五‐みたらし
さあ、仕切り直しです。
風成一の繁華街、小御門橋へとやってきた二人は、十二分までふくれたお腹の運動にあてもなく、ほっつき歩いた。
あなたの気に入ったお店にお入りなさいと月明が言えば、すっかりご機嫌の鹿の子は童子のようにはしゃいで、見せ物小屋や動物小屋を転々とした。鳥籠がびっしり並んだ小鳥屋ではずいぶんと長くへばりつくものだから、まさかかまどで飼うつもりだろうかと月明が杞憂したほどだ。
井戸端で猫が水を飲んでいれば、また足をとめる。
「みてください、この猫真っ白しろで尻尾がふさふさですよ」
「ああ本当だ。誰かさんにそっくりですね」
「かーわいいー」
「そんなに好きですか」 狐が。
「うちは砂糖売りなんで、動物の毛にうるさいでしょう。小鳥一羽飼われへんかったんです。猫といっしょに寝てるお友達がおって、それが羨ましくて」
これはこれは、お稲荷さまが聞いていたら、きっとよからぬことを企む。その影がないか月明はきょろきょろと仄暗い辺りの屋根を探した。
「旦那様?」
「東の院で飼うぶんには構いませんよ。次の休みにでも猫屋を呼びましょうか」
猫屋と聞いて一瞬、鹿の子は目を爛々と輝かせたが、東の院に帰るのは三日に一度。その間の世話は当然、ラクがみることになる。今以上に世話を焼かせることはできない。鹿の子は小さく首を横に振った。
「私としては、なにかひとつでも形にして、あなたの功労に報いたいのですが」
そうしなければ、お稲荷さまの青筋が立ってしまう。
しかし鹿の子が首を捻って導きだした答えがこれだ。
「東の院で使う、菓子の材料を買うていいですか?」
思い描いた通りの答えで、苦笑い。
久助の功労をねぎらうためにもここは快く引き受け、馴染みの粉屋を目指す。確かみちみちに呉服屋が軒を連ねていたはずだ。
「いいですけど、それは数に入りません。迷うなら着物のなかで迷って一着、あつらえましょう」
それを聞いた鹿の子はとんでもないと、今度は大きく首を横に振った。まる一年着回せる量の着物が東の院に眠っているというのに、新調などもってのほか。
月明は困りましたねぇと、また苦笑いを溢した。よく困り、困りなれた男の口癖である。
何かひとつ、形に残さなければならない。そう確信した鹿の子は行く先々で思案を巡らす。しかし、なんとなしに手にとった簪がべらぼうな高値品であったものだから、心臓がとまりかけたものだ。風成の物価の高さにすっかり怖じ気づき、そう易々と決めることができない。
粉屋や酒屋でお買い物が終わり、折り返しの道なりには月明から感じる無言の圧力に胃がきりきりと痛みだした。
前屈みになって、ふぅと一息吐いた、その時だ。
「旦那様っ、わたし、これが欲しいです……!」
鹿の子が袖口を向けたのは、なんとも可愛らしい朱色の草履。鼻緒は桃色の鹿の子絞りで、高さも程好く、礼服にも合いそうだ。値も昼飯代より安い。
鹿の子には今、わらじ以外の履き物がなかった。
嫁入りの際に履いてきた雪駄は、朱雀山を越す最中で壊してしまい、籠といっしょに捨て置いてきてしまったのだ。
今日のように旦那様と肩を並べる日があれば、履いた方が格好がつく。
履き物屋の主人がご用意しましょと、にこやかに鹿の子へ近付くも──。
「いけません」
月明はすぱん、と峻拒した。
刃を研ぐような鋭い声。鹿の子を見下ろすは身が凍るほどの冷厳とした美顔。その後ろに浮かぶのは少しだけ欠けた、まっ黄色のお月様。
仕切り直した呼吸は、二人の土俵にざっと簾が落ちたように、崩れさっていきました。
*
「はああぁ」
幸せが逃げる。
わかっていても、何度も溜め息を溢してしまう。
今度こそ旦那様に嫌われてしもた。鹿の子は網にのった団子をくるくる返しながら独り身悶えた。
旦那様は馴染みの店を明かしてまで向き合うてくれたのに、わたしときたら夜が更けるまではしゃぎ回って、あちこち振り回して。菓子の材料は数に入らないという言葉を鵜呑みにして、ぎょうさん買い込んで最後には草履をねだるやなんて。旦那様の両手は重い粉や酒、味醂でいっぱいやった。宗家の当主を荷物持ちにするなんて、側室失格や。
草履を目にした時の、旦那様のあの厳めしい顔。
やっぱりとうさまより怖いはんにゃ顔やと鹿の子は震えあがった。
刻は夜半、野良猫も寝静まる頃。
東の院では焦がし醤油の芳香が庭林まで漂い、家鳴り妖しがどんちゃん騒ぎ。小鬼は団子の串をバチにして、自分の腹をぽこぽこ賑やかに鳴らしていた。
「夜に履き物をおろすと、狐にとり憑かれるっていうからなぁ」
鹿の子の隣では串をしがみながら、ラクが焼き上がった団子を次々と、みたらしのたれ壺に浸していく。
たっぷりとたれが絡んだ団子はじゅわじゅわと音をたてて、ラクの口へと吸い込まれていった。
「ちっとも慰めになってませんっ」
そんな言い伝え、旦那様を夜更けまでつれ回した、わたしへの戒めにしか聞こえへん。
尚も串を取ろうとするラクの手を、これは久助さんの分やと、ピシリ叩いた。
帰り道、履き物屋での件から旦那様は一言も喋らず、顔も合わせることなく東の院まで歩き貫いた。迎えに上がったラクへ「鹿の子さんの小遣いは用人に預けます」と財布を突き出すと、おやすみも言わず母家へと消えていったものだ。
次にどんな顔して会えばいいのか、わからない。また一息深く溜め息を吐くと、焼き上がった団子に白い手がにょきりと伸びてきた。
「幸せが、逃げてしまいますよ」
久助である。
旦那様と同じ顔にびくぅと跳ね上がった鹿の子であったが、一寸で晴れやかになった。
なにやらぐったり疲れきったご様子の久助へ、自らみたらし団子を振る舞う。
「熱いうちに食べてくださいね」
「ああ、美味しそうだ」
たれが照り照りに光るそのみたらし団子は、まるで芋の煮っ転がしだ。
久助の帰りは夜中になると、ラクから聞いていた鹿の子は、芋の煮っ転がしがぱっと頭に浮かんだ。なつみ燗の客は旅や務めの疲れを癒そうと、我先にと芋へ手を伸ばしていた。きっと今頃も燗酒と串もった若い衆で賑わっていることだろう。丸くて甘辛い芋。菓子に例えるなら、そうみたらし団子。
「私のために……、ではありがたく、いただきます」
「はいな」
「なんや久助さん、久助さんて、俺は蚊帳の外かいな」
隣でラクがふて腐れるが、食べたあとの串の数はぬりかべより多い。
そんなに何本も食べれるものなのかと、久助はラクへ呆れ半分で串を歯にはさんだ。
「おや? そんなに、甘くないですね」
「その方が夜食になるかと思いまして」
腹にたまっても胃にもたれない、程好い甘さをだすのに、実に半刻もかかってしまった。鹿の子は自慢気に手をこすりあわせる。
「ふむ、うむ」
ひとつ目をしっかり味わった久助は、納得したように、にんまりと至福の笑みを浮かべた。
「ああ、美味しい」
たれはそんなに甘くないが、団子のお焦げといっしょにいただくと、不思議とたまに、甘味がぶつかってくる。
熱々の団子のお焦げにたれが絡むと、沸々とカラメル状になり、それが美味い。
団子は熱々もっちり、たれはとろん、ねっとり。
たれはそんなに甘くない。つまるところ何本でもいけそうだ。小鬼らが太鼓にするどて腹をみて、三本でやめておこうと目を塞いだ。
「疲れた者が他にもいるので、残りをわけてもいいですか」
「もちろんです。是非、どうぞ」
「熱々をその場でいただく。この美味しさを御饌にお出しできないのが、残念ですね」
「そういえば、そうですね」
考えてみれば、あげたてのあげ餅や、熱々のしるこは御饌に御出しすることができない。かまどでしか振る舞えない菓子はこうしてたくさんあるのに、甘いもん好きの神様がそれを食べられないなんて、どうも不合理に感じる。
甘いもん好きやのに、食べていない──ふと、鹿の子の脳裏に蔵馬の顔が過った。
三日に一度の休みには、東の院のかまどで、久助や妖しに菓子を振る舞う。この半月でお決まりになっているというのに、蔵馬は一度も東の院へ顔を出していない。狐の嗅覚をもってして、亥の一番に尻尾ふって飛び込んできそうなものなのに。
昨夜の観月には、交換こした月見団子をいっしょに食べることができなかった。朝用意していた御饌飴だって、手付かずのまま。こきつかって放ったらかしである。
東の院へ来れない事情があるのかもしれない。明日は朝一番に美味しいもん作ったろうと、心に結んだ。
何がいいかとかまどを見渡せば、いつの間にやらラクと鹿の子二人。
「あれ? 久助さんは?」
火はおとされ、ぽこぽこいう愉快な音も消え去っている。
「まだ一仕事残ってる言うて、出ていかれましたよ」
「そう……」
「後片付けは私がやっておきますので、奥方様はどうぞ御寝所へ」
「ぅうっ、またそれ」
さっきまでの馴れ馴れしさはどこへやら。また唐突に奥方言われ、寒いぼがたつ。今度ばかりは我慢しきれず、洗い場に立ったラクの背中へ不満をぶつけた。
「なんでラクは、二人になった時だけ畏まるん?」
大きな背中は一瞬、ぴたと止まったが、またすぐにがしがしと網を洗い出す。
「色々、辛抱たまらんねん」
毎度のように土間や縁側で寝られる、こっちの立場にもなって欲しいわ。
などというラクの切なる独り言は耳に入らず。
「ふぁああ……、なにぶつくさ言うてんの」
今日も無防備に土間でうとうとと微睡む鹿の子の頭には、喉が渇いていたのか朝に飲んだラクのひや水が、たぷたぷと浮かんだ。
*
「見せ物小屋など、久しぶりにみたな」
庭のあざみを話し相手に、盃を干すは月明。
そんな主を見て見ぬ振り、久助はぐったりと帳台に横たわる、花嫁の元に膝を下ろした。
「はい、どうぞ」
「わぁあっ、美味しそう! 久助さん、ありがとうございます」
処は母家の御寝所。
久助が花嫁、小薪へみたらし団子を振る舞えば、それを見た月明が不服を溢す。
「私の分は」
「疲れた者の数に入りませんでした」
「最近、主に冷たいですね」
主につかえし式の神といえど、冷たくなる時はあるものだ。
今日という皇后生誕記念の祝事、久助の務めはお飾りの笑みを浮かべるだけでは終わらなかった。大人しくしていればいいものを主上はあろうことか祝いの席で下っぱ更衣と睦み合い、それが公になった時の皇后のお怒りったらない。後宮は嫉妬の炎に包まれ、主上のいた高御座は輪禍に遭うたような惨状であった。荒れ狂う後宮を鎮め、淡々と血塗れ主上を説き伏せ、皇后をもてなし、そのご機嫌が戻る頃には夜中。
鹿の子さんの明るい笑みに浄められたいと戻ってみれば、どんよりお曇りではないか。
「草履のひとつやふたつ、買ってあげてください」
「口が先にでていた。……傷付けるつもりは、なかった」
なんと拙く投げやりな言葉。耳が痛いご様子の月明に、久助はどっと疲れが増す。
お稲荷さまが改心なされ、一息ついたと思えば、これだ。
この世で最も高潔な男であると尊んでいたというのに、すっかり鹿の子の存在に心を乱されている。お稲荷さまと鎬を削ろうなどと言い出すばかりか、その尻を叩いて賽銭稼がせ、納戸を大改築するとは。
「鹿の子さんの御寝所だけならまだしも、なんですかあの茶室は」
「彼女の趣味だ。ご実家では毎日、たしなんでいたらしい」
「いえ、むしろそこまで細かく御自身で調べられているとは……まさか、小薪さんも」
この一件に巻き込まれた被害者なのでは。そう舌が滑りそうになり、慌て飲み込んだ。小薪はこちらの話に耳を傾けながらも心はみたらしのたれに浸かりきり、頬が緩んでいる。
いつまでも肯んじない月明に、久助は直接的な問いを投げ掛けた。
「何故そこまで鹿の子さんに執着するのですか。本心から継室に望んでいるとでも?」
「菓子に惚れた。それだけだ。久助、お前もその一人であろう。あれほどの菓子を生む娘をみすみす失いたくはない。当主として側室を守りたい。それだけのこと。それ以上、それ以下でもないのだよ」
失いたくはない。
その気持ちは胸が痛むほどにわかる。雪の思惑を知り尚更のこと。
しかし月明からは御自身でも抑えきれない、なにか特別な情熱が溢れているように思えてならないのだ。
抑えようと、もがき苦しんでいるのではないだろうかと。
自身に言い聞かせるように、小さく、独り言を垂らす。
「私はもう二度と、恋に花を咲かせなどしない」
月に手を添える月明の姿は、そのまま闇に溶け消えてしまいそうに、あえかなる美しさであった。




