八‐野分のあと
※野分……台風の古称
さあ、やって参りました。かまど休みでございます。
今日は旦那様との約束の日。
鹿の子はラクに起こされることなく、お日様が顔出すずっと前から、しゃっきりとかまどに立ちました。
東の院のかまどではなく、何時もの御饌かまど。
と言うのも、鹿の子は昨夜の酷い野分で東の院へ下れなかった。
風成に風はなくとも、野分きの風は通る。
風はここぞとばかりに吹いていったらしい。境内の立派な松の木を二、三本凪ぎ倒していった。
しかし、往き来する時間が省けた鹿の子には好都合である。
野分が過ぎ去り澄み渡った秋空の下、鹿の子が愛でているのは、さやえんどう。
小薪が背負って来た供物のえんどう豆だ。
小薪の供物は鹿の子の手にかかればきっと素晴らしい御饌が生まれるだろうと、久助の手により御饌かまどへ下げられた。
休み明け、青い青いさやえんどうに巡りあった鹿の子はすぐに、豆ご飯を頬張る旦那様の顔が浮かんだ。次の休みに旦那様へ振る舞いたいと、その場で久助へ願い出たものだ。御饌へ上げることを条件に、鹿の子は今日まで納戸で大事にしていた。
さやを開ければ、その実は湯を泳ぎ青々と弾ける。
「ふふふ、美味しそうっ」
豆好きの旦那様には、えんどう豆の風味をそのまま味わって欲しい。
ゆで上がったえんどう豆は粗く潰し、つぶ餡のように皮を残した。
いっしょに練るのは砂糖だけでいい。包むのは餡が透けるほどの、薄い求肥でいい。
そうして出来たのが、うす黄緑色の、青大豆餅。
しかしこれだけではどうも、春の萌葱を印象づける。なにか秋らしいものはないだろうかと、格子窓から境内を眺めた鹿の子はその情景にうっとりと、心が潤った。
まあるい菓子に紅紫色の粉を、ほんのりと振りかける。
「ふふふ、今日という日に、おあつらえ向きの菓子ができた」
いつになく満足気な鹿の子は小豆顔をほくほくとさせ、その菓子を大事に箱へしまう。
後ろからじゅるり、と涎をすする音が聞こえたものだから、用心に風呂敷まできつく締めたものだ。
「すんまへん、唐かささん。これだけは堪忍してくださいな」
驚いたのは、唐かさだ。
鹿の子は相変わらず明後日へ話しかけているのだから、見えてはいないだろう。では涎の音を聞き分けたとでもいうのだろうか。なんだか恥ずかしくなって、唐かさは自分を自分で扇いだ。
「ふふふ、やっぱり唐かささんや」
穏やかに吹く風をうけ、その方向へ顔を向ける。
しかし御出し台の上には世にも恐ろしい、はんにゃ顔が乗っていた。
「とう、さま……?」
「久しぶりやな、鹿の子」
思いもしない人物のご登場、なんと糖堂の旦那である。
険しい朱雀山、それもぬかるんだ野分の後道を越えてきたとうさまの衣裳は腰まで泥塗れだ。
しかし疲れた様子はおくびにも見せず、ずかずかとかまどへ下りては、鹿の子を前から後ろから、舐めるように見定めた。
そして、溜め息ひとつ。
「なんてこった……」
とうさまから浴びせられた失望の眼差しが、鹿の子の胸に深く鋭く、突き刺さった。
実の父親と顔を合わすことで、現実が荒波のように押し寄せてくる。
糖堂を背負い嫁にいった娘がかまどで独りぼっち。白い単衣一枚で煤汚れ。言い逃れはできない側室不相応ぶり。
酷く惨めな気分になり、頭を垂れる。
そこへ慌てた下女が回廊をどしどし鳴らせ現れた。
「糖堂様、こちらでしたか。どうかお召し替えを」
「ああ、えらいすんまへん」
「かまどの嫁は弊殿へお急ぎください。旦那様がお待ちですよ」
下女にきっぱり、かまどの嫁と呼ばれ、また惨めになった。
旦那様に与えてもらった仕事やからと、その名に誇りをもっていた自分は何処へいってしまったのだろう。
急に恥ずかしくなり、御出し台から目を背けた。
とうさまと下女が退き、程なくしてやってきたのはお姑の雪。
またこの鬼姑が、余計な口を出す。
「足元が悪いなかを迎えに上がらせるとは、どこまでも図々しい嫁だこと。いいえ、元嫁」
「もと……?」
「実親が嫁ぎ先へ直接足を運んでくる。それも商いで忙しい糖堂家の旦那が従者もつけず忍のように、嵐の後を掻い潜ってですえ。側室不相応な娘を引き取りに来る以外に、理由がありますか?」
「ひき、……とりに」
「離縁や。りえん」
離縁。
その一言で血の気がひいた鹿の子の顔をみて、雪はさも嬉しそうに小鼻を蠢かせ、去って行った。
取り残された鹿の子は、立っているのもやっと。
「そうや……、幣殿」
旦那様をお待たせしてはいけない、わかっていても、これから離縁を言い渡されると思うと、息を吸い込む度に胸が張り裂けそうになった。
──見離したつもりはない。
旦那様のあのお言葉は、一時なりにも側室であった自分を最後まで送り出したいという意味であったのだろうか。幸せにしたいときっぱり仰ったのだから、次なる嫁ぎ先を整えてくださっているのかもしれない。
菓子好きの貴族家にでも──。
これからは次の夫なる人に、まごころを込めた菓子を、作りなさいと。
「そうや……、小薪さんは新しい」
東の院の、側室。
東の院の艶やかな衣裳の数々。
彼女ならば、きっと似合う。
鹿の子は菓子箱をそのままに、戸口から逃げ出していた。
*
「あら……? もしかして、鹿の子さん?」
とぼとぼと橋を渡る小豆をみつけたのは、店先の掃除に表へ出ていたなつみ燗の女将、夏海だ。
鹿の子は飛び出したいきおいで、小御門の門外まで足を延ばしていた。ふらふらと、足元がおぼつかない鹿の子を放っておけず、夏海は鹿の子を茶屋の中へと、強引に押し込んだ。
出店を引き下げ、夜の支度を始めたばかりの茶屋には、ぽつりぽつりと数えるばかりの客しかいない。
夏海は以前と同じ角の席へと鹿の子を座らせると、何も言わずに湯呑みをかん、と置いた。
鼻をくすぐる甘い麹のにおいに、鹿の子ははっ、と自分を取り戻す。
「わたし、お金もってないんです」
夏海はたった今磨いたばかりの皿へ、ぷっと唾を吹き出した。
「ええよ、ええよ。甘酒の一杯くらい奢ったる。……いや、場合によっては、丸ひとつ増やして月明につけといたるけど。そうときたら、夕飯食べてく?」
「とんでもない! それにわたし、ついさっき御夕膳いただいたばかりで」
「あらそう? 残念」
鹿の子がいつもいただくお稲荷さまのお残しは、夕拝の後すぐに御出し台に乗せられる。それが今日は一刻早かった。
日が暮れる前に山を越えさせよう、そういうことだろうか。
お腹は満腹、胸はいっぱい。
一度座った腰はずっしりと重く、てこでも動きそうにない。
ここはお言葉に甘えて甘酒でねばろうと、湯呑みを両手に包み込み、一口啜った。
「わぁ」
思わず漏れた嘆声に、夏海がにやりと振り向く。厨房から「さぼるな」とどやされたが、夏海は手拭いほっぽって鹿の子の隣に尻を詰め込んだ。
「美味しいやろ?」
「はい、すごく!」
「近頃景気いいせいか、子連れが多い。大人にはまずい酒だすけど、お子様には美味い酒だしてんねん」
「お子ちゃま……」
「あはは、嫌味ちゃうで」
なつみ燗の甘酒は、一口口に含んだだけやのに、お頭がきんきん鳴るほど甘ったるい。その甘みの中で泳ぐ米粒にはしっかりと弾力があり、餅を食べているよう。喉に流し込めば、夏みかんの爽やかな香りが鼻にぬける。どろどろとくどいのに、舌に残るのは麹のすっきりとした甘さ。恐らく材料は米と麹、塩だけだろう。それなのに思わず「もう一杯」と、叫びそうになる。
鹿の子の頬に流れる、一筋の涙を指で拭いながら、夏海は言った。
「泣く子も黙る。なつみ燗名物、甘酒や」
不思議と、鹿の子の顔に笑みが生まれた。
あまりに可愛いく笑うものだから尚更、夏海は放っておけない。詰め込んだ尻を据え、ついには自分の湯呑みに燗酒をいれた。
「何があったんかは、聞けへんけど。月明が二度もおなごを泣かすとはねぇ」
「これは、わたしが勝手に……」
「いぃや? あれは計算高い男や。腹黒いとも言うけどな。女を泣かすなんて面倒ごと、一番に避けるはずやねんけど」
小さい時からそんなんやから、腹立って何べんもしばいたってん。そういいながら、夏海は鹿の子の涙の理由は聞かず、楽しそうに昔話を語りだした。
月明は十五で出廷するまでの間、修行を抜け出しては小御門下でふらつく、不良息子だった。
夏海を入れた幼馴染みの三人で、御用聞きの真似事をして遊んだ。長屋の揉め事に首を突っ込んだり、子供相手に銭をぼったくる、見せ物小屋を騙し返したり。
立場茶屋の橋下から土左衛門が上がった時は、妖しを巻き込んで犯人捜しをしたものだ。唐かさに追われた下手人は最後にぬりかべの下敷きとなり、御用となった。流石にこの時ばかりは小御門家の坊っちゃまがご解決なされたと町中に知れ渡り、命を粗末にするなと、先代に尻を叩かれる折檻をうけた月明である。
「その時はね、下手人の娘さんが可哀想だから言うて、奉公先まで世話したんよ。折檻はうけるからって、先代に頼み込んで」
「旦那様は、小さい頃からお優しい方だったんですね」
「どうだか。世話した奉公先いうんが、煮物屋でな? うちら、ただ飯食いに三年は通ったで」
そういや、芋の味つけはあの店で教わったなぁと、厨房へ懐かしそうに言葉を投げかける。
「やぶ医者に枕がえし送り込んだり、スリの金をすって、花街でばらまいたり」
「まあっ」
「小夜さんと知り合うた時もや。えらい美人さんでなぁ、うちの人がでれぇと鼻の下のばしてんのに、月明は一人涼しい顔して関心ないんかいなと思うてたら、その一年後! 嫁です、言うて此処に連れてきてんで。あの時は度肝抜かれたなぁ」
「しかし、あいつは小夜さんを幸せにできんかった」
厨房から返されたのは、冷やかな言葉。
「……あれは、事故や」
月明を庇うように、夏海が呟く。
小夜とは、亡くなられた御正室のことだろうか。
急に歪んだ空気に鹿の子は不安になったが、夏海は笑って吹き飛ばした。
「月明は、決して故意に女を泣かせたりはせえへん男や。つまりは自制がきかんほど鹿の子さんを、ご寵愛ちゅうことやと、わたしは思うてるよ」
笑いながら夏海はぎゅ、と肩を寄せた。
鹿の子はその優しさに心が痛む。
実は真逆なんです。
鹿の子は湯呑みに浮かぶ、夏みかんの皮をじぃと見据えた。
旦那様は自制がきかんほど、わたしのことを毛嫌いしていらっしゃる。霊力なしの側室不相応、できることといえばかまどのはりつき虫。それだけではない、旦那様を何度も久助さんと間違え、荷物持ちにする不躾者。
なんや考えれば考えるほど、離縁されて当然に思てきた。さっさと荷物まとめよかと覚悟を決めたその時。
「離縁する嫁のために、茶室建てる旦那がどこにいますか」
やってきたのが、久助である。
久助は湯呑みを一瞥すると、ちゃりんと小銭を弾き落とし、鹿の子を抱き上げた。
葉っぱちゃうやろなぁと夏海がおひゃらかすが、知らんぷり。「失礼しました」と一言、夕暮れ道をひた走る。鹿の子が夏海にお礼を言おうとする頃には、すっかり立場茶屋がみえなくなっていた。
「鹿の子さん、私は怒っていますよ」
「久助さん……わたし」
「言い訳は聞きません。どんなに姑にいびられても、嫁として旦那様との約束は守ってください。──それに」
鹿の子を横抱きしたまま息切れひとつせず、境内の階段を登りながら、久助は笑った。
「私はまだ、鹿の子さんと別れたくありません」
その笑みの、美しいこと。
久助さんが別れたくないのは、菓子。
わたしを見ながら小豆を思い出しとるんや。
何度も自分に言い聞かせたが、鹿の子の胸は熱く、かんかんと鐘を打ち鳴らした。




