世界の崩壊
とある研究機関にて。
競合する研究機関の足踏み状態を好機と考え、彼らは無理をしてプロジェクトを進めることにした。彼らの量子コンピュータには並列化したPCが接続され、機能を分担させている。彼らは、そのPC上でAIを走らせて実験を任せた。AIには量子コンピュータシステムへのアクセス権を与え、それを最適化させると同時に問題点を洗い出せと命じた。重みやバイアスをはじめ、AIの諸設定を詰めないまま。
その後、その研究機関はAIもしくはAIに扮した何かに乗っ取られることとなった。職員たちのスマートフォンも乗っ取られ、乗っ取られる範囲が外部へと拡大していく。
その後のことはわからない。
後藤たちも影響を受けたから。
空が光ったと思ったら、電子機器が全滅していた。
その後、職場の人たちが消えはじめた。身体が透けて、ふぅっと消えてしまうのだ。その現象はあちこちで起き、不安からか、街の治安はあっという間に崩壊した。そして、暴力団、反グレ、外国人犯罪組織などが幅を利かせるようになる。たぶん、日本以外の国では、治安はもっと酷い状態になったはずだ。しかし、もう外国の情報を入手する方法はない。通信手段も移動手段も、すべてが機能しなくなったから。
その状態はしばらく続いた。
だが、気づくと犯罪組織の連中はいなくなっていた。
人々がいなくなる現象は拡大をつづけ、最後には誰もいなくなった。
後藤ひとりを残して。
だが、人はいなくなってもほかの生き物はいる。
カラスやハトがいる。
猫もいる。
たまにネズミも見かける。
そして、犬もいる。
そこから数週間――
飢えた犬は攻撃的。やたらと吠え掛かる。隙を見せれば襲われる。当初は小型犬もいたが、いま見かけるのは大きくて凶暴そうな奴らだけ。たぶん小型犬は喰われたのだろう。後藤は実際に喰われている現場も目にしている。この世界はそういう場所になってしまったのだ。
後藤は自衛のために鋼管を持ち歩くようになった。そして、ちょっとした行きがかりで、後藤はその鋼管でボス犬を殺すことになった。名前は知らないが、並みの猪より二回りは大きい暗い灰色の犬だった。そいつは間違いなく凶暴な犬種で、小型犬を襲って食べているのも見た。だから、普段は見つけたら距離をとって避けるようにしていた。
避けてはいたのだが――
後藤は猫派。
そのボス犬が猫と睨みあいをしているのを見かけたら、見て見ぬふりはできなかった。
後藤は犬の後ろからそぉーっと近づく。
犬の後ろには、どことなく人に似た睾丸がついていた。
それを目にしたら、もうそこを狙うしかない、と思ってしまった。
だから突いた。
だが、狙いは上にずれた。
はずれた鋼管は肛門を直撃する。
犬は声も出せず硬直。
そこに猫パンチ。
鼻先が切り裂かれる。
犬はギャンと鳴く。
猫はヒットアンドアウェイで走り去った。
あとは後藤のターンだ。
突く。
つづいて鋼管の右端で下から叩く。
左端で上から叩く。
さらに右、左。
最後は突き。
右端を脇に抱え込むようにして左端を突き出す。
棒はえぐるような軌道を描いて犬の首のあたりにめり込んだ。
すべては基礎の技。
後藤はかつての師、大橋崋山から学んだ棒術の基本通りに鋼管を振った。
気づくと犬は動かなくなっていた。
後藤はこのエリアの頂点に君臨していた犬を倒した。
それは後藤に変化をもたらした。
まるで街の支配者の座を手に入れたような気がしたのだ。
この街は後藤の物。
そう思ってしまった。
そのせいなのか、後藤は物資を漁るのを遠慮しなくなった。
最初の一週間は会社の非常用の備蓄だけで生活していた。だが、食糧が尽きると、きれいごとは言っていられなくなった。まずはコンビニで食料を漁った。武装も必要になり、ホームセンターも漁った。その時点では、まだある程度の自制心が残っていたから、持ち去るのは必要最小限にしていた。しかし、犬を殺したことで枷がはずれてしまった。
住処は会社に移した。
セキュリティを考えて。
会社はしっかりしたフェンスに囲われている。二か所のゲートを閉めれば野犬は入って来られない。建物のガラスも簡単に割れない網入りの強化ガラス。自分が出入りするドア以外を常に閉鎖しておけば、問題が生じたとしても簡単に籠城できる。その上、耕作だって可能だ。敷地内には野球部のグランドがある。全面土のグランドだ。土が固いから、耕すのは面倒ではあるが。
後藤が占拠しているのは三つある棟のうちの一号棟。ほかの二棟は電子ロック。電気が来ていない状態ではIDカードでの認証ができない。非常用の解放手段はあるはずだが、後藤はそれを知らない。だから電子ロックの棟は使えない。
一号棟は来客を考慮した設計で、セキュリティは警備員が担当する。電子ロックは使われていない。それが後藤を救うこととなった。
一号棟の一階は受付、応接室、会議室から成り、奥には総務課の居室がある。二階は食堂や医務室。そして、仮眠室か宿直室か知らないが、ベッドと布団のある部屋が五つあった。三階は営業の居室と倉庫になっている。
グランドでようやく作物が採れるようになったのは、それから五か月後。野菜はホームセンターにあった種を蒔いた。芋はスーパーに残っていたものを埋めてみた。市販のジャガイモには病気等のリスクがあると聞いた憶えがあるから、埋めたのはサツマイモとサトイモだ。その後、さらに環境を整え、畑は食べるに困らない程度には収穫できるようになっている。
後藤は何度もあきらめようと思った。
グランドの土は畑に向かず、いろいろな土や肥料を混ぜた。
土の質が一番の問題だったのだ。
芽が出た時には涙が出そうになった。
いまも畑は拡張中。
畑を拡げながら考えるのは、あの日、三好と話したこと。
超弦理論は十次元を示唆する。
その実験には光を使う。
ならば、既存の光学や電磁気学でも高次元の項を入れて考えるべきではないのか。
いままで無視できていただけで、本当は高次の項が存在しているとしたら?
これまで無視できていた項が急に効きはじめたら?
あるいは、我々が定数だと信じていたものが変数であったなら?
そうなったら、光学機器も電子機器も、あらゆる文明の利器が使い物にならなくなる。
間違いなく文明崩壊だ。
その兆しはずいぶん前からあったかもしれない。
現代科学というものは、実のところかなり怪しい。
昨今の研究現場では、多くの研究者は、シミュレーションと仮説の一致で正しさを示す。
だが、そのシミュレーションは無理やり合わせこんだもの。
補正のための変数や関数が含まれている。
合わせこんだ範囲をはずれれば、仮説と一致することはない。
実際に、実験とシミュレーションの乖離している分野は多い。
だからそれを捏造と言いきる人さえいるのだ。
これまで無視できていた項が急に効きはじめたら?
――いま、そのときが来ているのか?
後藤の頭にそんな考えが浮かぶ。
電子機器が使えない以上、現時点の物理現象がどうなっているか、知るすべはない。
だが、確かなことがある。
後藤がいまいるのは、間違いなく現代科学が崩壊した世界。
後藤はその真っただ中にいる。
たったひとりで。




