躾けたわたくしを、妹だけが厭うておりました
リボンは、替えませぬ。
「結び直しますわ」
「はい」
ジュリアンは諦めた顔で立ち止まり、わたくしは弟の前に膝を折りました。
1度。2度。3度目で、ようやく角度が整う。
指の腹で、結び目の中央を、軽く押さえる。
布の張りが、わたくしの指に、戻ってまいります。
このリボンは、5年、同じものでございます。
縁が1箇所、わずかに毛羽立っております。最初の年、ジュリアンが何十回となく結び損ねた、その傷でございます。
「姉上」
「はい」
「もう、新しいものに替えてくださっても、よろしゅうございます」
「替えませぬ」
「なぜ、でございますか」
「説明はいたしませぬ」
ジュリアンは、それ以上は問わず、黙って、わたくしが結び終えるのを待ちました。
朝の支度には、譲ってよい部分と、譲ってはならぬ部分がございます。
靴の留め具の硬さは譲ってよい。
シュミーズの皺は譲ってよい。
けれど、襟元だけは、譲ってはならぬのでございます。
なぜそうなのかを、ジュリアンに説明したことはございません。
説明できぬことを、わたくしは、5年、説明せずに、躾けてまいりました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ジュリアンを送り出した後、わたくしは、自室に戻り、姿見の前に立って、自分の襟元のリボンを、結び直しました。
朝、1度結んだものを、もう1度、解いて、結び直す。
毎朝の習慣でございます。
最初の1回で結んだものでは、わたくしは、満足しないのでございます。
理由は、ございません。
最初の1回で結んだものを、そのまま身につけて1日を過ごすことが、なんとなく、わたくしには、できないのでございます。
2度目で、ようやく、よろしいのでございます。
どなたかに見られているわけでも、ございません。
誰にも見られていないところで、わたくしは、2度、自分のリボンを結ぶのでございます。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
朝食の卓で、わたくしの妹が、扇の陰から、わたくしを呼びました。
「鬼姉様」
クラリス・カーディフ。17。
わたくしの実妹で、わたくしを「鬼姉様」と呼ぶ、唯一の人間でございます。
家中の侍女も、家令も、馬丁も、誰一人として、わたくしをそうは呼びませぬ。
家中で唯一、その呼称を使うのが、わたくしと血の繋がった妹であるという事実は、考えてみれば、それなりに含みがございますの。
「クラリス。お匙はそちらではございませんわ」
「あら、申し訳ございません、鬼姉様」
「クラリス」
「はい、お姉様」
「お匙は、そちらではございませんわ」
「はい、お姉様」
クラリスは、扇を閉じ、お匙を持ち替えました。
彼女の手は、慣れた所作で、銀器を動かしました。
17になる前に、彼女は、もう、誰の助けも必要としない令嬢になっておられました。
ジュリアンは、黙って、パンを千切り、口に運びました。
彼の所作は、卓の上で、誰よりも整っておりました。
10歳の少年の所作が、17歳の妹の所作より整っているという事実を、家中の誰一人として、口に出しませぬ。
口に出しませぬ理由を、わたくしは、知っておりますの。
知っておりますが、それも、わたくしは、申し上げませぬ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
午後3時きっかりに、セオドア・グレイブニル様は、お越しになりました。
亡き父の代からの隣領のお方で、5年、年に4度から6度ほど、当家にお越しになります。
応接間の窓際の同じ椅子に座られ、書物をお持ちになることはございますが、開いておられるのを見たのは、片手で数えるほどでございます。
「カーディフ嬢」
「セオドア様」
「ジュリアン殿の支度は」
「自室で、本日の所作の最終確認をしております」
「あなたが付かれぬのか」
「本日くらい、自分で確認させてもよろしゅうございましょう」
セオドア様は、紅茶のカップを、ご自身の前に引き寄せられ、しばらく、何も仰いませんでした。
セオドア様の沈黙は、5年で覚えました。
何かを問おうとして、結局、問わずにお帰りになる方でございます。
本日も、そうでございましょう。
わたくしは、新しい紅茶を注ぎ、お受け皿の縁を、静かに整えました。
「カーディフ嬢」
「はい」
「ジュリアン殿の襟のものを、お替えになりませんね」
「替えませぬ」
「5年、同じものでございますね」
「左様でございます」
セオドア様は、ご自身の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えられました。
それから、その指を、ご自身の膝の上に、戻されました。
セオドア様の襟元の結び方は、わたくしが見るたびに、ほんの少しだけ、わたくしのものに、近づいてゆくのでございます。
それを、わたくしは、5年、見て見ぬふりをしておりました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
午後の家政の合間、わたくしは、ジュリアンの寝室の扉の前を、通り過ぎました。
扉は、閉まっておりました。
ジュリアンは、自室で、本日の舞踏会の所作の最終確認をしているはずでございます。
けれど、扉の向こうから、物音はいたしませんでした。
わたくしは、扉に、軽く、手を当てました。
手のひらに、扉の冷たさが、伝わりました。
──、もし、あの子が、今夜、どこかで、ふと、わたくしを、母上、と呼んでしまったとしたら。
それは、あの子を、貶めることに、なるのでございましょうか。
それとも──、わたくしは、それを、ずっと、待っていたのでございましょうか。
気づきますと、わたくしは、額を、扉に当てておりました。
冷たい木の表面に、額の皮膚が、そのまま、貼りつくようでございました。
しばらく、そうしておりました。
それから、額を、離しました。
額を当てた場所を、見ぬようにして、廊下を、来た方向に、戻りました。
戻る途中、自分の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えました。
20年、自分で結んできたものでございました。
このリボンは、誰にも、結ばせませぬ。
それだけは、変わらぬのでございます。
それだけは。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王城の大広間の入場の礼を、ジュリアンは、教えた通りに行いました。
右足を引き、上体を15度傾け、視線は相手の襟元の高さで止める。
手は腰の脇に添える。
3呼吸保ち、ゆっくりと戻す。
たった、それだけのことを、10歳の少年が、誰の補助もなく、行いました。
近くにおられた老貴族の何人かが、わずかに会話を中断されました。
「カーディフ家のご嫡男かな」
「お若いのに」
「あれは──、いえ、よろしい。何でもありませぬ」
最後の一言は、聞こえぬふりをいたしました。
クラリスが、わたくしの隣で、扇を1度開きました。
「お姉様。ジュリアンの礼、少し堅すぎませんこと」
わたくしは、何も申し上げませんでした。
ただ、扇の角度を、45度から、30度に直して差し上げました。
クラリスは、扇を閉じ、わたくしから2歩、距離を取りました。
その瞬間、楽団の音が、止まりました。
国王陛下のお出ましでございます。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
国王陛下は、新年の挨拶を簡潔にお済ませになり、それから、若い貴族たちにお声をかけて回られました。
陛下は、ジュリアンの前で、立ち止まられました。
「カーディフ家のご嫡男か」
「ジュリアン・カーディフでございます、陛下」
「礼を見せてもらおう」
ジュリアンは、礼をいたしました。
教えた通りの礼でございます。
15度の傾き、相手の襟元への視線、3呼吸の保持。
陛下は、礼を戻したジュリアンを、しばらく、見下ろされました。
それから、軽く、頷かれました。
たった、一度。
そして、お歩みを、再開されました。
宰相ヴァルムント侯爵閣下が、わたくしの傍らに、お立ちになりました。
「カーディフ嬢」
「閣下」
「貴女のお家のことは、何も、申し上げますまい」
「光栄でございます、閣下」
「申し上げぬのが、最も、貴女に対する礼でございますから」
宰相閣下は、それだけ仰せになり、深く礼をされ、お去りになりました。
ジュリアンは、わたくしの隣に、戻ってまいりました。
「姉上」
「はい」
「水を、お飲みになりますか」
「いえ、結構でございます」
「左様でございますか」
ジュリアンは、それ以上は問わず、わたくしの手を、握りました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
舞踏会が終わるまで、ジュリアンは、わたくしの手を、握ったままでございました。
10歳の少年の、まだ、少し汗ばんだ掌でございました。
帰路の馬車を待つ間、東翼の控えの間で、わたくしは、ジュリアンを長椅子に座らせ、自分は窓際に立っておりました。
雪が、降り始めておりました。
クラリスが、扉から入ってまいりました。
彼女は、わたくしから3歩離れたところで、立ち止まりました。
「お姉様」
「はい」
「先ほどの、陛下のお話は、何でございましたの」
「お話は、何も、ございませんでした」
「お姉様」
「お話は、何もございませんでした、クラリス」
「──、左様でございますか」
クラリスは、しばらく、わたくしを、見ておりました。
それから、扇の角を、ご自身の左手の甲に、押し当てられました。
押し当てたまま、口を、開かれました。
「お母様が、亡くなられた──」
そこまで言って、クラリスは、口を、閉じました。
扇の角を、ご自身の手の甲に、もう1度、押し当てられました。
今度は、皮膚が、わずかに、白くなるまで、強く。
「いえ。よろしゅうございますわ」
「クラリス、何を仰りたかったのですか」
「いえ。本当に、何でも、ございません」
クラリスの目には、涙は、ございませんでした。
涙は、扇の角を、手の甲に押し当てる、その所作で、堰き止められておりました。
「お姉様は、ジュリアンの方が──」
そこまで言って、また、口を閉じられました。
扇の角の、押しつけが、わずかに、強くなりました。
「いえ。失礼いたしました」
それから、クラリスは、ご自身の唇を、軽く、噛まれました。
噛んだまま、もう1度、口を、開かれました。
「お姉様の、あの方は──」
そこまで言って、扇を、ぱちん、と、閉じました。
「いえ。本当に、よろしゅうございますわ」
クラリスは、何も仰らずに、控えの間を、出て行かれました。
わたくしは、扉が閉まる音を、聞きました。
それから、紅茶の最後の一口を、口に含みました。
苦みが、舌の付け根に、長く、残りました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
入れ違いに、セオドア様が、扉の前に、立っておられました。
「セオドア様」
「お入りしてもよろしいか」
「どうぞ」
セオドア様は、控えの間に入り、わたくしから3歩離れたところで、足を止められました。
「カーディフ嬢」
「はい」
「5年、私は、応接間の窓際に、座らせていただきました」
「左様でございます」
「書物を、ほとんど、開きませんでした」
「存じております」
「私は、あなたが、ご家中の方々に、どう接しておられるかを、見ておりました」
「──、左様でございましたか」
「家令にお茶を勧めるときの礼の角度。馬丁にお声をかけるときの目線の高さ。料理番に献立の確認をされるときの声の調子。庭師の見習い小僧にお礼を仰るときの間合い。あなたは、家中の誰に対しても、所作を、一度たりとも、緩めなかった」
セオドア様は、ご自身の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えられました。
「私の襟は、5年前まで、自分では結べませんでした。あなたが、ジュリアン殿に教えておられた所作を、私は、宿に戻ってから、繰り返しました。3か月で、結べるようになりました」
「──」
「あなたは、私に、何も、教えてくださっておりません。私は、勝手に、5年、あなたから教わってまいりました」
セオドア様は、それから、しばらく、沈黙されました。
雪が、窓の外で、静かに降っておりました。
「セオドア様」
「はい」
「セオドア様は、5年、応接間の窓際で、ご自身の襟元のリボンを、何度も、結び直しておられました」
「──」
「最初の年は、10回ほど。2年目は、7回ほど。3年目は、4回ほど。4年目は、2回ほど」
「──、覚えておいでで」
「5年目の本日は、まだ、1度も、結び直しておられません」
セオドア様は、ご自身の襟元に、もう1度、人差し指を、添えられました。
それから、ご自身の指の動きを、ご覧になり、それから、その指を、膝の上に、戻されました。
「カーディフ嬢」
「はい」
「私は、5年、あなたから、教わってまいりました」
「左様でございます」
「あなたも、5年、私を、ご覧くださっておりました」
「左様でございます」
セオドア様は、ご自身の手を、ご自身の膝の上で、組み直されました。
しばらく、何も、仰いませんでした。
それから、組んでおられた手を、解かれ、片方の手を、わたくしの方へ、わずかに、差し出されました。
差し出された手は、何も、握ろうとはなさいませんでした。
ただ、差し出されたまま、空中に、留まっておりました。
「カーディフ嬢」
「はい」
「春に、伺います」
雪が、降り続けておりました。
セオドア様の差し出された手は、まだ、空中に、留まっておりました。
わたくしは、しばらく、その手を、見ておりました。
それから、自分の手を、その手に、軽く、重ねました。
何の意味もない、ただ手を重ねただけの動作でございました。
セオドア様は、わたくしの手の重みを、しばらく、ご自身の手で、感じておられました。
それから、何も、仰いませんでした。
何も仰らず、手を、握りもせず、引き寄せもせず、ただ、わたくしの手の重みを、ご自身の手で、感じ続けておられただけでございました。
──、可笑しゅうございました。
可笑しさが、喉の奥から、上がってまいりました。
笑おうと、いたしました。
久しぶりすぎて、唇が、上手く動きませなんだ。
息が、咳のように、口から漏れました。
それを、笑い、と、呼んでよろしいのか、わたくしには、分かりませんでした。
セオドア様は、わたくしの咳のような音を、お聞きになり、何も、なさいませんでした。
慰めも、肯定も、笑い返しも、なさいませんでした。
ただ、わたくしの手の重みを、ご自身の手で、感じ続けておられました。
それから、わたくしの手が、自分から離れるのを、お待ちになりました。
わたくしの手が、自分から離れたあと、セオドア様は、ご自身の手を、ゆっくりと、引き戻されました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
帰路の馬車の中で、ジュリアンが、わたくしの肩に、軽く頭を預けてきました。
「姉上」
「はい、ジュリアン」
「明日の朝も、襟を、結んでくださいますか」
「結びますわ」
「ありがとうございます」
「ジュリアン」
「はい」
「明日も、わたくしは、厳しゅうございますよ」
「──、はい、姉上」
それから、ジュリアンは、わたくしの肩に頬を寄せたまま、もう1度、小さく、申しました。
「姉上は、ずっと、厳しゅうございました」
そのまま、ジュリアンは、馬車の揺れの中で、眠ってしまわれました。
クラリスは、馬車の向かい側で、ずっと俯いておられました。
家までの道のりは、長うございました。
家に戻り、玄関で外套を脱いだとき、マルタが、わたくしを迎えに出てまいりました。
マルタは、何も、申しませんでした。
何も申さず、わたくしの肩から、外套を、静かに引き取り、廊下を、奥へ、戻ってゆきました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
わたくしは、自室に上がり、姿見の前に立ち、自分の襟元のリボンを、見ました。
朝、2度結んだリボンは、2度目のままの形で、まだ、わたくしの襟元に、ございました。
クラリスのその一言を、わたくしは、覚えております。
どの一言を、とは、申し上げませぬ。
ただ、覚えております。
わたくしは、自分の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬、添えました。
解こうと、いたしました。
途中で、止めました。
止めたまま、その指を、自分の頬に、当ててしまいました。
しばらく、そうしておりました。
それから、指を、頬から、離しました。
リボンは、解きませなんだ。
明朝、また、解いて、結び直すことになるのでございましょう。
それは、今日と、同じでございます。
明朝も、わたくしは、2度、結ぶのでございましょう。
それも、今日と、同じでございます。
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