5話 最初の晩餐とワインの魔法
到着した日の晩餐は、まるでお通夜のような空気で始まった。
木製ではあるが、がっしりとした横長のテーブルに、きちんとアイロンのかけられたリネンのクロス。燭台の蝋燭の炎が、運ばれてきた料理を柔らかく照らしている。
が。
なんだか距離が遠くありませんか、シルヴァン様!?
暖炉の前のいわゆる上座にシルヴァンが座るのは、わかる。だけど、なぜ私がその真反対に座っているの?これじゃ遠すぎて、会話すらままならないじゃない。
重苦しい沈黙に包まれたまま、黙々と食事が進んでいく。
静寂に、カトラリーの音だけが響く。
(ううう…気まずい。気まずいけど、美味しい……)
そうなのだ。
実はこの晩餐で旦那様から領地のことを聞き出し、ワイン生産計画を立てようと目論んでいたのだけど、そんな計画がふっとぶくらいに、出された料理が美味しい!
一品目はきのこと野草のビネグレットソースがけだった。
野趣あふれる味わいだが、ソースの絶妙な酸味でギリギリの上品さを保っている。この野菜、なんだろう。前世はもちろんのこと、王都でも食べたことのない味だ。使われているお酢はワインビネガーで間違いないだろう。
そしてキノコの風味の良さったら!マッシュルームに似ているけど、もっとコクがある。うわーん、無限に食べたいよう。
アクセントに砕いたナッツがかけてあるのも素晴らしい。サラダの美味しさって、味や香りだけじゃなく歯応えも大事な要素なのだ、とは私の持論。
そしてお楽しみのワイン!
白ワインを、執事のクロードがソムリエよろしく注いでくれた。
グラスをそっとスワリングしてから、一口。
やや甘口で、分かりやすく飲みやすい味わいだ。
前菜との相性も「悪くはない」けれど、「これじゃなきゃダメ」という決め手には欠ける。
おそらく、チラリと見えたラベルや瓶の形からして、ボルデール産のワインなのだろう。
……だとすると、香りも味も少し物足りない気がする。
まあ、こういう当たり外れも含めてワインの楽しさよね。今は料理に集中、集中。
二品目に出てきたのは鳥レバーのパテ。
下処理が良いのだろう、レバーの臭みが一切ない。裏漉しも丁寧なので、舌触りが最高に滑らかだ。たっぷり使われたバターのコクを感じて一瞬カロリーが頭をよぎるが、すぐに忘れることにする。こんなに美味しいんだから興奮して実質カロリーゼロよ。
はい、そこ!
野暮なことは言わない!!
で、これを、酸味のある黒っぽい薄切りのパンにたっぷり塗って、ぱくり。
うわーーーー美味しいーーーーーー。
そこでワインを一口。
グラスは一度空になったが、先ほどと同じものが再び注がれていた。
うーーん。悪くはないけど、ここはやっぱり赤ワインが欲しいところ。
でもまだメインが待ってるものね。我慢、我慢。
それにしてもここの料理長、凄腕すぎない?一体何物なの?これは次の料理にも期待が膨らむわ。
……ん?
なんだかテーブルの端から視線を感じた気がしたけど……
もしかして食べ過ぎって思われてる!?
まあ、いっか。
そしていよいよ、メイン。
牛肉の赤ワイン煮込み、いわゆる「ブフ・ブルギニオン」がサーブされた。
そっとナイフを肉の塊に落とすと、一切の抵抗がない。なんという柔らかさ。何時間煮込んだのかしら。それとも特別な調理法?この世界って圧力鍋とかなかったよね?うわわ、気になる。
はやる気持ちを抑えて、肉片をそっと一口。
お、お、お、美味しすぎる…!!
美味しすぎて、全細胞が歓喜で震えている……! やばい、尊い……!
感動の冷めやらぬまま、ワインを一口……
……。
…………。
………………だめだ、もう我慢できない。
なんでずっと甘口の白しか出てこないのよーーーー!!!!!!!!!!!
心の中で絶叫しすぎて、危うく声に出たかと思ってしまった。あぶない、あぶない。
しかしここは酒好きワイン好きの名にかけて、このまま黙っている訳にはいかない。
私はゴトリとグラスを置いた。
「……舐めてるの?」
私の口から、低い声が漏れた。
「え?」とロゼットがパンを取り落とす。
私はあくまでも穏やかに、しかしたっぷりと抗議の意思をこめた声で言った。
「極上のブフ・ブルギニオンに、生ぬるい甘口の白ワイン? ……喧嘩を売っているのかしら、クロード?」
クロードは一瞬動きを止めてこちらを見たが、すぐに偽物の微笑みを浮かべた。
「おや?お口に合いませんでしたか?王都の貴族のご令嬢には、こちらの渋い地ワインではお気に召さないのではと思いまして。『わざわざ』飲みやすいものをご用意したのですが」
な、なんですって…!
どうせ味なんて分からないだろ、お子様舌めって顔で微笑むクロードに、思わず殺意が走った。いるんだよね、こういう勘違い男。女だと思うと好みも聞かずに「甘くて飲みやすい」をオススメしてくる奴。
むかつくー!!!
……はっ。いけない、つい荒れてしまいましたわ。
「まぁ!お気遣いありがとうございます」
私も負けじと微笑みを浮かべた。これは私からの宣戦布告の笑顔。微笑みの対抗戦だ。
そっちがそのつもりなら、やってやろうじゃないの。
くらえ!営業時代に培った偽物スマイルを!!
よく見ると、シルヴァンの手元には赤ワインのグラスが置かれていた。何よ、赤ワインもあるんじゃない。
「もてなしのお気持ち、心から感謝いたしますわ。でもせっかくなので、わたくしにも旦那様と同じものをいただけるかしら」
私がそう頼むと、シルヴァンはお得意の片眉を上げる表情で、
「ブローニュ領で作られた田舎の酒ですよ。奥様のお口には合わないかと」
「いいえ、せっかく縁あってこちらに嫁いできたんですもの。この土地のことをもっと知りたいわ」
「……」
クロードがお伺いを立てるようにシルヴァンの方を見ると、彼は静かに頷いた。
「セリエにも同じものを」
クロードはやれやれといった風情で肩をすくめた。
ロゼットが持ってきてくれた新しいグラスに、シルヴァンの飲んでいた赤ワインが注がれた。クロードもロゼットも普段通りに振る舞おうとしつつ、私の挙動に気を取られていることがわかる。渋いと言われるワインを飲んでどんなリアクションをするか、気になるのだろう。シルヴァンだけは黙々と食事を続けている。
私はグラスを蝋燭の明かりにかざした。血を思わせる深い赤色だ。その上、香りが硬い。これは、ひょっとするとひょっとして…
ゴクリ。
一口飲む。
(し、渋い……)
思わず眉を顰める渋さだ。クロードは私を見て、ほら見たことかという顔をした。
確かにこのままで美味しいかと言われると、ワイン単体の美味しさは先ほどの白ワインの勝ちだ。
でも、このワインのポテンシャルなら、もしかして、と思う。
「いかがでしたか?やはり元のお酒に戻されては」
「いいえ」
私はクロードの提案を遮り、ロゼットにあるものを頼んでくるように頼んだ。
「…で。食事中に一体何をなさろうと言うんです?」
クロードは食卓に置かれた空の水差しを見て、なかば呆れた様子である。
「マナー違反で申し訳ございません、もう少々お待ちいただけますか?(意訳:いいから黙って見てろ)」
私は必殺のスマイルでクロードを追い払うと、卓上の赤ワインのボトルを手に持ち、そのままそっと高く掲げた。
みんなの視線が私の手元に集まるのがわかる。
うう、上手くいかなかったらどうしよう。でも大丈夫だよね、前世で擦り切れるほど読んだワイン漫画の知識と、身体に染み込んだ「注ぎ方」の記憶。
私、失敗しないので!(希望)
私はボトルを傾けると、水差しに向けてそっと中のワインを注いだ。
ワインは赤い絹糸のように細く伸びて、水差しに吸い込まれていく。水差しの底で空気を含んだ液体は、その衝撃で眠りから覚めようとしているように見えた。
「奥様!やめてください。ブローニュ領のワインはそんな乱暴な扱い方をすると香りが飛んでしまいます!」
クロードが慌てて止めに入る。
「確かに飲み頃のワインならそうかもしれませんわ。ですがこのワインは瓶詰めからあまり立ってませんよね?若すぎる場合にはこうやって……」
私が最後まで説明するまでもなかった。
部屋中に華やかなベリー系の香りが広がっていく。
「うわぁ!なんだか、果樹園に来たみたいですね」
ロゼットが目をキラキラさせて言う。
水差しの中のワインは燭台の光でルビー色に妖しく煌めいていた。
いつの間にか、メイド長のマルグリッドもやってきて様子を窺っている。
よかった。なんとか上手くいったみたい。
「では、こちらを改めてグラスに注いでいただけますか」
クロードのサーブで、再びグラスが赤く満たされていく。スワリングをして香りを確かめる。わわ、これ、絶対美味しいやつ。
まずは、ひと口。
これ、これよ、これ。私が飲みたかったワイン!ちょっと荒々しいけど、そこもまたよし!でもワインの真価は食事と合わせて発揮される、なんていうことは私が言うまでもないのだけれど、とにかく早くメイン料理に合わせたい。
改めて、ブフ・ブルギニオンをパクリ。そしてすかさず、ワインを呑む!!
「美味しすぎるーーーーーーー!!!!!!!!!!!」
はっ。思わず本心がダダ漏れてしまった。
驚く周囲に、私はにっこりと微笑んで誤魔化してみせる。
それにしても、よく料理番組で言葉を尽くして食べ物を褒めているのを見かけたが、私の持論として、本当に美味しいものを目の前にした時、人は語彙を失う、と思う。
美味しい以外の言葉が出てこない。
だが、それがいい。それが本当だ。
感動が薄れる前に、肉をパクリ、そしてワインをゴクリ。
咀嚼し、飲み込むと、再び次のひと口を。
まずい、永久機関が完成してしまいましたわ。
凄まじい勢いで食と酒を楽しむ私を見て、皆は呆気に取られていた。
でも、この誘惑に抗うことなんてできません。周囲の印象なんて気にしない!元々悪役令嬢として評判も悪いって聞いてるし、食い意地が張ってるってレッテルが増えたところでどうってことないでしょ。
あらかたメインを食べ終えたところで、シルヴァンが席を立ち、こちらにやってきた。
「失礼。少し、色を見てもいいだろうか」
「え?ええ、もちろん」
そっと水差しを手に取ると、光にかざしたり、香りを嗅いだりしている。
なんだかちょっと、大型犬みたい。
「おかけになったら?」
立ったまま水差しと睨めっこしているシルヴァンを見かねてそう声を掛けると、彼はおずおずと私の斜め横の椅子に腰掛けた。
ますます犬のようだ。例えるならゴールデンレトリバーかしら。主人の「よし!」で行動を許される姿にそっくりだ。
「……先ほどは、な、何をしたのだ?」
俯いたまま視線を合わせずに、シルヴァンはボソリとそう私に問う。
あら。なんだかんだで気になってたのね。
「ワインが若過ぎる様でしたから、ちょっと強引ですが空気に触れさせたのです。おかげで渋みが和らぎ、大変飲みやすくなりました」
「……」
あれ?聞くだけ聞いて、リアクションなし?
と思っていたら。
「……魔法かと、思った」
シルヴァンは呆然と呟いた。
え?何?ロマンチストなの?
「ただ注ぎ変えただけで、こんなに香りが変わるなんて……。君は、魔法使いか?」
魔法使い、て。語彙力!!
「いいえ、一介のワイン愛好者に過ぎませんわ」
「……」
「……」
え?終わり?
でもなんだかまだ何か言いたそう。
と思ったら、ややあって、再び。
「それでその……これは、美味いのか?」
……これは!
旦那様!!飲みたいのですね!!!
「よかったらご一緒に如何ですか?」
「!!よ、良いのか…?」
思わず顔を上げたシルヴァンの前髪の間から、フォレストグリーンの瞳が輝いているのが見えた。
か、かわよ…!!
少し心を開いた大型犬のかわいさ、爆発です!!
「もちろんですわ、こちらは旦那様のワインではございませんか。ロゼット、旦那様のグラスをこちらへ」
シルヴァンが、ワインの注がれたグラスを口にする。
「!!!」
どうやら彼も美味しいと思ってくれたようだ。言葉はなくとも思いは全身から伝わってきた。
嬉しいなー。
「これが、先ほどと同じものか。そうか……」
しみじみと呟くと、シルヴァンは再びゆっくりとグラスを口にした。
味わっている様子を見て、私はなんとかこの地でやっていけるのではないかという確信が持てた。
同じ食卓で、同じワインの美味しさを分かち合える人とは、例え出会いがどうであれ、必ず分かり合えるに違いない。根拠はないけど、私はそう思って、温かい気持ちで満たされていった。
温かいのは、酔いが回っただけかもしれないけどね。
そして、その後ろでクロードが握りしめた拳を振るわせているとも知らずに。




