三‐東の院
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「コン、コン! (すまん、つい!)」
朝のかまど。
土間に入れてもらえぬクラマは格子窓に引っ付いて、正しくはぬりかべを踏み台にしてけたたましく叫んでいた。
格子窓から望めるのは、飴玉ふたつ含んだみたいに頬を膨らませて、あんこを練る鹿の子。
「せっかくのお休みやったのに」
鹿の子が御寝所に呼ばれた翌日はかまど休みであった。月明は忌み日。つまりはふたり、お寝坊を許された日だった。
夜更かしした身体を休めたあとは街に出てぶらぶら、あわよくばなつみ燗で舌鼓をうとうと鹿の子は思っていた。思うぶんにはただである。
それでは現実はというと、鹿の子の腰を引き寄せた月明は美顔を狐の尻尾で叩かれ、三日三晩寝込んだ。狐の尻尾はただの尻尾ではない、誰かさんと同じ、呪印のついた尻尾である。
もっとも、お稲荷さまの呪印は火焔宝珠といって捺されてありがたい印、または厄や邪を退ける印であるからして。月明が寝込んだのは、やましいことを考えた自業自得という譯だが、鹿の子はクラマにご立腹。三日三晩、目も合わせていない。忙しい旦那様にはいい休みかもしれないと看病は小薪に任せて、自分はかまどに引きこもった。
おかげで御饌菓子は半月ぶん仕込めたし、札所には季節の土産菓子を並べられた。色とりどりのひなあられや菱餅に惹きつけられて、お化けから逃げた客も出直してくる。月明が寝込んだ三日で小御門神殿の境内は賑わいを取り戻しつつあった。
それから三日三晩が明けたひな祭りの今朝、月明は朝廷へ出仕している。溜め息を吐きそうになった鹿の子は、手を動かしてごまかした。作り手は憂鬱だが、釜のなかの白餡はつやつやと照っている。
出仕のあとは貴族家をまわり姫君たちの厄除祈願、帰りはまた夜半になるだろう。帰ったら、花嫁を御寝所に迎えて――。
今日は新しい側室が東の院に輿入れする日である。
鹿の子は元々、東の院の側室として嫁入りしている。しかし東の院へは数えるほどしか敷居を跨いだことがないし、「東の方」なんて呼ばれたのは元御用人、幼馴染みのラクにだけ。それでも愛着はあったのか、心のどこかで引っかかる。それともただのやきもちか。
側室にやきもちとは、かまどの嫁もえらい一丁前になったもんである。
月明へは「真のお世継ぎを」と口うるさく言っていたのに、自分だけを見ていて欲しいなんて。
鹿の子は首を振ってえいや、釜をひっくり返した。
「そうやラク」
そして北の方。
鹿の子は頭のなかでふたりの顔を並べた。
月明や小薪から「心配はいらない」と聞かされてはいるが、あか山から帰ってきてから半月も姿を見ていない。今までも対して会うてはいなかったが、鹿の子が最後に見たラクはあか山の雪を血で染めるほど大怪我をしていた。命の心配はいらないが、傷は深いのかもしれない。
御出し台の向こう、久助へ声をかける。
「今日はこれ作り終わったら火を落として、北の院へお見舞いに行こうと思います」
「かまど休みですか。良いことです。それにしてもこの菓子――」
ひな祭りらしい、あんこに求肥の着物を着せた生菓子。しかしお雛様は扇子ではなく花を持っている。いささか似合わぬ花を。
鹿の子はきまりが悪そうに菓子を笹の葉で丁寧に包むとそれを久助へ任せ、ひとり北へ下った。
然して参路半ば、ひとりで来たことを悔いた。
「すんまへーん! 南の方は居られますかー!」
北の院へつながる参道を行けば、黒い壁がそびえ立つ。そんな面妖なもので邸を囲える人間を鹿の子は知っている。小御門家側室であり結界師、南の方だ。鹿の子は首の上でかくかく揺れる四角い箱を思い浮かべながら叫んだが、自分の声がこだまになって返ってくるだけ。久助を呼んでもいいが、二度目となると霊力が削られ昼餉まで体がもたない。久助の使役は一日三度と決まっている。
鹿の子はつま先を西へ向けた。
「せや、小薪ちゃんとこ行こ」
小薪に頼めば南の方と通じて、結界のなかに入れてくれるかもしれない。それが難しくても暇つぶしにはなる。
仕込みが終わった鹿の子は珍しく刻を持て余していた。
「お呼びでございますか」
「ぎゃ!」
足を運ばなくとも小薪は現れた。刻に式の神より鹿の子に従順である。
「北の院は瘴気が強いため、南の方以外立ち入ることができません。お見舞いに行けるようになりましたら、私からお知らせしますんで。さあさあ鹿の子さんのお望み通り、今日のところは西の院へ」
妙にへつらい、小薪は鹿の子の前で立ちはだかった。
「しょうき……?」
「吸うと身体に良くない空気のことです」
「ほんなら、北の方とラクは」
「ふたりの心配は入りません」
瘴気はふたりから流れ出ているのだから。
小薪は鹿の子の視界を包み込むように肩を抱き、方角を西へ変えた。
この日鹿の子は暮れ六つまで西の院へ入り浸った。近頃は互いにうんと心を張り詰めていたから、娘らしいことなんてひとつもしていない。お見舞いに包んだ菓子を広げ、縁に足を投げ出すだけで、ふたりは百姓娘と町娘に戻った。この半年振り返るだけで陽が高くなり、恋話が加わればお日さんも陰る。
鹿の子は茶釜の湯を三度入れ替えてやっと長居だと気付き、腰を上げた。
「小薪ちゃん、ごめんね。後片付けはしてくから」
「とんでもない!」
何度も茶を注がせておいてなんだがお客様に後片付けをさせるわけにはいかない。それどころか小薪は「どうか泊まっていってください」と引き止めた。
「ふたりで一緒に居れる日、これからなかなかないですし、道々で暗なります。危ないですよ」
「久助さん喚ぶから大丈夫」
朝廷で、境内で花を咲かせていた久助はいまや継室専属御用人。それに帰ったらすぐにお夕膳、鹿の子の霊力的にも今は喚びどきといえる。小薪は久しぶりに舌を打った。
「明日から新しい土産菓子出したいし」
「新しい菓子……? ひな祭りのあとは何ですか!」
「端午の節句にちまきはどうやろか」
「是非食べたい! ああ抗えん――!」
鹿の子は転がり悶える小薪を突っ立ったまま見据えた。鴉羽のように艶やかな御髪が板間に流れる。
きっと毎朝毎晩、御用人のクマが丁寧に梳いているのだろう。お邪魔虫が周りに多い鹿の子は、小薪とクマの邪魔にはなりたくないと思った。
「そうと決まれば早う仕込まな。もう行くね」
「待ってください! ほんなら、あと一杯だけ付き合うてください」
「んでも……」
茶筒には茶柱一本残っていない。
鹿の子に出涸らしの白湯を注がす譯にはいかず、小薪は悔しそうに首肯した。
「では私が従います。ちょうちん! ちょうちんお化け!」
「いいよ、いいよ、久助さん喚ぶて」
「いいんです、境内までついていきたいんです!」
さて小薪のわがままがとおり、小御門家の奥方ふたり並んで夜道を歩くこととなった。ふたりの周りにはちょうちんお化けの親子が、ふよふよ、かまどまでついていけば甘いもんにありつけるんちゃうかと期待して付き添っている。まるで百鬼夜行、参路に灯りはないが辺りは昼間のように明るかった。
明るい夜道を行く小薪の顔色は悪い。
「わたしが居るから大丈夫……わたしが居るから……」
「小薪ちゃん?」
「あっ、鹿の子さん見てください、あんなところに菖蒲が咲いてますよ」
「あらまあ、綺麗に咲いて。茶花に摘んでもいい?」
「どうぞ、どうぞ」
鮮やかな野花菖蒲の花が点々と闇に浮いている。小薪は摘みに行く鹿の子を引き止めなかった。東の院を除く寄り道ならば結構、結構。
鹿の子は小薪の元を離れ、ずんずんと茂みの奥へと入っていった。菖蒲の花には思い入れがある。菖蒲は今朝作った上生菓子のお雛様にもたせているからだ。
野花菖蒲の花言葉は、
――嬉しい知らせ。
「あ――、はさみ」
野花菖蒲は剪定すれば、来年もまた同じ根が花を咲かせる。しかし摘むには花ばさみがいる、鹿の子は安易に馴染みの名を呼んだ。
「久助さん、久助さん、花を摘みたいんです」
「久助、とお呼びくださいと何度も」
「あっ」
「はい、どうぞ」
使い古されたはさみが鹿の子の手に渡る。久助は鹿の子に喚ばれると、どんな細やかな用付けでも嬉しそうに、笑みを浮かべ現れる。鹿の子もまたその可愛らしい笑みにつられ、にんまり。
「なんてこったい!」
そんなくすぐったいやり取りを見ながら、小薪は菖蒲を見つけた自分を責めた。今この場所で最も、久助に居てもらっては困るのだ。
どのみちこの夜道、久助が現れる運命なのだが。
「これからかまどまで帰られるのですか」
膝を曲げ、菖蒲の花茎に刃を入れていく鹿の子へ久助が尋ねる。
「はい。小薪ちゃんが送ってくれるて」
「小薪さんは一応御側室ですし、おふたりで夜道を歩かれるのは無用心かと」
「きこえたで! 一応とはなんや一応とは!」
小薪が突っ掛かる。
無用心とは危ないという意味ではなく、人目を気にしてのことだ。巫女らに見つかれば当然、継室と側室が仲良く並んで歩く情景は不自然なのだから。
久助は冷然と答えた。
「その無用心さが一応を示しているのですがね」
継室の鹿の子は置いといて。
「ゆえに私がお供したいのですが、これから菓子を届けねばなりません」
「もしかして、朝に包んだ菓子ですか」
「はい。旦那様と新しい御側室へとのことでしたので母家で待っていたのですが、つい先ほど旦那様は東の院へ下られたそうで」
「東の院へ……? 旦那様から、直々に」
小御門家では、当主に呼ばれた側室が母家の御寝所へ通う。初夜も然り。夜伽が名目のもと陰陽師の修行であり、帳台の上では師弟。師が弟子の邸へ赴くなど理由がなければあり得ない話だ。
理由がなければ――。
鹿の子は心を騒つかせた。
初めてのかまど休み、東の院へ現れた月明を思い出す。しばらく久助と間違えた。だって薄い袴一枚で、お日さんみたいに明るく笑っていたから。
「わたしも、行く。東の院」
「あきません!」 占い通りの行き先に小薪が吠える。
「ご安心を。小薪さんにはクマさんを呼んでおきましたから」
「そういう意味やなくて!」
言うてる間にクマの大きな影が迫る。
凄まじい迫力である。
このままでは鹿の子を久助に連れていかれてしまう。
小薪は焦りを募らせた。
鹿の子さんを東の院へ行かせてはならない。鹿の子さんを、東の院へ行かせては――。
「それでは参りましょうか」
「待って! わたしが、わたしが東の院へ行く!」
「はい? なにゆえ小薪さんが私と?」
「クマは鹿の子さんをお願い!」
「ですから、なにゆえ私と小薪さんが――ああ」
久助は澄み切った顔で手を打った。
「いつもの物好きですか」
まあ、クマさんになら主を任せられます。納得した久助の背中を、小薪は蛮声を上げて追った。
「違うわーい!」




