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彼岸花の導く先

作者: 幾乃 葉

 水の入った桶を手に提げ、ひしゃくで水を掬う。それをかけると、墓石は黒さを増した。刻まれた文字は、水に濡れてもなお堂々たるものだった。

『岸部家之墓』

 ここには、じいちゃんとばあちゃん、ひいじいちゃんとひいばあちゃんが眠っている。いつか、父さんや母さん、そして俺もここに眠るのだろう。

 もう一度水をかけると、墓石に張っていた蜘蛛の巣は流れていった。


 智樹が墓参りに来たのはほぼ四年半ぶりだった。大学生の間は忙しくて、実家に帰ってきても、墓参りに行く余裕がなかったのだ。さらに、大学を卒業してから半年間、身の回りを片付けたり色々したりしなければならず、帰るのが今頃になってしまった。

 智樹は線香をあげて、心の中で呟く。

 ──じいちゃん、ひいじいちゃん。俺、家を継ぐよ。

 智樹の実家は酒造だ。智樹の曾祖父が始めたのだが、古いつきあいのご近所さんや常連さんがいるため、収入はわりと安定している。

 ──頑張るから、よろしく。

 なにより、小さいころから祖父が好きで、いつもくっついて酒造の仕事を手伝っていたから、ほかの仕事は考えられないのだ。


「こんな感じかな」

 墓石の汚れを丁寧に落とし、花を換えた。線香もあげた。もうやり残したことはないはずだ。

 腕を伸ばし、ふうと息をはく。最後にもう一度、声をかけてから帰ろうと、墓石の正面に回りこんだとき、

 視界が、歪んだ。

(……まずい、立ちくらみか)

 ぎゅっと目をつぶる。頭が重い。

 一瞬、耳に届くすべての音が遠のいた。


 風が凪いで智樹の髪をゆらすと、頭の重みが少しずつ薄れていった。

(帰ってきたばっかで疲れてるのかな……早く家で休んだほうがいいか)

 そっとまぶたをもちあげる。しかし、目に映った景色に智樹は驚愕した。

 そこは、だだっぴろいススキ野だった。

 墓石どころか、人ひとりさえ見あたらなかった。

(────っ、え)

 どこだ、ここ。

 そう言った直後、近くのススキがガサッと揺れた。

 何か出てくる──智樹が距離をとろうとする前に、そこから『何か』が出てきた。

「「「おーかーえーりー!」」」

 その『何か』たちはそう叫びながら、智樹に勢いよく飛びついてきた。

 決して軽くはない衝撃に、低いうめき声がもれる。咳き込みながらも智樹は、まとわりついているものを体から引き剥がした。

「……は?」

 智樹の目の前にいたのは、三人の子どもだった。少年が二人に少女が一人。なぜか皆和服である。

 しかし、智樹が驚いたのはそこではなかった。

 坊主頭の少年は膝から下が透けており、

 おかっぱの少女は腕や首にも閉じられたまぶたがあり、

 ざんぎり頭の少年は額から小さな角をのぞかせていた。

 なんだ、おまえらの格好。そう声を発しようとするよりも先に、智樹は手を引かれた。

「はやくはやく! いちかがまってるの!」

 少女はそう言って先を急かす。いちかって誰だ、いや何だと思いながら、角を生やした少年に手を強く引かれ、気づけば智樹は走っていた。

 子どもたちは明らかに生身の人間ではないのに、智樹は不思議と恐怖は感じなかった。

 腰まであるススキをかき分けながら、智樹たちは走る。だが、日頃運動をしないせいか、次第に息が切れてきた。

「もうすぐだよー! がんばって!」

 坊主頭の少年に応援される。

 子どもに応援されるとは情けない、と智樹は思った。いや、足がないと疲れもないのだろうか。少年の足下を見たが、膝から上がほとんど動いていないから、浮遊、ということになるのか。とりあえず疲れはないようだ。


 数分ほど走っていると、どこまでもススキ野だった景色に変化があった。

 前方の枯色は途中で途切れ、その向こうに明るい赤が広がっていた。注意すると、水が流れるような音も聞こえる。

 智樹は、朱に呼ばれるように、ススキ野をがむしゃらに駆けた。

 そうして、

「「「ついたぁー!」」」

「着い、た……?」

 息が苦しくて、膝頭に手をあてる。自然と下を向くと、足元に鮮やかな朱があった。

 彼岸花。

 智樹は、風に揺れるその名を思い出した。

 息を整え、ゆっくりと頭を上げる。

 智樹の目に映ったのは、どこまでも続く朱だった。先程のススキ野のような。次いで、戻ってくる聴覚。水音のする左手側を見やると、河が流れている。

 智樹は呆然と、広がる景色に目を奪われた。

 鮮やかな彼岸花の朱と、澄んだ空色の河。

 智樹は首を回して、あたり全体を見た。真後ろ少し右手寄りには小振りの鳥居があり、それを隠すようにイチョウの巨木がそびえ立っている。

 大きな木だ──智樹がそう思ったとき、智樹の服の裾が軽く引っ張られた。

 智樹がそちらに目を向けると、子どもたちがきらきらとした目でイチョウの木を指さしていた。

「いちか、みつけたの」

「しーっ、じゃないとだめだよ、いちかのじゃましちゃう」

 子どもたちは人差し指を口にあてながら、満面の笑みでそう言った。

 智樹は再びイチョウの木を見た。とても人がいるようには見えないのに、どうしてわかって──

 そこで、智樹の思考は途切れた。

 ピー……、と響いた、透明な音色。

 ──ああ、だからか。

 それは笛の音だった。あまりにもこの風景に馴染んでいて、今まで気がつかなかった。

 智樹は、子どもたちと一緒に、そうっと足を踏み出した。極力音をたてないように、ゆっくりとイチョウを目指す。

 まず、巨木の根元に、生成色の地に赤い彼岸花の描かれた、着物の裾が見えた。

 視線を上に移していき、その姿を目にした瞬間、智樹は思わず足をとめてしまった。

 横笛の先端と、それを押さえる白く華奢な指。そして、横顔──わずかに伏せられた瞳と、それを縁取る長い睫毛。すっと通った鼻梁、薄桃色の唇。結い上げられた黒曜の髪から覗く、形のよい耳とうなじ。

 黒髪に映える、着物とおそろいの赤い簪が、風に飾りを揺らしている。

 どくん、と心臓が音をたてた。

 ……すごく、綺麗な人だ。

 智樹は一歩踏みだそうとしたとき、少女が我慢できなくなったのか、ばっと駆け出した。

「いちかー!」

「あっずるいよ僕も!」

 すぐさま、ほかの二人も少女を追う。そうして、智樹に初めて会ったときのように、子どもたちはその女性に抱きついた。

 智樹も小走りで子どもたちのあとについていき、木の陰にいる女性の正面に回りこむ。それと同時に、彼女は顔をあげた。

 目が合った瞬間、智樹は硬直した。

「──はじめまして、智樹さん。壱加と申します」

 にこっと笑った彼女──壱加を見て、智樹の心臓はうるさいくらいに鼓動を刻みはじめた。

 どうして自分の名前を知っているのか、とか、ここは一体どこなのか、とか、尋ねたいことは色々あったが、壱加を一目見るなり全部吹っ飛んでしまった。

 胸が息苦しい。これはもしかして、いわゆる──一目惚れ、というやつか。

「あのね、ともき、つれてきたの!」

「ほめてほめて!」

 子どもたちは我先にと壱加に主張する。

「みんな、えらかったね」

 壱加は順番に子どもたちの頭を撫でる。それから彼らの背中を軽く押し出して、

「ほら、みんなで遊んでおいで?」

 優しく笑ってそう言うと、はーい! と子どもたちは元気に返事をして駆け出していった。

 その微笑ましい様子を見送ってから、壱加は智樹に向き直った。そのころには智樹の硬直も少し解け、話ができるくらいにはなっていた。

「……あの子どもたちは、此処は」

 しかし、智樹は何と言えばいいのかわからず、そこで言葉がとまってしまう。

 壱加は困ったように眉を下げ、智樹を見上げた──そんな表情も可愛い、と思ってしまった智樹は、その惚れように、自分のことながら頭を抱えたくなった。

 だって初対面だぞ。これじゃただの変質者じゃないか。

 心の内で問答を繰り返す智樹を余所に、

「そのこともお答えします。……少し、お話しませんか?」

 壱加は、鳥居の側にある木製のベンチを指さした。


 二人で並んでベンチに座り、まず、此処はどういった場所なのか、壱加は話し始めた。

「ここは、いわゆるあの世とこの世の境目です」

 智樹はそれを耳にして、え、と呟いたきり言葉を失う。

 壱加は空色の河を指さし、あれが三途の河なんです、と笑いながら智樹に教えた。あんなに綺麗な空色の河が、例の三途の河だなんて、可笑しいでしょう? と。

 智樹はその笑顔に思わず赤面した。──あまりにも綺麗すぎて。

 それから、壱加は智樹に向き直って言った。

「改めて、水上壱加です。水上神社で巫女をしています」

「あ、岸部智樹です。岸部酒造の跡取りです」

 互いの名字を聞いて、家が同じ街にあることが判明する。水上神社は、近隣では有名な由緒正しい神社であり、岸部酒造は、地元の人にとっては馴染みの酒屋なのだ。

「……智樹さんのことは、あの子たちから聞いたんです」

 よくお墓参りに来る、優しいお兄さんがいる、と。

 なぜ自分のことを知っていたのか、と智樹が問うと、壱加はためらってからそう答えた。

「あなたがお墓参りに来るたび、今回はこんなことをお墓に言ってたとか、こんな服着てたとか、いつも嬉しそうに教えてくれていたんです」

 けれど、四年くらい前から、智樹さんのことを聞かなくなって、と続ける。今思えば、ちょうど大学に行っていたんですね、と納得したように壱加はうなずいた。

 だから「おかえり」だったのか、と智樹も謎がひとつ解けた。

「もしかしてあの子たちは、久々に智樹さんに会えたのが嬉しくて、思わずこちらへ呼んでしまったのかも……」

 そんなこと、と智樹は思ったが、壱加は冗談を言っているようではない。……それで俺は、此処に来たのか。

「智樹さんは、どうやってこちらに?」

「祖父母と曾祖父母の墓参りをしていたら、突然めまいがして……気づいたらススキ野にいて、あの子どもたちにここまで連れて来られました」

 あとは壱加さんも知る通りです、と言えば、隣で壱加がくすっと笑った。

 それを見て、きゅっと、心臓が締めつけられるような感覚がした。頬に熱が集まるのがわかる。

 ああ、まだまだ緊張が。

 ごまかすように、智樹は同じ質問を壱加に返した。

「私ですか? うーん……初めは偶然来てしまったんですけど、それからは自力で来ています」

 自分と同じように来たのかな、と思っていた智樹は、予想の斜め上をいく答えに、思わず間の抜けた声を出してしまった。

「自力って…………え?」

 壱加はそんな智樹の反応に満足したようで、ふふ、と笑って話しだした。

「これでも一応、神主の娘なので、霊的な力が多少はあるんですよ。そこの鳥居と、うちの神社の一角で繋がっているみたいで、念じてくぐれば行き来できるようになったんです」

 言われてみればわからない話ではないが、それより、壱加にそのような力があったことに智樹は驚いた。

 智樹はぽかんと口を開けていたが、はっ、と気がついて、慌てて壱加に尋ねた。

「それなら、俺もそこから帰れるってことですか?」

 しかし、壱加は申し訳なさそうに首を横に振って、

「それは無理だと思います。私はこの力に頼って来ているので、それが無いとちょっと難しいかと……」

 帰り道もあの子たちが知っているはずです、と壱加は少し離れたところで遊ぶ子どもたちへと目をやった。

 智樹もその目線を追う。子どもたちはどうやら、鬼ごっこをしているらしい。それを見ていて、そういえば、と子どもたちの容姿のことを思い出した。

「あの子たちは……人間ではないんですか?」

 おそるおそる智樹は壱加にそう尋ねた。大体の答えは予想できていたが。

 そして、壱加もその予想を、はい、と肯定した。

「まず、あの角がある男の子は、鬼の子どもです。とは言っても、人間と鬼とでは寿命が違いますから、私たちよりも長く生きているはずです」

 ついと伸ばした指は、ざんぎり頭の少年を指している。次に壱加はその指をずらし、今度は少女を指さした。

「あの女の子の腕とか首とか、見ました?」

「はい。……目、が」

 智樹の返答に、壱加はうなずく。

「あの子は、ドドメキという妖怪の子どもです。ドウメキ、と呼んだりもするんですが……」

 壱加はそう言い、手のひらに、『百々目鬼(ドドメキ)』はこう、『百目鬼(ドウメキ)』ならこう、と漢字を書いた。

「子どものうちは、あの目が開くことは無いらしいです」

 それでもやっぱり私たちよりは年上ですけどね、と壱加は付け加えて苦笑した。

「じゃあ、あの坊主頭の子も何かの……」

 智樹はそう言いかけたが、壱加の目が伏せられたのを見て、口をつぐんだ。

「……あの子は、ついこの間、ここに来たんです。生まれつき、体が弱かったみたいで」

 その先は、言われなくても智樹にだってわかった。

「あの子は、迎えが来るのを待っているんです。あとの二人は、彼が一人で寂しくないようにって、いつも一緒にいてくれます。今まで遊べなかったのなら、遊ぼうよって」

 だから、それまでは私も毎日ここに来るね、って約束したんです、と壱加は目を閉じて言った。先程吹いていた笛を胸に抱いて。

 神妙な空気が二人の間に流れた。

 何か、俺にもできることはないか。智樹は必死に頭を回転させた。

 何か、何か。

「俺も、これからここに来ます。来ていいですか」

 我に返ったのは、そう口走ったあとだった。

 ──俺は、何を言って。

「いや、どうやって来ればいいのかとか、わからないけど! 子どもたちに聞いてでも、来ますから!」

 焦って、しどろもどろになる。全然言葉にならない。

 ああもう、格好悪い。情けないなんて今更だ。

 ……もういい。気にするな。

 ここは正攻法で、言ってしまえ。

 智樹は、壱加の瞳を真正面から見据える。

「──だから、来てもいいですか」

 あの子どもたちを見守りに。──あなたに会いに。

 壱加は目をまたたかせた。

 秋の穏やかな日の光が、壱加の瞳に入ってきらめく。その瞳が、わずかに赤みを帯びた黒色であることに、智樹は初めて気づいた。

 至近距離にあった壱加の目が、ふっとやわらいだ。

「もちろんです。人数は多いに越したことはないですから」

 それに、智樹さんとも、もっとお話をしたい。

 そう言った壱加の耳が、わずかに赤くなって見えるのは、日が傾いてきたからか、それとも。

「──あの子たちも、きっと喜びます」

 そう言った壱加の笑顔は、今までで一番穏やかだった。

 そうですね、と智樹が返す。

 さぁと風が吹いて、足下の彼岸花と、壱加の髪飾りを揺らしていった。


 それから二人は、他愛のない話をした。

 智樹は、都心の大学にいたが、卒業して帰ってきたばかりだということ。祖父と曾祖父、そして本人の前では絶対口にしないが、父を尊敬していること。

 壱加は、地元の大学の三年生で、文学部で学んでいること。祖父母と父母と兄の六人で暮らしていること。卒業しても、そのまま巫女として仕事をするつもりなこと。

「なぜかこっちに来ると、この着物を着ていて、瞳まで赤っぽくなっているんです」

 壱加がそう言ったときには、智樹は自分もどこか変化しているのだろうかと探してみたが、どこも変わりなくて拍子抜けした。

 そうして、二人で笑い合っていたときだった。

「いちか! ともき!」

 切羽詰まったような叫び声が聞こえて、二人は同時に立ち上がった。見ると、百々目鬼の少女と鬼の少年が、幽霊の少年の手を引いている。

 智樹は迷わず走りだし、子どもたちのもとへ向かった。そして、到着してすぐ、幽霊の少年の体が透け始めているのに気がついた。

「あれ!」

 そう少女が指さした先に、河のほとりに停まる、一艘の船の影があった。

 と、そこへ壱加も遅れて来た。壱加は状況を一目見て理解したらしい。

 幽霊の少年が、いちか、と小さく呼ぶ。

「おわかれ、みたい」

 そう言って、少し離れたところにいる、あの世からの使者──狩衣をまとい、烏帽子をかぶった青年を振り返った。

「あのね、あのおにいちゃんが、おわかれするじかん、くれたの」

 だからね、さいごに、いちかのふえ、ききたい。

 子どもたちの手を握りかえし、彼は笑った。

 壱加はしばらく呆然としていたが、わかったと言い、しゃがんで少年の頭を撫でた。そして優しく微笑み、立ち上がって唇に笛をあてる。

 ピィー……と始まった曲は、綺麗だが、どこかもの悲しいメロディーだった。

 誰も、物音ひとつたてない。聞こえるのは、壱加の笛の音と、時折吹く風が草木を揺らす音だけ。

 次第に、少年の体が薄くなっていく。すると、ある瞬間に、繋がれていた子どもたちの手が離れた。

「え、なん、で」

 鬼の少年が呟く。再び繋ぎ直そうとしても、少年の手はそこにあるのに、すり抜けるばかりだった。

「っ、やだ、まだおわかれなんて、したくないよぉ……!」

 少女がそう泣き始めるのと同時に、鬼の少年の目からも静かに涙がこぼれた。

 ひくっ、う、と泣きじゃくる声が少女の喉から漏れる。

 そのとき、壱加の笛の音色が変わった。

 綺麗なのはそのままに、転調をして、明るいメロディーになる。──空にのぼっていくような。

 それは、葬送の曲だった。

 その場にいる誰もが、動きをとめて、壱加を見た。

 白い指がなめらかに動く。伏し目がちのその目はわずかに潤んでいながら、笛の音は途切れることなくしっかりしていた。

 そうして、曲は、最後の音色を響かせて終わった。

 壱加が唇から笛を離すのと同時に、少年の体から幽かに、小さな光の珠がのぼり始めた。それは、少しずつ数を増やしていく。

 未だ泣いている二人の子どもに、智樹は思わず言う。

「ほら。そんな泣いていたら、安心して向こうに行けないだろ。……ずっと待ってた迎えが来たんだ、笑顔で見送ってあげなきゃ」

 そして、二人の背中をそっと叩いた。

 それでも二人はしばらくぐずっていたが、やがて鬼の少年が、ばっと顔をあげた。

「つぎは、ぜったいしあわせになってよ! やくそく!」

 そう叫んで、泣きながら、にっと笑った。

「こんどあえたら、またあそぼうね! ぜったいだよ!」

 少女もそう言って、なおも掴めないはずの少年の手をとろうとした──が。

 少女の手に、冷たい少年の手が触れた。

 はっとして、少女はその手をきゅっと握る。本物かどうか、確かめるように。

「……ちょっと、いたいよ」

 しかし、幽霊の少年がそう呟いたのを聞くやいなや、少女と鬼の少年は彼に飛びついた。

 そして、幽霊の少年は、二人に抱きつかれたまま、壱加と智樹を見上げる。

 その口が、ありがとう、と動いたのを、壱加と智樹は確かに見た。

 壱加の両の目から、ほろりと涙が落ちる。そして彼女は両膝をついて、子どもたちを抱きしめた。

「──いってらっしゃい」

 涙を流しながら、壱加は微笑んでそう言い、手を離した。

 智樹も笑って、優しくその頭を撫でる。

 子どもたちもようやく互いから離れ、最後に手をぎゅっと握り、そしてその手を離した。

 少年は使者の青年と手を繋いで振り向き、

「みんな、たのしかったよ、ありがとう!」

 ばいばい! と手を振って、彼らは船へと歩き出した。

 少しずつ、後ろ姿が遠ざかるにつれて、少年の体から無数の光の珠がのぼっていく。それはやがて少年の体を包み、船にたどり着くころ、少年は光の珠になった。

 使者の青年は、それを優しく抱き上げ、船に乗り込んだ。やがて船は進み始め、ゆっくりとその姿は見えなくなっていく。

 残された二人の子どもと、壱加と智樹は、船が完全に見えなくなるまで見送っていた。


 船の姿が見えなくなって、智樹は隣に立つ壱加をそっと見た。

 彼女は、まだ、涙を流していた。彼女だけではない、子どもたちもそうだった。

「──壱加さん」

 智樹が名前を呼ぶと、その濡れた瞳は、智樹のほうを向き、それから涙を隠すように、うつむいた。

「あの子どもは、嬉しかったとおもいますよ」

 此処で、あの子たちと思い切り遊べて、壱加さんと一緒にいられて。

「だから、」

 その続きは、言葉にならなかった。

「────今だけ、肩、貸してください」

 壱加の額が、智樹の肩口にあてられる。

 智樹は一瞬、何が起こったのかわからなかった。しかし、状況を理解すると、戸惑いながらもゆっくり壱加の頭を撫でた。きれいに結われた髪を崩さないように。

 肩に、冷たさ。壱加は静かに泣いていた。

 壱加の髪を繰り返し撫でている智樹の頬にも、一筋、雫が流れた。


「ごめんなさい、肩、濡らしてしまって……」

 あれから数分後。智樹は壱加に謝られていた。壱加の目元はまだ少し赤い。

「や、あの、本当に大丈夫ですから!」

 むしろ予期せぬ幸運だったなんて、不謹慎すぎて絶対に言えない。それでも申し訳なさそうにする壱加に、智樹は別の話題を振った。

「壱加さんは、これからどうするんですか?」

 智樹も、名残惜しいがそろそろ帰らないといけない。

 壱加は、あ、と声をあげ、

「今日、人に会わないといけない用事があったんです」

 だからそろそろ帰ります、と告げた。

 人……人って誰だろう、と智樹は一瞬思ったが、それよりも重要なことを思い出した。

「あ、俺はどこから帰れば……」

 それを聞いた壱加ははっとした。その様子を見て、智樹は自分の顔から軽く血の気が引いていくのを感じた。

 ……これはもしや、帰れない?

 しかし、そう思ったところで、また腰に衝撃がきた。

「おれたち、しってる!」

 ぐっと再び手を引かれ、そのまま連れていかれそうになる。子どもたちが走り出す前に、智樹は慌てて壱加に尋ねた。

「今度、水上神社に行っていいですか? 荷物の片付けがまだ残ってるから、すぐじゃないけれど!」

 子どもたちがもう走りだした。自然と智樹も走るかたちになる。

 そのとき、後ろから「待ってます!」と澄んだ声が聞こえた。智樹が振り向くと、壱加が笑顔で手を振っていた。

 智樹も手を振り返し、それから、子どもたちに負けじとスピードを上げた。


 風景がススキ野に変わってしばらくしたころ。

 智樹が疲れてきたとき、少女が突然の宣言をした。

「ともきに、いちかはわたさないんだからねっ!」

 ……は、と思考回路が停止した。それに畳みかけるように、今度は少年が言う。

「いちかはおれがしあわせにするんだ!」

 ああ、壱加さんは本当に懐かれているんだな、と智樹が思った、そのときだった。

 せーのっ、と何やら怪しげなかけ声と、直後、背中にかつてないほどの衝撃。後ろから思い切り押されたらしい。

 え、と思う間もなく、視界が回った。

 次に来るだろう衝撃にそなえ、智樹は強く目を瞑った。

 またねー! と子どもたちの声が聞こえた気がした。


 しかし衝撃ではなく、足の裏に固い感触を感じて、智樹は目を開けた。

 そこは、もとのお墓の前だった。

「……結局、なんだったんだろう」

 じいちゃん、ひいじいちゃん。ばあちゃん、ひいばあちゃん。何か知ってたりするんじゃないの?

 智樹は、かっかっかという祖父の懐かしい笑い声を、耳の奧で聞いた気がした。

 ──墓の裏に、先程まではなかった彼岸花が咲いていたのを、智樹は知らない。


 ただいまー、と智樹は家の玄関の戸をガラガラと開けた。そのまま自分の部屋へ行く予定だった、のだが。

「智樹! ごめん詳しい説明はあとだからこれ着て!」

 珍しく焦った母にスーツを手渡される。何これ、と尋ねると、ちょうど居間にいた父が信じられないことを言った。

「いや、お前の許嫁が来る……って、言ってなかったっけ」

 智樹はその場で固まった。

 ……許嫁? そもそも許嫁がいることを初めて聞いた。それも、壱加さんに出会ったばかりなのに?

「それ、じいちゃんが相手のお祖父さんと決めたらしくて、向こうのお祖父さんがこの前教えてくれるまで俺も知らなかったんだよ」

 でもじいちゃんの仏壇見たら、確かにそういう文書があってさー、なんて父は呑気に言っている。

 ともかくその気は全く無いにしろ、とにかくまずは着替えよう、と智樹はため息をついた。


「俺、会っても何をどうすればいいのか全くわからないんだけど」

 時刻は夕方。スーツに着替えた智樹は、父母に尋ねた。父母も普段よりちゃんとした格好で準備をしている。

「向こうの家族……ご両親と祖父母? と私たちの計八人でお食事するだけよ」

 智樹の質問に、智樹の母が答える。緊張もなにもしていない母親の返答に、智樹はうなだれた。

「だけって……当事者はそんなんじゃないんだって」

「あら、だって私は当事者じゃないもの」

 しかし、そう笑いとばされたとき、智樹は、相手の名前を知らないことにふと思い当たった。

「父さん、相手の名前は?」

 慌てて訊くが、なんだっけなー、と智樹の父は言う。

 相手の名前を知らないのはさすがにまずい、と智樹が思ったとき、智樹の母親が口を開いた。

「ねぇ、確か神社の娘さんじゃなかった?」

「ああそうだ! あの神社だよ、ちょっと向こうにある、ここらじゃ有名な──」

 ……神社? の、娘?

 まさか、と智樹は思った。そんな偶然があるのか?

 なんていう神社だっけ、という父に、智樹ははやる心を抑えて尋ねる。

「まさか……水上、神社?」

 期待半分、疑い半分の問いの答えは、父の表情ですぐわかった。

「そうだそうだ! で、確か下の名前が……」

 そのとき、玄関のインターホンが鳴った。

 出ていこうとする母よりも先に、智樹は玄関へと向かう。

 期待してもいいんだよな、これは。

 玄関の引き戸を開けると、そこには、淡い茶のスカートに、白いブラウスとカーディガンを着た、長い黒髪の女性が立っていた。

 その女性は智樹の姿を認めると、少し目を見開き、それからすぐに可憐な笑みを浮かべ、薄桃色の唇を開いた。

「──さっきぶりです、智樹さん」


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