届かない恋
「千秋ちゃん、みっけ」
来た。
千秋は舌打ちしたい気持ちを抑えながら、声を掛けてきた少年の方をなるべく見ずに、素早く上履きから靴へ履き替えた。
「待ってたんだよ。一緒に帰ろ」
「……毎日毎日、待ち伏せするのやめてくれる」
苦々しく吐き捨てると、明るい茶色の髪をした少年は、にっこりと笑った。
「やだよ。オレ、千秋ちゃんが好きなんだもん」
千秋の隣のクラスの、浅川直樹という少年は、ここ三ヶ月ほどずっと千秋をつけ回していた。
きっかけは些細なことだ。
高校に入学してから一ヶ月も経ったある日、教室で友達と談笑していた千秋の元へ、自分の教室でないにも関わらず、ずかずかと直樹が踏み入ってきた。
そして目を輝かせて言ったのだった。
『君の笑顔に惚れた!』──────と。
見ず知らずの少年にいきなりそんなことを言われ、当然千秋は気味悪がった。
しかし直樹は、千秋が引き気味なのにも構わず、その日から嵐のようなアプローチを始めた。
千秋が数学の教科書を忘れれば、どこから聞きつけたのか「教科書忘れちゃったの?オレの貸してあげるよ☆」と爽やかな笑顔でやって来たり。(ちなみにその後、直樹と同じクラスの友達に、その日は数学の授業はなかったと聞かされてぞっとした)
昼休みになれば、当然のように弁当を提げてこっちのクラスへ来て、「へー!千秋ちゃんの弁当かわいいね」と勝手に一緒に昼食を摂ったり。
放課後になれば──────今日のように下駄箱で待ち伏せして、「一緒に帰ろ」と誘ってくるのだ。
こんな猛攻を受け始めた最初の頃こそ、「気持ち悪いのよ!」「しつこいってば!」「いい加減にしなさいよ!」と、いちいち喚いたものだが、
「だって、好きなんだもん」
あの、けろっとした笑顔でさらりと言われると、気の強いはずの千秋が、それ以上何も言い返せなくなるのだった。
そして、今では。
「ねぇねぇねぇねぇ千秋ちゃんてば~」
「うるっさいわね……!黙るってことが出来ないの?」
「だってせっかく一緒に帰ってるのに。ずっとだんまりなんてもったいないだろ?」
「あたしは、一緒に帰ってる気はないんだけど」
「え?でもほら、こうして肩を並べて夕暮れの道を一緒に歩いてるじゃない♪」
「あんたが勝手に着いて来てるだけでしょ!おかげで色んな人にあたしがあんたと付き合ってると勘違いされて、気を遣ってるのかなんなのか知らないけど、帰りなんて誰からも誘われなくなったし!」
「千秋ちゃん……いい友達が多いんだね☆」
「黙って、変態ストーカー」
「ストーカー?やだな、オレ全然ストーカーなんかじゃないって」
「ストーカー。ある相手に対して一方的な恋愛感情や関心を抱き、相手を執拗につけ回して迷惑や被害を与える人。正にあんたのことじゃない」
「そんな、わざわざ携帯の辞書で調べなくても……」
「ちょっ、近寄らないで!」
「人を汚い病原菌みたいに扱うなよ」
「あたしにとってはそうなの!」
「/(^o^)\」
今ではもう、一緒に帰ることが、千秋にとっても『当たり前』になりつつあった。
もちろん、学校の廊下でバッタリ会ってしまったり、声を掛けられたりすれば、「げっ」とは、思う。
でも、最初の頃に感じていた、ひどい鬱陶しさと苛立ちは、直樹の飄々とした態度に、次第に溶かされていったようだった。
今では、軽口の応酬を楽しいとさえ感じ始めている自分がいる。
毒されてきたのだろうか?
慣れてきたのだろうか?
それとも、三ヶ月も一緒にいて、毎日好きだ好きだと言われ続けていれば、それが普通なのだろうか?
──────なんにせよ、自分でも認めがたい感情だった。
いつも別れる交差点で、「じゃあね」と素っ気なく言って背を向けると、不意にぽつりと直樹が呟いた。
「千秋ちゃん、最近あんま笑わないね」
「…………は?」
突然そんなことを言われて、思わず振り向いてしまう。
直樹は普段と変わらない笑顔だったが、千秋を見つめるその目に、いつもとは違う色を浮かべていた。
年上が子供を微笑ましく見守るような目に、千秋は落ち着かなさを覚える。
「……何?どういうこと?」
「ん?そのまんまの意味。オレ、千秋ちゃんにはもっと笑ってほしいなって」
「いつもあんたが怒らせてんでしょ!」
「そうなの?」
「そうよ!」
意外そうに目を見張る直樹に怒鳴ってやると、彼は「ん~」と間延びした声を上げた。
そして、
「オレが初めて千秋ちゃんを見た時、千秋ちゃん、すごく楽しそうに笑ってた」
と、何やら語り出す。
「急になんの話よ……」
「オレたちの出会いの話。オレ、千秋ちゃんの笑ってる顔見て、あーかわいいなーと思って、好きになったんだ」
「だから、何」
「だから、もっと笑ってほしい。千秋ちゃん、オレといる時、いっつも怒った顔か疲れた顔しかしてないから」
「……」
だから、あんたがそうさせてるんでしょ。
そう言おうとして、やめた。
直樹の前で笑わないのは、事実だ。
だって、そりゃそうでしょ。
こいつは迷惑なストーカーなんだから、へらへら馴れ合うつもりはない。
でも。
近頃どうにも、直樹との不毛なやりとりを楽しんでしまうのだ。
自分の言葉一つで、嬉しそうに笑ったり、大げさに嘆いたり、それでも仕舞いには笑いかけてくる直樹を見て、頬が緩みそうになるのだ。
そのたびに、いつも慌てて顔を引き締める。
別に笑ったっていいじゃない、と自分でも思うが、直樹に対して頑なな態度をここまで続けてしまった手前、無防備に笑顔を見せることを恥ずかしく感じるようになってしまった。
……あんたのせいよ。
心の中で、ぼそりと呟く。
しかめっ面で黙りこくる千秋を見かねてか、直樹はまた、いつものように憎めない顔で笑った。
「ま、怒った顔もかわいいけどね☆」
「……ほんとにあんたって、ムカつく奴ね……。あんたがそんなだから、あたしは────……」
「あ、そうだ」
「って、聞いてんのっ!?」
思わず本心をぶつけそうになったところで、直樹がポンと手を打った。
歯噛みする千秋の前で、直樹は何やらスクールバッグの中を探り始める。
「今度は何よ……」
「そそそ、思い出した。千秋ちゃんに笑ってもらおうと思って、ひそかに用意してた……、そう、これこれ」
直樹が、四角い箱を取り出した。手のひらに載せてちょうどいい大きさのそれは、薄いピンクの包装紙に、白のリボンでかわいらしく飾られている。
「……何、それ」
「開けてごらん。プレゼントフォーユー」
基本的に、直樹のすることなすことにはいつも冷淡な対応をしている千秋だ。だからこの時も「いらない」と無碍に突っぱねようかと思った、が。
初めて贈られるプレゼントの中身が気になったからなのか、それとも直樹の眼差しが、普段と異なる雰囲気を漂わせていたからなのか、理由は判然としないまま、気がついたら箱を受け取っていた。
直樹の笑顔に促されて、上品な白いリボンを解いて、包装紙を留めるテープをはがす。
中から現れたのは、透明なケースに入った、瑠璃色のガラス瓶──────最近話題になっている、新作の香水だった。
思わず、上擦った声を上げる。
「これ……!」
あたしが、前から欲しかったやつ。
そう続きそうになった言葉を、慌てて飲み込んだ。例によって、緩みかけた口元を急いで引き結ぶ。
「どう?嬉しい?千秋ちゃん」
むしろ、嬉しそうなのは直樹の方だった。包装紙を開けた時、一瞬だけ千秋の瞳が輝いたのを、見逃さなかったのだろう。
直樹はたまにこうして、らしくないことをしてきたりする。いわゆる、『優しい』面を覗かせたりするのだ。
千秋の荷物が多い時、さりげなく持ってくれたり。
道を歩く時は、自ら車道側を歩いてくれたり。
たぶん、そういった面も持ち合わせているから、千秋は彼を憎めないのだと思う。
直樹にそれ以上嬉しさを悟られまいと、必死にむすっとした表情を作って千秋は尋ねた。
「……あんた、なんで、これ」
「欲しがってたことを知ってるのかって?そりゃ、オレは千秋ちゃんのことが好きだからね」
「またそんなこと言って……っ。な、なんで知ってんの?あたし、誰にも言ってないはずなのに」
視線をうろうろとさまよわせながらつっけんどんに訊くと、直樹はいつもの調子でさらりと答えた。
「千秋ちゃん、帰り道にオレと別れた後、いっつも香水ショップに寄ってはずーーっとこれを見てたからさ。欲しいのかなーって思って、買ったんだ」
………………。
そう、確かに毎日のように、千秋は香水ショップに足繁く通っていた。
先日発売したばかりの、綺麗な瑠璃色のボトルの香水。
値が張るので、なかなか手が出せなくて、羨んで眺めているだけだった。
千秋の欲しかったそれは、確かに、今直樹が贈ってくれたこの香水だけれども────……。
「あたし……、いつも、一人で行ってたんだけど?」
「?うん」
「なんであんた、あたしがショップに寄ってたことまで……」
「そりゃあ」
一呼吸置いて、直樹が続けた。
「バイバイした後もやっぱり気になっちゃって、千秋ちゃんの後を追ってったからね☆」
………………。
ああ。
やっぱりこいつ。
「変態ストーカーー!!あんた、ほんっっとに、筋金入りのストーカーね!!」
「へ?何?なんで?」
「ずっと後つけて来てたなんて知らなかったんだけど!せめて声掛けてよ!」
「や、だって千秋ちゃん、オレが声掛けるといつも嫌そうな顔するからさ」
「だからって……っ!」
なんだか気が抜けて、それ以上言葉が出ない。
ちょっと優しいところもあるのだと思ったら、すぐにこれだ。
「あーもー気持ち悪い!とっとと帰って!そして後をつけて来ないで!真っ直ぐ帰って!」
「千秋ちゃん、嬉しくなかった?」
やけに哀しげな目で見つめられて、また言葉に詰まる。
そんな、捨てられた子犬のような顔をされると、弱ってしまう。
嬉しくなくは、ない。だってずっと欲しかった香水だし。自腹じゃないし。
「と、とにかく、黙ってストーキングしないでって言ってるの!大体あんたはいつも────……!」
「あ、メールだ」
「だから、聞いてんのっ!?」
騒ぐ千秋をよそに、直樹は夕日に黒光りする携帯を取り出して、メールを確認する。
「友人①からだ」
「誰よ友人①って……」
「今から遊ぼうだって」
「よかったじゃない。ほら、さっさと行きなさい。一刻も早く!」
「ちぇー」
直樹は子供のように唇を尖らせると、千秋に背中を押されるまま、来た道へと踵を返す。
「千秋ちゃん」
「何よ」
「その香水、よければ使って。まぁ、気持ち悪いんなら使わなくてもオッケーだけどさ」
そんなことを、いつもの笑顔で言う。
あれだけ罵倒されても、直樹はめげる様子は一切見せない。嫌われるということが怖くないのだろうか?ここまで図太いと、いっそ感心してしまう。
「じゃあ、また明日ね~」
笑って手を振る直樹を、千秋はむっつりした顔のまま見送った。
無意識に握りしめた右の手には、冷たいガラスのボトルがある。
使うわけ、ないでしょ。バカじゃないの。
優しいんだか変態なんだか、わからない。
直樹に関わると、いつもこうだ。振り回されて、疲れる。つけ回されて、ずっと傍でうるさくされて、迷惑極まりない。
「…………帰ろ」
香水を、鞄の中に入れた。別に直樹に気を遣ったわけではないが、ガラスを傷つけないように、慎重に。
家に帰った千秋は、欲しかったはずのその香水を、机の引き出しの奥に仕舞ってしまった。
いつかこれを使う日が来るのだろうか、とふと考えては、それを打ち消すように軽く頭を振った。
* * *
「……直樹の奴、高ぇ木から降りらんなくなったネコ助けようとしてさ……。それであいつ、枝から足滑らせて……首の骨、やっちまったっぽくて……」
翌日。
学校中を騒がせる、突然の直樹訃報の報せに、千秋も例に漏れず絶句した。
死亡当時、直樹が『友人①』と称していた男子生徒が、彼と一緒にいたらしい。
二人で道を歩いている最中、偶然直樹が木の上のネコを発見し、助けようとして……結果、自分の方が助けを必要とする立場になってしまった、ということらしかった。
死んだ、なんて。いきなりすぎて、意味がわからない。実感が湧かない。
しかも、理由が何?ネコを助けようとして?木から足を踏み外した?
正直に言う。瞬間的な感想としては、『ダッサ』、だった。
笑えるようで、笑えない。アホなのか、でもちゃんと考えることは考えているのか、それすらもよくわからない、直樹らしい死に方ではあるように思ったけれど。
* * *
昨日、直樹と二人で帰った夕焼けの道を、今日、一人で歩いていることに、違和感を覚える。
昨日だけじゃないんだ、二人で帰るなんてこと。一方的に直樹に惚れられてから、三ヶ月。ほぼ毎日、一緒に昼食を摂ったり、一緒に下校したりしてた。
もう二度とそんなことは出来ないんだと思うと、妙な気持ちになる。寂しいとか、哀しいとか、そういった感情より先に、虚無感がひどかった。
いつの間にか自分の中で、直樹の存在はそんなに大きくなっていたのだろうか。
「……ああ、もういいや。考えるの、よそ」
死んでからも調子が狂わされるなんて、腹が立つ。
……それでも、一人で黙々と歩いていると、やっぱり直樹のことが頭をちらつく。
こうなって、初めて考えた。
自分は、直樹のことをどう思っているんだろうって。
……いまさら考えたって、遅いけれど。
夜。自室の窓を開け放して、夜空を見上げてみる。
よく、死んだ人間は星になるというけれど、それが本当なら、あの星々の中に直樹もいるのだろうか。そして、今でも千秋を見つめているのだろうか。
「死んでからもストーカーなんて、最低……」
勝手な想像をして、一人悪態をつく。
好きではないと、思う。この三ヶ月で、もし彼を好きになっていたら、今、こんなに平静ではいられないだろう。
昨日仕舞ったばかりの香水を、取り出して眺めてみた。
月の光を浴びて、瑠璃色が冷たく煌めく。
あたしのことを好きだった、変態ストーカーがくれた、最初で最後のプレゼント。
笑顔に惚れたなんて、陳腐すぎる理由で言い寄ってきた、いつも飄々とした憎めない少年。
もっとたくさん時間を共有していたら、自分も彼を好きになっていただろうか。
今となってはもう、わからない。
彼との未来は、永遠に閉ざされてしまったのだから。
「…………」
死んだ時、何を思ったのかな。
死ぬってことが、理解出来たのかな。
……あたしのことを思い出したり、したのだろうか。
それも、今となっては確認しようがない。すべてが遅過ぎる。
香水を夜空に向けて、一回だけプッシュしてみた。
白い輝きが舞って、匂いが散る。
根拠は、ないのだけれど。
今日のこの夜空と、爽やかな、だけど甘い石鹸の香りと。
浅川直樹という名前の少年のことは、これから先一生覚えているだろうな、と思った。