ラブストーリーは突然に
「うそー、この川ってこんなにきれいだった?」
山下さんは、口が開いたままになっている。
彼女が見ているのは近くにある川。
今日は四人で川の水質を確認しに来ていた。
この川の上流には高い壁で覆われたヤードが乱立していて、以前はお世辞にもきれいとは言えない川だった。乱立するヤードの裏からは、かつては怪しげな排水ダクトが川に伸び、よくわからない何かを川に流していた。この川はそんな汚染された川だったはずだ。
しかし、いま目の前にある川は、清流のように水が澄んでいる。水の中には魚が泳いでいるのが見えるし、周囲には多くの野鳥が見られる。たった一年間で川の生態系が回復しているようだ。
あるいは、この川だけは、人のいない並行世界から来たのだろうか?
そう思えるほど、その川の水は澄んでいた。
「あれ?そういえば、ここって護岸がないね」
山下さんに言われて後藤はようやく気付いた。
何かがおかしいとは感じていたが、深くは考えていなかった。
土手を見ると、確かに以前とはまるで違っている。
コンクリートで固められているはずの斜面が、現在は草で覆われている。
割れ目から草が生えて、コンクリートが隠れているわけではない。
コンクリートの被覆が跡形もなく消えているのだ。
「コンクリートがあった形跡は……ないね」
後藤はガードレールを跨ぎ、土手を調べてそう確信した。
並行世界がパッチワークのようにつなぎ合わされているのだろうか?
「あっ、カワセミ」
北川さんの指さす方向を見ると、二羽のカワセミが並んでいた。
オスのカワセミが咥えた魚をメスに渡そうとしている。
カワセミの求愛給餌だ。
「わー、受け取った」
北川さんは、カップル成立の瞬間を見てはしゃいでいる。
後藤は現状を確認すべく周りを見回し、別の野鳥を見つけた。
「ヤマセミ……」
カワセミはその辺の池にも住んでいるが、ヤマセミは清流を好む。
このあたりに住んでいるはずがない。
――何が起きている?
後藤は思いを巡らす。
ふと気づくと世界はさらに変わっていた。
ガードレールはなくなり、土手の緑が道路を侵食していた。
アスファルトはなくなっている。
あちこちに立っていた電柱や道路標識もなくなった。
ほんの少し前まで道のあった場所は、獣道さえない草原が広がっている。
「マキちゃん、道路が消えてる……」
「何言ってるの、コウちゃん、……ってホントだ」
道路沿いに立っていた建物は消え、新しく林ができていた。
ヤードのあった方角を見ると、やはり森が広がっている。
世界は人類の足跡を消し、再生をはじめているのだろうか。
後藤には、そんな風に思えた。
「ねえねえ、あれってキツネ?」
山下さんの指さす方向を見ると、確かにキツネがいた。
林の中からこちらをうかがっている。
「世界が書き換えられていく」
後藤の口からそんな言葉が漏れ出た。
「きれいな世界になるといいな」
北川さんの口調は気楽なもの。この世界の変化を受け入れているように感じられる。
「そうよね。きれいに変わっていくか、私たちが見届けないと」
山下さんが雄弁に語りだした。
「旅に出ようよ。ね、昭和のアナログな車なら動くんじゃない?」
彼女の口調からは、少し前まであった不安な気持ちが感じられない。
不安がなくなると同時に、持ち前の好奇心が解放されたのだろうか。
そして――
「そのまえにー、結婚式しよう。二組で合同結婚式。この際パーッと、ね」
山下さんの話の方向性が急に変わった。
そのベクトルは後藤に向いているようだ。
いま、この世界には四人しかいない。
だから、後藤には北川さん以外に結婚相手となり得る人はない。
それで後藤に行動を促しているのだ。
山下さんは、自分たちだけが夫婦生活をはじめることに、ためらいがあるのだろう。
彼女の言葉を受けて、北川さんは何か言いたげな表情で後藤を見ている。
――期待されている?
確かにここにいるのは四人だけ。
ひょっとしたら、どこに行ってもこの世界には人がいないのかもしれない。
結婚するなら――
後藤は目の前にいる北川さんを見た。
後藤はこれまで結婚のことなど考えてはいなかった。
考えないようにしていたと言ってもいい。
後藤がそうしてきたのは、自分が結婚に向いていると思っていなかったからだ。
家庭を持ったとしても、会社でのストレスを持ち帰ってしまう懸念がある。
自分が原因で、自分の家族に嫌な思いをさせることなどあってはならない。
だから、後藤は自分を戒めて、結婚は諦めていたのだ。
これまでは――
山下さんに言われ、後藤は、結婚を諦める理由がなくなっていることに気づいた。
ここにはストレスの元凶たる会社も上司も存在しない。
もうストレスを家庭に持ち込む心配などしなくていい。
ならば――
後藤は、これからの生き方について、いろいろなことを考えた。
ここには後藤を縛るものはない。
その点は良かったと言える。
もう自分を殺して仕事をする必要はないのだから。
そもそも、ここには貨幣経済など存在しないのだから、金を稼ぐ必要さえないのだ。
おまけに、新たな希望もある。
この一年は、独りで厳しかったが、これからは仲間がいる。
役割を分担すれば、晴耕雨読というのんびりした生活も可能になるかもしれない。
物資は――
歩いて行ける範囲だけで大抵のものは揃う。
街の人口分の物資を四人で使い切れるはずもないから、贅沢を言わなければ、当分生活に困ることはない。
いや、やろうと思えば贅沢だってできる。
高級ブティックや宝飾店の商品は、いまや事実上、すべてこの四人の物なのだ。
年代物の高級酒だって自由にできる。
成金のような暮らしだって可能だ。
四人は現代科学と引き換えに、幸せに生きるチャンスをもらったのかもしれない。
そんな考え方すらできる。
だが、後藤は考える。
ほんとうに必要なことは何か?
縄文時代は一万年以上つづいたという。
長くつづくということは、変える必要がなかったということだ。
そういう時代の生活こそ、人として正しい在りようだったのでは?
これから自分たちはそんな時代を目指すべきなのか?
昔に立ち戻り、かつての価値観を見直す?
昔の方が良かったというのなら、独身主義などは捨て去るべきものなのか?
後藤の頭には、いろいろな考えが浮かんでは消えた。
最近の後藤は、北川さんの気遣いをうれしく感じることが多かった。
彼女にはちょっと空気の読めないところもあるが、それさえも意外性があって好ましい。
そんな風にも思える。
仮にほかの女性がいたとしても、北川さんほど自然体で付き合える人はいない。
もしもここで北川さんに会えていなかったら――
後藤は決心した。
「結婚してもらえますか?」
自然と言葉が出た。
「はい、よろこんで」
北川さんの笑顔が大きくなった。
すると――
周囲で拍手が沸き起こった。
そこは社員食堂。
周りには大勢の社員がいた。
後藤たち四人は、いつのまにか会社の制服を着ていた。
後藤の相棒の鋼管も消えている。
世界がまた変わったのだ。
後藤の頭の中には、子どもの頃に聞いた、懐かしいドラマの主題歌が流れていた。




