七‐東の院(下)
霜月に入ると、月明はお火焚き祭りの準備で後援者への挨拶回りに忙しくしていた。その侍従であるラクが東の院へ下ったのは、丑三つ時だ。
門前でそわそわと足踏みをするクマをみつけ、何かあったのだろうかと砂を蹴り駆け寄った。
「どうした、クマ」
「おお、ラク」
鍛え上げた腕を交え、いつもの挨拶。
クマは大あくびをして、「番兵がわりや」と笑った。
「番兵?」
「俺の質問に正しく答えられたもんだけが、この門を潜れる」
「なんや、偉そうやな」
これまた番兵らしく、胸を張る。
クマが力比べ以外で喧嘩売ってくるとは珍しい。どんとこい、とラクは疲れまなこをこじ開け、負けじと胸をせり出した。
「まず一問。酒は呑んだか」
「一滴も呑んでない」
頭に両手をあげ、円を作るクマ。
よっしゃと拳をあげるラク。
「二問目。お前の仕事は」
「旦那様の侍従――」
言いかけて、それは違うなとラクは首を振った。
「いや、その前に東の院の御用人や」
「その役目は」
「まっとうできてない」
「俺にすまんとは」
「思う。――て、なんやこの尋問は」
クマが満足げに鼻を鳴らすので、ラクはあげた拳をクマの分厚い胸板へ、ぽすんと入れた。
クマはやられたら、やり返す。
「おりゃあっ」
クマの張り手がどすこい、ラクのみぞおちに入った。
「がはっ、――ちょ、お、おま、手加減しろや」
「鹿の子さんには」
「あ?」
「鹿の子さんには、悪いと思うてんのか」
「鹿の子……?」
その名を耳に入れただけで、ラクの胸はぎりぎりと痛む。
会いたさと、悔しさで。
ここでクマにやり返したら、八つ当たりも甚だしい。しかしクマが「こいや」と笑って挑発するものだから、ラクは甘えた。
「ああ、思うてる! いつも、いつも!」
ラクは狩衣の袖をふり、今度は思いっきり拳を振り上げたが、
「合格や。御寝所で鹿の子さんが、待ってる」
クマの鼻先で、ぴたりと止まった。
*
鹿の子はひろいひろい御寝所のど真ん中、御帳台の前でひとり、ぽつんと小さな火桶を囲い座っていた。
「今日はよう冷えるねぇ」
細い肩を震わせて、白い夜着一枚で。
今日が特別寒いわけではない。御寝所が広すぎるだけだ。この半分もない別邸なら火桶ひとつで暖は足りるだろう。
ラクは昇ってくる血をせき止めるように歯を食いしばって肯き、端に寄せてある衣桁へと足を向けた。几帳のように豪奢に並んだ袿を何枚も引っ張り出して、ばさばさ鹿の子へ被せる。鹿の子は袿に丸められ、雛人形というよりは、三角いなりになった。
「風邪、ひくやろ」
その隣にラクがどかん、と座る。
「あ……その、ラクの帰りが遅いて、クマさんが言うてくれたから、今ちょうど寝ようと思うて」
「待たせて、すまん」
「ううん、わたしこそ急にごめんね。約束も何もせんと」
「約束なんかいらんやろ、鹿の子はこの邸主や」
「うん……」
会話が途絶える。
中庭からは遅咲きのコオロギの音が鳴っていた。
「俺のこと、待ってたって。……クマから、きいた」
このまま気まずくては、また鹿の子の足が東の院から遠退いてしまう。
――自分は、東の院の御用人。
何度も頭ん中で反復させながら、
「何かあったんか。――いや、違うな。仰せ事でございますか、東の方」
にへら顔を緩め、ラクはようやく鹿の子を見た。
「なんや、お揚げさん被った赤飯の小豆みたいやな」
「ラクがやったんでしょうっ」
「そうか?」
そうでもしないと、隣に座れない。ラクにとって鹿の子はそれほど魅力のある女でいて、貴いものだなんて、本人は知らない。
ラクは懐の懐紙袋から懐紙一枚取り出すと、一欠片の黒砂糖を乗せて、鹿の子の膝先へ滑らせた。
「ぁあっ」
鹿の子は懐かしの黒砂糖に目の色を変えて飛びついた……が、三角いなりから手が出ない。食べたくて食べたくて、ちいさい口からよだれを溢しながら、ラクをじととみつめる。
身から出た錆かいなとラクは観念して、鹿の子の口に黒砂糖を放り込んだ。
「あむ。……んん〜っ、美味しい!」
「そんなに美味いか」
「うんっ! っあ……ごめん、ラク。今日、お菓子なくて」
残ったおこしはみな小薪の腹のなか。
「ああ、クマから聞いた。俺はいい、直会でお火焚き饅頭食べられたからな」
「お火焚き? ……あっ! 嬉しいっ、気付いてくれたん」
「ん? 当たり前やろ」
同じように黒砂糖で頬を膨らませたラクが、言葉通り当然のようにきょとんとしたので、鹿の子は嬉しくて嬉しくて、瞳に涙を滲ませた。
今日の御饌菓子は紅白のじょうよ饅頭だ。一見、なんとも普通な饅頭。お稲荷さまが見れば、二個あって「まあ、お得」と上機嫌になる程度。
この紅白饅頭、なかの餡に柚子の果汁と柚子練りを加えている。柚子練りとは柚子皮を砂糖で甘く煮詰めたもの。饅頭であり、柚子をまるごといただける、霜月の菓子だ。
では何故ラクがお火焚き饅頭と言うたのかというと、村ではこの紅白饅頭がおこしとならぶ、お火焚きのお供えだったからだ。糖堂で作るお火焚き饅頭は、紅白饅頭におたまと呼ばれている火焔紋の焼き印を押して飾り立てる。霜月はちょうどさとうきびの収穫期、糖堂のお火焚き祭りは一年気張った百姓を労うためにあった。家の人間総出で饅頭こしらえて、村中に配り歩いたものだ。美味しい饅頭を食べた村民はみんな、来年も立派なさとうきびを育てよう、美味い砂糖を作ろうと頑張れた。
鹿の子はあかやまの向こうのみんなを思い、御饌に紅白饅頭を上げたのだった。
「懐かしいなぁ。ラクったら、神棚にお供えするまで我慢できんと、盗み食いしては怒られてたね」
「言わんでくれ、今は反省してる」
「反省?」
「俺な、修行して初めて知ってん。お火焚き饅頭をお供えする理由」
お供えには意味がある。
お火焚き饅頭はおこしと同じように、五穀豊穣を願う供物だ。
お火焚き饅頭の焼印は、収穫が終わった畑に再び大地の火を点けようという印し。お火焚き饅頭に柚子を使うのは、旬の果実であり、神様が好む香りだからだ。大地の恵みを饅頭にぎゅっと詰めて、神様に食べてもらい、自分たちもそのおさがりをいただく。同じ饅頭をいただくことで、神様の加護をいただく。村をあげての直会だ。神の力を備えたその腕で畑を耕せば、畑は肥え、来年には見事な豊穣となるというわけだ。
鹿の子は瞳を震わせ、感慨深く、ラクの話を心に聞き入れた。
「すごい……」
「やろ? だから今日はよう味わって食べたで。今すぐにでも、畑を耕しに行きたい気分や」
袖をまくり上げ、鍛えた腕をみせる。
その動きや表情は十二の頃と何にも変わっていない。百姓をやめて村を離れても、旦那様の侍従になっても、ラクはラクのまんま。
鹿の子は御饌を出す時、少し不安だった。
焼き印がない地味な饅頭がお火焚き饅頭だと、ラクは気付いてくれるだろうか。
そんな不安を吹き飛ばすくらいラクは、決まり切ったように覚えていてくれた。畑を思い出してくれた。
鹿の子はラクが御用人で、本当によかったと思った。
「わたしね、お世継ぎづくりに来たんよ」
だから、笑って言えた。
「あっ、ラクがよければの話やけど」
袿のなかであったまったのか、恥じらっているのか。自分でもよくわからず鹿の子の顔は夜目にも鮮やかに上気した。
ラクは一瞬、驚いて後ろへすっ転びそうになったが、その言葉を胸で噛み砕くと、素直に喜べた。
今から鹿の子を抱けるとか、まだ自分にも可能性があるとか、そういった意味ではない。
鹿の子にとって、ラクは東の院の御用人。
修行に明け暮れ役を全うできなくても、そばにいてやれなくても、その立ち位置は決して揺るがないことが証明されたからだ。
胸のわだかまりが消え、ラクは今初めて、邸主を迎えられた。
「ありがとう。でも、無理はするな」
「む、無理してなんか」
「まあ、二月前やったら押し倒してるけどな」
ずい、と顔を近付けただけで、鹿の子は顎をひく。拒みたいくせに、受け入れようとじっと待つ。そんないたいけな幼馴染を、傷付けることなどできない。
ラクは押し倒す代わりに、鹿の子の頭に乗っかったおだんごをぐりぐり撫でた。
「押しても、なんもでてけぇへんな」
「でてきません!」
「よし、うん。似合ってる」
「へ……?」
顔の前に手鏡が現れ、鹿の子が覗きこむと、お団子にはえばえしい紅裂が蝶々結びで結ばれていた。紅裂とは、町娘が前髪をまとめる紅い布切れだ。
ラクは明るい顔をはにかませ、鏡越しに喋った。
「簪買ったろうと思うたんやけど、どんなんがええかわからへんし、御用人の小遣いじゃあ、これが精一杯やった」
きゅ、と控えめに結ばれた紅裂はお団子に見え隠れ、程よく馴染んだ。思わぬ贈り物に、鹿の子がない胸膨らませ「ありがとう」と笑うと、ラクも笑った。悲しげに、切なそうに。
「なぁ、鹿の子。俺な、久助さんに感謝してんねん」
ラクは鹿の子のそばに居れないことを、ずっと悔やんでいた。
御用人として王都へ上がったというのに、それらしいことを何一つできていない。かまどに閉じ込められた鹿の子を救うこともできず、出られた後も修行に託けて自分から足を踏み出せなかった。
たまに鹿の子が東の院へ帰ってきても、二人で過ごす時間はまるでおままごとのような、仮初めの世界。
久助は違う。
恋結びに映った久助は最初からずっと鹿の子を支えていた。急かしたり、励ましたり。冷たい一言も、ただの挨拶も、かまどでひとりぼっちの鹿の子にとって、かけがえのない宝物だった。月見団子を作った時も、野分のあとも、いつだって鹿の子のそばで勇気づけていた。
閉じ込めた張本人のお稲荷さまが、鹿の子とくっつくのは気に食わない。何より、鹿の子がお稲荷さまを好きになる理由がどうしても解せなかった。
だが久助は違う。鹿の子の久助への想いは、笑ってしまうほどごもっともな話で、眩しくて、ひたむきなものだった。
「久助さんが居ったから、鹿の子は気張れたんやな」
ラクに言われて初めて気付いた鹿の子は、ぽろぽろと涙を落とし、こくり頷いた。
「それに比べ……、俺は腰抜けや。いつも見ているだけやった」
小御門に来てからの話だけではない。鹿の子が花嫁修業に実家で閉じ込められた時も、嫁に行く時も、見ていることしかできなかった。糖堂の旦那に背中を押してもらったというのに、それでもみているだけだった。
――しかし、ずっと見てきたからこそ、言えることがある。
「鹿の子はずっと無理してきた。誰よりも頑張った。だからもう、無理はするな」
家の為に、村の為に小御門へ嫁いで。
お稲荷さまの為に、妖し等の為にかまどに立って。
小御門家の為に、側室の務めを全うして。
ずっと頑張ってきた鹿の子が好きな男と添うことに、なんの罰が下されようか。
たとえそれが式の神だろうと。
「ひとつくらい、自分のわがまま突き通したれ。な?」
「っ、んでも、わた、しは」
「そんな思いつめるからあかんねん。鹿の子はまだ十八やぞ? お世継ぎ作りの前に恋のひとつやふたつ楽しもう、くらいに考えたらええ」
「んでも」
「んでも、はなし!」
見てきたからこそ、恋結びで鹿の子の想いを知ったからこそ、送り出せる。
「俺は東の院の御用人で居る限り、ずっとここで待ってるから」
自分でも情けないことを言っているとは思う。それでも今、鹿の子に与えてやれる言葉は、それ以外に思いつかない。
鹿の子をずっと見てきたラクの使命であり、贖罪だった。
――この紅裂だって、いつ買うたか、自分でも忘れるくらい昔の話だ。
泣きじゃくる鹿の子のお団子から、手を離す。
「黒砂糖食べたなったら、いつでも来いや。たんまりあるぞ」
最後にラクはそう笑い言い、邸の奥へと消えていった。
*
翌朝、薄暗いかまどでひとり、鹿の子はぼんやりと昨夜のことを思い返していた。
ラクは待っていてくれる。
この言葉に甘えていいのだろうか。
もちろんよくない。月明へ言えば、すぱんと峻拒することだろう。しかし、内に久助への想いを秘めたまま、ラクと向き合うことは最早、自分にはできない。恋結びで想いの丈を知られているだけに、尚更。昨夜みたラクの、切なげな顔を思い出す度、そう思う。
口の中で甘くほのかに残る、黒砂糖の渋み――。
久助への想いはくどくほろ苦い、この黒砂糖のようだ。甘味のように待って消えるのなら気が楽な話だが、この想い。まるで水桶にはねた油のようにつかみどころなく、消えない。
「ほんまに……、ええんやろか」
その一方で子供が欲しいと思う、欲張りな自分がいる。小薪の家族をみていると、賑やかでいいなぁと思う。お世継ぎにはなれなくても、自分に似て霊力がなくても、子供は欲しい。他所の子供が可愛いのだ、自分が腹をいためて産んだ子供はどれほど可愛いだろうか。お世継ぎづくりの相手を思い浮かべると、やはりラク以外に考えつかない。久助さんは神様だ。望めない以前に、そういった関係になる様子が想像できない。ラクなら、優しくて思いやりのあるラクとなら、幸せな家族が築ける。
さっぱり割り切っている自分に、鹿の子は恐れおののいた。
「ええわけないやろ。誰が許すか」
御出し台の上から落ちてきたのは、世にも恐ろしい雪の声。
鹿の子の小さい肩はびくぅっ跳ね上がった。
「お、お義母さま」
「あらまあ、鹿の子さん。そんなびくびくして蛇でもでたん?」
次には甘ったるい声色でにたりと笑った。
先ほどの怒号は、自分の幻聴だったのだろうか。
今日の雪は上機嫌も上機嫌。にこにこと目を弧にして、袖に手を突っ込んだ。
「これ、鹿の子さんに、あげるわ」
そう言いながら、鹿の子の顔前に出したのは、えらい紙がすり減った分厚い手帖。
「これは先代の御饌巫女の菓子手帖や。弟子の頃からずっと、書き記したもんやから、御饌の総てがここにあると言っていい」
「先代の、菓子手帖……!」
鹿の子は目の色を変えて喜んだ。
これだけ分厚ければ、きっと落雁の作り方も書かれている。御饌のしきたりも知ることができる。
雪の手から手帖を受け取ると、鹿の子は神様からのお恵みのように、天へ掲げて感謝した。
「お義母さまっ、ありがとうございます!」
「所詮、私は姑。嫁にしてやれることは、いびりくらいでしょう? せめてひとつくらい力になりたくて、探してあげたんや」
誰かさんに盗られる前にな、と小声で締めくくる。その間、鹿の子はいびりは好意やったんですかぁ、と心の中で叫んだ。
「んでも……、こんな大事なもん、わたしが持っていてええんでしょうか」
「今は、お前が御饌巫女や。お前がもたんで、誰が持つんや。――ただし」
雪は狐目を吊り上げ、にたぁと笑った。
「ラクを、あきらめ」
鹿の子の心臓が、どくんと跳ね上がった。
当然、ただではくれないだろうとは踏んでいたが、「ラク」この二文字が雪の口から放たれるとは。
鹿の子は女童みたいに真っ直ぐ雪を見据え、尋ねた。
「どうして、ラクなのですか」
「簡単や。生涯、御饌巫女に精根を尽くすこと。それが、その手帖の対価や」
雪は颯と母家へ足を向け、振り向き様に答えた。
胸元にぎゅ、と手帖を抱きしめる、鹿の子へ二度、にたぁと笑う。
「開いたら最後、一生かまどの嫁や」
妖狐の高笑いはその日一日中、鹿の子の耳に貼り付いた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
私事で申し訳ないのですが、次の更新は一週間後になります。
宜しくお願い致します。




