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かまどの嫁  作者: 紫 はなな
こぼれ萩
17/120

七‐小薪

 無念無想に座する御点前。


 ──カツン。


 茶釜の縁に柄杓の底を落とし、鹿の子はいつも我に返る。

 茶器に目を流せば、湯に泳ぐ抹茶が沸々と泡をたて、美味しいお抹茶点ててくださいと願い出ていた。鹿の子はにっこりと笑みで返し、生き生きと茶筅をとる。


「はいはい、任せなさい」


 刻は夜半を過ぎ丑一つ。

 仕込みが終わったかまどの釜はとうに火が落ちている。

 茶室には鹿の子一人。

 細かく泡立った抹茶をゆっくりと啜り、味わった。


「あぁ、なんて美味しい」


 そして慈しむように、茶器の縁を指で拭う。

 糖堂では砂糖の良さをひきたたせるために、客へ御出しする抹茶に金は惜しまない。その年一番出来のよい茶葉を探し、自ら選定したものを自らの手で挽く。鹿の子は実家より美味しいお抹茶を、いただいたことがない。

 しかしどうだろう。小御門の、建てられたばかりのこの若い茶室で飲むお抹茶は、糖堂に劣らない。それ以上に上質に感じられる。

 抹茶だけではない。茶道具は何ひとつ取りこぼすことなくすべてが一級品。骨董は詳しくないが、茶器は恐らく名の知れた陶芸町から仕入れたものだろう。

 やはり旦那様はお国の頂きに立つ御方だと、舌で犇々と思いいった。思いいっては、また一段と後ろめたくなる。

 こんな贅沢、ええんやろか──、と。


 今朝、この豪奢な邸を目の当たりにした鹿の子は腰を抜かしそうになった。

 新しい納戸には粉や砂糖が戻ってきているやろうかと、そんな心配ばかりしてかまどへ駆け込んでみたら、まあその先の広いこと。

 久助が冷然と語りかけていなければ、鹿の子は腰を抜かすばかりか卒倒していただろう。

 これはその時の久助の言い分。


「側室に相応な御寝所を調えるのは当主として当然の行い。景観を乱す自然林を茶室にすればお客様をおもてなしすることができる。納戸の改築をいい機会に、一括で建て直しを図ったという訳です」


 しかし後に聞いた旦那様の言い分では客用の茶室を好きに使っていいという。客が望めば茶室を開けてもらうが、普段は東の院の別邸として扱って欲しい。半年もの間、狭いかまどで頑張ってくれた礼であると。

 小さな鹿の子には大きすぎる礼品だ。小御門家のお金は大丈夫なんやろかと、いらぬ心配を何度もした。鹿の子には奥にみえる御帳台が東の院より飾り立てられているように見える。


 母家にいらっしゃる花嫁様へ賜りたい物は山ほどあるやろうに。

 鹿の子は気後れもせず、本心からそう思った。


 今朝、拝殿へ向かう巫女が聞こえよがしに話す話題といえば、神隠しでも東の院別邸でもなく、新しい花嫁の噂話であった。御正室を亡くされ三年、ようやく継室なる御方が嫁入りしたのだと。なんでも観月の日に運命的な出逢いを果たしたとか。この話により、旦那様が亡くされた奥方が御正室であったことを、鹿の子は初めて知った。

 旦那様の心を満たしてくれる方が現れた。鹿の子は我が身のことのように喜んだ。

 半年経った今、かまどの嫁をこんなにもお気にかけてくださるのは、旦那様の心にゆとりが生まれたからなのかもしれない。

 ならば、鹿の子は鹿の子にできることを精一杯尽くすまで。


 だって旦那様は言うてくれた。

 わたしが作る菓子を見初めたと。

 もっと胸を張っていいと。


 茶室まで調えてくださったのだ。感謝の気持ちを菓子で応えよう。


「明日も真心こめて、かまどに立ちます」


 豪華な別邸に茶室、花嫁様のこと。

 今一人で考え悩んでも、時間がもったいないだけ。

 月明の言葉を真に受け、今は何も考えず元気ににこにこと、大好きなお抹茶を味わう鹿の子であった。

 



 *




 母家の夜は庭にちらほらと、小さな灯籠が灯るだけ。

 鹿の子は茶室を閉めたのち、手元の明かりなしに暗い回廊を渡った。

 汗を流しゆったりと湯に浸かったら、綺麗なお布団でぬくぬく、脚を伸ばして眠れる。るんるんと胸を弾ませ鹿の子が旅行気分で向かった湯殿には、先客がいた。

 手拭い一枚纏わず、鼻歌唄いながらガラリと戸を引いた拍子に、声をかけられた。


「こんばんは」

「こっ……こんばんは」


 巫女が一斉に入れる広さの湯殿。

 その湯船に初々しさが滲み出る美少女が一人、浮いているではないか。住み込みの巫女や下女ではない。一度みたら忘れられない、そんな美しい顔立ちだ。

 先程までの威勢はどこへやら。鹿の子は洗い場で、網で焼かれるするめみたいに縮こまった。


「もしかして……、鹿の子さん?」


 一方、湯気越しに小豆をみた先客、小薪は目を擦りながら、そう尋ねた。

 久助から度々聞かされる噂のひと──かまどの嫁。小柄なその身体つきは、話にでてくる幼女以外になんであろう。座敷わらしが風呂好きなら、すんまへん人違いでしたと謝るまで。


「あい、そうですが……」


 背中に突き刺さる熱視線に耐えきれず、鹿の子は湯船に滑り込んだ。

 今日の湯は白濁としたにごり湯。安堵は束の間、差し向かいで游ぐ豊かな双丘に、鹿の子はぶくぶくとあぶくを立てて、鼻先まで沈んでいった。

 その恥じらい様に、やはり座敷わらしではなかろうかと、小蒔はあだっぽく笑う。


「わたし、つい先日側室に上がりました、小薪です」

「小薪、さん」

「宜しくお願いします」


 ぺこり、頭を下げる小蒔。

 側室──、その言葉に鹿の子は違和感を感じた。小薪の美しさを前に、そうではなかろうかと何となく、心に準備していたのは、旦那様の継室。巫女が噂していた、正室を継ぐ者であろうと。それが小薪は側室であるという。

 側室の離れ邸は東西南北埋まっている。ご懐妊の西の奥方はまだご実家に下られていないというのに。待っていられないほどのご寵愛ということだろうか、それならば納得がいく。


「こちらこそ、宜しくお願いします」

「鹿の子さんは、いつもこんな遅い時間に湯あみへ来られるんですか」

「は、はい」


 仕込みはとうに終わっているが、茶室で時間を潰していた。湯殿で下女に行き逢うたら、そんなんやから御寝所に呼ばれへんのやと、からかわれるに違いないから。朝に恨みを買ったばかりの巫女と鉢合わせにでもなったら、何を言われるかわからない。


「ふぅん……」


 泡吹くばかりで距離が縮まらない鹿の子へ、小薪は意地悪を言った。


「なんや鹿の子さんを見てると、側室て名ばかりで肩身が狭いもんなんですね」

「そ、そんなこと、ないと思います。離れ邸は穏やかなもんですし」

「私にはその離れ邸がありません。狭い部屋に一日閉じ込められて、カビが生えてしまいそうや」

「それは、小薪さんが旦那様のご寵愛にいる証で──」

「かまどに居る、鹿の子さんが羨ましいです。毎晩旦那様の顔色窺わなあかん、わたしの気持ちわかります?」

「すんまへん、小薪さん」 さっぱり、わかりません。

「小薪、でいいですよ。それともわたしが畏まって、かまどの嫁とお呼びした方がよろしいですか?」


 かまどの嫁──、下女でなければ旦那様がそう、彼女へ伝えたのだろうか。怯む鹿の子を、小薪は高笑う。



「おほほほほほほほほほ!」

「こ、小薪さん?」

「かまどの嫁。──最、高ではないですかっ!」

「へぇ?」



 小薪は胸まで浸かっていた湯を払いのけ、ザバンと仁王立ちで力説した。


「鹿の子さんのみたらし団子、最高です! あんなに美味しいみたらし初めて食べましたっ。公家御用達のみたらし? どんな老舗の高級和菓子や思うたら、なんと小豆みたいな嫁が一人きり、かまどで作っているというではありませんか! 逢ってみれば、これまた炭や釜が似合わない、可愛らしい仔猫ちゃん! 美味しさ三割増し! かまどの嫁、素晴らしい! 小御門、いや風成で最も敬われるべき、存、在、です!」

「ひゃぁあああっ!?」


 小薪は逃げ回る鹿の子の腰を、がしっと掴みあげた。


「……細いっ、細すぎるっ! なんて羨ましい!」

「こ、こまきしゃん!? やめてぇっ」

「あっ、すんまへん。薪量る癖で、つい」


 ばしゃん、と落とされた鹿の子は湯殿の角まで退いた。おとなしそうな美少女やと思うていたのに、とんだお転婆さんのようだ。鹿の子の小豆顔は真っ赤に茹で上がった。


「鹿の子さんなら、三体はいけますよ」

「どこへいくんですか」

「わたし、ちっちゃくて可愛いもの大好きです!」

「慰めですかっ」

「あっ、ちなみにわたし、今年十六なんで敬語はいりませんよ」

「じ、じゅうろく……」


 自然律に伴い視線は胸元へ。


「食べな育ちませんよ、鹿の子さん!」

「食べてますっ、毎日三人前は食べてますうっ」

「なんですと……! 痩せの大食いとは、これ許すまじ!」

「許してくださいっ」

「許します。なにか食べさせてくれたら、許します……!」


 湯殿に轟いたのは、小薪の腹の虫だった。





「おいひぃ~っ」


 処移りて、閉めたばかりのかまどの茶室。

 流石に初日の今日に茶菓子は間に合わず、鹿の子が白玉を振る舞えば、小薪は蔵馬と同じどんぶり一杯の冷や水を、豪快に流し込んだ。


「お抹茶はいる?」

「いる、いる!」


 小薪のいい食べっぷりが嬉しくて、ついつい腕をふるってしまう。それに小蒔は旦那様がご寵愛の奥方様。適当なもてなしは許されない。寝るのは諦めて、小薪がいつ訪れてもいいように日保ちする羊羹でも練ろうかと本気で考えながら抹茶を点てた。

 外で恥をかかない程度の作法は身に付けているのだろう、鹿の子の見事な御点前を目でたのしみながら、小薪は言う。


「正直、不安やったんです。急に連れてこられて、御寝所に閉じ込められて。夜は寝かせてくれないから、旦那様のいない日中に眠るしかないでしょう。昼と夜が逆になって、身体もおかしくなってきて」

「寝かせてくれない……」

「旦那様って普段は無表情やのに、御寝所では鬼のように人が変わるんですよ。わたし、恐くて恐くて」

「鬼のように!?」


 旦那様のお顔といえば、無表情とはんにゃ顔。敷妙の上でもあの恐ろしいお顔なのかと、茶筅を持つ手が震える。

 お陰で泡立ちのいい、まろやかなお抹茶が点てられた。

 初めて飲む極上の味と香りに、小薪はとろんと微睡む。


「あぁ……美味しい、幸せ……わたし、明日も頑張れる」

「それはよかったです」

「鹿の子さん、今度はもっと早めに伺いますから、また来てもいいですか」

「はいな。わたしもなんや、お仲間ができたみたいで嬉しいです」


 ぱぁあ、と綺麗なお顔に花を咲かせる小薪。

 途端に明かりが消え、真っ暗になってしまった。坪庭を照らす灯籠の灯りを、火消し婆が消していったのだ。丑の刻を越えると、火消し婆が邸中の灯りを消しにまわる。小御門の人間ならば誰しも知っている習わしであるが、知らない娘二人は抱き合い、震え上がった。


「小薪しゃん、くるひぃっ」

「この、ちょうど胸に収まるかんじ。まさにうちの猫。鹿の子さん、好きです!」

「ぇええっ」

「今日はこのまま寝ちゃいましょう!」

「ぇええええっ」


 ねーむれー、ねーむれー、と手慣れた抱っこで鹿の子を揺らす。その心地いいこと。

 旦那様は小薪のこの温もりを見初めたのかもしれない。

 妙に納得しながら鹿の子は赤子のように小薪の胸を枕に眠った。


 間もなく陽が昇り、目を覚ますと鹿の子はラクに運ばれたように、豪奢な御帳台に一人横たわっていた。

 小薪は母家の御寝所へ戻ったのだろうかとかまどへ向かえば、当の本人は難しい顔をして御出し台にて、鹿の子の手帖を広げている。


「小薪さん……?」

「おはようございます、鹿の子さん。この手帖素晴らしいですね」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、見過ごせん点がひとつ。かまどの材料、発注してるん誰ですか」

「え? え、えぇと、久助さん、ですかね」


 起きぬけに厳しく問われ、鹿の子は戸惑った。小御門の衣裳を纏う小薪はぞっとするほど凛と美しい。


「いけませんね、これでは」

「えっ」

「十日に一度、御饌飴。粉と砂糖の消費量と比例してます。まさかとは思いますが鹿の子さん、材料が切れる度に御饌飴でごまかしてませんか。それを合図に久助さんが動く。違いますか」

「あぅ」


 図星である。

 粉も砂糖もないそんな時、芋ひとつで作れる飴。

 苦肉の策から生まれたのが、御饌飴なのだから。

 鹿の子の手帖には同じような菓子が重ならないように、その日御出しした菓子が書き込まれている。それと分量を照らし合わせ、小薪は導きだしていた。


「いけません……、いけませんっ、こんなぬるい経営管理、ゆるしません!」

「けいえい?」

「今後、御饌菓子の材料の発注は私が一括して取り仕切ります……っ!」


 ふんぞり返る小薪に、怯える鹿の子。


「そ、そんな、奥方様にそんな雑務は」

「雑務? どこが。在庫は足らんのも貯めすぎてもいけません。常に新鮮な材料を適度に備蓄するのは至難の技ですよ。作る菓子から消費量を積算して発注する。大事なことです。それに奥方様って鹿の子さん、私の先輩ですよね。こきつかってええんですよ」

「嬉しいですけど、でも」

「わたし、ただ飯食いなんて性に合いませんし?」


 したたかな笑みを浮かべる小薪。


「今晩の夜食、期待してまぁっす!」


 練り羊羮だけでは済まなそうや。

 霧がたなびく秋雨の朝。鹿の子はたらり、冷や汗を流した。

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