終‐恋結び(下)
そぞろ寒い、秋の夜長は燗酒に限る。
なつみ燗は出店も埋まる大繁盛。
軒先には立ったまま芋を頬張る客までいるというのに、角の特等席に腰を据えた常連客が帰らない。
しかし女将の夏海も周りの客も文句を言わず、そっと見守るばかり。ついに板前がしびれを切らし、厨房の外へ出た。
板前の鉄は夏海の夫であり、なつみ燗の看板板前だ。
「おいこら、月明――」
「おや、鉄。見えずともそこには客が居りますから、座らないでくださいよ」
鉄が空いた席に座ろうと座敷へ上がったが腰を下ろす前に鼻先であしらわれた。我儘坊っちゃまが合い席を拒んでいるかと思いきや、そこに客が居るという。
「待てや、月明。一体誰が居るっちゅうねん」
「お稲荷さまですよ。ひっく」
「ぁあ?」
「樽の甘酒、なくなったそうです。おかわりお願いします」
「な、なくなった? そんなバカな――」
鉄が手前の樽を振る。
ない。
客が回し飲みして二日もつ量が一滴も残っていない。
「だ、誰がこんなに」
「だから、お稲荷さまですよ」
「あ、あほか。明日の分がなくなる、甘酒はもう出されへん」
「だ、そうですよ」
月明が虚空へ言葉を流す。
途端に灯りという灯りが消えた。
騒然とする立場茶屋。
「あるなら、出せ。出さんと店潰すぞ。だ、そうです」
真っ暗闇の店んなか。
鉄のうなじにふぅ、と甘臭い吐息がかかった。
麹の、甘ったるい臭い。
鉄は短い髪を逆立て、色んな角で膝や脛ぶつけながら、厨房へと駆けていった。
甘酒がたっぷり浸った樽が特等席に置かれ、ようやく灯りがぼっ、とつく。
「人間になら、まだしもやで」
「はい」
「下位に、下位に劣るて」
「まあまあ、鹿の子さんはお稲荷さまとの身分差に恋を諦めたのでしょう」
月明が虚空を慰めれば、周りの客が手をあわせて拝み出す。
月明の差し向かいでは、若造が酒に溺れ潰れている。
「俺なんて……、ひっく、そうでもない、の一言ですよ。久しぶりに会えるから楽しみにしてたけど、なんや久助さんよりはどきどきせえへん、て」
「まあまあ、ラクさん」
弟子のおちょこに酒をつぎながら、月明は美しい顔に影を落とした。
「比べられるだけ、いいじゃないですか。私なんて、同じ顔にして、眼中にも入っていませんよ。中身問題外て、人間として絶望的ですよ」
おぅ……、と憐憫たっぷりのどよめきが辺りに轟く。
「久助さんが旦那様やったらいいのに。……私、この言葉、生涯忘れません」
小御門町民は当主のやさぐれ具合が気にかかり、この日のなつみ燗は朝方まで客が途絶えなかった。
夏海はというと、遠巻きに手ぬぐいで涙を拭きながら、酒の在庫が空になるまで、温かく見守っていたという。
*
「蔵馬っ! でてきなさい!」
薄い柳眉を逆立て、怒鳴る鹿の子。
しかしこの頃、蔵馬は鹿の子の声も聴こえぬほど、甘酒と涙に溺れていた。
「今すぐでてけえへんと、お夜食抜きですよ!」
「鹿の子さん」
「まったく、隠れて呪をかけるやなんて……、人の気も知らんで」
「鹿の子さん」
ぽん、と肩を叩かれ、むっつり顔で振り返る。
秋月に照らされた久助が、とんでもない輝きを放ち、ぼうと立っていた。月読様が寝ぼけ眼のように、うっとりとした顔で。
「はわわわわわ」
「お稲荷さまをお叱りにならないでください。私達も小薪さんに知らせず、舐めさせたではありませんか」
「はわ。そ、そうでした。わたしったら、自分を棚に上げて、お稲荷さまに失礼なことを」
はわわ、はわわ、慌てて熱い鉄蓋に直に触れようとする。
その手を掴み上げ、久助は言った。
「それに……私は、嬉しかったですよ」
いっそのこと、油の海に飛び込んでしまいたい。茹で小豆が揚げ小豆や。そんなことを思いながら、鹿の子は顔を真っ赤に茹でた。
これ以上みつめられたら、ほんまに顔の皮一枚めくれてしまいそうだ。
どんな言い訳をして戸口から逃げ出そうか、考えを巡らす。
そんな鹿の子の考えを見透かしているのか、腹が減っているのか。久助は掴んでいた手首をはなし、器用に細指を絡めとった。
「お夜食、いただけますか」
かまどで向き合っていることに耐えられそうもない鹿の子は夜食を仕込む間、久助を茶室へ上がらせた。上がらせた後で茶室の方が壁に囲われた狭いなか、いやでも向かい合ってしまうことに気づくがもう遅い。
今日のお夜食はかくなわ。
揚げて砂糖をまぶすだけの短い間、どんな顔をして敷居をまたごうか、何を話そうか、蜘蛛の巣はった脳みそを働かせた。されど自ら蜘蛛の巣に絡まり、ちっとも動きやしない。頭に浮かぶのは、久助の顔ばかり。
「わたしったら、久助さんのこと……」
そんなことを思いながらも手際だけは良い。
こんがりいい色に揚がったかくなわは砂糖のお化粧でぷうんと甘く香りだつ。その匂いを嗅ぎつけ、ちょうちんお化けが我先にとわらわら集まった。しかし今の鹿の子は目に見える火の玉も目に入らない。働くのは手だけ。
「ぽふ、ぽふ」
「ぽふ!」
ぼんやり鹿の子が小さいかくなわも一緒に大皿へ積み上げていくものだから、ちょうちんお化けが「それはうちらの分や」とぽふぽふ、やんややんやと炎をあげた。
「ああ、これは美味しそうだ」
久助までもがこの匂いを辿り、出てきてしまった。久助の長い腕が鹿の子を包み込むように、皿の縁をとる。両手が重なり、鹿の子の顔に再び火がついた。
「お持ちしましょう」
「ぽふ!」
ちょうちんお化けは必死も、必死。舌を火傷させてまで取り合いの取っ組み合い。あつ、あつと自分の分を舌で確保していく。
それを見てあどけなく笑う久助にまた目を眩ませる鹿の子。
鹿の子は皿の後を追うことで、なんとか茶室へ入ることができた。
茶道具を広げながら、鹿の子は思う。
なんだか今日は酷く疲れてしまった。
今すぐにでも、ごろんと横たわりたい気分だ。
食べ終わったら、帰ってくれますように。
そう願いながら、鹿の子はいつものように散らばった神経をお点前に束ねていった。しかしどうだろう。束ねても束ねても、するりほどけて現れるのは、また久助の顔。
旦那様でもない、ラクでもない、すぐ傍に居る――。
やっぱり、もう少しだけ一緒にいたい。
鹿の子はそう願い直して、ちらりと久助を横目でみた。
「はっ、私としたことが」
「はわっ」
久助が急に面をあげるものだから、鹿の子は飛び上がって驚いた。
「ど、どうしました」
「あまりの美味しさに三つもいただいていました」
「み、三つもって、ええやないですか。この間はお稲荷さまに取られてひとつしか食べられへんかったでしょう? 今日は好きなだけ食べてください」
「この間……?」
「小薪ちゃんなんて、ほうっておいたらちょうちんお化けの分まで横取りしますよ?」
落ち着きを笑いで取り戻そうと、炉へくすくす笑いかける鹿の子に対し、久助は首を傾げた。
かくなわをいただくのは、今日が初めてだ。
久助はすぐに、鹿の子の言外に匂う主の素行を覚った。
胸がちりちりと焼け、苦笑いをこぼす。
ちなみ、胸焼けではない。
「主に嫉むとは私も存分、愚かな式神ですね」
「久助さん?」
「いや、失礼。恋結びの力に恐れ入りまして」
「こ、恋結び? 久助さんたら、掘り下げないでくださいよ」
これ以上驚かされたら身が持たない。鹿の子は気張り、しゃかしゃかと忙しなく茶筅を振った。
久助はというと、おこじょの美動作にすっかり見惚れていた。
その目はとろんと、定めを知らない。
今の久助は、もうなんの惑いもなかった。
「鹿の子さん、私が貴女の姿に、声に癒されたいとかまどへ足を向けるのは、世の怨に汚れた自分を浄化する為だと思っていました」
飴に染み入る鹿の子の想いは、そんな上っ面を剥いでしまった。
「ただ愛しいから、会いたかった。愛する故に触れたかったのですね」
隠していた久助の本音がうんと背伸びをして、触れたければ触れればいいと、容易く手が伸びる。鹿の子もまた、茶器を置きに久助の膝へ手を伸ばしていた。
「久助、さ……」
交差する袖が畳に影を落とし、その先で鹿の子と久助の顔が重なる。
「ああ、いけない。私としたことが」
久助は鹿の子の頬に触れる寸でのところで、手を止めた。
「き、久助さん……?」
「旦那様のお許しをいただかなければなりません」
「旦那様の?」
口と手にぎらつく、かくなわの油を懐紙で拭き取る。
「汚れていなければ、茶室で無礼を働くところでした」
久助はそう言って、今まで見たことがないような、とろんと蕩けた笑みを浮かべ、茶器をとった。
無礼て、どんなことやろか。
ほっぺたは触られてる。その先とはなんぞや。
息が止まるほど近付いていた久助の、艶やかな唇が頭に焼きついて離れない。
鹿の子は炉に戻ることもできず、力なく膝を崩した。
「鹿の子さん、今日のお抹茶、ずいぶんと泡立っていますね」
どんだけ茶筅をしばいていたのか。
茶器から顔を上げた久助の上唇には若葉色のお髭がこんもり、乗っていた。
*
時同じくして、王邸。
月明を下がらせた主上は脇目も振らず、正殿から夜御殿へと向かわれた。
従者の足音を便りに、命婦が顔を揃える。
その簾の奥にうっすらと、愛しい影が浮かんでいた。
病を負いながらもきちんと礼服を身にまとい、待っていてくれた更衣を健気に想い、主上は自らの手で簾を翻し、更衣を抱きしめた。
「あいたかったようっ、桐乃ちゃん!」
「二刻ぶりですね、主上」
身を休める暇もございませんでした。
桐乃の更衣は切れ長の目を据わらせ、ごほごほ咳き込んだ。
「つれないなぁ」
「伝染る病でございます。どうかお離れになって」
「伝染して治るのならば、手を広げて歓迎しよう」
御膳に微量の毒が仕込まれているのではないだろうか。野分に痛んだ喉はひと月経っても癒えず、酷くなるばかり。神々も振り返ると謳われていた更衣の美声は今、かえるを車輪でひき潰したように恐ろしく醜い。
側近の命婦はその声を聴くたびに眉にしわを寄せたが、主上は声も病も気にもとめず、更衣を優しく膝へ乗せた。
「今日はとっておきの土産がある」
「お土産?」
「小御門神殿の土産菓子や。桐乃の大好きな氷砂糖からできているらしい」
更衣は濁らせていた瞳を瞬かせ、懐紙の中身を覗き込んだ。
氷砂糖は好きだ。
舐めている時だけ、喉の痛みを忘れられるから。
紅色の恋結びを手渡された更衣は、生まれて初めてみる可愛らしい飴に、目を輝かせた。
更衣が飴に見惚れている間に、主上が周りの臣下を払う。
「さぁ、舐めて」
主上のいつになく真摯な眼差しに、更衣はためらった。主上の手には色違いの白色の飴が乗っている。まさか心中なさるおつもりではなかろうか。
更衣は喜んで飴を口にした。
暗い御寝所に閉じ込められ声をなくした今、花や鳥を愛で歌うこともできない。今こうして、主上の温もりに包まれ命を終えられるなら、手放しで受け入れよう。
――ああ、やっと安らかに眠れる。
更衣は主上の胸のなかで、そっと静かに目を閉じた。




