一‐向寒
山々が色褪せ始めた向寒のみじり、時雨がもの寂しく響く朝。ひと気のない拝殿に、傘ももたず雨にうたれる女がいた。熱心に手を合わせ、何かを乞い願うている。
女が顔を上げたので、久助はすかさず声をかけた。
「水も滴るいい女ですか。似合いませんね」
「あなたは遠慮が浅いのよ。少しは気を配りなさいな」
女は近衛中将御正室、葵の君。
久助が手持ちの傘を差し出したが、葵は受け取らずに肩を差し交え、いってしまった。
強情なひとだ。ないよりはましだろう。久助は唐かさを呼び、ついていかせたのだが。
「おや、これは――」
供物台に乗るそれをみつけた久助は、すぐに後を追った。境内の敷居を前に、その背中に尋ねる。
「願い事はなんですか」
葵の後ろ姿は雨の簾の向こうで、手を振るだけだった。
*
その後すぐ、拝殿には天女の歌声のように、耳が惚れる祝詞が流れた。その調べに合わせ舞う巫女もうっとりと、笑みを浮かべたほど。祝詞が上手いと飯も美味いのだろう。本殿の奥からはかちゃかちゃと忙しなく、茶碗が踊る音が聴こえた。終幕に太鼓の音が轟き、巫女や下女が一斉に散る。
渋滞の渡り殿で、みな一様に嘆声をあげた。
「小薪様の祝詞、お見事でしたわ」
「なんて綺麗なお声なんでしょう」
「身も心も洗われるようでした」
小薪が朝拝に参列するのは今日が初めてのことだ。その姿は飛ぶことを知らない籠の中の鳥が大空へ羽ばたいたようであった。巫女も下女も元商家の街娘とはとても思えない、その美麗な佇まいに目を瞬かせた。
珍しく側室をたっとんだと思うたら、いつもの決め文句。
「それに比べてかまどの嫁は」
「小御門へきて長いのに、一度も参列せえへん」
「分かったような顔して、煙ばかり吐き出す」
洗われたはずの心をさっそく汚して、母家へ消えて行った。
焚き口に頭を突っ込んでいた鹿の子もふと思う。
なんで参列させてもらわれへんのやろか。
「行ってもお稲荷さまがお食事されているだけ。何も面白いことありませんよ」
火おこし竹から口を離した瞬間、きれいな顔が並んだ。
「久助さん」
「お稲荷さまが今日の銀杏餅、たいへん気に入られたようでした」
「そうですか。よかった」
鹿の子はほっ、と胸を撫で下ろし、朝から溜め込んだ不安心を拭い去った。
恋結びの一件以来、蔵馬はかまどから足が遠退いている。蔵馬の「美味い」が聞けないと、やり甲斐が減るものだ。弟に避けられているようで、鹿の子は思った以上に心をさみしくしていた。
参列して会えるのなら、朝拝に出てみたい。
「御饌巫女は、参列できないしきたりなんです」
久助は月明に言われた通りのまま、鹿の子へ伝えた。これは鹿の子のために新たに作られたしきたりだ。
鹿の子の霊力はこの半年で、より薄弱としている。お稲荷さまのお残しを食し身体に霊力を取り込まなければ、一日ともたないほどだ。いつか月明が鹿の子へ暇を出そうと考えたのは、御用人との関係を思いやっただけではない。実家の糖堂ではどのようにして霊力を得ていたのか、調べるためであった。糖堂ではなんの支障もなかった身体が、何故風成では生きられないのか――今、確かなことはひとつ。
祝詞に霊力を削られでもしたら、鹿の子はその場でこと切れてしまう。
このしきたりは月明の苦肉の策だった。
それに参列しようがしまいが、お稲荷さまは拝殿へ姿を見せない。朝拝どころか恋結びの一件以来、本殿にこもりきりだ。この半月当主の月明ばかりか家鳴り一匹、誰も見ていない。
久助は気落ちした鹿の子を慰めようと、すす汚れのまあるいおでこを撫でた。
「どうして、そうなった」
御出し台の下から声がする。
振り返れば西の方玉貴が今日の御饌菓子、銀杏餅をねちねちと咀嚼しながら久助を睨みつけていた。
「鹿の子さんに触ってはいけないのではなくて」
「忘れていました」
「はっ、それが式の神が吐く台詞? 笑っちゃうわね」
その隣では、いつの間にやら小薪が追いつき、同じように餅に食らいついている。
小薪が睨みつけているのは、菓子手帖。
「久助さん、お稲荷さまが気に入ったんなら、銀杏もう二袋追加ね。あと米粉と栗」
「はい」
小薪は菓子手帖を閉じると、餅をうち頬に蓄えたまま、颯と立ち上がった。
「では、わたしはこれで」
「もう行くん?」 茶釜を持って鹿の子が引き止める。
「宿題があるんで」
小薪はきりっと鹿の子へ向き直り、ぎゅうう抱きしめた。
「玉貴さんが帰るまでに、立派な陰陽師になってみせます!」
玉貴が半目で否す。
「陰陽師? あんたねぇ、陰陽師というのは陰から陽まで神道を極めた者を指すのよ。あんたが陰陽師だなんて、百世紀も早いのよ」
「では、百世紀分学んできます!」
小薪はそう気勢をあげ、ささっ、と戸口から出て行ってしまった。弱々しく振った手を下ろし、鹿の子はうつむく。
小薪はクマと心が結ばれてから、熱心に修行に励むようになった。以前は毎夜のように御帳台に忍び込んでは鹿の子を抱き枕にしていたというのに、近頃はめっきり無くなった。
いつの間にか夜食の菓子皿は空っぽにしているから、食べてくれてはいるのだろうけれど、お話しながら一緒に食べれないのは、寂しい。
「そりゃあ、気合いも入るわよ」
玉貴は鹿の子の手から茶釜をひったくり、菓子皿に湯を注いだ。
「占星術を修得するまで、お世継ぎ作りは禁止。旦那様にそう言われているから。
私があお山へ帰ったら、小薪は西の院へ住まいを移す。それまでに修行を終えて、西でクマさんと盛大に乳繰り合おうって愚考よ」
淡々と語りながら、菓子皿についた砂糖を一粒残らず湯でさらえる。綺麗になった菓子皿を鹿の子へ返し、間も無く玉貴も戸口へ向かった。
「鹿の子さん、……あなたは、いいの?」
そう言い残して。
鹿の子を思いやり、久助が寄り添うが。
「小薪ちゃん、幸せそうでよかったねぇ」
つぶらな瞳を瞼に隠してまで笑うものだから、
「はい」
久助もまた、同じように笑うことしかできなかった。
「明日はかまど休み。今日はもう火を落とします。久助さん、お抹茶のんでいきますか」
「いただきます」
「ふふふっ」
鹿の子は袖を帯を振り、水屋へ駆け込んでいった。
蒸したての蒸篭を開ければ、香り立つ湯気。中にはふっくら、白くてまあるいお饅頭。
明日の御饌菓子だ。
お夜食には早いが、きっと食べてもらえる。そう思うて、久助が皿を下げにくる時間に合わせて蒸しておいた。
二つの菓子皿に一つ、二つ分けて、残りを納戸へ。
そのまま茶室へ上がれば、久助は目が眩む美しさで歓喜の情を表し、鹿の子を迎えてくれた。
「鹿の子さん、これは……っ」
「お待ちかね、じょうよ饅頭です」
観月に月見団子をこねたあの日、山芋をする久助へ、鹿の子は語ったものだ。
山芋を使う菓子は他にもたくさんある。
餅に混ぜたり、餡に混ぜたり。
その中でもじょうよ饅頭は格別だ。
あつあつなんてのは、特に。
覚えていた久助は、思わず手のひらを掻いた。
山芋に直に触れたのに酢水で洗わなかったものだから、久助の手は誰よりも腫れたのだ。
「触っても、かゆくなりませんよ」
「よかった」
鹿の子の言葉に安堵して、素手でとる。しかし今度は饅頭の熱に手のひらが驚いた。右、左と手のなかで行き来させる。今頬張れば間違いなく口の中が火傷するが、あつあつは格別と聞いている。久助は心に決め、饅頭にかぶりついた。
「はふ」
口にこもる熱気。
熱くて歯でほぐすこともできないが、薄皮の下から立ち昇る湯気は、ふくよかな山芋の香りがした。
やがて冷めた生地を舌でなぞる。
薄皮はつるんと絹のように滑らかで、上顎に張り付く。その中に詰まったふわふわとした生地は一噛みでしっとりとまとまった。餡を絡めようと舌を潜らせれば、こちらはまた気が遠くなるほど熱く、甘い。餡特有のざら味は一切なく、蜜のようなとろみ。口の隅々まで広がって、まるで口の中がまるごとじょうよ饅頭に生まれ変わったようだ。
「熱々のこし餡、生地によく合うでしょう?」
茶筅を振りながら、鹿の子が見計らったように言う。
「はい。こんなに美味しいお饅頭、はじめて食べました」
す、と消える山芋の香りと餡の甘み。
飲み込んだ後も、喉から腹の中までぽかぽかと温かい。
久助は熱々を独り占めした喜びを、精一杯の笑みで表した。
ぼっ、と鹿の子の顔に火が点く。
鹿の子は久助の膝頭に茶器を流すと「そろそろ冷めたかなぁ」などとぶつぶつ呟いて、そわそわ菓子皿を自分の御寝所へ運んだ。
「それ、鹿の子さんの分ですよね。今いただかないのですか」
久助の鋭い問いかけに、次にはあたふた慌てふためく。
「え? は、はいっ、そうですけど!? お夕膳いただいたばかりで、お腹空いてなくて、夜中お腹空いたら食べようと思て!」
「こん、こん」 几帳裏から咳払いのような声がする。
「……?」
「きゅ、きゅ、きゅうすけしゃんっ、お抹茶冷めてしまいますよぅ!」
「……はぁ」
鹿の子の慌てっぷりは気になるが、几帳を潜る許しは得ていない。
久助は渋い顔をして抹茶を飲み切った。
笑い顔以外の表情を久しぶりに見た鹿の子は、本気で心配をした。
「あれまぁ、苦かったですか?」
「いいえ」
許されないことばかりで、沈うつとしているのだ。
「御寝所厳禁。二人きりになるのは、茶室だけ。鹿の子さんには手を出さないこと」
「はい?」
「旦那様との約束です。ご自身は明日、鹿の子さんと二人で外出されるというのに。納得がいきません」
「明日はわたしのわがままで、お願いしたことです。旦那様が望んだわけでは」
「どうだか」
綺麗なお顔がふくれっ面。とても可愛らしくって、鹿の子の胸がきゅう、と鳴った。
もう少し近付いてみよかなと、腰を浮かせた矢先――。
鹿の子の耳たぶに、久助の唇が触れた。
「――っ、きゅ、きゅうすけさ」
そのまま頬に、首筋に。
優しく触れては離れ、最後は肩に溜息を落とした。
そのまま顔を預け、久助は言う。
「手は出していません」
「そ、それ、屁理屈言うんですよ」
「知っていますよ」
鹿の子の視野に映ったのは、にたりと笑う整った唇だった。
「久助さんっ?」
「少しだけ……あと、もう少しだけ」
さらさらと御髪を擦り付け、猫のように甘えてくる。
鹿の子は顔いっぱいに幸せをかき集めた。
でもこれじゃあ綺麗なお顔が見えない。
手持ち無沙汰な手で久助の垂れた髪をすくうと、耳にそっとかけ、そのまま頬に添えた。
現れたのは驚きに喜色を交えたような、そんな顔。
「鹿の子さん、いけませんよ」
「私が手を出す分には、問題ありません」
「屁理屈ですか」
「はい」
鹿の子のしたり顏を見物しようと、久助が視線を上げれば鹿の子の手のひらが赤く腫れている。
久助は痒みを癒やすように鹿の子の指へ唇を移し、時には舌を出し、ちろちろと舐めた。
手を使わないから、より一層猫のようだ。
鹿の子はされるがままにうっとりと、瞼をおとした。
「こん、こんっ!」
その間、若い咳払いが御寝所から絶え間無く響いていたが、
「どうですか。砂糖水では癒えませんか」
「なんだか、余計にくすぐったいです」
心を寄せ合う二人には、到底届かなかった。
*
その夜、なつみ燗ではいつもの特等席に、いつもの二人が座った。小御門神殿当主月明とその友、近衛中将藤宮左近だ。
ちょっとの間暇ができた女将の夏海はさぁ物申したろうと、腕を組んで二人の間に立った。
「こら馬面。毎晩毎晩、足しげく通ってくるな。うちは遊郭違うんや」
「ほーぅ、なるほど。やれ、本当だ。いい女が見当たりません」
左近が夏海の目を見ながら探す素振りをみせる。月明は二人が作った屋根の下、ひとり黙々と芋をかじった。
「なんやてぇっ、あんたみたいな馬面、遊郭でも相手にされへんわ!」
「お生憎様、もてる馬面で申し訳ない」
「よく言うわ、葵さんに見限られても知らんで!」
夏海が空いたとっくりをかっさらい、怒り肩で去っていく。
左近はその背中に、聞き届かぬ声で呟いた。
「もう、見限られたのだよ」
月明は依然、芋を頬張りながら左近のおちょこへ酒をつぐ。相槌のないまま、左近は言葉を繋いだ。
「来月、側室を上げることになった。……葵の希望だ」
「そうか」
月明はただ一言。自分へは聞き届いたことに肯いた。
長年、酒を酌み交わしてきた月明は左近を戒めることも、励ますこともしなかった。
このひと月で左近にしてやれることを、ひたすらに、無言で考えた。
左近と葵は夫婦になって今年十年になる。二人の間に御子はいない。過去に一度実ったことがあったが、流れてしまった。それ以降恵まれる様子がないのだから、葵がわざわざ側室を望まなくとも、いずれは周りから迫られるだろう。
迫られる前に自分が整えようと思うのは、正室の矜恃。
ならば一度葵の望み通りに側室を迎え、その舞台裏で仲直りさせる以外、良案が思いつかない。
押し黙ったままの月明。
左近もまた、これ以上に語ることはなかった。友に救いを求めにきたわけではない。
「お前とこうしてのんびりと酒を呑むのは、最後になるかもしれんな」
「最後? なに、すぐまた左近から誘うさ」
そうなることを願い、夏海へ手を振った。
「あら、もうお帰り?」
「明日また、昼半に伺います。あれ、二人分残しておいてくださいよ」
「ああ、はいはい。……昼? あら、あらあらあらあら」
どうやら明日、鹿の子さんに会えそうや。
夏海は腕まくりをして厨房へ消えていった。




