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躾けたわたくしを、妹だけが厭うておりました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/23

 リボンは、替えませぬ。


「結び直しますわ」

「はい」


 ジュリアンは諦めた顔で立ち止まり、わたくしは弟の前に膝を折りました。


 1度。2度。3度目で、ようやく角度が整う。


 指の腹で、結び目の中央を、軽く押さえる。

 布の張りが、わたくしの指に、戻ってまいります。


 このリボンは、5年、同じものでございます。

 縁が1箇所、わずかに毛羽立っております。最初の年、ジュリアンが何十回となく結び損ねた、その傷でございます。


「姉上」

「はい」

「もう、新しいものに替えてくださっても、よろしゅうございます」

「替えませぬ」

「なぜ、でございますか」

「説明はいたしませぬ」


 ジュリアンは、それ以上は問わず、黙って、わたくしが結び終えるのを待ちました。


 朝の支度には、譲ってよい部分と、譲ってはならぬ部分がございます。


 靴の留め具の硬さは譲ってよい。

 シュミーズの皺は譲ってよい。

 けれど、襟元だけは、譲ってはならぬのでございます。


 なぜそうなのかを、ジュリアンに説明したことはございません。


 説明できぬことを、わたくしは、5年、説明せずに、躾けてまいりました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ジュリアンを送り出した後、わたくしは、自室に戻り、姿見の前に立って、自分の襟元のリボンを、結び直しました。


 朝、1度結んだものを、もう1度、解いて、結び直す。


 毎朝の習慣でございます。


 最初の1回で結んだものでは、わたくしは、満足しないのでございます。

 理由は、ございません。


 最初の1回で結んだものを、そのまま身につけて1日を過ごすことが、なんとなく、わたくしには、できないのでございます。


 2度目で、ようやく、よろしいのでございます。


 どなたかに見られているわけでも、ございません。

 誰にも見られていないところで、わたくしは、2度、自分のリボンを結ぶのでございます。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 朝食の卓で、わたくしの妹が、扇の陰から、わたくしを呼びました。


「鬼姉様」


 クラリス・カーディフ。17。

 わたくしの実妹で、わたくしを「鬼姉様」と呼ぶ、唯一の人間でございます。


 家中の侍女も、家令も、馬丁も、誰一人として、わたくしをそうは呼びませぬ。


 家中で唯一、その呼称を使うのが、わたくしと血の繋がった妹であるという事実は、考えてみれば、それなりに含みがございますの。


「クラリス。お匙はそちらではございませんわ」

「あら、申し訳ございません、鬼姉様」

「クラリス」

「はい、お姉様」

「お匙は、そちらではございませんわ」

「はい、お姉様」


 クラリスは、扇を閉じ、お匙を持ち替えました。

 彼女の手は、慣れた所作で、銀器を動かしました。


 17になる前に、彼女は、もう、誰の助けも必要としない令嬢になっておられました。


 ジュリアンは、黙って、パンを千切り、口に運びました。

 彼の所作は、卓の上で、誰よりも整っておりました。


 10歳の少年の所作が、17歳の妹の所作より整っているという事実を、家中の誰一人として、口に出しませぬ。


 口に出しませぬ理由を、わたくしは、知っておりますの。


 知っておりますが、それも、わたくしは、申し上げませぬ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 午後3時きっかりに、セオドア・グレイブニル様は、お越しになりました。


 亡き父の代からの隣領のお方で、5年、年に4度から6度ほど、当家にお越しになります。


 応接間の窓際の同じ椅子に座られ、書物をお持ちになることはございますが、開いておられるのを見たのは、片手で数えるほどでございます。


「カーディフ嬢」

「セオドア様」

「ジュリアン殿の支度は」

「自室で、本日の所作の最終確認をしております」

「あなたが付かれぬのか」

「本日くらい、自分で確認させてもよろしゅうございましょう」


 セオドア様は、紅茶のカップを、ご自身の前に引き寄せられ、しばらく、何も仰いませんでした。


 セオドア様の沈黙は、5年で覚えました。

 何かを問おうとして、結局、問わずにお帰りになる方でございます。


 本日も、そうでございましょう。


 わたくしは、新しい紅茶を注ぎ、お受け皿の縁を、静かに整えました。


「カーディフ嬢」

「はい」

「ジュリアン殿の襟のものを、お替えになりませんね」

「替えませぬ」

「5年、同じものでございますね」

「左様でございます」


 セオドア様は、ご自身の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えられました。

 それから、その指を、ご自身の膝の上に、戻されました。


 セオドア様の襟元の結び方は、わたくしが見るたびに、ほんの少しだけ、わたくしのものに、近づいてゆくのでございます。


 それを、わたくしは、5年、見て見ぬふりをしておりました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 午後の家政の合間、わたくしは、ジュリアンの寝室の扉の前を、通り過ぎました。


 扉は、閉まっておりました。


 ジュリアンは、自室で、本日の舞踏会の所作の最終確認をしているはずでございます。

 けれど、扉の向こうから、物音はいたしませんでした。


 わたくしは、扉に、軽く、手を当てました。


 手のひらに、扉の冷たさが、伝わりました。


 ──、もし、あの子が、今夜、どこかで、ふと、わたくしを、母上、と呼んでしまったとしたら。


 それは、あの子を、貶めることに、なるのでございましょうか。


 それとも──、わたくしは、それを、ずっと、待っていたのでございましょうか。


 気づきますと、わたくしは、額を、扉に当てておりました。


 冷たい木の表面に、額の皮膚が、そのまま、貼りつくようでございました。


 しばらく、そうしておりました。


 それから、額を、離しました。


 額を当てた場所を、見ぬようにして、廊下を、来た方向に、戻りました。


 戻る途中、自分の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えました。


 20年、自分で結んできたものでございました。


 このリボンは、誰にも、結ばせませぬ。


 それだけは、変わらぬのでございます。


 それだけは。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王城の大広間の入場の礼を、ジュリアンは、教えた通りに行いました。


 右足を引き、上体を15度傾け、視線は相手の襟元の高さで止める。

 手は腰の脇に添える。

 3呼吸保ち、ゆっくりと戻す。


 たった、それだけのことを、10歳の少年が、誰の補助もなく、行いました。


 近くにおられた老貴族の何人かが、わずかに会話を中断されました。


「カーディフ家のご嫡男かな」

「お若いのに」

「あれは──、いえ、よろしい。何でもありませぬ」


 最後の一言は、聞こえぬふりをいたしました。


 クラリスが、わたくしの隣で、扇を1度開きました。


「お姉様。ジュリアンの礼、少し堅すぎませんこと」


 わたくしは、何も申し上げませんでした。


 ただ、扇の角度を、45度から、30度に直して差し上げました。


 クラリスは、扇を閉じ、わたくしから2歩、距離を取りました。


 その瞬間、楽団の音が、止まりました。


 国王陛下のお出ましでございます。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 国王陛下は、新年の挨拶を簡潔にお済ませになり、それから、若い貴族たちにお声をかけて回られました。


 陛下は、ジュリアンの前で、立ち止まられました。


「カーディフ家のご嫡男か」

「ジュリアン・カーディフでございます、陛下」

「礼を見せてもらおう」


 ジュリアンは、礼をいたしました。


 教えた通りの礼でございます。

 15度の傾き、相手の襟元への視線、3呼吸の保持。


 陛下は、礼を戻したジュリアンを、しばらく、見下ろされました。


 それから、軽く、頷かれました。


 たった、一度。


 そして、お歩みを、再開されました。


 宰相ヴァルムント侯爵閣下が、わたくしの傍らに、お立ちになりました。


「カーディフ嬢」

「閣下」

「貴女のお家のことは、何も、申し上げますまい」

「光栄でございます、閣下」

「申し上げぬのが、最も、貴女に対する礼でございますから」


 宰相閣下は、それだけ仰せになり、深く礼をされ、お去りになりました。


 ジュリアンは、わたくしの隣に、戻ってまいりました。


「姉上」

「はい」

「水を、お飲みになりますか」

「いえ、結構でございます」

「左様でございますか」


 ジュリアンは、それ以上は問わず、わたくしの手を、握りました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 舞踏会が終わるまで、ジュリアンは、わたくしの手を、握ったままでございました。


 10歳の少年の、まだ、少し汗ばんだ掌でございました。


 帰路の馬車を待つ間、東翼の控えの間で、わたくしは、ジュリアンを長椅子に座らせ、自分は窓際に立っておりました。


 雪が、降り始めておりました。


 クラリスが、扉から入ってまいりました。


 彼女は、わたくしから3歩離れたところで、立ち止まりました。


「お姉様」

「はい」

「先ほどの、陛下のお話は、何でございましたの」

「お話は、何も、ございませんでした」

「お姉様」

「お話は、何もございませんでした、クラリス」

「──、左様でございますか」


 クラリスは、しばらく、わたくしを、見ておりました。


 それから、扇の角を、ご自身の左手の甲に、押し当てられました。


 押し当てたまま、口を、開かれました。


「お母様が、亡くなられた──」


 そこまで言って、クラリスは、口を、閉じました。


 扇の角を、ご自身の手の甲に、もう1度、押し当てられました。

 今度は、皮膚が、わずかに、白くなるまで、強く。


「いえ。よろしゅうございますわ」

「クラリス、何を仰りたかったのですか」

「いえ。本当に、何でも、ございません」


 クラリスの目には、涙は、ございませんでした。


 涙は、扇の角を、手の甲に押し当てる、その所作で、堰き止められておりました。


「お姉様は、ジュリアンの方が──」


 そこまで言って、また、口を閉じられました。


 扇の角の、押しつけが、わずかに、強くなりました。


「いえ。失礼いたしました」


 それから、クラリスは、ご自身の唇を、軽く、噛まれました。


 噛んだまま、もう1度、口を、開かれました。


「お姉様の、あの方は──」


 そこまで言って、扇を、ぱちん、と、閉じました。


「いえ。本当に、よろしゅうございますわ」


 クラリスは、何も仰らずに、控えの間を、出て行かれました。


 わたくしは、扉が閉まる音を、聞きました。


 それから、紅茶の最後の一口を、口に含みました。


 苦みが、舌の付け根に、長く、残りました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 入れ違いに、セオドア様が、扉の前に、立っておられました。


「セオドア様」

「お入りしてもよろしいか」

「どうぞ」


 セオドア様は、控えの間に入り、わたくしから3歩離れたところで、足を止められました。


「カーディフ嬢」

「はい」

「5年、私は、応接間の窓際に、座らせていただきました」

「左様でございます」

「書物を、ほとんど、開きませんでした」

「存じております」

「私は、あなたが、ご家中の方々に、どう接しておられるかを、見ておりました」

「──、左様でございましたか」

「家令にお茶を勧めるときの礼の角度。馬丁にお声をかけるときの目線の高さ。料理番に献立の確認をされるときの声の調子。庭師の見習い小僧にお礼を仰るときの間合い。あなたは、家中の誰に対しても、所作を、一度たりとも、緩めなかった」


 セオドア様は、ご自身の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬だけ、添えられました。


「私の襟は、5年前まで、自分では結べませんでした。あなたが、ジュリアン殿に教えておられた所作を、私は、宿に戻ってから、繰り返しました。3か月で、結べるようになりました」

「──」

「あなたは、私に、何も、教えてくださっておりません。私は、勝手に、5年、あなたから教わってまいりました」


 セオドア様は、それから、しばらく、沈黙されました。


 雪が、窓の外で、静かに降っておりました。


「セオドア様」

「はい」

「セオドア様は、5年、応接間の窓際で、ご自身の襟元のリボンを、何度も、結び直しておられました」

「──」

「最初の年は、10回ほど。2年目は、7回ほど。3年目は、4回ほど。4年目は、2回ほど」

「──、覚えておいでで」

「5年目の本日は、まだ、1度も、結び直しておられません」


 セオドア様は、ご自身の襟元に、もう1度、人差し指を、添えられました。

 それから、ご自身の指の動きを、ご覧になり、それから、その指を、膝の上に、戻されました。


「カーディフ嬢」

「はい」

「私は、5年、あなたから、教わってまいりました」

「左様でございます」

「あなたも、5年、私を、ご覧くださっておりました」

「左様でございます」


 セオドア様は、ご自身の手を、ご自身の膝の上で、組み直されました。


 しばらく、何も、仰いませんでした。


 それから、組んでおられた手を、解かれ、片方の手を、わたくしの方へ、わずかに、差し出されました。


 差し出された手は、何も、握ろうとはなさいませんでした。


 ただ、差し出されたまま、空中に、留まっておりました。


「カーディフ嬢」

「はい」

「春に、伺います」


 雪が、降り続けておりました。


 セオドア様の差し出された手は、まだ、空中に、留まっておりました。


 わたくしは、しばらく、その手を、見ておりました。


 それから、自分の手を、その手に、軽く、重ねました。


 何の意味もない、ただ手を重ねただけの動作でございました。


 セオドア様は、わたくしの手の重みを、しばらく、ご自身の手で、感じておられました。


 それから、何も、仰いませんでした。


 何も仰らず、手を、握りもせず、引き寄せもせず、ただ、わたくしの手の重みを、ご自身の手で、感じ続けておられただけでございました。


 ──、可笑しゅうございました。


 可笑しさが、喉の奥から、上がってまいりました。


 笑おうと、いたしました。


 久しぶりすぎて、唇が、上手く動きませなんだ。


 息が、咳のように、口から漏れました。


 それを、笑い、と、呼んでよろしいのか、わたくしには、分かりませんでした。


 セオドア様は、わたくしの咳のような音を、お聞きになり、何も、なさいませんでした。


 慰めも、肯定も、笑い返しも、なさいませんでした。


 ただ、わたくしの手の重みを、ご自身の手で、感じ続けておられました。


 それから、わたくしの手が、自分から離れるのを、お待ちになりました。


 わたくしの手が、自分から離れたあと、セオドア様は、ご自身の手を、ゆっくりと、引き戻されました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 帰路の馬車の中で、ジュリアンが、わたくしの肩に、軽く頭を預けてきました。


「姉上」

「はい、ジュリアン」

「明日の朝も、襟を、結んでくださいますか」

「結びますわ」

「ありがとうございます」

「ジュリアン」

「はい」

「明日も、わたくしは、厳しゅうございますよ」

「──、はい、姉上」


 それから、ジュリアンは、わたくしの肩に頬を寄せたまま、もう1度、小さく、申しました。


「姉上は、ずっと、厳しゅうございました」


 そのまま、ジュリアンは、馬車の揺れの中で、眠ってしまわれました。


 クラリスは、馬車の向かい側で、ずっと俯いておられました。


 家までの道のりは、長うございました。


 家に戻り、玄関で外套を脱いだとき、マルタが、わたくしを迎えに出てまいりました。


 マルタは、何も、申しませんでした。


 何も申さず、わたくしの肩から、外套を、静かに引き取り、廊下を、奥へ、戻ってゆきました。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 わたくしは、自室に上がり、姿見の前に立ち、自分の襟元のリボンを、見ました。


 朝、2度結んだリボンは、2度目のままの形で、まだ、わたくしの襟元に、ございました。


 クラリスのその一言を、わたくしは、覚えております。


 どの一言を、とは、申し上げませぬ。


 ただ、覚えております。


 わたくしは、自分の襟元に、人差し指を、ほんの一瞬、添えました。


 解こうと、いたしました。


 途中で、止めました。


 止めたまま、その指を、自分の頬に、当ててしまいました。


 しばらく、そうしておりました。


 それから、指を、頬から、離しました。


 リボンは、解きませなんだ。


 明朝、また、解いて、結び直すことになるのでございましょう。


 それは、今日と、同じでございます。


 明朝も、わたくしは、2度、結ぶのでございましょう。


 それも、今日と、同じでございます。


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