23話 五年前の記録
セリエの笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
セリエの夫となった、あの辺境伯。
あの男に向ける眼差しは、これまで見たこともないほどに柔らかかった。
婚約中、彼女は一度だって僕にあんな視線を向けたことがあっただろうか。
「ちょっと! アラン様!! 聞いてます!!!??」
リナの声で、僕は我に返った。
リナは自室のソファにだらしなく腰掛け、訴えるようにこちらを見ている。
……こんなに品のない女だっただろうか。
いや、今更何を考えているんだ。僕は慌てて、胸に浮かんだ違和感を打ち消そうとした。
「先ほどのセリエ様、本当に失礼でしたわね。元婚約者であるアラン様の前でいちゃいちゃと……」
頬を膨らませて怒るリナを見ても、今や愛おしさより呆れの感情が先に立つ。いつから、こうなってしまったのだろう。
自分の意見をはっきりとぶつけてくるところ。素直に弱音を見せる姿。
いっときはそれが魅力でもあった筈なのに。
なんでも僕に相談してくれて、いつでも僕を褒めてくれて。僕は彼女の前では引け目を感じずにいられたし、自信を持てた。だから、彼女を選んだのだ。
だが、今目の前にいるこの人物は、本当に伴侶として相応しかったのだろうか。
「アラン様、騙されてはだめですわ。セリエ様は昔から見せ方だけはお上手でしたもの。先ほどのあれも、きっと演技です」
「……そう、なのかな」
「そうですとも。本当に忌々しい。王族に向かってあんな口の聞き方をして、不敬罪として捕えてもいいくらいですわ。あーーもう!思い出しただけで腹が立つ!!」
先ほどのやりとり、そしてセリエの表情を思い出す。
あれは、本当に演技だったのだろうか。
演技であんな顔を見せられるのなら、僕にもあの笑顔を見せてくれればよかったのに。
それに、あの男。
シルヴァンといっただろうか。
セリエを、心から慈しんでいるようだった。
まるで、宝物を扱うような、あの仕草、あの視線。
僕はリナに対して、あそこまでの想いを持てていただろうか。
彼女を手放したことは、本当に正しかったのか。
考えれば考えるほどわからなくなる。
「ねぇ、アラン様ったらぁ」
わざとしたっ足らずな口調で甘えながら、リナが擦り寄ってきた。
豊満な胸を擦り付ける仕草。
甘過ぎる香水の香り。
僕は思わず、リナを引き剥がした。
「すまない、少し仕事に戻る。また夕飯の時に」
「あ、アラン様!?」
驚くリナを押し留め、彼女の部屋を後にした。
これ以上考えたくないのに、どうしてもセリエの笑顔が頭から離れない。
◇
第三倉庫は、城の北棟の奥、人目につきにくい一角にあった。
同じ城内とは思えぬほど静かで、中に入ると古い書物独特の、図書館のような匂いがした。
「ここに、五年前の手掛かりがあるのね……」
うず高く積まれた木箱には書類がぎっしり詰め込まれており、一つ持ち上げると埃がふわりと舞った。
入り口の隅には、保管目録らしきものが置かれている。
中を確認したところ、一応箱ごとの内容物が記されてはいるが、そもそも木箱の並びが雑然としており、目的の箱を見つけるのには骨が折れそうだ。
「シルヴァン様は、手前からお願いいたします。わたくしは、奥から探しますので」
「ああ、箱を持ち上げる時は声をかけてくれ」
私たちは持ってきた端布で口元を覆い、袖を捲ると、手分けして目的の箱を探し始めた。
保管目録に記された記号を頼りに、木箱の札を一つずつ確かめていく。
王暦809年、流通記録。違う。
その隣には酒税台帳。これも違う。
似た年代の箱ばかりが積み上がっていて、目当ての記号はなかなか見つからない。
探し始めて1時間ほどが経っただろうか。じんわりと汗が滲んできた時だった。
「セリエ、これじゃないか?」
シルヴァンに呼ばれて確かめに行くと、半ば別の箱の陰に押し込まれた木箱の札に、ようやく目当ての文字が見えた。
王暦810年、ワイン品評会関連。
私は思わず息を呑んだ。
「これ、ですわ」
取り出しやすい位置に箱を移動させると、そっと蓋を開けた。
中にはぎっしりと書類が詰められており、上から一枚ずつ確認していく。
出品されていたワインリスト、その年の審査員、運営メンバーのリスト。次々に関連した資料が出てくる。
運営メンバーに、聞いた名があり、思わず手を止めた。
ジル・ベルティエ。
ジル……
別人の可能性もあるが、クロードに偽ワイン作りを持ちかけた男と同じ名である。
もしやと思い顔を上げるとシルヴァンと目が合った。
「後ほどクロードにも確認しよう」
彼も同じことに思い至ったようだ。手元の紙に名前を書き付けている。
思わぬ収穫に、高鳴る気持ちを抑える。本当に知りたいことは、まだこれからだ。だが、この調子だとすぐに目的のものも見つかるのではないか、そんな気がした。
直感は正しく、そのまま書類の山を崩していくと、ついに目当てのものが見つかった。
「ありましたわ……王暦810年。グランテール選評リスト」
そこには、出品されたワインの番号の一覧と、番号別に記載されたグランテール氏の選評が、それぞれ別の用紙にまとめられていた。
これで、ロベールの、アンドレの、無念が晴らせるかもしれない。
そして、ブローニュ領のワインの復権と、領地の建て直しのきっかけにするのだ。
心臓が、バクバクしてきた。
緊張で、紙をめくる指先が少し震える。
「シャトー・ヴィーニュの番号は……16番」
「選評は、これだな」
対応する選評の用紙をシルヴァンが見つけ、読み上げる。
そこには、癖のある字体で、こう記されていた。
「未完成であり、香りも味わいも特級として推すにふさわしい調和を欠く。これを高く評することはできない。……だそうだ」
「え……?」
目の前が、真っ暗になった気がした。
確かに、不正は難しいと聞かされていた。だが、アンドレの家であのワインを飲んだ瞬間、選評に何か不手際があった筈だと確信したのだ。根拠もなくそんな可能性に賭けてしまっていた。
「厳しい、評価だな。それに、見たところグランテール氏の字で間違いなさそうだ。ここにくれば何かわかるかと思ったが……」
シルヴァンが、ガックリと肩を落とす。
私だって、そのつもりだった。
どういうことだろう。たとえ五年前のものとはいえ、あの素晴らしいワインへの選評とはとても思えない。
それがまさか、そんな……
いや、他のワインと取り違えた可能性だって、ゼロではないじゃないか。
まだ希望を完全に捨てるには早過ぎる。
「シルヴァン様、念のため他の選評も確認してみましょう」
私は、一縷の望みに縋って、前後の番号のコメントを確認し始めた。
15番。
清らかな酸が酒全体を支え、果実味も過不足ない。軽やかでありながら芯を失わず、土地の清涼さを素直に映した佳酒である。
華やかさを競う類ではないが、飲み飽きぬ品位がある。派手さはないが、こうした節度は大いに尊ぶべきものだ。
これは、リエーヌ領のワインだろう。
清涼で端正な白ワインのイメージが想起される。流石、グランテール氏の筆致である。
17番。
香り立ちは明るく、花と果実の印象が先に立つ。口に含めば程よい厚みもあり、香り先行の酒に終わらぬところが好ましい。
やや愛嬌が過ぎるきらいもあるが、卓に置けば多くの者を喜ばせるだろう。
これもきっと白ワイン。
アロス領かしら。華やかでチャーミングなワインであることがちゃんと伝わってくる。
私は次々と他のワインの選評を読み進めた。始めは取り違えを探す目的だったが、いつしかそれを忘れるほど夢中になっていった。それほどの選評だった。
それぞれの個性を抑えた的確な文章は、グランテール氏がワインを愛していることがよくわかるし、何より端的な文章で味が浮かぶのが凄い。
そして、半分ほど読み終えたタイミングで、私はある違和感に気が付いた。
他の選評は全て、個性を捉えた上で良い点と悪い点、それぞれに言及されている。
しかし、ロベールが出品したシャトー・ヴィーニュだけは、なぜか課題について書かれているのみ。しかも、他に比べて半分ぐらいの長さしかない。
これは一体、どういうことだろう……
「シルヴァン様、気になる点がございます」
私は違和感について伝え、文章を比較して見せた。
シルヴァンは先ほどのショックでやや元気を無くしていたようだったが、私の説明を聞くとみるみる目に光を取り戻していった。
「確かに、セリエの言う通りだ。選評が不自然に短い」
「もしかするとこの文章、続きがあったということは考えられませんか?こちらの選評書は配布用に刷られたものですよね。どこかに原本があるのでは……?」
同じ箱の下をさらに探る。
すると、グランテール氏の書いた元の用紙の束を探し出すことができた。
選評は横長の紙に、一つのワインにつき一枚ずつ、書かれている。
そして、十六番の紙だけが、妙に細長く、下の端がギザギザとしている。
「シルヴァン様、これはまさか」
私と彼が顔を見合わせたその時だった。
第三倉庫のドアが、ゆっくりと開いたのだ。




