閑‐唐かさ
「ああ、いいにおい」
かまど休みの、穏やかな朝。
鹿の子が壺庭に打ち水をかけていると、どこからか華々しい秋の香りが流れてきた。
風吹く方へ袖を向ければ、金木犀の枝が一枝落ちている。
「ありがとう、唐かささん」
にっこりと笑いかけられた唐かさは、きゅうぅ、と傘を閉じた。
はじめて、目があったように思えたのだ。
一本足でぴょんぴょん跳ねると、壺庭の石が弾ける。
鹿の子はくすくす笑いながら、枝を拾いあげると、嬉しそうに茶室へと上がっていった。
「唐かささん、こちらへ」
「はい」
久助に呼ばれ、唐かさがかまどへ向かう。
一畳一間のかまどには、妖しという妖しが詰めあっていた。
小御門総会である。
身の寄せどころのない唐かさは、雪婆に足首を持ってもらった。
今日は久方ぶり、久助の隣にお稲荷さまが座られている。
首を垂れ、決まりが悪そうに。
「なんや、なんやねん、みんなして」
「まぁ、まあ。みなさんも」
久助はお稲荷さまこと蔵馬と、同じように恥ずかしがる妖し一同を宥め、何時ものように指揮をとった。
「今日の総会、お稲荷さまにお越しいただいたのは他でもない。皆さんのご希望です」
「みんなの?」
「また以前のように、親しくさせていただきたい。そんなお話しです」
そこへ、雪婆が火消し婆へ唐かさを預け、手を上げた。
久助に許しをもらい、蔵馬の前へ立つ。
「小御門総会代表、雪婆!」
「お、おぉ」 たじろぐ蔵馬。
「申し訳ございませんでした!」
申し訳ございませんでした!
家鳴り妖しの声が轟き、かまどのあちらこちら、かたかた揺れる。
「なんや、お前ら」 と、言いながらも、蔵馬の目にはもう、涙が浮かんでいた。
雪婆もまた、涙を汲んで喋る。
「お稲荷さまが鹿の子さんを嫁にするて言うた時、私ら、鹿の子さんにいなくなって欲しくなくて、それで……」
「わかってる、もうええよ」
「仲間はずれみたいなことしてしもて……、お稲荷さまありきの、私らやのに」
「もうええてっ、わしが悪かってんから」
えぐえぐ、みんな揃って口でお山をつくる。
唐かさの一つ目からは、ぼたぼたと大粒の涙が滴った。
会話が成り立たない両者に焦れ、舵を取る久助。
「今日は笑って仲直り。そう話し合ったでしょうに。雪婆」
「は、はい」
雪婆がしわくちゃの手を、ふるふる震わせ、蔵馬に差し出す。
「こ、これ、どうぞ」
それは枡に、蓋がついた木箱。
雪婆がずっと握っていたから、霜がついている。
振るとかたかた音が鳴る。
蓋を引けば、なんとまあ、現れたのはきらきら輝くべっ甲色の飴。
「鹿の子さんに教わりながら、火消し婆と、米とぎ婆と一緒に作りました。御饌飴を煮詰めて作った、べっ甲飴です。これを舐めてる間はずっと、鹿の子さんのそばに居れます」
「なんと……っ」
今まで御饌飴にしても、すずし梅にしても、美味い菓子を口ん中にとどめておくのは至難の技であった。これなら硬いから、舐め終えるまで鹿の子に会える。
「ありがとうっ!」
蔵馬は孫のようにはしゃぎ、喜んだ。
雪婆が退けば、次はわしやと小豆洗いが艶艶に磨いた小豆を差し出す。ぬりかべは壁を。小鬼は小石を。
いらん、いらんときゃっきゃ、じゃれ合う。
枝を折るのも一苦労の唐かさは、その身そのまま、蔵馬へ差し出した。
「なんや、唐かさ」
「なんも、あげるもんがないんで……その、鹿の子さんとの相合傘にでも使うて貰おうかと思いまして」
蔵馬は声を出して笑った。
唐かさを持つのは鹿の子ではなく、これまたしわくちゃの火消し婆。
ついでに唐かさは古傘、穴だらけ。
花摘んで、穴を広げたから、なおのこと傘にならん。
しかし、その情景を思い浮かべると、なかなかいいものだ。
「雨降ったら、頼むわ」
「はいっ!」
うひゃあ、みしみし、騒がしいかまど。
蔵馬が悔しそうに、ぽつんと呟く。
「わしも……、みんなの願い事、叶えられたらいいのになぁ」
急にしん、と静まる。
みんなの願い事は、みんな同んなじ。
──鹿の子に、会うこと。
しかしどんなに蔵馬が鹿の子へ霊力を注いだって、ぽっかり穴が空いているように抜けていく。
供物で叶えられるのならば、とっくにやってみせている。
神である自分さえ、御饌を食していないと会えない、儚い娘。
「……いや、叶えてみせる。それがわしのみんなへの、罪滅ぼしや」
解き明かすには、糖堂の旦那がいう、荒神の呪いが根軸にあるのではと思う。
蔵馬は諦めていない。
必ず呪いを解き、鹿の子の穴を塞いでみせる。
拳で胸をどん、と叩き気概を示した。
どうしても呪いが解けず悪化を辿り、鹿の子の命が削られてしまうのなら──、生き延ばすには、妖しへ御霊を移す以外に方法はない。
その覚悟はしておいて欲しいと、蔵馬は切に語った。
鹿の子が妖しになったら、ずっと一緒に居れる。菓子が食べれる。
喜ぶ妖しは多く居たが。
唐かさの薄い頭には、月明の顔が浮かんだ。
鹿の子が嫁入りした日。
唐かさが傘を開いたのは、ほんの興味半分だった。
月明の新しい弟子は、どんな顔をしているのだろうかと、通りすがる振りをして几帳を翻した。
その時の、月明の顔──。
失くしものに再び出逢えたような、そんな顔だった。
そのまま卒倒してしまい、目玉が飛び出るかと思うたが。
野分のあと、鹿の子と行き逢った時も、同じ顔をしていた。
それでいて、まるで迷子の童子のように、泣いていた。
先代が亡くなり五年──、その時に溜めた涙を一度に、流すように。
唐かさは思い出す。
月明が幼かった頃のことを。
素直で笑みの絶えない、優しい坊っちゃま。
境内の外へ抜け出しては、先代に尻を叩かれながら帰ってくるその姿。
愛に包まれ、穏やかに過ごしていたあの頃を。
今では至極冷徹な当主様。
これだから成長した人間は嫌だと、妖し等は月明を目掛けなくなったが、それは違う。
月明は酷く冷たい殻に閉じ籠ってしまった。
包まれていた愛を失い、また裏切られ──。
でも、唐かさは知っている。
鹿の子とその菓子は、その殻をいとも容易く剥いでいく。
鹿の子ならば、月明を救うことができると、信じている。
確かに鹿の子が妖しになれば、逢えるだろう。
自分の夢は叶う。
妖しとして、共に道を歩むのは、涎が垂れるほど魅力的だ。
それでも唐かさは思う。
月明と鹿の子が二人、笑って手を取り合う姿がみたい。
望ましい。
ラクには悪いが、その様子ばかり思い浮かべてしまう。
愛に満ち、溢れた想いが陽だまりのように境内を温めた。千年で一番輝かしかった、先代のおふたりのように。
思い出し、唐かさはぎょろ目を細める。
二人が歩くその後ろを一本足で追いかけたいと、心からそう、思うのだった。
 




