九‐野分のあと(二)
階段を登りきり境内へ入った途端、久助の足がピタリと止まる。
「む、偵察ですね。鹿の子さん、少しの間ここに隠れていてください」
うっすらと狐の耳をまとう巫女が二、三拝殿へ足を向け渡り殿を歩いている。久助は境内の奥深くにある裏庭に鹿の子を降ろすと、先回りして拝殿の中へと消えていった。
何事だろうか。わたしに関わることで、みんなに迷惑をかけているのだろうかと、鹿の子はぼんやりと辺りを見回す。庭はみるも無惨、野分になぎ倒された萩が池に沈み、紅紫色の小さな花を一面に咲き溢していた。
「きれい……」
来年もまた、このこぼれ萩が観れるだろうか。
わたしも久助さんと離れたくない。
悲しくて、切なくて。池に一粒、涙をこぼした。
拡がる波紋に花も散る。
すると水面には貧相な小豆顔の横に、美しいお月様が映った。
思ったより早く、久助が戻ってきてくれたようだ。
「鹿の子さん、いきましょう」
水面越しに、鹿の子は応える。
「わたし、旦那様と別れたくありません」
「鹿の子さん……?」
「かまどの嫁、結構じゃないですか。旦那様に見離されたっていい、わたしはずっと小御門のかまどにはりついてみせます」
水面に揺れる、お月様へにっこりと笑い言う。
背後に立っていた小袖袴は、そんな鹿の子を優しく袂に包み込んだ。
触れないように、優く。
「私はあなたを見離したりはしない。そう伝えたはずです」
鹿の子がくるりと振り返り、見上げた美しい顔は池の花色が映り、ほんのりと赤く染まっていた。
「久助さん……?」
「ふっ、──いいですよ、久助で。さあ、急ぎましょう。夕拝が近づいています」
久助さん、ではない……?
鹿の子の手を強くひき、先に立つその袴は、確かに久助が着ていた柄だ。茶屋から境内まで鹿の子を運んでくれた、鹿の子絞りの小袖袴。
それに先程垣間見た、あのお顔は──。
あれほど足が遠退いていた幣殿。
踏み入れば、神聖な空間は異様な熱気に包まれていた。
「ラクさん、準備はいいですね。おや、久助は」
「拝殿で巫女らを足止めさせています」
「ふむ。下がっていいですよ」
「はい」
鹿の子が弊殿へ足を踏み入れた途端、目にはいったのはラクの衣裳だった。神職のように白い狩衣を纏い、冷たい板間に足を滑らせる、その姿はとても百姓には見えない。
「い、言うなよ。今日初めて着んねん」
浅黒い肌を赤く染め、下座へ腰を据えた。
高座へ目を移すと、鹿の子の手をひいてきた御方がさらりと袿を羽織り座っている。
やっぱり旦那様やったんかと、虚にいる心でぼんやり思う。ラクが座ったのを合図に、旦那様はなにか呪文のようなものを口ずさんだ。
「あの女狐には、もって四半刻」
どうぞこちらへ、と旦那様に扇子で誘われたのは高座の差し向かい。
大人しく座ると、隣にとうさまが膝を揃えた。
「鹿の子さん、私はあなたに詳しくご説明しますと伝えましたね」
「はい」
「それを離縁などと思い込むとは。私だけでなく山を越えてあなたに会いに来た、お義父さまに失礼ですよ」
「会いに……来た、だけ?」
にわかに信じ難い言葉だ。
月明に言葉を投げかけられても、鹿の子はとうさまの顔を見ることができない。その顔がほんわかと緩んでいるとは知らずに。
「本日鹿の子さんにお話しすることは、先代から続く小御門家の習わしです」
そう言うなり、月明は扇子の先を外へ向けた。現れたのは腹がせり出た西の奥方。そして小薪だ。小薪は御用人連れのようである。月明の二人分はある、熊のような体格の男を従えていた。
西の方は敷居を跨ぐなり月明の元へ滑りより、肩に身を添わせる。月明はそっけなく扇子で払うも、そのまま同じ高座に座らせた。
「この人、見た目はこんな感じですがね。心は一途で可愛らしいものです」
おのろけですか。
鹿の子はぽかんと高座を見上げる。
「妊婦が板間では冷えるでしょう。腹の赤子が男御子ならば小御門の世継ぎ、大事にせねば」
「旦那様、話をややこしくしないでくださいまし。──いえ」
西の方が僅かに後ろへ下がり、頭を垂れる。
「お師匠様」
月明はまた扇子をぱしぱしと叩き、西の方の顔を上げさせた。
そして川のせせらぎのように滑らかに、語り始めた。
「この人、玉貴さんは私の弟子です」
西の奥方、玉貴の生家は青龍山の山向こう。二万石を領する豪族、山口家の末娘である。
山の端一帯にて牧畜を営み、蓄財した山口家は辺りで揉め事ひとつなく、五百年もの年月、穏和に広域を治めてきた。
忌むべきしきたり以外は──。
青龍山奥深く、鬼門あり。
山の神と呼ばれる異形が門番を務めていた。異形とはその名の通り、牛の頭に猿の身体をもつものである。山の神は鬼門を守護するその代わりに一年に一度、若い娘を生け贄に求めた。山口家の家系から、その年最も美しい娘を。山奥の祭壇へ消えた生け贄の娘は山の神に穢され続け、こと切れた後は門の向こうの、鬼の餌にされる。
その犠牲に白羽の矢が立ったのが、玉貴。
しかし玉貴は五百年のしきたりを破り、山の神を殺めてしまった。
山から降りてくる妖霧に驚いた主人が祭壇へ向かうと、そこには山の神の血を浴びた玉貴と、従者一人とその飼い犬。
鬼門の護符は解かれ、扉は今にも開かれようとしていた。
山口家は山の神の祟りを恐れ、陰陽師を呼んだ。呼ばれ行き逢ったのが月明である。
月明は真似事ながらも呪術で異形を滅した玉貴と従者を目掛けた。山の神は大妖の一種であった、おいそれと倒せるものではない。
鬼門封じに生け贄は必要なくとも、猿の神はいる。神を祀る陰陽師も必要だ。
玉貴を西の院にて修行を積ませ、いずれは生家へ帰し領地を守らせよう。そう考え、側室に望んだ。
「玉貴さんは特殊ですがね、北も南も同じようなものです」
北は手先の器用さを見初められ人形師、南は結界師。
小薪は予知の異能を見初められ、側室入りしている。
小御門家の側室は修行の末、当主に仕える陰陽師として、一生その身を捧げる。
苛烈な修行に堪え、共に道を歩む者だけに与えられる対価──それは、自由だ。
「自由……?」
鹿の子はただ、ただ口をあけ、月明を見上げていた。
「名家に生まれた娘は皆、歩む人生を決められている。貴女もその一人でしょう」
貴族や豪族にとって婚姻とは相続対策の一環であり、お家存続の手段でしかない。名家に生まれた娘の、定められた運命である。男はいい、好きな娘は側室に入れればいいのだから。だが娘は家のため、顔も見知らぬ男に一生添わなければならない。
この世には娘を道具に扱う親がいれば、家のため潔く首を縦に振る、誇り高き娘もいる。例えば、鹿の子。
しかし世界にはそれを望まぬ娘がいれば、親もいた。
例えば、糖堂の旦那。
娘の可愛さあまりに、土下座してまで頼み込んだ。
──どうか鹿の子の菓子を見込んで、ラクと添わせてやってください。
小御門家の側室への習わしは先代から続いており、その噂は一部の子想いの間では大変な評判であった。
お国の頂点、陰陽師宗家小御門家の側室。存続以上の嫁ぎ先、その務めに夜伽は含まれない。側室は陰陽師の務め以外は離れ邸で自由気ままに、言うなら実家から連れてきた御用人と仲良く過ごせる。
側室を持ち、子をたくさん成すのは当主の務め。その務めは御用人に担ってもらおう、そういった習わしである。
理由を知らずに嘆いたのは小薪の父、鳴海屋の主人くらいだ。
小薪は後ろに立つ熊をちらちらと見上げ、玉貴は腹を撫でながら鹿の子へ優しく言葉をかけた。
「この子はね、うちの御用人との間に出来た子なの」
「御用人……? 西の院の御用人はたしか」
「そう、神隠しにあっちゃった。今頃、青龍山の向こうで新しいお社祀ってるんじゃないかしら?」
西の御用人とは山の神の討伐に一役買った、玉貴の従者であり、山口家の下で働く酪農家の息子だ。
今では立派な宮司として青龍山の鬼門を護っている。
月明は愛しげに腹を撫で続ける玉貴を、親が子を想うように温かく見据えた。
「二人とも有能ですからね。産まれてくる御子は世継ぎに相応しい、優れた陰陽師に育つことでしょう」
「それでは、旦那様の血は」
「あなたの仰る通り、国家は血に五月蝿い。しかし昨今、陰陽師家は朝廷の貴族とは主観が異なります。嫡子ではなく、兄弟弟子の中から最も優れた陰陽師を家督に選ぶ。これは宗家に限らず、五家総意のもと。朝廷には背反する者が多いですが、これは風成を護る上で大事なことです。大事なことは、神道の継承を力衰えさせることなく、続けていくこと。無能ばかりが風成にのさばっては困ります」
朝廷にて享楽の限りを尽くす、便々たる陰陽師達を指し言っている。どいつも血だけを継いだ、役立たず共。
「まあ、わたしもその無能の一人ですがね」
とんでもないと玉貴は憤りを表し、よく言うわと小薪は呆れた。
「宗家の当主は主上の侍従長。例え家督を継いでいようと、主上の側近が他所者ではいけません。宗家は無能だろうと当主の息子が家を継ぐ。そういう決まりなんです」
「では尚のこと、旦那様が……!」
「しかし、私は玉貴さんのお腹の子を世継ぎにしたい。故にお目付役や周りに知れぬ様、神隠しなどという小細工をしたまで。当然下女や巫女等もこの事実は知りません。念のためこうして結界まで張っています」
玉貴の懐妊を期に、度々御寝所へ通わせたのはそういった意味合いがある。正室を失った今は側室に世継ぎを産ませていると、月明はあからさまに周りへ広めた。御用人への伝道という政策を大っぴらにしたのは、左近曰く本来の「慈善事業」の姿を暗幕に隠すため。
しかし主上や周りを欺いてまで、玉貴の御子を世継ぎにする、その理由が鹿の子には理解できなかった。
名家に生まれた娘は物心ついた頃から、お世継ぎのつくり方を学ぶ。嫁ぎ先で御子をなすことは、それほど重大な務めなのだ。
分家の事情はともかく、宗家の家督が実子であるべきなら、当主は世継ぎ作りに務めるのが道理というものではないか。それを一から跳ね除け、小御門家の血を一滴も継がない、第三者を世継ぎにするとは。
それに玉貴が青龍山へ下り、御子だけ小御門に上がれば、母子を引き離すことになる。
困惑した表情で高座を見上げる鹿の子へ、月明は言葉を濁した。
「可哀想ですが、これは母子の使命」
総て同意の上なのだろう。
玉貴は深々と頭を垂れた。
「勿体無きお言葉でございます。お師匠様に仕えるのは母子共々、当然の務め」
小御門家の側室は当主に仕える陰陽師として、その身を捧げる。
当主に仕える。
つまり、当主の命をうけ、風成以外の土地へ身を沈めることもある。
玉貴は鬼門封じに青龍山へ。
鹿の子ならば、砂糖の絶えることがない糖堂にて、御饌菓子を作り続けることが、使命となり得る。
「これは、お稲荷さまが認められたこと」
「お稲荷さまが……?」
「鹿の子さんの作る菓子が献上され続けるならば、御饌かまどでなくともよい。朱雀の向こうへ、帰していいと」
背後に消えたその気配を、月明は憐憫を含んだ目で見送った。
その間、鹿の子は下唇を噛んで、涙を堪えていた。
やはり、実家に帰されるのだ。
離縁となんら、変わりないではないかと。
それに気付いた月明は、慌てて正面を見据える。
「あなたが望めば、の話ですよ。私が鹿の子さんに与えた使命は御饌菓子を作ること。あなたが居つく場所はあなたが決めること」
そして今度は、意地悪な目を下座へ向けた。
「ラクさんは修行を終えるまで、かえせませんがね」
月明は鹿の子の菓子を見初め、御饌巫女として側室へ上げた。その御用人が適合者とは、まさに棚からぼた餅。
糖堂の在郷町に小寮を建て、ラクを小寮頭として遣わせれば、村はもう二度と疫病に悩まされることはない。ラクが育てば、共に鹿の子を生家へ帰してやろう。
初夜にはそう算段し、鹿の子に伝えていただろう。
お稲荷さまの暴挙がなければ──。
自由を与えるために側室へ上げたはずが、かまどに閉じ込め、誰よりも不自由な生活を強いたげてしまった。
お稲荷さまが悔い改められた今、鹿の子に示す道はひとつ。
いや、無限に広がっている。
扇状に分かれていく、風成の小川のように。
「鹿の子さん、確かに貴女には霊力がない。陰陽師にはなれません。しかし、私は貴女の菓子を見初めました。御饌菓子はお稲荷さまの命。かまどの嫁は陰陽師以上に立派な小御門家の務めです。この半年は厳しい修行であったと思い、許してください」
ラクと共に糖堂へ帰るもよし。
御饌巫女を務めながら東の院で過ごすもよし。
一生、かまどの嫁でもいい。
「貴女は、自由なんですよ」




