0/侵蝕
陰たる象徴の明星たる月が遥か彼方の地平線に沈むように消え、今、陽たる象徴の明星こと太陽がその姿を顕現し、世界を眩く照らして生きとし生けるもの全てに希望と活気を与えんとするであろうこの時刻、それとは裏切る形で天をも覆い隠す乳白色の濃霧がこれより戦が起きんとしている平原を多い尽くし、視界を大きく阻めている。
平原に於いて行われる戦──野戦は主に騎兵隊の十八番とされている。が、こうも視界が悪ければ前進もままならず、伏兵による攻撃──主に奇襲に遭遇しやすい為、危険とされているが味方にすればこれ程心強い天候は無い。
ただし目くらましにもなる反面、位置の特定も困難な以上下手に進軍すれば敵陣の真ん中で孤立する可能性も有り得るのが難点か。
天候は敵にもなり味方にもなる。──しかしその考えは今回は悪い方向に働いたらしく、靄の遥か遠く向こうで多くの喚声と金属同士がぶつかり合う音が重奏に響く。
「閣下……」
「うむ、不味いかもしれぬ」
多くの天幕とかがり火が点在し、いかつい格好をした年若い男達が周囲を見渡す中、その中に混じって不安げな声を漏らすのは鈍色の光沢を放つ鎧と兜を身に着けた男と、閣下と呼ばれて彼に同意したのはこれもまた同じ光沢と作りの鎧と、周囲にいる男たちと一見異なる黒い羽根つきの兜を被る老齢の男。
「あの向こうにはサルヴォールが率いる軍勢がいた筈だが?」
「左様です。恐らく……、霧に乗じた敵に襲撃されたものかと」
この時刻この霧に乗じての奇襲だと人の多くは眠りから覚めて活動を開始していてもおかしくなく、更に馬の蹄の音と嘶き、そして数が多すぎると活動し出した兵らに即座に奇襲だと気付かれ易い。
しかし今挙げたサルヴォールなる者の軍勢を襲ったとされる敵と、その人物がいるらしき方角からは馬の嘶きや蹄のも聞こえもしないので、兵科構成は主に歩兵を筆頭に数をなるべく抑えた編成と思われる……、と老齢の男は分析する。
この平原は普段なら霧が発生するなんて事は殆ど皆無で、平時には交易路の役割を果たして多くの商人や旅人達の通り道とされる。しかし近年各地にて現在平原を覆っているような謎の霧が至る場所に発生して、多くの問題を起こしている。
無論この平原もその例外に漏れず、現在では霧の中の移動は危険を伴うので交通が規制されている場所でもある。
霧の発生原因は明確にされていない。霧とは彼らの天啓に於ける自然現象かと当初は思われていたが、その頻度は現在では毎日の如く発生している有様で、その発生率に考えるまでもなく異常過ぎると各国は調査に乗り出すも未だに発生原因は特定されておらず、近年では何かの不吉な前触れの兆候かと民衆は忌避している。
お陰で多くの国と、老齢の男のような諸侯……貴族は悩んだ。
何せ霧の影響で交易やその不足に於ける物流が途絶えがちで、流通する物資の数も消費を抑える為規制しているが、民の声は一刻と不満を募らせるばかりで解消には至らず、それどころか霧の所為で国益や日用生活品や食料の物流がままならず、税収はおろか立場が危うくなりつつある者達が増えつつある一方だ。
立場を危惧する、それ等の貴族は大抵が過剰な税金によって私腹を肥やす者がもっぱらだがそれに併せて最悪なのが霧に便乗して盗賊の輩が出没し出した事だ。
民は霧が出たら盗賊にも怯えざるを得ない日常を送っている現状に、貴族達は大いに頭を抱えた。盗賊は過去から何度も存在していたのでさほど珍しくない。
むしろ下賤の輩の集団であれど彼らみたいなのがいるお陰で、官憲や軍というものが存在出来る。
しかし問題なのがその数が非常に多すぎる事だ。近年では小規模の盗賊同士が結託して大規模に村を襲撃して略奪するなんてのが日常茶飯事、どこの国もその盗賊達の撃退に当然軍を出撃させはするがいかんせん霧の中の行軍なので視界も悪いのも作用して上手く進めず、到着した後は既に殺戮と略奪が終わり過ぎ去った後なんて報告がざら。
そんな感じで軍は規律も練度も劣る盗賊達に舐められ、果てには盗賊達はあろう事か軍の輸送部隊も襲う事も目立つようになった。それも霧が発生している最中で、だ。
恐らくだがサルヴォールと呼ばれる人物が率いる軍勢を現在襲っているのも、それと同じような計画に基づいての奇襲かもしれない。
しかしそれは霧があっての前提の作戦だ。それさえ無ければ今頃敵は撃退されてはいるが、どうにもサルヴォールとその軍勢は霧の所為で予想外にてこずっている様だ。
「上手いな、霧に乗じての奇襲とは」
「しかし数を押さえての陣への攻撃となると、多勢に無勢です」
それもそうだな、と黒羽根付きの兜の男が隣の男に同意する。サルヴォールの軍勢は今男が率いている850人の兵士よりも多い、1300人と聞き及んでいる。
もし実際に数を控えての急襲だとしたら、敵がサルヴォールの軍勢に殲滅されるのも時間の問題。なので敵が直接サルヴォールの軍勢を叩くとは思えず、何かを謀ろうとする前触れではないだろうか……と、中年の男は考える。
「メイソン、お主はこの奇襲どう思う」
中年の男にメイソンと呼ばれた隣にいる年若い男は言葉を聞いて、瞼を伏せて考えに耽る。
「……陽動、食糧の焼き討ち、騒ぎを敢えて起こして貴族を主とした武官の殺害……、と言ったところかと」
言うなれば決死隊。それが他の軍勢にも敢行される可能性は高い。何せ今はまだ霧が出ている手前、天候を味方にしての陣地への奇襲程危険なものはない。
「うむ。なれば我らの陣も引き続き警戒するべきだな」
「サルヴォール様をお助けしないので?」
「心配は無用だろう。サルヴォールとて愚将ではなかろうて」
老齢の男は顎に蓄えたヒゲを撫でる。
──ここで大きく尺を取らせて解説させて貰おう。
サルヴォールなる名の将軍、本名をサルヴォール・ムルジュラ・メレンスティレードと名乗り、4代続く貴族のメレンスティレード家の嫡男であり現当主とされている。
サルヴォールは知を他の文官に押し付けて逃れようとする癖はあるが、酒や詩も好む他に武芸を非常に嗜み、齢38にして多くの戦いにも参戦し、その都度名を馳せている。しかしながら未だ嫁を迎えておらず、武勇を耳にして言い寄る令嬢や他の貴族が設けた見合いをことごとく断っているとされている。
もし、このまま嫁を娶らず戦地で亡くなるなんて事になれば跡取りはどうなるやとメレンスティレードの一族に仕える者等は不安げに囁くが、先日サルヴォールがそれを呟き続ける連中を見かねて遂に後継者問題について言及したとの噂。
メイソン……また、老齢の男はサルヴォールとの面識は数少ない。しかしその手の話というものはどこからか必ず溢れ出る。
そのメレンスティレード家の後継者問題もその例外でもない。
巷に溢れ出た話によればサルヴォールの話では自身は嫁を娶らず、彼の弟アレスト・メレンスティレードと、その子である長男フルト・ムルジュラ・メレンスティレードに家督を譲るとの噂でもっぱら持ち切りだ。
もしこれが事実ならメレンスティレード家の血筋は絶えないが、一個人のサルヴォール自身の血は途絶える事となる。故に、サルヴォールは何故誰も迎い入れないのだろうかと、誰もがあらぬ想像を掻き立てる。それは叶わぬ相手、それか男色の気、果ては東の地に住まうとされる異教徒、……という想像が嫌でも耳に出来る。
これらの囁きはサルヴォールの怒りを買うだろうとされていた。しかしサルヴォールはその噂を否定するどころかひたすら沈黙を貫き、噂に更に拍車を掛けさせた。
結果、そのお陰で伝播しつつある噂に何も反応を示さず、あらぬ誤解を受けつつもひたすら戦場にて武器を振るうサルヴォール。
そんな彼の真意が全く読めない……と、多くの貴族は口にする。しかし黒羽根付き兜を被る老齢の男……モルズ・ムルジュラ・ガーランドはサルヴォール・ムルジュラ・メレンスティレードという男を単に、「あれは稀に見る、色を好まないだけの生粋の武人」と分析する。
理由はサルヴォールが書いたとされている詩には色恋沙汰が全く見受けず、ひたすら戦場への思いを馳せた詩ばかりとの事だ。サルヴォールは平時、領土の治世の執務は面倒そうにこなし、手が空くと武芸の修練の傍ら詩をひたすら綴るとされ、その詩の多くは遥か太古の昔に起きた戦争や、モルズやサルヴォールがまだ生まれてもいない時代の戦争の叙情詩を書いているともっぱらだ。
それらを含めるとモルズは彼、サルヴォール・メレンスティレードを「戦いにしか恋をせず、詩で苦痛な平和を紛らわす男」──と評している。
ただしこれはあくまで仮想での評価だ。もし隠れて色を好んでいるしてもモルズにとっては無縁の話だし、1人の情婦にのみ愛情を注いでたとしても然程珍しくない。
「……閣下。霧が」
メイソンの言葉にモルズはいつの間にか項垂れていた頭を上げ、顔を前に向けると空と太陽が靄から徐々に姿を現し始めた。
ようやく待ち望んでいた太陽を拝めてて脳裏で、頃合いだろう、とモルズは判断を下す。
「……メイソン、総員戦闘準備だ」
「はっ!」
モルズの指示を受けるとメイソンは敬礼をした後、多くの天幕が整然と並ぶ陣内へと勇み足で走り去った。
そんなメイソンの去っていく後ろ姿を横目に、モルズは乳白色の霧と平原の緑黄色、それに反射され眩い陽光が混じった景色に向かって小さく呟く。
「さて、此度はどんな戦になるかな……」
◆
太陽の位置と平原の緑黄色に影と茜色に染めれれていることからして、時刻は夕の刻。
かつては緑豊かだった大地は腐臭とカラス……そしてその糧になる人間の死体が幾多にも路傍の石の如く転がっていた。
両軍に於ける平原の戦いは大した局面も迎えず、弓兵同士による牽制後、小さな小競り合いの後の敵側による大規模な衝突によって陣形は崩壊、一時は混戦に陥ったが、次第に押されつつあるのを判断するや敵は即座に撤退して戦いはあっけなく幕を下ろした。
その後戦勝側である国に仕えるモルズとその軍、同国の各々の貴族と軍勢は負傷者を回収し、同時に跡地に転がる死体漁りも終えて後は戦死者を回収する埋葬部隊の仕事を見届けた後、領土の帰途を辿るのみ。
死体漁りは戦利品を探すとよく言い換えられるが中身は全く一緒だ。何せ言葉を綺麗にしただけであって、結局は死した者から装備や金品を奪うのだから、食いっぱぐれた追い剥ぎとなんら変わらない。
教会の僧侶連中からしてみれば死体漁りは噴飯もので、死者への冒涜とされている。だが戦場とは命を賭した弱肉強食の対決場所、綺麗事だけでは生き残れはしない。
泥まみれになって、誰の者かも知らない血を浴びて、冷静に殺し尽くした奴だけが唯一生き残れ、死体漁りこそが生者であり勝者が握れる生きていることへの充足の権利でもある…………という、これこそが幼い頃今は亡き父と戦場で学んだ老齢の貴族、モルズ・ムルジュラ・ガーランドが戦場で掲げる唯一無二の信条。
それをモルズは言い寄ってくる僧にその考えを何度も叩きつけてやったが、教会の僧はひたすら戯言の如く「冒涜だ!」と何度も繰り返すので、彼にとっては厄介な……というよりは目障りな頭痛の種。
戦場にも行ったことも無い何を妄言抜かす、とモルズはその僧らと対峙する度虫唾が走った。俺達が泥と血に塗れている間、貴様らは権力で肥やして増やした金であつらえてた格好で祈ることと説法で悦に浸る癖に──と。
故にあまりに僧侶の連中がくどい時には、剣を抜いて斬ってやろうかという思いにも駆られることも暫し。だが流石にモルズ個人の感情に任せて僧を斬り伏せてしまうのは敵を増やすだけで、果てには弾劾されて家の財産を没収、名を貶めてしまうだけ。
だからモルズにとって死体漁りを否定する僧は、彼の心の中ではいつか斬ってやろうかという思いと、その僧等を「糞坊主」と呼称している。
──無論、口にはせず胸中に留めて。
「我らの犠牲は少なかったですね」
「だが死者が出たことには変わりない」
「も、申し訳ありません……」
「よい。彼らは見事健闘してくれた」
メイソンの言葉にモルズは憮然とした表情を向ける。それを見てメイソンは失言だったと気付き頭を垂れて謝るが、モルズは彼の肩に手を置いて許してやる。
今回の戦いに於いてモルズが率いる兵士は、850人から半分以下の410人弱に減った。死者は167名近く、負傷者はそれを上回る261名、行方不明者は12名との計算。
軽傷者ならともかく、怪我の酷い連中の大半は領地に辿り着く前に死んで、戦死者の数は後に増加する事だろう。だが自分が率いた兵達が小競り合いだけで済んで良かった──と、モルズは死傷者に不謹慎ながらも内心安堵する。太陽が大きく真上に到達した頃のあの時、敵と味方による重騎兵同士の大規模な衝突に巻き込まれていたら更に死傷者も増えたことだろうという可能性を考慮すれば、案外幸運だったとも言えるからだ。
その時モルズの軍は敵の大攻勢に巻き込まれなかったので、戦いが治まると同時に負傷者の回収に向かったが大攻勢が起きた場所での大半は死者ばかりで負傷者は4人中に1人生きてれば良い方という有様。
それでも仲間の軍の危機を察知したサルヴォール・ムルジュラ・メレンスティレードを代表とした貴族等が敵軍の側面を突いて奮戦したお蔭で何とか味方は持ちこたえ、敵に撤退を余儀なくさせたのは彼の功績と言っても過言でもない。
しかしサルヴォールは無茶をした。あの霧に乗じての奇襲で負傷した傷が悪化したのだ。
詳細は不明だが、今朝方のサルヴォールの陣目掛けての奇襲は彼を目的としたものらしく、部下が駆けつける直前に上手く辿りつけた1人の敵兵によって一太刀浴びせられたそうだ。
サルヴォールの傷は浅い────が、傷を負わせた刃に毒が塗布されていたらしく、陣で奇襲を受けたその際運悪く起床した直後で鎧を脱いでいた彼に、見事致命傷を与えてしまった。
毒付きの剣戟を浴びたサルヴォールは直後、高熱を発し、奇襲が治まるとその場にて倒れた。その後、軍医の診断では毒は骨には届いていないが、肉と血管を腐らせて死に至らしめる効果のある毒と判明した。
なればここで安静にしているのが常識なのだが、戦いには参戦せず臥せていろとの軍医の意見を無視してサルヴォールは戦いに赴き、そして負傷している身と思えぬ奮迅にて王国に勝利を手にした。
その後、大攻勢が終わり戦いが沈静化するのを見計らうかのように、サルヴォールは意識を失って倒れ伏せた。それも馬から落馬してなので、尚更危険な状態らしい。
なので多くの諸侯が自分の領地への帰還の準備をしている最中、唯一陣を畳んで行軍出来ず、予断を許せない状態──だそうだ。
「……サルヴォール様の事で?」
未だに微動たりともしないサルヴォールの陣に掲げられた紋章旗にモルズが目を向けていると、メイソンがおもむろに声を投げ掛ける。
「……最悪の場合を検討しておいた方がよさそうだ」
最悪の場合……、それは言わずもがなサルヴォール・ムルジュラ・メレンスティレードの死だ。もし彼が死ねばモルズとサルヴォールが仕えるムルジュラ王国は矛を欠くだろう。
圧倒的な打撃力を誇るサルヴォールを欠いては、今後の戦いは厳しくなる。それを周知の事実で敵国……リーゼンバイン王国は決死隊を編成してまでサルヴォールに殺害を敢行したのだ。
その結果、敵の決死隊は全滅。だが奴らの目論見は成功しており、後はサルヴォールが毒に冒されて死すのみ。
「…………」
モルズにとってもサルヴォールの生死は杞憂だ。だがそれよりもモルズは無性に女を抱きたくて仕方ない。理由は明白、人を斬り殺した興奮が未だ冷めない為だ。
当面は酒で紛らわせるが、街に着いた途端自分は女……情婦、いや娼婦? ……を漁りに出掛ける事だろう。
いっその事近隣の村で略奪するなりで適当な女を捕まえるという考えもよぎるが、モルズが仕えるムルジュラ国は略奪行為等を頑なに禁じている為そんな真似をしたら最悪首を跳ね飛ばされかねない。
「……帰るか」
ともあれ、はやる気持ちをなんとか押さえつつモルズはメイソンとその他の部下に手早く指示を与えた後、自分の領地へと帰る準備をした。
◆
陣を畳み、戦地となった平原から暫く行軍しているとやがて馬上のモルズの目に村が見えてきた。
遠目から窺えるあの村はムルジュ王国の領土に属し、名前──なんて挙げてたらキリが無く、あの村に一旦補給と称して立ち寄れば戦と聞いて最寄りの村に駆け付けた娼婦が滞在してるかもしれないとモルズは思いつつひらすら進んでいると、
「ガーランド閣下、村から火がっ!」
先頭を進む兵から驚愕の声が届く。言葉に呼応してモルズが再び村に目を向けると、村の中から炊事にしてはやけに黒い煙が幾つも上空に昇り、同時に、のどかな村には不似合いな大きな声が届く。
村民たちが先程の戦の勝利を祝う喚声とは違う。声は歓喜というより、もっとこう……
「……っ! 悲鳴かっ!!」
先程まで平原を駆け抜けた疲労が抜けないというのに、敗残兵による略奪か! ──と、モルズは内心舌打ちして自身が跨る愛馬の腹を蹴り、村へと駆ける。
「動ける者は我に続けっ!」
我先にと馬を操って駆け出すモルズの言葉に続き、無傷なのと軽傷の兵が十数名彼の後に続く。
追従する兵の中にはモルズ同様、馬を操る騎兵、剣以外に槍と斧等の武器を片手に軽装鎧に身を包んだ歩兵……と、兵種がまばらながらも続々と彼等はモルズの後を馬で、駆け足で追う。
誰よりも早く、そして馬に騎乗しているのも相乗してモルズは誰よりも早く村の入り口に辿り着く。
──途端、風に乗って濃厚な血の匂いと、家が焼ける匂いが彼の鼻を突く。
戦場を若い頃から知り、自身が切り伏せた相手等の血の匂いには嗅ぎ慣れているとはいえ、その濃度に流石にモルズも小さく呻きを漏らす。
「ぐお……」
平原で戦闘が始まる前に通り過ぎた村落独特ののどかな風景は一転し、家は紅蓮の炎に包まれ、その傍にはつい最近まで“人間”だった炭化した肉塊。
そして焦げていない多くの人間──衣類からして村民──の死体が幾多にも転がっていた。
「惨い……」
モルズの後に続いて村に駆け付けた兵士の一人が口を震わせ小さく呟く。それにはモルズも内心で同意せざるを得ない。
村民の死体は鋭利な刃物で絶命した痕跡が見当たらず、それとは違う荒々しい傷跡が幾つも窺える。というのも刃物で殺されれば大抵の死体はまあまあ綺麗のままだが、眼前に転がった死体の臓物までもが何せ石ころのように巻き散らかされてるのだからそれとは比較にならない位滅茶苦茶だ。
そしてどの死体にも身体の一部──主に腹部──が大きく欠損していること。仮にこの凄惨な光景を生んだのが敵国の敗残兵や、戦のどさくさに村を襲った盗賊共による殺戮だとすれば流石に度を越し過ぎている。
「──ッ! ──ッ!」
「どうどう……くそっ」
モルズが村に入った途端、普通の馬とは異なりあまり物怖じしない軍馬が嘶き、せわしなく動き回って落ち着かないのでその場で止むを得ず下馬。
左右前後に小さく動き、足踏みする軍馬から降りるとゆっくりと腰に吊るした剣を鞘から抜き、周囲を警戒する。
「あれは……?」
そして家の焼け焦げる匂いと、あちらこちらに横たわる死体の何とも形容しがたい血の匂いに顔を顰めつつモルズは家の燃える煙と混ざる何かを見つける。それは今朝方に戦場となった平原に立ち込めた──
「…………霧?」
軽装鎧に身を包み、頭を怪我しているというのに村まで駆け付けた兵士が槍の穂先を前方に構えつつ、唖然と呟く。
「馬鹿な、霧はとっくに晴れた筈だ」
「ええ閣下。ですが……」
黒煙に混じり、その煙の量もあって視界が利かないがその白乳色は間違いなく今朝見たのと同じ霧の類。今日の問題ともなっているであろう霧が何故また発生している? と、モルズの脳裏は疑問に占められる。
「ひっ!?」
霧と黒煙が突如吹き抜けた風に大きく靡き、それを見たモルズの兵達に動揺が走る。
「落ち着かんか、風が吹いただけだろうが」
血の匂いには驚きはしたものの、凄惨な光景とは裏腹に平静さを取り戻したモルズは物怖じせず兵達を諌める。とは言え先程まで聞こえていた悲鳴は何処へやら、村は火で燃えあがっている音を除けば殆ど静謐。その相乗作用によって更に不気味な空間を演出し、また戦終わりの直後で、兵士が怖じ気るのも当然か。
「──」
モルズの剣を掴む手の力が自然と強まり、その脳裏で先程の戦場の余韻が蘇る。戦場では負傷者は足蹴にされて絶命する者も然程珍しくない。戦が終わるまで、踏まれずに横たわって生きている方がよっぽど幸運。だが、この村には最早活気付いた命の息吹の声は一向に聞こえない。生きていたとしても恐らく横たわって絶命しているか、或いは火に焚かれて……。
「む……」
乳白色の霧は風に揺らぐ中、一瞬、それとは異なる揺らぎにモルズは眼を凝らすが景色は一向に変わらない。しかしほんの僅かな差分とはいえ、それとは正反対の黒い影が霧の中に浮かんできたではないか。
人──恐らく村民だろうか? それとも敵国の敗残兵か……。どちら側なのかさえ判然が難しいこの状況下、モルズは何者かと見極める為声を掛けようとしたところ、
「なっ──」
黒い影が突如として動き、俊敏な動きでモルズの身体に圧し掛かってきた。
目にも止まらぬ速さにモルズは一時反応が遅れ、気が付いた時には組み伏せられた後。肩を持ち上げ拘束を解こうとするが、頑として肩──否、それどころか身体が動かない。
「閣下!? か──ひっ!?」
槍を携え、傍に佇んでいた兵士の声が届く──が、それもすぐに小さな悲鳴によってかき消され、その後彼の声が届くことは無かった。というのもモルズと同様、霧から飛び出してきた何かしらの黒い影に押し倒されたからだ。
「お──」
自身の身にも何が起きたのか事態の把握に混乱しかねる最中、おい、と兵士に声を掛けようとしたものの、耳から届いたのは人とも似つかぬ獣の唸り声。
その声が届いた位置……頭上に視線を巡らせてみればそこに映し出された存在にモルズは驚愕し、目を大きく見開く。
双眸に反映される存在の姿は豚とも狼とも似つかない醜悪な相貌、一見すれば剥製をつぎはぎに付け足したかのような面持ちをした、無数のイボやら脂ぎった浅黒い肌。そして頭には不揃いな一対の小さな角を生やした──何者か。
「──っ! こ、この……っ!」
嫌でも臭う酸味がきつい脂ぎった体臭に面持ちを顰めつつも、異形の相貌にモルズの心は大きく掻き乱され、自身が現在対峙している危険に対処すべく必死に手に握った剣を振おうとする。
──が、その腕は視線に映る化け物によって力強く押さえ込まれ、どれだけもがいても一向に持ち上がらない。
「……っ! ……っ!」
「──っ?!」
化け物にもがいている最中、今や生気の欠片もない殺伐とした空間に悲鳴、そして獣にも似た雄叫びの喧騒に包まれモルズの鼓膜に響き渡る。
「■■■■──ッ!」
そして化け物が耳障りな雄叫びと共に口を開き、なんとも不揃いな歯を彼に見せつけたかと思えば、一瞬にしてモルズの視界は暗闇に包まれ、意識は次第に闇へと沈んでいった。
それが彼、モルズ・ムルジュラ・ガーランドが見た最後の光景だった──。
◆
かくして聖王歴253年。遠い遠い1つの大陸で、闇の浸食が始まったのだった。
誰も知らない土地で、誰も知らない崩壊が刻々と、淡々……と。




