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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
こぼれ萩
22/120

十二‐こぼれ萩(下)

 鹿の子ととうさまの惜別の朝。

 母家は野分の再来かと疑うほどに、ざわざわと騒がしくしていた。


「街娘にうつつをぬかすとは、当主としてあるまじき行為。違いますか」

「西の方、お待ちください!」

「待ちません。全く……っ、こんなことでは、いつまでたっても実家に帰れやしない」


 下女を振り払い、母家の回廊を渡るは西の方、玉貴。

 玉貴が御寝所の簾を翻し、内へ入った途端、中からか細い悲鳴が突き上がった。

 旦那様のご寵愛、小薪様のお声に違いない。

 女の修羅場やと戦慄き、下女は一目散で逃げ去っていく。


「……行ったようね」

「姉御、迫真の演技でしたね!」

「あら、本心よ」

「ひぃい」

「それで、旦那様は?」


 ずざざ、と後退する小薪。

 几帳を潜ると、御帳台には未だ夜衣のまま寝そべる、月明がいた。

 しかし魘されてはいないようだ。


「おはようございます、旦那様。御加減は」

「玉貴さん……? ああ、いや、すまない。私としたことが、寝坊だ」

「お寝坊?」


 朝拝まであと半刻しかない。

 月明という人間は、前夜に弟子の修行がどんなに長引こうと、山の端が明るむ頃には、涼しい顔をして文机へ向かっている男だ。

 それが今日に限って陽が昇りきっても起きてこないものだから、小薪は心配になり、御用人を西へ走らせ玉貴を呼んだ。

 幣殿での告白から一夜──、お稲荷さまの祟りに遭われたのだろうと、玉貴もまた急いて駆けつけたのだが。

 玉貴は派手な顔を歪ませ、今一度しっかり辺りを見回した。


「お稲荷さまでなければ、一体どなたがお寝坊の呪をかけたのかしら」

「……よしてくださいよ」


 玉貴は小御門家側室の誰よりも、呪術や妖術に長け、その解術に詳しい。

 鹿の子の初夜、玉貴が御寝所へ呼ばれたのはお稲荷さまの呪を解く為であった。

 最も、玉貴はいつも通り夜伽名目の修行に呼ばれている。この日東の院に側室が入ることを聞かされていた玉貴は、どんな顔して邸を彷徨いているのかしらとその姿を探したものだ。愚かな娘が側室の習わしを聞かぬまま、御寝所から逃げ出したのだろうと思い至ったからだ。美しい当主を目の前にしても、心が揺らがないほど愛して止まない男がいるのだろうと。

 祝い着を着た娘がかまどで泣いているものだから盛大に笑ってやった。さて修行に勤しみますかと御寝所へ向かえば、月明が高熱に魘されているではないか。

 玉貴が三日三晩、飲まず食わずで祈祷を続けなければ、月明は一月、床から離れられなかっただろう。

 その間、御寝所には結界を張り下女を遠ざけていたものだから、お二人はこの三日で睦合い、御子を授かったのだと臣下共々信じきっている。

 そして笑った。

 かまどの嫁はお二人の恋の火付け役だと。


 酒でも煽ったのだろうか、月明は目は開けても腰はあげない。美しい顔は蒼白く、枕元には空いた瓶子と、菓子箱が乱れている。

 これだから、帰れないのよ。

 玉貴は存分に、意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「恋でもしましたか」

「……わからない」


 この状況下、玉貴相手に言い逃れはできない。

 否は唱えぬ月明に、玉貴の目元がやんわりと緩んだ。


「わからないんですよ、本当に」

「旦那様。恋はわからぬまま、知らぬうちにしているものですよ」

「そうでしょうか」

「そうですよ。私だって、なんであんな男を選んだのか、今でもさっぱり」

 

 さっぱりわからないが、犬ころのようなその顔を思い浮かべるだけで、胸が熱くなる。

 早く会いたいが当主がこれでは、またいつお稲荷さまに呪われるかわからない。

 臨月までには小薪を立派な陰陽師に育て上げなければと、そちらを睨んだ。


「ひぃい」




 *




 その日の夕拝。

 蔵馬はぼろきれになった紙を一枚握り締め、水が浸るつくばいの前に立った。

 かまどの茶室。その壺庭に備えられたつくばい。まあるい手水鉢には境内の池水ではなく、新鮮なあか山の湧き水が毎朝、鹿の子により入れ替えられている。

 蔵馬はその清らかな水で口をゆすぎ、手をすすぐついでに顔も引き締めた。


「……よし!」


 唇を一文字に結び、にじり口を潜る。

 朝に約束した通り、鹿の子は静かに炉の前で出迎えてくれた。

 

「お待ちしておりました、お稲荷さま」

「うむ。今日は話があってここへ来た」

「点前の準備が整っておりますので、それからでもよろしいですか」

「よいぞ」


 あれ?

 なんか、可笑しい。

 心に引っかかり座り心地が悪いが、会話を遡ろうにもない心臓の鼓動が頭までがんがん響いて、記憶が引き出せない。

 そうしている間にも茶道具は揃い、膝先には御饌皿がとん、と置かれた。

 寒さを微塵も感じさせない初秋。

 菓子のまわりには露が浮くほど、湯気が昇っている。


「熱々を、どうぞ」


 鹿の子はにっこりと勧めるが、蔵馬は結んだ唇で山をつくり、躊躇った。

 だされた菓子は、若葉に白雪がうっすらと積もったような、やわらかな色をしている。千年の人生のなかで、初めて見る色の菓子だった。

 見たところ、形は羊羹のようであるが、味はまったく想像できない。

 蔵馬の憮然とした表情に、鹿の子はさらりと説明を施した。


「これは浮島という、蒸し菓子です。今朝お出しした、きんつばと同じ豆を使っています」

「おお、あの四角い菓子か」


 きらきらと輝くうぐいす色を思い出し、うっとりと頬を緩ませる。まるで何十粒の豆を一度に噛み締めたような、食べ応えのある菓子だった。直会(なおらい)を共にした月明は食べ終えてしまうのが余程口惜しかったようで、長い間幣殿から動けなかったものだ。

 同じ味の菓子なら、間違いない。

 指二本で持ち上げれば、その軽いこと。

 ふわふわと儚げでいて、皮膚に吸いつく熱と水っ気。これまた初めて持つ指触り。

 大いに期待しながら、惜しみつつ、パクリと端を啄ばむ。


「は……?」


 溶けた。

 口に入れた途端、熱と共にすっ、と消えてなくなった。後に残るのは、微かな豆の甘み。

 その甘みが、なんとも言い表し難い、慈愛に満ちた味だ。恋しくなって、すぐにまた一口、口に含んだ。

 また消える。

 がつんとくる、きんつばとは全く別物。同じ源から生まれたとは思えないほど、優しい味。

 美味いが、驚くほど物足りない。

 物足りないので一切れ全部、惜しまず口に詰め込んだ。


「ぬぁあっ」


 驚いて腰が浮いた蔵馬を、鹿の子は炉と向き合いながら、笑った。

 小豆だ。

 中に小豆が入っている。

 鹿の子は悪戯に、見た目ではわからないよう、中へ小豆を忍ばせていた。

 その小豆の美味いこと。

 無理もない。蔵馬の大好きな、鹿の子豆なのだから。

 えんどう豆のこし餡と、米粉を混ぜて蒸した浮島。蒸しあがると、ぽっこり膨らむから、浮島。

 浮島に沈むは、鹿の子豆。

 浮島に浮くは、紅紫の花。

 昨日とは一味も二味も違う、お稲荷さまのための、こぼれ萩である。


「……あぁ、美味いなぁ」


 ふわふわの生地が小豆を庇うように、じんわりと染み込み、しっとりと消えていく。

 口の中に残された鹿の子豆を噛みしめれば、鹿の子が嫁入りしたあの日を思い出した。

 神も凍える寒い冬──。

 この刹那なる生地のように、ぬくぬくのかい巻きで、温かな愛で、鹿の子を包んでやりたかった。

 ほろりと、涙がこぼれる。


「鹿の子、わし……」


 ──ごめんな。


 その言葉ひとつ発しようとするだけで、涙がまたひとつ、こぼれ落ちそうになる。

 蔵馬は袖の中のしわくちゃの紙から手を離し、大きく息を吸った。

 夜な夜な、なんべんも書き直し、口に出して練習した告白文。謝罪から始まる拙い文章。

 こぼれ萩を食べた後では、すべて意味を成さなく思えた。

 伝えたいのは、後悔ではない。

 この菓子のような、真っ直ぐな慈愛。

 目の前の娘へ敬意を払うように、しっかりと見据える。

 

「鹿の子」

「はいな」


 蔵馬へ膝を向けた鹿の子は、神様の流す一筋の涙に、はっと息をのんだ。

 蔵馬はそれを気にもとめず、しっかりと、想いを伝えた。





「好きです。どんな菓子より、鹿の子より、今ここにいるあなたを、愛しています」




 そうして語った。

 初夜に鹿の子と、鹿の子菓子に惚れたことを。

 月明にも、連れてきた御用人にも、誰にも会わせたくなくて、かまどに閉じ込めたことを。

 御饌巫女の修行などではない、自分独りの我儘。

 神であるが故の、独裁だったことを。

 蔵馬は明かした。

 自分は蔵馬という名の神様で、民はお稲荷さまと呼ぶ。

 神であるが故、気付けなかった。

 好いた娘へどれほど惨めで、苛酷な日常を強いていたのか。最近になって、ようやく気付かされた。


「わし、今日は謝りに来てん。しかし、それは違うと、今ここで初めて思うた。鹿の子には辛い思いをさせた。確かに間違うてたけど、わしが鹿の子を愛した、何よりの証やったと、今ではその愚かさを誇らしく思う」


 それは蔵馬が恋をした、軌跡。

 深い雪原に初めて足を踏み入れるような、しっかりとした足跡。前がみえず、直向きに。けれど荒々しい足跡。


「……許してくれとは、言わん。謝りもせえへん」


 さり気なく出された、茶器を手にとる。

 茶の渋みが舌に貼り付いた甘味を拭い去り、豆の香りだけを残して行く。

 なんや、苦いだけやと思っていた抹茶が、もの凄く美味く感じる。

 舌も成長したんやろかと、蔵馬は小さく自嘲した。



「その代わり、わしは鹿の子の総てを許す。実家へ帰っていい、ラクと添うたらいい。月明の言った通り、鹿の子は自由や」


 す、と衣擦れの音がする。

 茶器を畳縁の向こうへ返し、蔵馬の恋は終わった。

 不思議と笑みが溢れる。


「どや! びっくりしたやろぉ、尻尾が生えた神様やぞ!」

 

 尻尾でしたした、と畳を叩く。

 いつもと変わらぬ蔵馬に、鹿の子は浮島のようにほかほか、温かな笑みを贈った。




「わたし……、知ってたよ? 蔵馬の気持ち。お稲荷さまのことも」




「へっ」 蔵馬の尻尾がぴた、と止まる。

「知ったいうても、つい最近。確信したんは昨日の話やけど」


 鹿の子が初めて首を傾げたのは、東の院にてみたらし団子を久助や妖し等にふるまった夜のことだ。

 蔵馬は東の院へ訪れない。

 自由気ままな妖しとは異なるのだろうかと、この日初めて違和感を覚えた。

 思えば御饌かまどでも、蔵馬が居るのは朝と夕方の僅かな時間。そのひと時、いつもは何やら騒がしいかまどが、波が引いたように静まる。

 まるで家鳴り妖しが、蔵馬に畏怖するように。

 茶室にて涙を汲み、消え行く蔵馬を見た時、言い知れない喪失感に襲われた。

 蔵馬は朝拝と夕拝の時間にしか、自分の目に映らないのではないだろうかと、鹿の子は思った。自分は清々しいほどの霊力なしだ。例えば腹を満たし、蔵馬が力を得た時だけ、会えるのではないだろうかと。


 鹿の子が確信したのは蔵馬の、二度にわたるラクへの嫉妬。

 鹿の子は蔵馬の気持ちを知っている。

 ラクや久助の話をすると、あからさまに拗ねるから。それは弟の外郎のようで、くすぐったくも、嬉しいことだった。


 草履の鼻緒が切れた時も、雷が落ちた時も、ラクは言うた。

 ──お稲荷さまが、お怒りやと。

 そんなやきもち焼き、一人しか考えつかない。狐目吊り上げて怒る蔵馬の顔が、すっと頭に浮かんだ。


 疑いが確信へ移ろい、一夜明けた朝。

 とうさまに「お稲荷さまのことは聞いていた」と言われ、笑ってしまった。


 わたしをかまどに嫁がせたんはお稲荷さまやったんか。わたしは、お稲荷さまの胃袋を掴んでしまったんや。


 最も、御心を傷付けられてしまうほど、愛されているとは、考えに及ばぬこと。



「わたしを好いてくださり、ほんまに、ありがとうございます」



 鹿の子は正座のまま小さく縮こまり、深く、頭を垂れた。

 しかし蔵馬は、繭玉のような鹿の子から膝をそらせた。

 いざ言葉にされると矢に貫かれたように胸が痛む。

 言いたいことは言うた。

 口の中に残った鹿の子豆を飲み込もうとしたが──。



「お稲荷さまが総てを許すと仰るならば、今暫くは御饌に、かまどにこの身を捧げさせてください」


 蔵馬は耳を疑った。


「ら、ラクの修行が終わったら帰るんやろな」

「それはまだ、分かりません」

「わ、分からん!? ……あ、あかん、あかんで。いくら何でも境内でいちゃつかれたら、敵わんわ!」

「い? そ、そんなことしません! それに総てを許すて、言うたやありませんか!」

「前言撤回や! 見せ付けられるくらいなら、会われへん方が幾分マシや!」


 馬鹿正直な神様に、鹿の子は、あははと声に出して笑った。


「何がおかしいねん!」

「だって。ほんまに、いいんですか? わたしが実家へ帰ったら、お稲荷さまは熱々の浮島や白玉を食べられへん」

「……っ、ええよ、それが己れへの罰や」

「つれないなぁ」


 颯と水屋へ消え、持ってきたのは同じ浮島。


「食べてみて?」

「お、おぅ」


 喧嘩しても菓子ははね返せないのが、甘いもん好き。

 蔵馬は言われるがまま、熱がとれた浮島を一気に口へ放り込んだ。


「うぐ」


 重い。

 しっとりときめ細やかな生地がどしんと、舌に乗っかり、動かない。

 唾液に溶かされた浮島は、まるでえんどう豆そのもの。二種類の鹿の子豆を一度に噛んでいるようだ。


「はい、お抹茶」


 鹿の子はすかさず、茶器を滑らせる。

 点てられたばかりのお抹茶で流し込み、蔵馬はふぅと一息ついた。

 これはこれで、美味い。

 しかし先程食べた浮島とは全く異なる。


「それは昨晩、試作した浮島です。分量も作り方も同じ。一晩越えただけで、これだけ味と舌触りが変わるんです。わたしが実家へ帰ったら、お稲荷さまはこの一晩越えた浮島しか食べられへん。そんなんいやや。お稲荷さまが許しても、わたしが許されへん」


 鹿の子は雪にいびられ、かまどを飛び出した日のことを思い出した。

 離縁──、その二文字が頭に過ぎった瞬間、誰よりも先に蔵馬の顔が浮かんだ。

 蔵馬はまだみたらし団子を食べてないのに。もう少ししたら、栗が落ちる。冬には柚、小豆が旬になったら、嫌っていうほど食べさせたいのに。

 蔵馬の美味い、が二度と聞けないと思うと、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 涙を流し惜しむほど、かまどを、愛していたのだ。

 糖堂の実家のことや村のこと、砂糖のしがらみまで、すっぽり忘れて、かまどから離れたくないと、心からそう思った。


 振り返れば確かにこの半年、辛いことばかりだった。泣いて喜んで、実家へ帰っても許されただろう。

 しかし、だからこそ菓子と、菓子を味わう者と、ひたむきに語り合えた。

 作る喜びと、喜ばれる喜び。

 知ることができたのは、お稲荷さまのおかげ。

 その恩返しに、菓子好きのお稲荷さまには、菓子の総てを味わい尽くして欲しい。

 鹿の子は再び、頭を下げた。


「わたしは人間です。お稲荷さまと添うことは叶いません。しかし、どうかこれからも、かまどの嫁でいさせてください」


 なんと、まあ。きっぱりとふられた。

 それも至極真っ当な言い分。

 ついでに我儘を言い貫かれた蔵馬は自棄になり、神様の算数で答えを弾き出した。


「いいか、鹿の子。よく聞け」

「はいな」

「己れをふった娘にうろちょろされんのは、かまどに閉じ込められるのと同等にしんどいぞ。鹿の子は半年やった。それ以上居座るというなら、割りに合わへん」

「神様が、えらい細かいなぁ」

「それが神道っちゅうもんや」

「へぇ」


 感心する鹿の子に、尊大に偉ぶる蔵馬。


「平等に値する、供物を捧げよ」

「供物? えんどう豆みたいな?」


 鹿の子は困った。

 御饌は務めやから、供物にならない。

 頭のなかで、嫁入り道具の引き出しをひっくり返すが、がらくたばかり。救いの黒砂糖はもう一欠片もない。

 悩まし気に天井を見上げる鹿の子を前に、待ちきれず蔵馬は言い放つ。


「接吻や」


 まあ、なんと。きっぱりと厳命なされた。

 鹿の子も呆れて、二の句が継げない。

 頭を掻いたのは蔵馬の方だ。

 ろうそくに火をつけたように、顔を真っ赤に染めた。


「それで、……諦めるから」


 もじもじ、膝をこする蔵馬。

 どんなに偉そうにしても、やっぱり弟の外郎みたいやと、鹿の子は微笑ましく思う。


「ええよ?」

「えっ」

「ここは茶室やから、寝所でもいい?」

「ぇええっ」

  

 今は正真正銘、固くて熱いだけの、かまどの嫁。旦那様が困れへんならええやろと、鹿の子は易々と御寝所へ招こうとする。

 勘弁してくれと、蔵馬は外を指差した。

 等価以上は頂かないのもまた、神様だ。

 はいな、と退く鹿の子を追いかけ、にじり口を飛び出す。

 逃げてもよかったのに、鹿の子はつくばいの前でしっとりと佇んでいた。

 水で口をすすいだのだろう、鹿の子の唇には朝露のような水滴が一粒、乗っている。



 その水を吸いとるように、しっかりと唇を合わせた。



「鹿の子……」



 あか山の湧き水を纏った鹿の子の唇はひや水より甘く、白玉より、すべらかだ。



「もう……、ええの?」

 

 頭ひとつ分、小さな鹿の子はうっとりと瞼を重たげに開き、妖艶な瞳を覗かせる。



 

「こんなん、…………諦められるかぁ!」

「え」



 ひや水よりずっと、魅力のあるものをみつけた。

 がじりと一噛み、口の中の鹿の子豆を噛み砕き、蔵馬は消えた。

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