十‐常世
顔を出したばかりの月も冴え冴え。
冷風が顔にはりつき、ぴりぴりと爪をたてる。馬は目も開けられぬほどの速さで正路を走り抜けていた。ひづめが割れやしないだろうかというくらい、膝関節に鈍い音をたたせ、土を蹴り上げながら。ラクは鹿の子が振り落とされないようにしっかりと足で固定し、腰を抱いた。
行き交う人はみな、やれ駆け落ちか若いもんはええなぁと見上げていくが、ラクは悠長でいられない。送り御膳の刻はとうに過ぎ、鹿の子の霊力は油が涸れかけた火灯し皿のように消えかけている。ラクは自分の霊力が移ろえばと、鹿の子を強く抱きしめた。
「ら、ラク?」
「――――くそっ」
霊力はお稲荷さまの直会がないと補えない。ラクは無力な自分を切り苛んだ。
一方で鹿の子は疲れに甘え、ラクに身を委ねきっていた。
霜月の日暮れは襟巻きに手拭いがいる寒さだが、胸にひっつくクラマが温かくて、背中も心も温かくて、ちっとも寒くない。鹿の子は口元を緩めながら、ラクへ言った。
「落雁って、素敵な名前やね」
「なっ、なんや急に」
ラクの手のひらに変な汗が滲んだ。危うく手綱の行き先を滑らせるところだ。
「落雁はただ日持ちする、頑丈なだけの菓子じゃなかった」
「なんや、鹿の子は俺をそんな風にみとったんか」
「ふふっ。今まではそうかも。でも違った。落雁は今を生きる人と、亡くなった人を繋げる懸け橋。そうでしょう? ラクは陰陽師になって、名前の通りの道を歩いてる。わたし、改めてラクのこと、凄いと思た」
「凄い、ねぇ」
人として尊敬されるより男として好いてもらいたいところだが。ここは惚れた男の弱み、嬉しくてラクは鼻を啜った。
「美味い落雁、作れそうか?」
「うーん、どうやろ。お客さんが落雁を求める理由はわかったけど、作り方はまた別や」
原料糖は糖堂の職人の手により、すぐに白砂糖へと製糖される。釜から樽へ、職人だって拝めるのは寸の間だ。先代は原料糖を仕入れていたというが、鹿の子は生まれてこのかた現物を舐めたことも見たこともない。製糖前の砂糖をどう扱ってよいのかなど、皆目見当もつかないのだ。
鹿の子の頭には先代の菓子手帖がちらついた。
「ラクはなんで、わたしの場所がわかったん?」
「たまたま、賀茂乃におった。たまたま、クラマをみつけたんや」
ラクはこの日、主上と更衣の文の懸け橋に忙しくしていた。はじめは主上の手紙を賀茂乃にある更衣の実家へ届けるだけの役だったのだが、その文を読んだ更衣が涙で紙を濡らしながら返し文を渡してくるものだから、当然その日に届けたい。月明を通し主上へ文を上げてもらったところ、座る暇もなく新たな主上の文が下げられ、賀茂乃へ戻ったというわけだ。更衣が納得した様子だったので安堵のひと息。さて小御門家へ帰ろうかと手綱を引けば、白い毛玉が通せんぼ。お稲荷さまがなんの意地悪やと見下ろせば、その口の端にはラクが鹿の子へあげた紅裂がそよいでいるではないか。両足あげて遁走をはかる毛玉を、ラクはがむしゃらに追いかけた。慣れない乗馬が上達したものだ。
「もうとられるなよ」
厩舎の前で鹿の子を下ろすと、ラクは風で乱れたお団子に紅裂をきつく結んだ。
鹿の子は沁々と思う。
再び結ばれた紅裂は、昨日よりずっと大切に思える。
先代の菓子手帖が開けないのは、開くのを戸惑ってしまうのは、その未来にラクとの訣別が待っているからだ。
ラクと添うことが運命なら、ラクを幸せにできる人間が自分以外にいないのなら、手帖は開けない。
そして、自分の心は久助さんにあってはならない。
「鹿の子……? 鹿の子!」
鹿の子は薄らぐ意識のなか、小さな胸にそう結んだのだが、しかし――。
*
昏倒した鹿の子は夢の中にいた。
東雲の空に浮かぶような、ほの明るい雲の世界。
足にたこできるくらい歩いたはずなのに、不思議と疲れはない。この世界が朝を刻んでいるからだろうか、むしろ清々しさまで感じていた。
絹のようにたなびく霧を手のひらですくう。しっとりと温かく、かまどにはびこる煙のようだ。それでいて、心地好い。
真っ白な情景に鹿の子が酔いしれていると、背後から悲鳴まじりの女の声が聞こえた。
『やっぱり、こんなんあかん。あかん、あかん、あかん、あかん……!』
振り返れば、頭にお団子ふたつくっつけた姫君が両手を拳にして立っていた。お団子というよりは包子のようにひしゃげ、尻尾に三つ編みがついている。背は鹿の子より少し低く、礼服を思わせる豪奢な着物を身にまとっていた。細帯であったり、股がない下衣など鹿の子が見たことがない衣裳だ。
ぱつんと整った前髪の下は白いお皿に華やかな顔立ち。顔の印象のほとんどを目が司るほど、大きなまなこを持っている。
鹿の子は異国のお姫様だろうかと思い、深々と頭を下げた。
「はじめまして。どうかされましたか」
『どうも、こうも、あるわ! なんやねんっ、お前! あっさりラクに乗り換えようとして、妾を差し置いてっ、妾を差し置いてっ、ラクと、ラク、と、ラ……』
包子頭の姫君は大粒の涙をぽとぽと落としながら、しどろもどろ話し続けた。
『ク、ラクと結ばれるなら、このまま閉じ込められたままでいいと思うた。お前の身体におれば、死ぬまでラクと居れる、子供も産めるから……っ! でも、やっぱりこんなん、あかん!』
「わたしのからだ……?」
鹿の子は小首を傾げ、やがてむっつりふてくされた。
もしかして、この姫君は自分の腹の虫ではなかろうか。そうだとしたら、いくら食べても胸がふくらめへん理由が納得いく。
鹿の子に恐れられると踏んでいた包子の姫君は、そのむっつり顔にいきり立った。
『ラクが幸せになるんなら、まだ許せた。それやのにお前は、あろうことか式の神を選んだ!』
「選んだわけでは」
『選んだ。心はそう決めている。これからもラクへ心が移ろうことはない。お前にとってラクは永遠に、ただの幼馴染や。それやのに、それやのに、あろうことか情けをかけようとするなんて』
ラクかわいそうっ、と袖で顔を覆い、再び泣きむせぶ。
そんな包子の姫君の様子に、鹿の子はすんなりと納得がいった。
泣いてしまわれるほど、ラクを想うてる。このお姫様はわたしの腹のなかでずっとラクを想うていたのだ。ラクといると胸があったかくなるんはこのお姫様の心の声だとしたら――。
「ラクのことがお好きなんですね」
鹿の子が思うたままを口にすると、包子の姫君はきっ、と睨みをきかせた。
『好きや。ラクはお前にしか興味ないけどな。改めて目の当たりにすると、こんなちんちくりんの小豆、どこがええんか全くわからへん』
「わたしもそう思います。お姫様の方がずっと綺麗やのに。……え、と、名前なんでしたっけ」
『えっ……、き、き、綺麗? まぁ、そうやけど? わ、妾の名は炉じゃ』
「イロリさん、イロリさんほどお綺麗な方なら、きっとラクは一目で惚れますよ」
『えっ、嬉しい……。ち、ちがう、ラクを見くびるな! ラクは見た目で惚れるような男ちゃう! それに、……妾は、妾は、ラクに何度も逢うてる』
「まぁっ、会うたことあるんですか!」 腹の虫が?
「いつ? どこで?」
『え、えーと、あれは六年前のやな……。まあ、あれや。なんや、こんなとこじゃあれやから、場所移してお茶でも淹れよか』
「わたしがお抹茶点てますよ」
『ええの? 一度お前の抹茶飲んでみたかってん、そうと決まればこっちこっち』
余程飲みたいのか話したいのか、イロリの顔がパッと華やいだ。
イロリが鹿の子を手招きする度に、白い霧が晴れていく。そこは雲のなかではなく、鹿の子の肌に馴染んだかまどの茶室だった。
夢の中でも居心地がいい。
安心した鹿の子はいつものように茶釜の水が沸くのを見届けながら、話を蒸し返した。
「それで、いつ知り合うたんですか」
『生まれた頃から知っとるで。男として目掛けたんは、ラクが十二の頃かのう』
十二歳と聞いた鹿の子は肩を跳ねさせて喜んだ。
自分も同じ頃にラクを意識し始めたので、知れずと共感できたからだ。
『妾を恐がらんのは、ラクだけじゃった』
イロリもすらすらと言葉を滑らせていく。
『無理せんでええ。自分らしくおればええやないか。ラクはそういうて、頭を撫でてくれた。その時の夕闇がまた綺麗で、どきどきした。こうして瞼を閉じると、今でも夕闇に光るラクの顔ばかり思い浮かぶ。こんな想い……初めてじゃ』
「へぇ、素敵」
茶筅をふりながら鹿の子が相槌をうつ。
『ずいぶん昔の話じゃが、人間の精気を食らっておった頃を思い出してのう、それからは猛進じゃ。なんどラクを押し倒したことか』
「へぇ、素敵」
『妾の話、ちっとも聞いとらんじゃろ!』
「イロリさんは、ラクのどんなとこが好きなんですか?」
『ほれみぃ、やっぱり聞いてへん! ……ぇえーっ、そんなん恥ずかしくて言われへん』
「まぁ、何を今さら」
今さらだ。イロリはすらすらと恥ずかしい言葉を言いたてていく。
『そうやなぁ、顔は上下左右どこからみてもかっこええじゃろ? 百姓仕込みの肉体もたまらん。村一番のお利巧さんやのに頭悪いなんて謙遜して、よう働く。思いやりがあって、真面目で優しくて、なにより、なにより』
「はい」
『…………一途や!』
妾の色仕掛けが効けへんなんてぇっ、とイロリは泣き崩れた。その手元に鹿の子がそっと茶器を置く。
「その想いは、伝えたんですか」
『……言った。でもラクは鹿の子の一点張り。見事な玉砕やったで』
その日を思い出しているのか、イロリは抹茶を啜りながら目を細め、もの懐かしさを漂わせた。
『あぁ、美味しい』
イロリは一気に飲み干すと茶器を置き、最後の忠告にのりだした。
『お前がラクを好いたらええと、思った時もあった。せやけど、お前の心にラクはおらん。二度言う、もう情けをかけるな。ラクを泣かせたら、絶対に許せへんから』
――ラクに会えない。
そう思う度、鹿の子の頭には捨てがたい望みがよぎる。
「んでも、わたし子供が欲しいんです」
お世継ぎ作りは大店の長女に生まれた、鹿の子の宿命だ。ちいさい頃からそう心に刷り込まれている。
その言葉に、イロリの大きなまなこがぎらりと赤みをおびた。
『あきらめ。子孫を遺せんのは神を好いた女の、さだめ』
はっきりと言い捨て、イロリが颯と腰を上げる。
『ほんまは菓子も食べたいとこやけど、もう時間がない』
「またお会いできますか」
『どうじゃろうな。妾もよくわからんのじゃが、お前が死にかけた時だけ、会えるらしい』
「え。死にか、け――」
途端に白い霧が膝下から溢れ出してくる。腕を組んで首を傾げるイロリは、たちまち霧にのまれていった。
やはり霧はかまどの煙のようだ。
目に滲み、鹿の子は強く瞼を閉じた。
瞼裏に映るのは、
――久助さん。
青雲柄の小袖袴。御饌皿をさらっていくしなやかな手先。肌に吸いつくような烏色の髪。
池の水面に映る、華やかな笑み。
温かくて、甘くて。
かけがえのない――。
甘くて。
生温かい砂糖水が喉に流し込まれていく。
夢から覚めたことに気がつき、鹿の子は瞼をゆっくりと開いた。
「――――っ、久助さ」
名を呼びかけ、またすぐに唇を塞がれた。
流れ込んでくるのは甘いひや水。
絡まる舌は火傷してしまうほど熱い。
こくん、こくんと飲み込むが細い喉に追いつかず、咳き込んだ。
「けほ、久、助さ」
「ぁあっ、よかった……っ」
久助に強く抱きしめられた鹿の子の細い身体は、蛇のようにしなった。
腕も上がらない倦怠感に、これが現実だと鹿の子は噛みしめる。久助の背中に手を延ばすことができず、ひどくもどかしく思った。
久助が身体を預けたままの鹿の子の頭を、割れやすい皿を抱えるように優しく持ち上げる。
鹿の子の瞳に映る天井は、自分の寝所のずっと高いところにあった。
「久助さん、ここは……?」
「本殿の中です」
昏倒した鹿の子の懐で、クラマは鹿の子の命の灯火が消えかけているのを嗅ぎ分けた。より浄らかな空間で霊力を補わせようと本殿へ運ばせたのだ。
本殿の冷たい板間にはいくつも火桶が置かれ、むせぶほどに暖が焚かれている。鹿の子の袖元には直会のおかずの椀が数え切れないほどに並び、ひや水は桶いっぱいに満たされていた。
久助が柔らかに微笑む。
「ご自分ではまだ、召し上がれませんか」
そう言って唇を近付けてくるので、鹿の子は動かぬ身体を懸命に捩らせた。
「じ、自分で食べられますからっ」
「それは残念」
しかし箸を探そうと動かすその細腕は手首も上がらない。
「口移しはもうしませんから」
「は、はい」
ずい、と鹿の子の口元に現れたのは、ぷりぷりの牡蠣。ぷるんと揺れるお尻に腹の虫が鳴る。イロリさんが食べたがっていると踏ん切り、鹿の子は牡蠣の下で唇が白くなるほど口を開け、落ちてくるのを待った。程なくして訪れた、濃厚な磯の甘味。
「おいしい〜っ」
「それはよかった」
久助は鹿の子の咀嚼にあわせ、次々と箸を運んでいった。いつもの三倍の量をらくらくと吸い込んでいく。
からんからん、と軽い音をたてて空になった皿が積まれるなか、少し離れたところに菓子皿があるのを鹿の子はみつけた。
「御饌菓子……? でも、わたしが作ったんと違う……」
鹿の子が今日の御饌に準備した菓子は落ち葉を見立てたまあるいきんとんだ。しかし菓子皿の上に乗っているのは四角く固そうな菓子。誰が作ったのだろうか、どんな菓子だろうかと、鹿の子はそちらの方角へ首を傾けた。
「このしみは……、溶けてる? っ、――ん」
久助の荒々しい口づけにより、言葉とともに視界が遮られた。
流れてくる液体はひや水ではない、熱い舌に這うそれはドクダミ草のような薬品の香りが微かに感じられる。
「おやすみなさいませ」
久助に見送られながら、鹿の子は再び意識を手放していった。




