序‐唐かさ
小御門家の側室が住まう離れ邸は母家より距離にして徒歩五分、東西南北余すことなくうめられている。最も古株が北の院にすまう奥方。次が南の奥方。
その朝、邸主が不在である院は西の院と東の院であった。
尤も東の院はこの半年一度も主を迎えていない。邸主である鹿の子はかまどに籠りきりの、かまどの嫁なのだから。だがしかし、人なき幽霊邸ではない。広い広い邸は男が独りきり、毎日毎日蔀戸を開け放っては空気を入れ替え、塵ひとつなく掃除している。男の主がいつ何どき帰ってきても、気持ちよく過ごすことができるように。
果てしなく続く回廊を一片の曇りなく磨ききったその男は、床の汚れを舐めとったみたいに、どんよりと顔を曇らせていた。
「おはよう、ラクさん」
「……おはようさまです」
「うひゃあ、もう掃除終わったん」
「はい。朝拝終わってすぐに、北の院へ呼ばれてますんで」
「うひゃあ、たいへんやなぁ」
「こんなん、鹿の子に比べたら……その、唐かささん、鹿の子は、東の方は、元気にやっていますか」
「うん。昨日も寝てないけどね、元気は元気や」
「……そうですか。いつもありがとうございます」
「今日は暑くなりそうやから、気いつけや」
このような短い近況報告をしに、毎朝東へ赴くのは唐かさお化け呼ばれる、古傘の妖しだ。
唐かさはなんとなく、男を不憫に思いこの半年、散歩がてら一本足で往来している。自分の意志で二十四本の骨広げ、風を起こしながらぴょんこぴょんこ。
そして何時ものように境内へ戻り、かまどへ飛び込んでは、うひゃあと一息吐く。
ほかほか、くつくつ煮える艶やかな飴。
溢れ出す涎を飲み込み、人気のないかまどをぎょろぎょろ見渡す。ちゃんと布団に入ったんか、はたまた米俵の裏か、まさか彼処じゃないだろうかと釜の真下を覗けば、果せる哉ちんまりと鹿の子が縮こまっている。火を消してすぐ、安堵して動けなくなったのだろう。火消し壺を抱えたまま、たてた両膝に顔のせた格好で眠っていた。
これまたあまりにも不憫で、唐かさは飴の盗み食いを我慢しながら、鹿の子へ掛け衣を被せた。何度か火が移り、ぼろきれのようになってしまった、かつての、初夜の祝い着――。
それからちょっと飴を貰う。
朝の空腹は、妖しにとっても堪えがたいのである。
あちあち、と長い舌ですくえば、なんとも言えない芋の甘味、深味が傘にひろがる。うひゃあ、うひゃあと感嘆するも、唐かさには余韻を楽しむ猶予はない。
「鹿の子さんっ、居眠りしない! また妖に食べられてますえ!」
「んん……ふぁあ、ふぁい」
「これから朝拝やというのに、いつまでのんびり寝とるつもりや、それも土間で、不潔な」
お姑の雪が嫁いびりに顔をだしたのだ。これもまた毎朝の習慣。狐目に睨まれた唐かさはうひゃあと、かまどから飛び逃げた。
「ほんま、うちらは早ように起きてんのに」
「田舎娘はだらしない」
出汁の湯気がたちのぼる迎え御膳を運びながら、巫女等も毒を吐いていく。
昨日の夜から仕込んだ飴は先程炊き上がったばかり。寝ずに釜をかき混ぜ続けた鹿の子は半刻も眠ってない。それをわかってて言うてるんやから、性悪すぎる。そんなんで巫女が務まるんかいなと、唐かさがうひゃあ格子窓から覗いていると、鹿の子は巫女へ浅い会釈を一度、今度は明後日むいて深く頭を下げた。
「優しい誰かさん、ありがとう」
唐かさが掛けた夜着をぎゅ、と握りしめ、また一礼する。その途端、唐かさはそのぼろきれみたいに、ない胸が締め付けられた。
鹿の子の振る舞い、手先、膝を曲げる一瞬の動作ひとつにしても、無駄がなくきれいだと、唐かさは思う。鹿の子は他の側室の誰よりも品格が行動や所作に現れる。飴をすくうさじの先までも、育ちのよさが滲み出る。きっと、山向こうでは名ある貴族の娘さんだ。
――それなのに、髪も肌も煤汚れ。
納戸に移り、てきぱきと身体についた汗と煤を拭う鹿の子にみとれながら、唐かさは一筋の涙を流した。その後ろを小御門家当主である月明と西の方が肩を寄せあい通りすぎていく。
朝の陽光には眩しすぎる豪奢な着物。同じ側室だというのに、どうしてこうも扱いが違うのか。
西の方も人が悪く、聞こえよがしに戸口へ声をかける。
「ねぇ旦那様、子供が水浴びするような音が聴こえない?」
「…………ああ、かまどの嫁だろう」
月明の足は無関心に拝殿へ向かうだけだ。己の嫁が水桶で髪を洗っているというのに、気にもかけやしない。月明の虚無的な声色に、鹿の子があげる水音が一瞬、止まったというのに。
唐かさは月明の背中目掛け、哭いた。
せめて鹿の子に自分の姿がみえれば、声が聴こえたら、慰めることができるのに。おっちょこちょいな自分の話やラクの話で、笑わすことくらいできるのに。
唐かさがどんなにばさばさ傘を開いても、この切ない気持ちは鹿の子に届かない。
「あーっ、さっぱりした」
唐かさの想いは今日もやっぱり届かず、鹿の子は自分ひとりで、勝手に元気になる。
髪をひっつめ直し、小豆みたいにちいさいお団子結ったら、今日は何を作ろかなと、うきうき釜を担ぐ。唐かさはそんな健気な鹿の子を見守ることしかできない。
お稲荷さまは妖しのお願いを聞き入れてくださるだろうか。小豆みたいな、特別な供物があったら。
鹿の子とみつめあってお話する。そんな情景を思い浮かべては、傘にのるギョロ目をうっとりと、瞬かせるのだった。