六‐東の院(上)
盆のような冬満月に追いかけられ、馬に乗った月明が賀茂乃下を駆け抜ける頃。
かまどはちょうちんお化けの灯りの下、隙間なく妖しに埋め尽くされていた。今日も唐かさの足首は雪婆の皺くちゃの手に握られている。
挨拶も変わらず久助のかけ声から始まった。
「それでは、小御門総会を始めます」
変わったこともある。
久助の隣、それも着物の模様が重なる位置で鹿の子がちまりと座っている。
鹿の子の小豆顔を拝めながら仲間と語り合えるのだ、妖し等にとって喜ばしいことであるが、ちと近すぎやしないだろうか。
唐かさはぎょろりと目玉を土間へ下ろし、雪婆と見交わした。雪婆はしわもたるんだ頬を桜色に染めて、にやにや笑っている。見渡せば米とぎ婆も、火消し婆も。
独りだけなんだかいい気がしなくて、唐かさはべろんとだらしなく垂れていた舌をしまい、口をへの字に閉じた。
長い睫毛を重たげにうっとりと目を細めながら、久助がみんなに言い放つ。
「今日はお伝えしていた通り、先代の頃を振り返っていただこうと思います。特にこの落雁という、打ち菓子のことを」
今日の総会は他でもない、落雁作りにあぐねる鹿の子を見兼ねた久助が、先代の菓子を知る妖しを呼び集めたのだ。蓋を開けてみれば、あれまあいつもの仲間。
久助の細長い指につままれたその菓子を、みな揃ってじぃと見据える。
「ああ、こりゃ」
「御紋菓子だわ」
次にはうん、うん。懐かしいなぁと頷き合う。これは期待ができそうだと、久助は声高らかに答えを求めた。
「まずは、お味の特徴から。憶えている限りで結構ですので」
美味かった、甘かった、とにかく美味かった。
なんともひねりのない言葉が飛び交う。
思い出して流れてくるのは、よだれ。
久助は垂れたよだれの長い順に尋ねてまわろうと、まずは格子窓の外へ扇子を指した。
「はい、ぬりかべさん」
「ぬーりーかーべ」
のっけから詰まってしまった。
ぬりかべは自分の名前しか喋れない。
ゆっくり動く唇からぼたぼたと涎が落ち、外でよかったとみんながみんな思う。
そんななか唐かさは独り、口を結んだまま思い巡らせていた。
先代の御紋菓子は確かに美味かった。
格別であっただけに、札所からその菓子箱が消えた日には、みんな泣いて寂しがったものだ。もう二度と、元気いっぱいな先代は帰ってこない。そんな兆しを読み取って。
度々病床に伏せるようになった先代には、御紋菓子はあまりにも体力も時間も世話もかかる、難しい菓子だった。
汗だくになって砂糖を練る先代の背中。気遣って集まる妖したち。昨日のことのように目に浮かぶ。先代に替わって婆さまたちが砂糖を練って、納戸で休む先代を、唐かさが扇いで。そうだ、砂糖を練って――。
「砂糖」
唐かさは自分でもびっくりするような大きな声で、そう叫んでいた。すかさず久助がはいっ、と唐かさを扇子で指す。
「砂糖が、どうしました」
「砂糖、先代は砂糖を、御紋菓子の時だけ、いつもの砂糖を使っていませんでした」
「なんと。糖堂の砂糖ではないと?」
「いや、糖堂の砂糖には違いないと思いますが、えらい手間かかる砂糖で」
「手間がかかる砂糖?」
久助の口から出た「砂糖」を聞いて待ちきれなくなったのか、鹿の子が久助の袖をひく。久助が唐かさの言うたことをそのまま伝えると、鹿の子は指を組んで明後日に目を輝かせた。
「詳しく聞かせてくださいっ」
唐かさは鹿の子の期待に応えてやりたいが、婆さまたちが砂糖を練っていたことしか憶えていない。
その肝心の婆さまたちは、妖しのなかでも特に楽天的で過去を振り返らない、加えて老人ぼけなもんでちっとも憶えておらず、はてさて首を捻った。
自分も婆さまと並んで手伝っていたような気がしてきたのは小豆洗い。小豆洗いは今だ格子窓の向こうでよだれを垂らし続けるぬりかべを見てはっ、と目を見開いた。
「そういやぁ御紋菓子作るときゃ、いつもぬりかべが呼ばれとった」
「ぬりかべさんが?」
「なにかするわけでもなく、ただ先代に呼ばれたら、ずっと寝とった」
なぜ故にと、外へ尋ねながら無駄と気付く久助。
「ぬーりーかーべー」
鹿の子以外の全員が、深々と溜め息を溢した。
*
「いいお返事がきけるといいですね」
「はい」
受け渡された文を懐にしまうと、久助は別れを言う代わりに爽やかに笑い、かまどを去って行った。
――先代は糖堂から白砂糖以外の砂糖を仕入れていたらしいと聞きました。それはどのような砂糖やったのでしょうか。
かあさま宛の短い文は、二日もすれば届くだろう。
今日はかまど休み。
寂しさを感じながらも久助の背中を見届けた鹿の子はおおきな菓子箱を抱えて一人、東の方角へと下った。その後ろ手にはクラマ。両足浮かせてついてくる白いきつねを何度も振り返りながら、踊るようにして先を急いだ。
鹿の子は今日一日、東の院で過ごすと決めている。
背中にはかあさまにあつらえてもらった、初夜の祝い着が風呂敷にくるまっていた。
門前に着くと、鹿の子は邸主であるというのに控えめに門を叩いて、内から開けられるのを待った。あまりに小さな音だったので、誰も気付けなかったほどだ。クラマの鳴き声のほうがよっぽど大きくて、なんや野良が五月蝿いなぁと舎人が駆け寄りようやく開いた。
「こ、こんにちは」
「え……と、かまどの嫁が何の用で?」
なんや野良のほうがまだよかったと舎人は顔をしかめる。
無理もない、東の院には当主のご寵愛という繕いの、小薪の家族が住んでいるだから。舎人はなんやなんや、元側室が嫌がらせにでも来たんかいなと、通せんぼ。
では改めてと、鹿の子が菓子箱を差し出そうとした、その時だ。鹿の子の頭上にぬっ、と影が落ちた。ぬりかべではない、小薪の御用人クマである。
「これはこれは東の方、よくお戻りになられました」
「東の方?」
「えっ、……あ、えと」
「言うてくれたら迎えに行きますのに。それにいつもは裏から入られるのに、今日に限って真正面からどないしたんですか」
「それは……」
おどおど口ごもる鹿の子をみて、舎人が釘を刺す。
「クマさん、かまどの嫁相手に何をへつらってるんですか」
「お前は明日まで帰ってくんな」
クマはぽかん、とする舎人の背中をどすこい、扉の外へ押し出した。舎人は尻を突き出した格好で、頭から草むらに突っ込んでいった。呆気にとられた鹿の子がクマの袖をひく。
「ク、クマさん、いくらなんでも可哀想ですよ」
「いいんですよ、あのぽかんとした顔みたでしょう。脳足りんは、一日くらい頭冷やしたほうがええ。さあさあ、こちらへ」
クマに誘われ邸のなかへ入っていく鹿の子の後ろで、クラマは舎人へ一日どころか一生帰ってこれない呪をかけた。
こうして小御門神殿の神隠しの噂はますます広がっていく。
クラマはしてやったりと鼻を鳴らすが、それも敷居まで。
「すまんな、犬は中にいれられへん」
クマに抱えられ、あっさりと庭の大木に縄で繋がれてしまった。狐のクラマにとって、縄なんて単純なものが一番やっかいだ。
世知辛い話、居間へ上がった鹿の子はクラマのことなどすっぽり頭から抜けている。
小薪が赤子を背負って、出迎えたのだから。
ふたり休みが重なるのは半月ぶり。クラマの遠吠えを背景にどちらともなく駆け寄り、抱きしめあった。
「小薪ちゃん!」
「鹿の子さぁああん!」
「こ、こ、こまきちゃ……、くるひぃ、けど、すき」
ぎゅぅう、胸に押しつぶされながら、鹿の子はにへら笑った。この温もりは何ものにも変え難い。これからずっと独り占めできるなんて、クマさんが羨ましいと思う。
小薪は小薪で、鹿の子の「すき」が耳から入って足先まで貫かれたように、ぴーんと背筋伸ばしたまま倒れてしまった。
「小薪ちゃん!?」
「はぅ、はぅ、すき、わたしもすきぃ」
背中におぶられていた赤子は小薪の母に救われ、飼い猫が小薪の顔をぺろぺろ舐める。
「ぁあっ、駄目です、鹿の子さんっ、クマともまだやのにっ」
「失礼しました」
お嬢お疲れなんですわと、クマは至福顔の小薪をささっと抱き上げ、部屋の隅に寝かせた。
待ってましたと言わんばかりに、小薪の母が赤子を小荷物に茶釜をもって、鹿の子を促す。
「小薪が寝てる間にいただきましょ、いただきましょっ」
鹿の子もにっこり風呂敷をほどいた。
この季節だけ食べられる、とっておきの菓子を詰めこんできたのだ。
小薪の母に、男童二人。仲良くまあるく円陣描いて中を覗き込んだ。
「そろそろ、お火焚きですので」
「わぁあっ」
坊主二人が目をらんらんと輝かせ、身を乗り出す。蓋が開いて現れたのはぎゅっと詰めあったお米粒。三角に切られたそれは、まるで積み木のようだ。
「これは!」
遅れて菓子箱の中をみたクマが目をまんまるに見開き胸ふくらまし、ばんっと手を合わせた。
クマの大声は障子を破る。
みんな揃って両耳をふさいだ。
「お火焚きおこし!」
独り耳をふさがなかった鹿の子は、きーんぱたりと仰向けで倒れた。
風成でいうお火焚きとは初冬の風物詩。秋にとれた新米を神前にお供えし、五穀豊穣と火難除けを神様に祈る。とくにこれからの季節は火の用心、薪屋のような火の元を売る商家はお客さんに神様のお供えもんを配る。そう、その年のお米でつくったお火焚きおこしだ。甘じょっぱい味を思い出して、クマはじゅるりよだれをすすった。
「いただきますは、言うたよな?」
「言うてません、あ、こら!」
小薪の母があっち向いてこっち向いたほんの一瞬。
クマは鹿の子を小薪の隣にころんと並ばせると、坊主二人と顔を頷き合わせて、菓子箱にかぶりついた。
「しゃあないなぁ」
とられてなるものかと、小薪の母も負けじと食らいつく。
鹿の子の菓子に胃袋を掴まれたのはとっくの昔の話。きっと米粒だけのおこしも鹿の子さんの手にかかれば一味違う。
素早く手にとると、何のためらいもなく口へ運んだ。
「……あら、あらっ?」
口の熱でほろほろとほどけていく米粒に、小薪の母はすっ頓狂な声を上げた。
風成のお火焚きおこしは、天日干しした米を揚げて、煮立たせたみりん醤油で固めたものだ。
だからクマも「甘じょっぱい」を思い出した。
しかしこの、いま食べているお火焚きおこし、しょっぱさの欠片もない。
甘い。
甘くてほのかに、柚子の香り。
がしがし、しがまんでええ、歯で崩すだけで米粒がほろほろほどける。まるで一粒一粒が炊きたてのご飯に、戻っていくみたいに。米粒をぷちりと噛みつぶせば、熱でしゅ、と消える。
そしてじわりと甘味が、ふわりと香りが口のなかに広がっていった。
柚子の香りだ。
「なんて、美味しいんやろ」
改めて手のなかのおこしを見てみると、なるほど米に絡む蜜のなかに黄色が見え隠れ。柚子皮が混ぜられているらしい。
唾に残る柚子の香りは安い麦湯も飾り立てていく。
こんなに上品なおこし、初めて食べた。
ああ、あの人にも食べさせてやりたいと、小薪の母の頭には離れた誰かさんの顔が浮かんだ。
うっとり酔いしれたのは、寸の間。
「こらぁああああっ!」
居間の畳が小薪の怒号で揺れた。
巫女が嘆声あげた祝詞はどこへやら。
無理もない、鹿の子と小薪の二人が気を失っていたのはほんの寸の間であったのに、起き上がった時にはもう、菓子箱がすっからかん。米粒一粒も残っていない。起きっぱなの小薪がそれこそお火焚きのように真っ赤な顔して怒るものだから、クマと坊主ふたりは血相変えて居間を飛び出していった。
薪屋の頃は毎度のことだったのだろう、小薪の母は首を鳴らしながら、やれやれとふたつの茶碗に新しい麦湯を注ぐ。次にはふらふら頭を揺らす鹿の子と青筋たてた小薪の前に、菓子皿を置いた。菓子の取り合いは毎度のこと、先にふたりの分を取り分けておいたのだ。小薪の怒りが鎮火したのを見届けると「寝かせてくるわ」と言うて、赤子を抱いて居間を出た。
小薪の母は何時もそうだ。
ふたりでゆっくり話せるように、時を見計らい退いていく。客商売ならではの気遣いに、鹿の子は自分のかあさまを思い出して、胸が熱くなった。
「では鹿の子さん、いただきましょう」
ころっと機嫌を直した小薪が鹿の子と膝を揃えるが、
「わたしはいいよ」
菓子皿をとらず、麦湯だけをすすった。
「これはラクの分やから」
菓子皿に目を落としたまま柔らかに微笑む鹿の子を、小薪がぎゅうと抱きしめる。
「小薪ちゃん……?」
鹿の子は小薪の揺れる袂をみて、気づいた。
小薪の腕が小刻みに、震えていることに。
「鹿の子さんは、絶対わたしが守るから」
力がぐっと強まる。
「小薪ちゃん……」
「がりっ」
「がり?」
顔を上げてみれば、小薪がラクの分のおこしをがりがりかじっているではないか。
「あああっ」
「あんな腰抜けにやる菓子はない!」
ああ、美味しいとほっぺたに米粒つけて、小薪は華やかに笑った。




