四‐久助
月明という男はこの八年のほとんどを、敷妙の上で眠っていない。
母家の御寝所に構える御帳台はお飾り、それ以前に側室の修行場だ。弟子の前でうたた寝など言語道断。菓子箱を抱き酔い潰れ、眠った野分のあとは、本人にとって過ちに近い例外といえる。
修行場以外にも私室に御帳台はあるが眠れば最後、朝には巫女や下女が何人もへばりついていることだろう。
惚れて一途に忍び込んだのならまだ可愛いが、小御門に仕える女は揃いも揃って、己の地位と名声のため当主との一夜を望む。
そういう女のあざとさに月明は辟易しており、足は遠退くばかりだった。
独り静かに過ごせる場所を探せばひとつしかない。
幣殿の高座。
近頃の月明はよりこの座を好んだ。
帰りが夜明けになろうと、なつみ燗で酒を浴びようと、湯殿で酒気を払い幣殿へ上がる。
今日も座禅を組んだまま、僅かな時間を削り睡眠をとっていた。
故に邪魔をされた月明は酷く不機嫌だ。
「久助、何用ですか」
どんなに深く眠り込んでいても、異質な空気の変化は感じ取れる。久助ならば決してこの時間、土足で上がってくるようなことはしない。
余程差し迫った面倒ごとであろう。
月明の美顔はより憮然と歪んでいった。
「お稲荷さま、みつけました」
「なんですと」
お稲荷さまといえば、この半月本殿にこもりきり。御饌を上げればあちらから御扉は開くので居るには居るのだろうが、閉まればこちらからは一切開けることができない。
千里眼をもつ妖狐の雪すら中の様子がわからず、日々耳を立てやきもきしていた。
月明は歪めていた顔をつるんと綺麗に整えた。
「久助がいて助かりました」
久助の本体は本殿に祀られている。月明は菓子に戻った際に説得するよう言付けていた。本殿へ入れる者が恋敵の久助以外にいないとは皮肉な話だと、月明は苦笑いを溢した。
しかし久助は首をふる。
「いえ、私は何も」
「何も? では、どうやって。いやそれよりも、今はどちらに」
「こちらに」
主に捧げる久助の右手には、白い毛玉がぷらんぷらーんぶら下がっている。
「こ、こん……」
精一杯の上目遣いで、きらきらと三白眼を輝かせるクラマ。尻尾ふりふり。
眩さに目頭を押さえる月明。
「これが、お稲荷さま?」
「いかにも」
「また随分と、ご自身の殻を破られましたね」
「破ったというよりは被ったといった方がよろしいかと」
久助は鹿の子から聞いた迷い犬の話を事細かく月明へ話した。
月明の美顔がみるみるうちにひしゃげていく。尻尾がはえていたら、ぴりぴりと逆立てているところだろう。瞳は言うまでもなく、見たものが凍てつく冷たさだ。
「ほう。鹿の子さんの温情に付け入り、正面から御寝所に入り込んだと」
「こんっこんっ、こんっ、こんこんこ」
「言い訳なさるなら、元の姿にお戻りください」
「ん、こ……」
鼻っぱしを下げるクラマに、屋根家鳴りがざわめく。
待っても尻尾がだらしなく揺れるだけ。
月明は久助と目を見合わせ、同時に口を開いた。
「まさか」
「ご冗談でしょう?」
「氏神ともあろうお方が、戻れないとでも」
月明がクラマの首に手を添えれば、温かく脈もある。
「キツネにのり憑っただけではないのですか」
そう言うなり月明はクラマを高座へ拾い上げると自分は下り、どこからか筆を持ち出してきた。写経用の和紙へ流麗に「肯」「否」と書き、墨が乾かぬままクラマの前足へさしだす。
クラマは間髪を入れずに、ほてててててっ「肯」を蹴った。白いおみ足が真っ黒だ。
「一体、いつから」
「鹿の子さんは半月前と仰っておりましたので……」
久助が遠慮がちに言葉を濁す。
半月前といえば、思い出したくもない恋結びの件。
お稲荷さまの失恋の痛手は想像していたよりずっと、深かったというわけだ。
月明と久助は同時に深く、溜息を吐いた。
「ではなつみ燗で甘酒を呑んだ後からずっと?」
クラマが「肯」へ足を置く。
「お稲荷さまが社にしているキツネは、ご自身で選ばれたのですよね」
ここで初めて、クラマは「否」を踏んだ。
「キツネに憑る前後の記憶は――」
否。
月明は耳を疑い、瞼を強くこすった。
キツネへの憑依に、お稲荷さまの御意志は一欠片もなかったということだ。
月明の胸には妙な違和感が走り、近い過去へ思いを馳せた。
この半月姿は見せないものの、お稲荷さまはお務めをこなしていた。参拝客の願いを叶え、様々な厄を遠ざけた。特に難しい流行り病なんかは、四獣を柱に追いやってみせたものだ。この小さなキツネの姿で、すべてをやってのけていた、ということになる。
しかし、どうであろう――このキツネ、いざ目の当たりにすると神の霊力を微塵も感じない。雪が気づかないわけだ、今を生きるキツネそのもの。いや、それどころか本物の子キツネより弱々しく、生に必要な霊力すら感じない。
そう、限りなく近い。
鹿の子の儚い気配に。
あれから幾度と鹿の子の身体を診ては、世界のあらゆる解術を探した。知る解術はすべて試したつもりだ。そしてどれも無駄に終わった。
呪あれば、解あり。これはお稲荷さまの神道に通ずる世界の理。
しかし、どんなに調べても霊力が抜けるなどという恐ろしい呪は、ましてや花弁のあざにまつわる呪など、みつからない。ならば――。
「鹿の子さんは荒神の呪いをかけられているのではなく……、荒神を身体に取り込んでしまっているのでは」
はっ、とクラマが鼻っぱしを上げる。
「しかし、鹿の子さんには自我があります。お稲荷さまはキツネの心身すべてを支配していらっしゃる」
「うむ……」
久助の言い分に、月明は肯いた。
鹿の子を動かす源は紛れもなく本人そのものだ。ではもし荒神が故意に鹿の子の内に燻り、霊力を奪い続けているのだとしたら。内に膨大な霊力を秘め、放つ時を見計らっているのならば、これほど厄介な話はないが、しかし。
月明は視線をクラマへ戻した。
「あなた様は神力は使えるが、キツネから出ることができない」
クラマはぺたり、力なく「肯」を踏む。
お稲荷さまが解せぬのだ、荒神も鹿の子の身体から出られず、やむなく霊力を糧にしているのかもしれない。
荒神自身、意志はなく鹿の子の身体に取り込まれてしまった可能性が高い。
いや、そうと信じたい。
呪いではないのであれば、荒神が外へ出さえすれば、鹿の子は元の身体に戻れる。
閉ざされた道に一筋の明かりが見えたようで、月明は鼓動を速めていった。
「お稲荷さまが元に戻れる方法を探しましょう。鹿の子さんもきっと助けられます」
クラマは尻尾をふりふり、高座の中を駆け回った。どちらかというと、自分のことはそっちのけで、鹿の子を思い喜んでいるようだ。
ほてほて勇み足でかまどの方角へと飛び跳ね、行ってしまった。
足裏に墨を残したまま、鹿の子の御帳台へ忍び込むおつもりだ。
明朝一番に下女へ敷妙を換えさせようと、月明は心に結んだ。
「まったく……、ご自身を顧みぬほど夢中になるとは」
「鹿の子さんへ伝えますか」
「いや、いい。下手に心配させるよりは飼い犬として可愛がってもらったほうが、お稲荷さまも機嫌が良いでしょう」
「なるほど」
「そうなるとあのお姿の方がずっと、愛着心がわきますね」
「そうですね」
にやり、笑う同じ顔。
月明はそれを見た途端、障子紙が焼け焦げるような黒い煙が、たちまち胸にこもっていった。
激動する心を抑えきれず、久助の胸ぐらをつかんでは引き寄せる。
首筋から香る、甘い匂い。
「今まで何処にいた」
訊くまでもない、久助の着物には香を燻したように茶室の匂い、鹿の子の香りが移っている。茶室へ上がり、何をしていたかなど考えただけで吐き気がする。
自分の式の神の言動など手にとるようにわかる。全て理解している。
久助が答えの先を衝いてくることも。
「手は出しておりません」
それが下らぬ屁理屈だということも。
久助は月明の足元に跪き、忠誠を誓った。
うつむく久助の頭を殴り倒せば、幾分気が晴れるだろうか。心を落ち着かせようと震える右手を押さえ込み、月明は再び高座へ上がった。
久助が以前から鹿の子へ特別な感情を抱いていることなど、主ながら感付いてはいた。
しかしこれほどまでに惚れぬくとは、お稲荷さま以上に想像できなかったことだ。
主の傀儡といえる式の神が今も跪きながら、自分の意志でかまどへ目をやり、ぼぅと耽けている。
お稲荷さまは永遠の十五歳。それに初恋だった。
だが、久助は違う。
――久助は、自分の心の分身。
月明は平常心を保つように声色を低く、穏やかに語りかけた。
「私はあなたであり、あなたは私なのですよ。理解しているはずです、鹿の子さんは側室以前に人間、そしてあなたは菓子だということを」
「理解しています」
久助は惚けていた顔を引き締めると、主と同じ冷徹な瞳を高座へ向けた。
「それを認めたくない、お稲荷さまの気持ちも」
「久助、やめなさい」
「とめられません」
「久助」
冷たい眼差しが交じり合い、主従の狭間は氷のように凍てついた。
しかし徐々に、久助の目頭が熱く、迸っていく。
「残された短い生涯――、愛しい人の側にいたいと思うのは、神として許されないことなのでしょうか」
月明は、はっと目を瞠り、本殿へ続く御扉へ身体ごと向けた。
扉の奥にある、お稲荷さまに護られた久助の本体――その姿を思い浮かべるが、もう何年も見ていない。
考える暇もなく、背後で衣擦れの音がした。
「久助、待ちなさい!」
既に、久助の半身は外へ出ていた。
月明は押し寄せる焦燥のなかで、必死に思い巡らせた。
久助の寿命は確かに短いが、まだその時ではない。それが何故、今まさに消え失せるような口ぶりを。
勘が酷く鋭い月明は瞬時に悟り、目を瞠ったまま、下唇を徐々に震わせていった。
「砂糖が……溶けた、のか。…………ははっ、まるで笑い話ではないか」
久助は菓子から生まれた式の神。
鹿の子への熱い想いが、久助の砂糖の心を、溶かしてしまったのだ。
本殿に祀られている四角い菓子。砂糖が外へ流れ出て、原型が崩れた菓子の姿が容易に想像できた。
――愛するほどに、命を削る。
これほど甘く哀しい運命を、どうして受け止められよう。
「ならば、残された者の気持ちは……」
月明は咄嗟に噴いた自分の言葉に、煽られるようにして、涙を流した。
いつもそうだ。
みな、幸せな記憶だけを遺して、自分を置き去りにしていく。
久助――、お前もなのか。
彼女に同じ想いは、一欠片も味合わせたくないのに。
「だからこそ、今の旦那様には、鹿の子さんを譲れません」
久助はそう笑い言い、小袖を翻していった。




