五‐分福
風成の王邸、方角は未申。
六宮三舎ある後宮のなかでも、最も主上の夜御殿に近い萬寿宮にて、涼やかな祈祷が実に半日もの間続けられていた。
その祈祷、解き明かそうと聞き入れば最後、刀の刃尖を脳天に突き付けられる、そんな錯覚を及ぼすほどの、凄まじさ。
宮女はみな局に籠り、耳を塞ぎながら終幕を待った。
今宵の患者はつい先月、入内されたばかりの十四歳の幼き女御。
庭の白菊を愛でようと簾を開けた寸の間に瘴気にあてられた、不運な姫君だ。
血の気が引いたその顔は、今にも敷妙に溶け消えてしまいそうな儚さ。しかし終幕を迎えた今、月明が唇をしめれば一度にして、少女の頬に紅がさした。
「お疲れ様です、旦那様」
下座で首を垂れるは四角い箱。
もとい、南の方。
「……、酷い怨でございました」
「ああ、念押しに貴女を連れて来てよかった。私一人ではとても抑えきれなかったよ」
「畏れ入ります」
南の方が扇子を一振り、局に張られた結界が解かれた。霧のようにたなびく微粒の怨も逃がさぬ堅固な結界。
南の方が塞いでいなければ、女御は救えど後宮中に瘴気が拡がっていただろう。
月明は微かな笑みで賛辞を呈したが、直ぐに顔を曇らせた。
「しかし、これからどうしたものか」
瘴気──、妬み、嫉みが跳梁する後宮において、削ぎ落とせぬ汚穢。
定期的に常勤の陰陽師が浄めているが、このひと月は人を増やしても抑えきれず、こうして当主が駆り出されるまでに悪化している。
当主でなければ、滅しきれぬほどに。
これは総て、一更衣が主上の寵愛を一身に受けている所以。
怨みをもつのは皇后だけではない。過去に主上の寵愛を受けた萬寿や千寿宮の女御にとって、この情況は誇りを踏みにじられる思いだろう。
犠牲はいつもか弱い姫君。
姫君の萬寿宮への入内は近縁にあたる皇后のはからい。身内贔屓とその若さは後宮女人に怨まれるには充分だ。更衣を呪えず滞っていた瘴気が姫君一点に集中してしまった。
今は健やかに寝息をたてる幼い姿態に更衣を重ね、月明は一人唸った。
参寿舎、桐乃の更衣。
六宮三舎のなかでも最も低位、参寿舎の更衣。同日に入内した女御の御飾りに召し上げられただけの、末端側妃。
上位の更衣仲間から虐めに遭いながら、簾の奥で女の盛りを終えてしまうような地味な女人が、何故主上の目にとまってしまったのか──。
「あぁ、それは旦那様が縁結びし──」
「言葉にするなぁっ!」
月明が箱をがしがし揺する。
観月の宴。葵の君へ向けられていた主上の目を側妃へ向けさせようと、その場しのぎに結んだ縁であった。
月明は異質な結び付きを感じとってはいたが、まさかここまでとは思わなかったのだ。
噂をすれば何とやら。
「ほーう、月明様が縁結びを」
後宮宮司である葵の君が、扇子の上で目端をひきつらせながら回廊を塞いだ。
親友、左近の正室でありながら月明が最も苦手とする女人である。
「余計なことをしてくださり、全く感謝の言葉もございませんわ」
「私にも予期出来ぬことはあります」
「言い訳いらない。早く縁を切って」
「それがですね……」
今や切っても切れぬ縁。
月明が結んだ赤い糸はかたい固結びとなり、刃も入らない。
両手でお手上げを示した月明へ、葵は雪女のように冷たい眼差しを向けた。
「謝りなさい」
「申し訳ございません!」
「左近の分も」
「なぜ故に」
「あの浮気もんがぁ、また下女に手ぇだしたのよ!」
「とばっちりはご勘弁を」
「昨夜、左近を泥酔させたのはだぁれ?」
「申し訳ございません!」
葵さんが左近につれないものだから、拗ねて浮気するんですよ。床に悪態をつく月明の隣で、南の方がしっかりと実況した。
「側室とらないだけマシでしょう。下女の一人や二人くらい、大目にみてやってください。だ、そうです」
「おのれ、月明〜っ!」
月明はどたばたと、宮人らしからぬ遁走で回廊を駆けた。
しかし帰り道には女官が通せんぼ。踵を返せば先は釣殿──行き止まりだ。
窮地へ向かう当主の隣で南の方がカタカタと箱を揺らしながら、しれと手を差し伸べた。
「釣殿には転移魔法を仕掛けておりますから、ご安心を」
「なんと、天晴れ」
「その代わりといっては何ですが、お願いが」
「貴女が珍しいですね、いいでしょうっ」
「一度で構いません、うちの義妹と会ってやってはくれませんか。なに、茶をしばく程度で結構ですので」
「むむ、それは」
月明は言葉を詰まらせた。
たとえ茶を飲むだけだろうと、未婚の姫君と逢うたことが世に知れれば、我が娘もと縁談が山のように飛び込んでくる。
当然、頷けない相談だが振り返れば親友の鬼嫁──葵の君に捕まれば、後宮女人の晒し者にされてしまう。月明は女人にかこまれ香に咽ぶ自分を想像し、吐き気を催した。
選択の余地はない。
「引き受けましょうっ」
「ありがとうございまーすっ」
語尾に放たれた、消えいるような呪。
月明とその側室は、池に浮かぶ月へと吸い込まれていった。
*
近頃の月明は久助を身代わりに立てることをしない。滞留していた執務は流れがよくなり、侍従職も規則通りにこなしている。当主としての役も怠らず、厄払いを要する家を自ら調べまわり、出向いているようだ。
今日も月明の帰りは深夜となる。
その為夕拝を終えた久助は主の使役を待つばかりであるが、菓子に姿を戻すか迷うほど、暇をもて余しているわけではない。
仕事は何時でも何処にでも散らばっているものだ。
久助は拝殿を退く雪の背中へ声をかけた。
「雪様、少しお話が」
「土産菓子のことか」
雪はにやり、狐目を半弧に描いた。
久助はずばり言い当てられ、甘い冷や汗をたらりと垂らす。
「やはり、ご存知でしたか」
「別にええんちゃう? 売れたら金になる。売れへんかったら、下げるだけや」
「では、お許しいただけると」
「許すも何も、社務の仕事は当主が決めることやろうに。札所に居る巫女には私から言うとくから」
「ありがとうございます」
一礼し、頭を上げると雪の姿はもう、そこにはなかった。
久助にはいささか、拍子抜けだった。
月明が許しても、雪は「かまどの嫁がつけあがるだけや」とかなんとか、いちゃもんつけて阻んでくるだろうと構えていたのだ。
自分の当て推量であったのだろうか。
それにしても、穏和すぎやしないだろうか。
久助はうまく事が運びすぎて不安になった。
雪は毎日朝晩、かかさず鹿の子いびりを日課に続けている。狐巫女を召し使うて、どんな虐めを働かせるかと思えば、炭をくすねる程度。
何とも人間らしい、典型的な姑を演じている。
人間ではなく妖狐の所為なのだから、気味が悪いほど生温い。
雪は人を陥れることを何よりの愉しみとする妖しだ。嘘偽り、詐欺脅しはお手の物。怨み、恨まれ裏切られ、絶望した人間の精を喰らう。鹿の子のようなか弱い娘、一捻りで崖っぷちへと追い込めるだろう。
──いびり倒して、殺したる。
雪が月明へ誓言したこの言葉に嘘はない。
妖狐が殺すといえば、殺す。絶対だ。
実に過去に二度も、雪は言葉通りに先代や亡き御正室を見殺しにしている。雪は鹿の子を殺そうと、いつか必ず動きを見せるだろう。
月明が千里眼より先の未来を読む、神通力をもつ小薪を見初めたのは鹿の子の身を守るため。迎え入れる準備もなしに、西が空かぬ今から側室へ上げたのは、それほど急いでいたとしか考えつかない。
雪が動き出す前に、小薪を育てあげようと。
「……む、噂をすれば」
嫌な予感がして母家へ向かえば、思った通り。久助は御寝所の入り口で忙しなく揺れる小薪の袂を、ひっ捕まえた。
「どちらへ」
「の、喉が渇いたなぁ、と」
「そうですか。では、私が淹れましょう」
久助は颯と部屋の角へと足を進め、無造作に置かれた古い茶釜へと話しかけた。
「分福さん、分福さん、起きてください、お務めですよ」
「んあ? ふぁあ、まだ眠たいっちゃ」
「相変わらず、不細工な茶釜ですねぇ。その捻くれた鼻。ちゃんとまっすぐ湯がでるんですか」
「んぁああ!?」
怒った茶釜がぴぃい、と湯気を吹く。
すかさず傾け、湯を急須へ注げば、茶葉の豊かな香りが辺りを包んだ。
「ちゃんとまっすぐ出ました」
「当たり前っちゃ!」
ぷんぷん、ぶんぶく、湯気で蓋が浮く。
茶釜の名前は分福茶釜。
たぬきではない。茶釜の付喪神だ。
母家の御寝所にはいつでも温かい茶が淹れられるよう、付喪神を住み着かせている。こうして毎日使ってやることが、茶釜への対価。
久助は几帳を潜り脱出をはかる小薪の帯を掴むと、文机の前へと引きずり、座らせた。
「さぁ、どうぞ」
「ちぃっ」
「小御門家の側室ともあろう者が、舌打ちしない」
「あああああ、鹿の子さんのお抹茶が飲みたいいいいい」
荒れ狂う小薪の前には途方もない量の巻き物が積まれている。
月明が出した今夜分の宿題だ。
先日の茶会で修行をさぼり、その日の宿題を期限までに提出できなかった罰として、小薪は月明にこの山積みの宿題と茶室出禁を言い渡されている。
「鹿の子さんのお抹茶ですか……飲みたくなってきましたね」
「抜け駆けは許せへんで」
「小薪さんの監視に、御用人を呼びましょう」
「や、やめてよっ」
急に弱気に、娘さんらしく願い出る。
「会いたくないんですか」
「うっ、……だって、クマは忙しいし、……」
「居た方が集中できない」
「まぁそうやけど……じゃなくて! ……クマは、わたしと二人になるんが好きと違うから……」
小薪は澄明な瞳にうっすらとシャボン玉のような涙をため、和紙にぽとり、墨を落とした。
「……仕方ない。今日は、おあずけですか」
小さな嘆息をひとつ。久助は文机の前で居住まいを正し、思い巡らせた。
人間の女は面白い。
玉貴のように金にも恋にもあざとい女がいれば、小薪のように金に貪欲でも恋には後ろ向きな娘もいる。
鹿の子のように、利他な娘も。
鹿の子のうなじから香る甘い香りを思い出し、久助はあるはずもない空腹感を感じた。
「今日のお夜食は何でしょうねぇ」
「お腹空くからやめて!」
かくして、久助と小薪は今日もかくなわをお預け。
至極残念そうな二人を隅からみていた分福は、
そんなに美味い抹茶なら一度、わいの茶釜で淹れて欲しいもんや。
と、ほんの少し茶室の茶釜を羨んだ。
‐風成朝廷後宮六宮三舎‐
萬寿宮
千寿宮
百寿宮
壱寿宮
弍寿宮
参寿宮
壱寿舎
弍寿舎
参寿舎
…………日本酒かい、と即座に突っ込んでくださった方、億寿の情報提供お待ちしております!




