二‐節介
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それでも鹿の子にとって、今では懐かしい思い出だ。
あれ以来旦那様とはお会いしてないし、御寝所にも神殿にも呼ばれることはない。だが鹿の子は決して悲観することなく、旦那様を恨んでもおらず、感謝さえしていた。旦那様は恩情を以てわたしに仕事を与えてくださった。心からそう思っている。
霊力がない嫁は嫁として扱えぬ。だが嫁いだばかりで離縁は気の毒であるし、体裁も悪い。置いておくには務めがいるが、霊力も力もないちっさい嫁に、できる仕事は釜の見張り番くらい。そう思うて、かまどに嫁がせてくれたのだと。
田舎娘のわたしがなんの仕事もなく離れ邸に放っておかれたら、心に虚が巣くっとったやろう。
そんな風にまで、旦那様に感謝していた。
御出し台にのった紙束にふと目をやる。鹿の子と同じ、白い地の色を灰かぶりにした薄汚い手帖。半年でずいぶんと分厚くなったもんやなぁ、と鹿の子は目を細めた。
御饌菓子に決まりはない。
最初は「小御門の菓子は」「御饌とは」と雪に教えられるがまま作っていたが、いつだったか御饌飴を出した翌日から、それはぴたりと止んだ。
季節外れでなければ好きに作っていい。
そう言われ、鹿の子は手帖を作った。
砂糖売りの娘は、砂糖を売るためにいろんな菓子をつくる。もちろん、砂糖を売るための菓子を売ることもある。何千とある菓子のなかで気儘に御出ししてたら、お稲荷さまの好みがわからなくなってしまう。だから、お稲荷さまの「おかわり」があった菓子だけ、作り方を紙に残していった。特に旬のものを使った菓子は特別なしるしをつけ、季節順に並べる。そうすればお稲荷さまが好きな菓子が最も美味しい時期に作れる。
懐紙を紐でまとめただけの簡素な手帖。
分厚くなった分だけ、神様に認めてもらえた気持ちになれる。
少しだけ、自分が誇らしく思える。
考えれば考えるほど鼻先で煮てる小豆みたいに煮崩れていった心も、小豆を濾していると、しっとりなめらかになっていく餡みたいに、不思議と心が穏やかになっていった。
「しもた、氷を忘れた」
餡に寒天水を絡めながら鹿の子は、はっと正気に戻った。氷で冷やさなければ、とてもじゃないが送り御膳に間に合わない。拝殿渡る巫女さんに声をかけてみるが、とうぜん耳も貸さず消えていく。
物思いに耽るから段取りもようできんのやと自身に憮然としながらも、あたふた周章していると、表から愉快な笛囃子が聴こえてきた。ちょうど氷売りが来たところらしい、今日は運がいい。
氷を運んでるのは、なんとラク。これまた、なんと運がいい。
「ラク、久しぶり!」
「鹿の子っ、鹿の子やないか!」
氷をもらうつもりがすっぽり頭から抜けて、鹿の子はラクへ真っ直ぐに駆け寄っていた。
無理もない、ラクに会うのは半年ぶり。御用人が聞いて呆れる。
ラクも「奥方様」はすっぽり頭から抜けたようで、氷といっしょに鹿の子を小荷物にして担いでいった。
あそこなら少しの間くらい、みつかれへんかもしれん。そんな淡い期待を胸に抱き、まるで人拐いのように。足を掻き、息を潜めながら。
*
「うひゃあ、どないしよ」
捩れた骨をばさばさ広げ、慌てたのは唐かさだ。誰があけたんか、お稲荷さまの結界が寸の間ゆるみ、その隙間をぬって鹿の子が出ていってしまった。ラクの小脇に抱えられた鹿の子はもう、爪先も見えやしない。
かまどの嫁がかまどから離れる。
これは由々しき事態である。
久助さんに知らせなと、一本足で砂を蹴ったところをむんず、何者かに足首をとられた。
「うひゃあ、なにすんねんっ」
「日傘に調度いいわね」
唐かさが内へ目玉をぎょろり、動かしてみればなんとまあ、西の奥方様ではないか。
「さては、うひゃあ。かまどの嫁を外にだしたんは、西の方」
「だって可哀想じゃない? かまどに閉じ込められて、恋ひとつできないなんて」
「罰あたりな。お稲荷さまに祟られても知らんで」
その様子を想像し、うひゃあ、うひゃあと唐かさが啼くが、西の方は怖くもなんともないようだ。
「私はそろそろ、おいと間する身ですもの。お前たちがご機嫌ななめの神様に八つ当たりされるだけのことよ」
西の方はそれはそれは華やかに微笑み、さも幸せそうに腹帯を撫でた。花模様が手織りされたその腹帯は、少しせりでた腹を包んでいる。風成では出産は不浄とされており、懐妊した女は生家へ帰される。西の方はお稲荷さまの手に届かぬ青龍山の向こう、祟られる前に実家へ帰りますという訳だ。
ならば当然、西の方の言う通り八つ当たりはあるだろう。今日は念願の小豆菓子だというのに食えんやも。八つ当たりよりそっちの方が悔しいと、唐かさはしょぼくれた。
「お前は私の日傘だ。玩ばれ可哀想なやつだと、切れ端くらいは貰えるだろうさ」
だから西まで付き合いなさいと、唐かさはそのまま連れ去られてしまった。
ではかまどの嫁はどうしたかというと、鹿の子もまたラクという幼馴染みに、狭い氷室へと連れ拐われていた。
小御門家の氷室は母家の地下奥深くにあり、真昼でも仄暗い。また氷をいれたばかりなもんで、小さい鹿の子でも下ろせばぎゅう詰めの狭さだ。
下ろされてすぐ、鹿の子の顔ははだけたラクの襟元にすっぽり入ってしまい、その彫り深い肉体の釘付けになった。
「ラク、また一段と逞しくなったんと違う」
「すまん、汗臭いやろ」
「ううん、そんなことない」
ラクはいつでもどこでも、お日さまの匂いがする。風成に来ても変わっていなくて、鹿の子はほっとした。
だがしゃきっと頭が冴える冷たい氷室で和んでもいられない。小御門家の男手不足は本当だったようで、力持ちのラクはいく先々で用付けられ、朝から晩まであちこち走り回っていると聞く。
「使い走りにされて、辛いでしょう。ごめんな」
かまどの嫁の御用人や、周りにさぞからかわれとる。わたしが側室らしい側室やっとれば、ラクだってそれなりの待遇を受けられたやろうに。
鹿の子はずっと申し訳なく思っていたことを、屈強な胸板に謝った。
「なにをいうねん、鹿の子が、鹿の子がいちばん辛いやろに」
「わたしは辛くない。菓子作りは好きや」
「せやかて、一度も東の院へ帰っとらんやないか。朝から晩まで寝ずの番と聞く」
「それはそうやねんけど」
鹿の子の住居として調えられた東の院へは、ラクの言う通り一度も帰っていない。
母家と拝殿を繋ぐ渡り殿。その片隅にある御饌かまどが、鹿の子の棲みか。
一畳一間のかまどには、同じく一畳一間の納戸がある。畳みが敷かれているし、ちいさい鹿の子にはこの狭さがなかなか居心地が良い。粉や砂糖も一緒に寝るから寂しくないし、布団もあれば膳もでる。膳は神饌の残り物だが、さすが巫女さんの作る料理は美味しい。食養になっているのか、布団に入らぬ日が続いても不思議と身体は丈夫なものだ。
「納戸で残り物やと。側室が、聞いて呆れる」
ラクは小御門家の奥方の暮らしを目にみて知っている。美しい着物に金銀の簪、趣味に興じては暇になると街へ下り、賽銭を食い潰す。気まぐれに拝殿寄っては明日つかう小遣いをせがみ、旦那様に呼ばれぬ寝入りには「子守唄を」と舎人を寝所へ入れ、淫靡な声を邸に響かせる。
それが鹿の子はどうや。嫁いで半年、一日も暇をもらえず、家に尽くしても感謝ひとつされへん。田舎ではいつも小綺麗に着物を着こなしていた幼馴染みが、まるで舟にのって川に浮かぶ遊女のように、単衣一枚で肌を晒している。より一層白くなった肌を、火で傷めて。いくら舐められてもいいからとて、奉公人より扱いが酷いではないか。
それでも楽しいと気丈に笑う鹿の子を前に、ラクは打ちのめされた。
「鹿の子……、鹿の子。きれいな顔が汚れて、痩せて。こんなん、あかん。諦められへん」
ラクの大きな手が鹿の子の小さな背中にまわると、まるで包み込まれたようになる。氷で冷えた身体に温かく、ほっと見上げればラクは心底悲し気に、派手な顔立ちをすぼめていた。
人のぬくもりは火の温もりとは別物だ。気丈にしていたつもりが、ひと恋しさだけは菓子で埋められない。その心地好さに身を委ねようとした、その時だった。
ばちん。
ラクが履いてる草履の、鼻緒が切れた。
「……お稲荷さまが、お怒りや」
「お稲荷さまが?」
「鹿の子、氷、欲しいんやろ」
「はっ、そうやった。はよせな」
「運んだる」
久助が現れたのは、外出てすぐ。
境内の松林を背景に、浮世絵みたいに美しい佇まいで、陽炎に浮いていた。
「ラクさん、こないだ話したでしょう。かまどは男子禁制です」
「……はい」
「それと、旦那様がお呼びです。氷は私が運びますから、すぐに」
「はい」
氷は久助の細腕に渡り、ラクはそのまま拝殿へと消えていった。神殿に居る旦那様が直々にお呼びとは何事だろうか。用向きだろうが旦那様にお会いできるのだから、ラクが少し羨ましいと鹿の子は一人ごちた。
それにしてもかまどが男子禁制とは、寝耳に水である。今までラクに会えなかったことには納得がいくけれど。
「久助さんはええの」
「私は男違いますから」
「えぇっ」
吃驚仰天とはこのことだ。
綺麗やなぁと見惚れとった後ろ姿は、女の背中やったんか。
「人ではない、という意味です」
すぐに否定なさるということは男としての性は御持ちらしい。鹿の子はなぜかほっとした。
日頃の久助は旦那様に使役されているので、鹿の子がその名を呼んでも暫くしなければ会えない。今日は朝廷がお休みやから、一日神殿にいらっしゃるのだろうか。
小御門の神殿はお稲荷さまの社である本殿を奥に、弊殿、拝殿と三層で仕切られている。弊殿は本殿と拝殿の狭間にあり、宮司である月明が座する。
幣帛を供進しに詣った参詣者や神職等が唯一旦那様にお目通りが叶う場であると、久助がいつだったか話していたことを鹿の子は思い出した。ラクが潜っていった拝殿の簾を見据え、またいたずらにお顔が見えやしないかと窺うが、今日も風のない風成、簾は重く垂れるばかり。
この日の久助は珍しく氷割りも手伝ってくれて、鹿の子の菓子作りは思いの外、捗った。