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混沌の科学  作者: 藤原時照


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9/13

ラブストーリーは突然に

「うそー、この川ってこんなにきれいだった?」

 山下さんは、口が開いたままになっている。

 彼女が見ているのは近くにある川。

 今日は四人で川の水質を確認しに来ていた。

 この川の上流には高い壁で覆われたヤードが乱立していて、以前はお世辞にもきれいとは言えない川だった。乱立するヤードの裏からは、かつては怪しげな排水ダクトが川に伸び、よくわからない何かを川に流していた。この川はそんな汚染された川だったはずだ。

 しかし、いま目の前にある川は、清流のように水が澄んでいる。水の中には魚が泳いでいるのが見えるし、周囲には多くの野鳥が見られる。たった一年間で川の生態系が回復しているようだ。

 あるいは、この川だけは、人のいない並行世界から来たのだろうか?

 そう思えるほど、その川の水は澄んでいた。

「あれ?そういえば、ここって護岸がないね」

 山下さんに言われて後藤はようやく気付いた。

 何かがおかしいとは感じていたが、深くは考えていなかった。

 土手を見ると、確かに以前とはまるで違っている。

 コンクリートで固められているはずの斜面が、現在は草で覆われている。

 割れ目から草が生えて、コンクリートが隠れているわけではない。

 コンクリートの被覆が跡形もなく消えているのだ。

「コンクリートがあった形跡は……ないね」

 後藤はガードレールを跨ぎ、土手を調べてそう確信した。

 並行世界がパッチワークのようにつなぎ合わされているのだろうか?

「あっ、カワセミ」

 北川さんの指さす方向を見ると、二羽のカワセミが並んでいた。

 オスのカワセミが咥えた魚をメスに渡そうとしている。

 カワセミの求愛給餌だ。

「わー、受け取った」

 北川さんは、カップル成立の瞬間を見てはしゃいでいる。

 後藤は現状を確認すべく周りを見回し、別の野鳥を見つけた。

「ヤマセミ……」

 カワセミはその辺の池にも住んでいるが、ヤマセミは清流を好む。

 このあたりに住んでいるはずがない。

――何が起きている?

 後藤は思いを巡らす。

 ふと気づくと世界はさらに変わっていた。

 ガードレールはなくなり、土手の緑が道路を侵食していた。

 アスファルトはなくなっている。

 あちこちに立っていた電柱や道路標識もなくなった。

 ほんの少し前まで道のあった場所は、獣道さえない草原が広がっている。

「マキちゃん、道路が消えてる……」

「何言ってるの、コウちゃん、……ってホントだ」

 道路沿いに立っていた建物は消え、新しく林ができていた。

 ヤードのあった方角を見ると、やはり森が広がっている。

 世界は人類の足跡を消し、再生をはじめているのだろうか。

 後藤には、そんな風に思えた。

「ねえねえ、あれってキツネ?」

 山下さんの指さす方向を見ると、確かにキツネがいた。

 林の中からこちらをうかがっている。

「世界が書き換えられていく」

 後藤の口からそんな言葉が漏れ出た。

「きれいな世界になるといいな」

 北川さんの口調は気楽なもの。この世界の変化を受け入れているように感じられる。

「そうよね。きれいに変わっていくか、私たちが見届けないと」

 山下さんが雄弁に語りだした。

「旅に出ようよ。ね、昭和のアナログな車なら動くんじゃない?」

 彼女の口調からは、少し前まであった不安な気持ちが感じられない。

 不安がなくなると同時に、持ち前の好奇心が解放されたのだろうか。

 そして――

「そのまえにー、結婚式しよう。二組で合同結婚式。この際パーッと、ね」

 山下さんの話の方向性が急に変わった。

 そのベクトルは後藤に向いているようだ。

 いま、この世界には四人しかいない。

 だから、後藤には北川さん以外に結婚相手となり得る人はない。

 それで後藤に行動を促しているのだ。

 山下さんは、自分たちだけが夫婦生活をはじめることに、ためらいがあるのだろう。

 彼女の言葉を受けて、北川さんは何か言いたげな表情で後藤を見ている。

――期待されている?

 確かにここにいるのは四人だけ。

 ひょっとしたら、どこに行ってもこの世界には人がいないのかもしれない。

 結婚するなら――

 後藤は目の前にいる北川さんを見た。

 後藤はこれまで結婚のことなど考えてはいなかった。

 考えないようにしていたと言ってもいい。

 後藤がそうしてきたのは、自分が結婚に向いていると思っていなかったからだ。

 家庭を持ったとしても、会社でのストレスを持ち帰ってしまう懸念がある。

 自分が原因で、自分の家族に嫌な思いをさせることなどあってはならない。

 だから、後藤は自分を戒めて、結婚は諦めていたのだ。

 これまでは――

 山下さんに言われ、後藤は、結婚を諦める理由がなくなっていることに気づいた。

 ここにはストレスの元凶たる会社も上司も存在しない。

 もうストレスを家庭に持ち込む心配などしなくていい。

 ならば――

 後藤は、これからの生き方について、いろいろなことを考えた。

 ここには後藤を縛るものはない。

 その点は良かったと言える。

 もう自分を殺して仕事をする必要はないのだから。

 そもそも、ここには貨幣経済など存在しないのだから、金を稼ぐ必要さえないのだ。

 おまけに、新たな希望もある。

 この一年は、独りで厳しかったが、これからは仲間がいる。

 役割を分担すれば、晴耕雨読というのんびりした生活も可能になるかもしれない。

 物資は――

 歩いて行ける範囲だけで大抵のものは揃う。

 街の人口分の物資を四人で使い切れるはずもないから、贅沢を言わなければ、当分生活に困ることはない。

 いや、やろうと思えば贅沢だってできる。

 高級ブティックや宝飾店の商品は、いまや事実上、すべてこの四人の物なのだ。

 年代物の高級酒だって自由にできる。

 成金のような暮らしだって可能だ。

 四人は現代科学と引き換えに、幸せに生きるチャンスをもらったのかもしれない。

 そんな考え方すらできる。

 だが、後藤は考える。

 ほんとうに必要なことは何か?

 縄文時代は一万年以上つづいたという。

 長くつづくということは、変える必要がなかったということだ。

 そういう時代の生活こそ、人として正しい在りようだったのでは?

 これから自分たちはそんな時代を目指すべきなのか?

 昔に立ち戻り、かつての価値観を見直す?

 昔の方が良かったというのなら、独身主義などは捨て去るべきものなのか?

 後藤の頭には、いろいろな考えが浮かんでは消えた。

 最近の後藤は、北川さんの気遣いをうれしく感じることが多かった。

 彼女にはちょっと空気の読めないところもあるが、それさえも意外性があって好ましい。

 そんな風にも思える。

 仮にほかの女性がいたとしても、北川さんほど自然体で付き合える人はいない。

 もしもここで北川さんに会えていなかったら――

 後藤は決心した。

「結婚してもらえますか?」

 自然と言葉が出た。

「はい、よろこんで」

 北川さんの笑顔が大きくなった。

 すると――

 周囲で拍手が沸き起こった。

 そこは社員食堂。

 周りには大勢の社員がいた。

 後藤たち四人は、いつのまにか会社の制服を着ていた。

 後藤の相棒の鋼管も消えている。

 世界がまた変わったのだ。

 後藤の頭の中には、子どもの頃に聞いた、懐かしいドラマの主題歌が流れていた。

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