで一晩圧しといたから、鹿の子の手元に届く原料糖は固まっとるやろう、見ればわかる。黒砂糖や。黒砂糖はな、さとうきびの搾りかすから生まれるのではない。白く製糖していない砂糖はみんな黒砂糖や。うちの砂糖は一番搾りの原料糖だけを使って、白砂糖に精製してる。搾りかすが百姓に出回り、原料糖が黒砂糖として広まったんはそういうわけや。
聞き伝えでしかないから詳しくはよう知らんが、先代はこの原料糖を自分の手で製糖していたらしい。それもえらい難儀やったと聞く。
お前もたいがい鉄の草履が好きなやっちゃ。それでもしんどいぞ。鹿の子、きばりや。
「黒砂糖――?」
鹿の子はとうさまの文を懐にしまうと、ためらうことなく桶にひっついた鏡蓋を開けた。
ぶわり、と黒砂糖独特の甘ったるい匂いが昇ってくる。
桶の中には黒茶色の沼に、たぷたぷと黒砂糖の岩肌が泳いでいた。どろりとした沼に小指をつっこみ、ぺろりと舐める。
「……これは、黒蜜」
ざらざらと舌触りはよくないが、黒蜜に間違いない。糖堂から送られてきた原料糖は、黒蜜のなかに黒砂糖が浸かっている、見たまんま、味わったまんまの姿だ。馴染みがある、されど扱いようのない砂糖。
この雑味だらけの黒砂糖から、いかにしてこまやかな生成り色の砂糖へ作り変えるのか。戸惑いおおきく、鹿の子は目を泳がせた。
泳いでいた目が止まった先は――。
先代の、菓子手帖。
「ラク……わたし」
――情けをかけるな。
イロリの言葉が頭のなかを駆け巡る。
「知りたい。先代が残した御紋菓子の作り方を、菓子への想いを」
手帖のこと。イロリさんのこと。ぜんぶ、伝えよう。
鹿の子はかまどに炭を入れる間もなく、東の方角へと駆け出していった。
*
この日、東の院へ足を運んだ人間は鹿の子だけではない。
それは北の方角から。艶やかな袿をはためかせ、人形片手に颯爽と草履を鳴らす側室がいた。
小御門家北の奥方。武官位の頂点近衛大将の一の君。名を桜華といい、奉公人の誰一人知らぬ、心甚い過去がある。
桜華にその記憶はない。あまりに惨たらしく、先代の憐れみにより消されてしまったから。しかし過去は人形という足枷で今もしっかりと繋がれている。
桜華が手放さぬこの人形ははるか十年前に、月明から贈られたものだ。使い古され、今では髄となる柱が折れて首がうまく回らない。それでも桜華はずっと、この人形を手放せずにいた。
何故なら人形なしでは、声を発することができないから。
人形は桜華を救ったが、何度も言うように、心の闇を断ち切れぬ足枷にもなっていた。
「でも、もう大丈夫」
手のなかの人形があえやかに微笑む。
今、その足枷は脆く、一叩きすれば崩れる気がすると、桜華は思う。
桜華は目に涙を溜め、東の院の門を潜った。
「――ぅ」
桜華の喉から微かに、蚊の鳴くような声が発せられた。
今日はラクにとって久しぶりの休みだ。小薪の家族が下町へ出払い、時間を持て余したラクは縁側で大の字になって寝転んでいた。
桜華は近寄ると、その姿を舐めるように眺めた。
袖から覗く逞しい手首。袴の裾からは深く筋肉が彫られた脛がすらりと伸びている。襟がはだけた胸元は美しい曲線を刻み躍動している。
何度みても溜息がこぼれる完璧な肉体美。
その上に乗る顔はとても百姓にはみえない、怜悧な顔立ち。まるで陰陽師になるために生まれてきたような――。この顔立ちと肉体美の相違がたまらない。
桜華は人形を愛でるように、そっとラクの唇を親指でなぞった。
「ふぁあ、北の方?」
「――ぁ」
「あぁ俺、涎垂れてました? すんまへん」
桜華はまた、小さく嗚咽をこぼした。それでもそばにいるラクに聴こえぬ程度だ。
ラクはがばりと起き上がり、袖でごしごし口をこすった。
たまげた桜華はのっぴき、後ずさる。
その拍子に人形の首がかくんと左に折れた。
ラクはちっとも気にしない。
むしろ難儀なやっちゃとこきん、人形の首を直してやる。
その度にラクの手が着物に触れ、それだけで桜華の胸は高鳴った。
顔に出すまいと人形の口を開かせるが、
「あの、ラクさん」
「あっ! あかんでしょう、俺といる時は人形使ったらあきません」
「でも……」
「頑張って、ほら!」
ラクは喋らせてくれない。
いつもなら喜んで声をしぼり出す真似事でもするが、今日は違う。
懐に忍ばせた恋結びを着物の上から握りしめ、再び桜華は人形の口を開かせた。
「ラクさん、聞いて」
桜華の腕のなかで、人形はにっこりと笑った。
桜華はラクを初めてみた時、陰陽師になって本当によかったと思った。
桜華とラクは結ばれる運命。星がそう、語っている。
何年も人の縁結びをしていると、一目みてわかるものだ。
――旦那様が自分で気付かないほど鹿の子さんに惚れ込んでいたのは、笑ってしまったけれど。
桜華は心うちで、くすりと笑った。
月明と桜華は、物心ついた時から互いに縁がないことを知っていた。だから互いの縁を探し合おうと、誓い合ったりもした。桜華は月明に似合いの姫君を探してやったし、月明もまた桜華と相性のいい御用人を仕えさせた。蓋を開けてみれば、小夜は正室にふさわしくなく、御用人はろくでなし。どちらも勝負にならなかったのは、互いに未熟だったのだろうと思う。
待ちきれなくなったのか、運命の方から足音をたてやってきた。
――ラクは太陽みたいだ。
眩しくて見ていられない。でも暖かくて、ずっとそばにいたい。
ラクからすれば、自分はつまらない年増の女かもしれない。今はそれでもいい。
そばにいてくれるだけでいい。
ラクのそばにいれば、自分は記憶を取り戻しても、きっと立っていられる。
「これを、舐めていただけませんか」
桜華はラクへ白結びを託すと、心の声を何度も何度も繰り返した。
ひたむきに、頑なに。
その様子を塀の外で見守る人間がいたことを、桜華は知らない。
*
拝殿へ向かおうと久助がかまどを横切ると、鹿の子が朝にみたそのままの姿で突っ立っていた。
その周りには妖しという妖しがそぞろと勢ぞろい。かまどの火は落ち、甘い匂いもないのに何を目当てに集まっているのだろうか。
せまいかまどでなかなか鹿の子に辿り着けず、久助はやきもきしたものだ。
なかなか近づかない久助をみて、鹿の子もまたじりじりとした。
「つ、つめたっ、雪婆さん、もう少しそちらへ。唐かささん、骨が刺さります。なんですか、通せんぼですか」
そんなことを吐きながら、久助がぬりかべを乗り越え距離を詰めると、鹿の子は一冊の紙束をこちらに差し出す格好で腕を伸ばしていた。ずっとそうしていたから、細腕がぷるぷる震えている。
どうやらみんな、この紙束に心を奪われていたようだ。久助は鹿の子の手を下ろしてやろうとすぐに紙束を受け取ったが、鹿の子が離さない。
「どうしました」
「これ、先代の菓子手帖なんです。このなかには、きっと落雁の作り方や、落雁にまつわる御饌のしきたりが書かれています」
「ほぅ、そうでしたか」
久助は妖し等が集まった理由がわかりほっと一息、改めて鹿の子を見据えた。
久助は菓子にひたむきな鹿の子の顔が好きだ。凛として、つぶらな小豆の瞳が少しばかり大きくみえる。美顔をこの上なく真っ直ぐに注いでも、鹿の子が目を眩ませることはない。鹿の子の瞳には今、落雁しか見えていないのだ。
それが沁々と、美しいと思う。
「お手伝いしましょう」
互いに手帖を掴み合ったまま、久助は頁をめくろうとしたが、鹿の子はその手を止めた。
小さな手は小刻みに震えている。
上げっぱなしの腕からくる筋肉疲労ではない。それは心の底から湧き出る恐れ、不安であった。
鹿の子は手帖に爪の跡がいくほど強く握りしめ、そして言った。
「この手帖を開けば最後、わたしは一生かまどの嫁。久助さん、お願いです。これからもずっと、わたしを支えてくれますか」
鹿の子の思い詰めた声色に、久助は瞬時に悟った。
一生かまどの嫁。
この呪縛を放てる者は独りしかいない。
しかし久助は止めなかった。
震える鹿の子の手を包み込み、久助は言った。
「私の心は一生、貴女のものですよ」
鹿の子は息の緒に深く溜め息を吐いた。
次には喜びいっぱい、空気を吸い込む。もう手に震えはない。強く握り過ぎて白くなった爪には色が戻った。
「あぁっ」
「うひゃあ」
雪婆が、唐かさが小さな悲鳴を上げる。
鹿の子は何のためらいもなく――、先代の菓子手帖を、軽やかに開いていった。




