四‐かくなわ
西の方、玉貴が茶室へ現れたのは茶会が始まり一刻経った頃。
伽藍洞の静けさに、しめしめとにじり口を潜るが、明るい笑みは直ぐに内へと引っ込んだ。
「私の菓子はどこ」
「妹弟子の分際で遅れてくるからよ」
ほほほほほ、くぐもった声で笑うは南の方。未だ、どす黒い血の池箱に顔を埋めている。
南の方は栗落雁が余程お気に召したようで、玉貴と小薪の分は、この一刻でとうにさらえてしまった。おみやに残りすべてを懐紙に包んだほどだ。
三杯目の薄茶を最後に、余韻を愉しんでいたところ。
ぎりぎり歯噛みする玉貴には、そっと栗蒸し羊羹の切れ端が出された。運んできたのは小薪だ。生気を吸い取られたように、げっそりしている。
切れ端だが、まあ無いよりはましだ。
玉貴はいそいそ南の方と膝を揃え、菓子楊枝をとった。
「それで、話しは進んだ?」
「かくなわです」
「かくなわ?」
「ややこしや、ややこしや」
打算は転じてしまったのだろうか。
胸が騒ぎ、とったばかりの菓子楊枝を置いた。玉貴の思惑は、こうだ。
鹿の子が北と南に申しでる。
南が無駄、の一言で一殺。
北がねちねち、お説教。
利かん気のある鹿の子は即刻、旦那様へ直談判。
疲れて帰ってきた旦那様にすがる。
鹿の子「わたし、旦那様に幸せになってもらいたいんですぅっ」
旦那様、悶える。
旦那様「私の幸せを願うならば……っ」
押し倒す。
今日は忌み日。久方ぶりに旦那様のお帰りが早い日だ。玉貴はわざわざこの日を選んで茶会を整えさせたのだが。
「違うっていうの」
「きっぱりと、違うてます」
「だって、鹿の子さんいないじゃない」
「ただ今、久助さんへ直談判中です」
なんと、中身違い。
小薪はお抹茶を点てながら、この一刻のかくなわを淡々と語った。
先ずは玉貴の思惑通りに南が「無駄」の一殺。北のお説教にもめげず、鹿の子は旦那様へ直接申し立てすると言った。
問題はその後だ。
「北の方が急に、鹿の子さんの菓子を駄目出ししたぁ?」
「そうなんです、南の方は何度もおかわりした菓子を」
「ほんと、こんなに美味しいのにねぇ」
玉貴がそちらへ顔を向ければ、南の方が茶器をどっぷり箱に沈めながら、恍惚と言った。
「北は先代に懐いていたから。本当にしきたりがあるって言うなら、それを蔑ろにされたくなかったんじゃない。それか……単なる嫉妬か」
ふぅ、と一息つき、茶器を縁の外へ返した。
「小薪さん、だったかしら? あんた、まだまだね」
「どうせ鹿の子さんには、敵いませんよっ」
小薪がぷぃ、とそっぽを向く。
そう、この茶室には亭主の鹿の子がいない。
鹿の子は旦那様より、御饌菓子。
御饌のしきたりとは何ぞやと、皿を下げにきた久助の袂を掴み離さない。
耳をすませば、かまどから凛々、鈴の音のような声が聴こえる。
勿論かくなわと言うだけあって、それだけでは終わらない。
南の方がしれ、と語る。
「そうそう、玉貴。この話、一度退けた私だけれど、鹿の子さんの菓子に免じて見合いを整えようかと思うわ」
「え」
「うちの腹違いの妹が、旦那様に会わせろと前々からしつこくて。諦めてもらういい機会じゃない」
この茶室を借り、鹿の子さんに見届けてもらえば、より良い。彼女も「無駄」を目に見て知ることができるだろう。
それくらいのお膳立てでよければ、喜んで引き受けると南の方は言う。
玉貴はえへら、作り笑いで応えつつ、心は焦慮でいっぱいになった。
なんと菓子にほだされ、通らない話しが通ってしまったのだから。
肝心の鹿の子は旦那様のことなどすっぽり頭から抜けて、菓子に夢中。
気のない素振りの鹿の子に旦那様が拗ねて、目の前の若い娘に手を出そうものなら、なるほど。
捻れよじれて、かくなわとはこの事だ。
「……ま、面白いから、いっか」
羊羹を口にすると、どうでもよくなる。
実のところ、北と鹿の子が敵対すれば万々歳。
口に広がる栗の甘みに心を委ねきり、玉貴はかくなわを手放した。
*
一夜明けて朝ぼらけ。
鹿の子は昨日とまったく同じ格好で、腕を組み悩んでいた。
御出し台には可愛らしい八の字の飴、八になりきれぬ九の飴、うねっただけのみみず飴。様々な形の飴が散らばっている。
とくに、みみずみたいな飴はいつしか見た七歩蛇によく似ていて、とても食べる気がしない。放っておけば、小鬼がえんやこら持っていくのだろうが、その様子だけはみたくないと思う。
にょろにょろ動くみみず飴を想像して、鹿の子はふるる、震えあがった。
「かわいい……」
見上げれば、月より煌めく美しいお顔。
垂れるは月読みの髪。
のっぴく鹿の子を救い出した手は、熱を拒むように直ぐに離れた。
よかった、昨日みたいにずっと手を握られたら心臓が壊れてしまう。
鹿の子は胸を撫で下ろし、改めてにっこりとご挨拶をした。
「久助さん、こんばんは」
「……こんばんは」
「可愛いでしょう? 米とぎ婆さんが教えてくれた千代結び、想像してたんよりずっと可愛いく仕上がったので、これに決めよう思うんですけど」
「はぁ」
お疲れなのだろう、今日の久助さんはいつもより面構えが暗い。瞼を重そうに、うっとりと長い睫毛を下ろしている。昨夜、御饌について、しつこく尋ねすぎただろうか。
鹿の子は少し心配になったが、目の前の問題点は言わざるを得ない。
「でもこの飴、ちまちま結んでいるうちに冷えて硬なって、仕込んだ半分が無駄になってしまうんです」
「ほぅ」
「温めておこうと思たんですが、釜の熱やと熱すぎて溶けてしまう。溶けたら最後、使いもんにならんのです。こう、じんわりと、温かいものって、ないもんですかね」
そう言いながら、火鉢を囲うように両手をかざした。火鉢ではないにしろ、火灯し皿よりは大きくて、灯篭よりは小さい灯り、例えば行灯みたいな。
「……少し、待っていてください」
虚ろな久助はまだ陽の届いていない回廊を足音もなく渡っていった。姿が見えなくなったと思ったら、またすぐ闇から現れた。手には笊を持っている。笊の中を覗き込んだ鹿の子はつぶらな瞳を見開いて、笑ってしまった。
「久助さんたら、お腹空いたんですか?」
笊の中には鹿の子の顔が隠れるほどの、大きな大きな油揚げ。
それもひたひたにお出汁を吸った、甘い甘いお揚げさん。今日の御膳に乗っていたから、よく憶えてる。美味しかったお出汁の味がじわりと口の中へひろがって、鹿の子までお腹が空いてきた。端っこくらいは貰えるやろかと今一度、よくよく見ていると──。
「あれ、まあ」
笊からはみ出ていた端っこがくいくい引っ張られ、食いちぎられた。とどまることを知らず、あちらこちらから、びりびり破られ、どこかへ吸い込まれていく。端っこどころか食べかす一つ残さず、あっという間になくなってしまった。
「この仔達は、甘いお揚げさんが大好物なんですよ。これ、お前たち。食べたからには働きなさい」
「この仔たち?」
「ちょうちんお化けの子供です」
ほらほら、虚ろな久助が手で虚空をかく。指を差して数えた数はぴったり十。点呼が終わると、ぼっ、と一様に、火の玉が十個浮かび上がった。
「わぁ……っ」
ゆらゆら揺れる火の玉。火の玉の周りにはうっすらとちょうちんの形の膜が張っている。どれもこれも手のひらに収まる大きさ。近付くとなるほど、じんわりと温かい。
こんなに可愛いらしいちょうちんお化けに囲まれていたら、飴も固まらずに、気長に待ってくれそうだ。
「久助さん、ありがとうございます!」
「働くのは、この仔達ですから」
虚ろに答える虚ろな久助。
それにしてもと、鹿の子は喜びながら疑念を抱く。
「どうして、霊力なしのわたしに、ちょうちんお化けが見えるんですか?」
「鹿の子さんに見えているのは、本当に燃えている火だけでしょう。ちょうちんにこもった煙で形が見える。しっかり見えたらきっと、腰抜かしてますよ」
「えっ」
わたしが腰を抜かすということは、ちょうちんのどこかににょろにょろが?
小さい身体をさらに縮め、鹿の子はぴたりと動きをとめた。
そんな鹿の子をからかって、小さいちょうちんお化けが細長い舌でちろちろと、鹿の子のうなじを舐めようとのばす。虚ろな久助はその舌を掴み上げると、ぷらんぷらん宙吊りにしながら、言いつけた。
「お前たち、よく聞きなさい。鹿の子さんに呼ばれたら、言われた通りにお手伝いすること。いい子にお手伝いできたら、さっきのお揚げさんをあげますよ」
すると、あちこちからぽふぽふ、空気を潰したような音が飛び散った。
喜んでいるのだろうか。
ちょうちんお化けが、ちょうちんを縮めたり広げたりしている。
その細やかな風は、微かにお出汁の香りをまとっていた。
「ぅう──っ、もう、限界っ」
「……? では、私はこれで」
「待って久助さんっ、少し待っててください!」
鹿の子は虚ろな久助の袂をひっぱり式台に座らせると、釜へ壺いっぱいの油をぶちまけ、とろとろ燃えていた火に新しい炭を入れた。次に、したたたっと納戸へ消えたと思うたら、帰ってきたその手には大きな取り板。上にはねじねじねじった白い生地がいくつも乗っている。
虚ろな久助は、虚ろに尋ねた。
「それは?」
「小薪ちゃんが、かくなわかくなわ、て何度も言うから食べたくなって。今晩の夜食にしよう思うて、仕込んどいたんですけど、我慢でけへん。今、食べちゃいましょう!」
ね! と、白いねじねじを油へ入れた途端、それはばちばちと油の海を泳ぎ、膨らんでいった。ねじった隙間に油が染み込んで、ぎゅっぎゅ、と互いに詰めあって。
ひっくり返せば、きらきら黄金色。
反対側を揚げている間に鹿の子が御出し台に乗せたのは、白砂糖がたっぷり入った箱。
「熱々、食べてくださいよ?」
鹿の子が油に箸をくぐらせれば、ざばり、ねじねじが海からあがった。
鹿の子は豪快に砂糖を掴み取ると、芳ばしく揚がった生地に水を浴びせるように、ざぱざぱ砂糖をまぶしていく。
あげたての生地に、ぱちぱちと音をたてながら、砂糖がしみていった。
もう一度、砂糖をたっぷりまぶしたら、ねじねじ、かくなわの出来上がり。
「さぁどうぞ、召し上がれ」
虚ろな久助はごくり、生唾を飲み込み、長い睫毛を何度も瞬かせた。
唇を濡らし、かくなわに触れる。
指の腹で少し掴んだだけで、油がじゅわりとにじみ出た。
たまらず、頬張る。
「はふ」
噛みちぎったはいいが、舌が持っていかれるほど熱い。口の中ではふはふ冷まし、一噛みすれば──じゅわり、さくさく。
生地は雪解けのように軽やか。それでいて噛みごたえがあり、噛みしめる度、じゅわじゅわと熱々の油が滴ってくる。甘い油が。
油が甘くて、不味いわけがない。
またざらざらと、粒に残った白砂糖が油に負けじと口の中に居残ろうとする。居残っているうちに、また油が恋しくなる。
虚ろな久助は拳一つ分あったかくなわを、口と手を油と砂糖でべたべたにして、夢中になって食べきった。
「……はっ」
食べきって目線を上げれば、油好きのちょうちんお化けがみんな揃って、口の周りをだらしなく弛ませている。どうやら、お揚げさんより美味いもんをみつけてしまったようだ。
ちょうちんが油と砂糖で溶けて、べろべろ。
ついでに、舌もでろんでろん。
「……ははっ、なんだその顔は」
虚ろな久助は、声を出して笑った。
「……もふ?」
頭上から声がして見上げたら、これはまた。
御出し台から不思議そうに見下ろす鹿の子のほっぺはまあるく膨らんで、おこじょが巣篭もり前の仔リス。ほっぺたまで油ぎとぎとにして、白砂糖をぽろぽろこぼし食べている。
虚ろな久助はぶっ、と噴き出して、今度は腹を抱えて笑った。
「どうしたら、そんなに詰め込めるんですか」
「も、もふもふ、もふもふもふもふ」
「もふ……? ぶっ、はははっ」
鹿の子は耳まで真っ赤になった。
詰め込みすぎて、喋れないだけなのに。
恥ずかしいけれど、いつもみたいに笑う久助さんに戻ってよかったと、鹿の子はもふもふ思う。
「んぐ、……そうや、久助さん。旦那様に土産菓子のこと言うてくれて、ありがとうございます」
昨夜に許可をいただいたことを、湯殿で小薪伝いに聞いている。
「ああ、いえ。土産菓子は先代の頃にもありましたから」
「先代も? それ、本当ですか!」
昨夜、久助に尋ねた時にはそんなこと一言も言ってなかったのに。
鹿の子はしゃがんで、虚ろな久助と向かい合った。
虚ろな久助は虚ろに頬を赤らめる。
「き、久助が生まれる前の話しですよ」
「久助さんが、生まれる前?」
「あ、いえ。だ、旦那様から聞いた話です」
「そうなんですかっ、他には?」
鹿の子は昨夜の久助の言葉を思い出した。
先代はいつもかまどで一人きり。菓子一心に努めていた。継承者はいなかったので、御饌の、それも御饌菓子のしきたりを詳しく知るものは、この小御門家にはいない。
しかし旦那様はよくかまどへ顔を出していらっしゃったようなので、もしかしたら何かご存知かもしれないと。
今夜、土産菓子の許可をいただく折に旦那様に聞いてみますと、久助が言っていたのだ。
「御饌のしきたりといわれましてもね。わた、旦那様にも心当たりはないようです」
「そうですか……、旦那様も」
「しかし、土産菓子のことならば。偶然にも落雁とは、小御門神殿で一番よく売れていた土産菓子だったんですよ。家紋の型にして売っていましたから、北の方はそれ以外を落雁と認めたくなかったのでしょう。あの人は生真面目ですから」
「落雁が、土産菓子」
「あれは、美味しかった。──そうですよ。旦那様はご自分の小遣い出して、買って食べていたそうです」
「旦那様が……? 旦那様の、大好物」
鹿の子は甘い油をごくり、飲み込み閃いた。
御饌のしきたりを知る者がいなくても、旦那様が落雁の味を憶えていらっしゃる。
旦那様に試食をしてもらい、同じ落雁に辿り着くことができたら。
自ずとしきたりとやらが見えてくるのではなかろうか。
今は取り合ってくれなくても、同じ落雁が土産菓子に並べば、北の方も認めてくださるかもしれない。御饌のしきたりを言葉で示してくださるかもしれない。
「久助さん、わたし、この飴が完成したら、次は落雁を作ろうと思います。いや、作ります!」
「土産菓子をふたつも? 鹿の子さんの身体では、無理があります。今でさえこうして、かまどで夜を明かしているではありませんか」
「でも、先代かて一人で作ってたんですよね?」
「そうですがね……」
先代は妖の手を借りていた。
虚ろな久助はふよふよ、辺りを泳ぐ、ちょうちんお化けへ目をやった。
力持ちの塗り壁や火消し婆が、ちょうちんお化けのように鹿の子の目に映れば、うんと力になるだろうに。
先ほどまで焚き口に頭を突っ込んでいた火消し婆は今、かくなわをひとつ摘まんで、満足げに戸口から出て行った。火を消す妖が火をつけるとは、なんとも奥ゆかしい話だ。
見えない鹿の子は「よかった、まだ火がついてる」と立ち上がり、ぱんぱん白砂糖を払い落とした。
「そうと決まれば、まずは手元の仕事! ちょうちんお化けさん、お手伝いよろしくお願いしますね? 久助さんは残り食べていってください、今お茶淹れますから」
ぽふぽふ頷くちょうちんお化けを従え、鹿の子が納戸へ消えていく。
ではお言葉に甘えてもう一つ、と虚ろな久助は御出し台へと手をのばしたが、すかすか手応えがない。
腰を上げて見てみれば、なんにも乗っていない取り板の向こうに、白い毛玉が覗いた。
「はふ、はふっ」
豊かな尻尾をふりふりさせて、蔵馬が最後のひとつにありついていた。忙しなく口を動かす度に、白砂糖を雪のように振りまく。
「あぁ、こりゃ朝から美味いもん食べれたなぁっ、なあ、げつみょ、んぐ」
虚ろな久助が口を塞ぐ。
「……っ、ぷはぁっ、お稲荷さまになんて無礼なことすんねんっ」
「あなた様はご存知ですか。御饌のしきたりについて」
「あ? 知らん。わしは美味かったら何でもええ」
「ですよね」
虚ろな久助は、想像通りの答えに苦笑いをこぼした。
食すお稲荷さまが、これだ。しきたりも何もない。
神饌の御膳にのるおかずでさえ、決まりがあるのはお飾りや方角だけ。狐の好物がのっていれば、良しとする。
では何故ゆえに北はしきたりにこだわるのか。
事実、彼女に人形を与え、正気を取り戻させたのは先代だ。北は先代になつき、毎日のようにかまどへ通っていた。
しかし彼女はこの一畳一間のかまどで、一体何をみたというのだろうか。
虚ろな久助は取り板のそばに置かれた、小さな菓子手帖を見据えた。
「……探してみる価値はありそうだ」
虚ろな久助は茶を待たず、仄明るい母家の奥深くへと消えた。




